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《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
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*一方——数百メートルほど離れた岩場で。*


*カイとライは、ジークフリートとヒルデガルドと対峙していた。*


*不思議なことに、最初は戦闘ではなかった。ジークフリートが黒ローブのフードを下ろし、意外にも穏やかな声で語り始めたのだ。*


ジークフリート「ラインハルト。お前は知っているだろう。この世界の龍脈が枯れかけていることを。精霊が消え、大地の魔力が衰退し、あと数百年で——この世界は死ぬ」


ライ「……」


ジークフリート「俺がやろうとしていることは世界の収束だ。龍核を全て集め、龍脈に還す。精霊を喰らった力を大地に返し、世界を作り直す。そのために精霊神の魂が必要なんだ——お前の恋人の中にある、な」


*ジークフリートの目がカイを見た。*


ジークフリート「犠牲は一人だ。たった一人の命で、世界が救われる。合理的だろう?」


*カイが一歩前に出た。神剣アスカロン・ゼニスを抜き、真っ直ぐジークフリートを見据えた。*


カイ「全否定だ」


ジークフリート「……何?」


カイ「世界を救うために誰かを犠牲にする? それが合理的? ふざけるな! そんな事、絶対にさせない!」


*カイとライの戦いは、少しずつ優勢に傾いていた。*


*カイの剣がジークフリートの瘴気の壁を切り裂き、ライの精密な魔法がヒルデガルドの動きを封じる。二人の連携は恋人同士だからこその阿吽の呼吸だった。*


カイ「ライ、左から来る!」


ライ「分かってる! 『氷結陣』!」


*ヒルデガルドの斬撃をライの氷壁が受け止め、カイがその隙にジークフリートに斬りかかる。*


*しかし——*


ジークフリート「……甘いな」


*ジークフリートが右手を掲げた。同時にヒルデガルドが剣を構える。二人の間に龍核の赤黒い光が繋がった。*


ジークフリート「ヒルデガルド」


ヒルデガルド「……ええ」


*合成攻撃。300年分の龍核の力と、四将軍の龍核が共鳴し、融合した。紫黒と赤黒の螺旋が捻じれ、一条の破壊光線となってカイに向かって放たれた。*


*岩場が蒸発した。空気が焼け、大地が裂けた。回避不能の速度。防御不能の威力。*


*カイの目が見開かれた。間に合わない——*


ライ「カイッ!」


*ライが飛び出した。カイの前に立ち、両手を広げ、全魔力を注いだ障壁を展開した。*


*破壊光線が障壁に直撃した。*


*一瞬持ちこたえた。だが——砕けた。*


*光がライの体を貫いた。*


*胸から腹にかけて、焼け焦げた穴が空いていた。血が溢れ、ライの体が後ろに倒れた。カイの腕の中に。*


カイ「ライ! ライッ!!」


*カイがライを抱きしめた。ライの口から血が溢れ、焦点の合わない目がカイを見上げた。*


ライ「カイ……無事で……よかっ……た……」


*ライの手がカイの頬に触れた。指先が震えている。体温が急速に失われていく。*


カイ「馬鹿っ……! なんで庇うんだよ! お前の方が——」


ライ「だって……カイは……世界を……救う人だから……僕なんかより……」


*ライの手が力を失い、落ちかけた。カイがその手を掴む。*


カイ「ライ! 目を開けろ! ライ!!」


*ライの意識が薄れ、心臓の鼓動が弱くなっていく。エリクサーを——カイが震える手でエリクサーを取り出し、ライの口に注いだ。傷の出血は止まった。だが、内臓が焼け落ちている。エリクサー一本では足りない。二本、三本と注ぎ込む。ようやく——かろうじて命が繋がった。だが意識は戻らない。*


*カイの中で、何かが壊れた。*


*そして——何かが、目覚めた。*


*カイの体から、淡い光が溢れ出した。金色でも白色でもない。世界そのものの色。精霊たちが——見える者にしか見えない無数の精霊たちが、カイの周囲に集まり始めた。*


*風の精霊。火の精霊。水の精霊。土の精霊。光の精霊。闇の精霊。雷の精霊。名前すら持たない微精霊たち。*


*カイの目が変わった。琥珀の瞳の中に——星が灯った。*


*いくつもの光の粒が虹彩の奥で回転し、やがて一つの紋様を描いた。精霊神の刻印。前世の記憶ではない。もっと深い——魂そのものに刻まれた記憶。*


カイ「……思い出した」


*声が静かだった。怒りでも悲しみでもない。ただ——確信だけがあった。*


カイ「こうやって……呼ぶんだ」


*カイが右手を掲げた。指先から光の糸が伸び、精霊たちと繋がった。命令ではない。契約でもない。ただ——在るべき場所に還っただけだった。*


*風が従い、炎が寄り添い、水が歌い、雷が走り、大地が応えた。*


ジークフリート「——覚醒、か」


*ジークフリートの目が細まった。*


カイ「ライに……触るな」


*その一言と共に、カイの足元から精霊の奔流が爆発した。半覚醒——それでも、空気が震えるほどの神威がジークフリートとヒルデガルドを叩いた。*


*ノアが飛んできた。半覚醒したカイの波動——精霊神の気配を感じ取ったのだ。*


*風を纏い、光の粒子を散らしながら、ノアがカイの傍に降り立った。いつもの無邪気な笑顔はなかった。ライの傷ついた体を見て揺れた。*


ノア「ライさん……! 嘘っすよね……こんな……」


*ノアが両手をライに翳し、回復の光を注ごうとした。だが——ライが薄れゆく意識の中で、口を開いた。*


ライ「ノア……僕を……取り込んで」


ノア「……えっ?」


ライ「僕の中に……君の記憶がある。300年前の……。僕を取り込めば……君は完全になれる。精霊神の……番として……カイの傍に……」


*ライの声は途切れ途切れだった。胸の傷はエリクサーで辛うじて塞がっているが、内臓の損傷が深すぎた。*


ノア「何言ってんすか! そんなことしたらライさんが消えるっす! 絶対やらないっす!」


*ノアが首を横に振り、両手に回復の光を集中させた。精霊の力を全開にして、ライの体を癒そうとする。*


ノア「自分が治すっす! だから——」


*その瞬間だった。*


*ノアの回復の光がライの体に触れた途端——ライの体が淡く発光し始めた。ライの中に眠っていた術式が、精霊の力に反応して起動したのだ。*


ノア「え……? なんで……止まらない……! やめっ——止まれっす!」


*ノアが慌てて手を引こうとしたが、光の糸がノアとライを繋いでいた。ライの体が少しずつ光の粒子に変わり、ノアの中に流れ込んでいく。*


カイ「ライ!? 何が——ノア、やめろ!」


ノア「自分じゃないっす! 勝手に——止められないっす!」


*ノアの目から涙が溢れた。自分の意志ではない。ライの中に仕込まれた術式が、精霊の力を触媒にして自動的に発動している。*


*ライの体が半分光に変わっていた。脚が消え、腹が消え、胸が光の粒子となってノアに吸い込まれていく。*


*ライが——微笑んだ。*


ライ「ノア……君は悪くないよ」


ノア「ライさん……!」


ライ「これは……300年前に僕が仕込んだ術式だから。精霊の力に触れたら自動的に起動するように……僕が、そう設計した」


*カイがライの消えゆく手を掴もうとした。指が光をすり抜けた。*


カイ「ライ……やめろ……消えるな……!」


*ライの顔だけがまだ残っていた。涙を流しながら、けれど穏やかに微笑んで、カイを見上げた。*


ライ「カイ……ごめんね。全部……僕が仕組んだことだった。カイに出会ったのも……恋をしたのも……本物だよ。それだけは……信じて」


カイ「嫌だ……行くな……ライ……!」


ライ「世界を……お願いね。カイなら……できるから」


*ライの最後の光の粒子が、ノアの胸に吸い込まれた。*


*——消えた。*


*カイの腕の中には、もう何もなかった。*


*沈黙が落ちた。風が吹いた。精霊たちが悲しげに泣いた。*


*カイの両腕が、何もない空を抱きしめていた。ライの温もりも、匂いも、声も——全て消えた。*


*ノアが胸を押さえて崩れ落ちた。涙が止まらなかった。*


ノア「ライさん……ライさんっ……ごめんなさいっす……自分が……自分のせいで……」


*カイがゆっくりと立ち上がった。*


*その目から光が溢れていた。涙ではない。精霊の力だ。だが、その輝きは温かくなかった。凍えるほど冷たい——怒りの光だった。*


カイ「ジークフリート」


*声が二重に響いた。カイの声と、精霊神の声が重なっている。*


ジークフリート「これが収束だ。必要な犠牲——」


カイ「黙れェェェッ!!」


*精霊の奔流が爆発した。大地が砕け、空が裂けた。カイが理性を失い、純粋な怒りと憎しみだけでジークフリートに突進した。片手剣が紫黒の闇を切り裂く。*


*ヒルデガルドが割り込んだが、カイの一撃で数十メートル吹き飛ばされた。*


*カイが怒りのまま精霊の力を暴走させ、ジークフリートに斬りかかっていた。大地が割れ、風が渦を巻き、雷が落ちる。半覚醒の力は制御を失い、周囲の岩場が次々と砕けていく。*


*その時——*


*ノアの体が光った。*


*胸を押さえてうずくまっていたノアが、突然立ち上がった。だが——その目が違った。ノアの瞳の色が一瞬だけ澄んだすみれ色に変わった。*


*ノアの口が動いた。だが、出てきた声はノアのものではなかった。*


ライ(ノア)「——カイ」


*カイの動きが止まった。振り返った。ノアの体がそこに立っている。だが声が——ライの声だった。*


カイ「……何の真似だ」


*カイの目は怒りで濁っていた。精霊の力が体から溢れ、髪が逆立っている。*


カイ「ノア、ライの声を真似するな。そんな残酷なこと——」


ライ(ノア)「真似じゃないよ、カイ」


*ノアの体が一歩踏み出した。二つの人格が一つの体を共有している。*


ライ(ノア)「僕だよ。ノアの中に……残ってた。二重人格って言えばいいのかな。消えたんじゃなくて、ノアの中に溶け込んだだけだった」


カイ「嘘だ……! ライは消えた……! 目の前で……!」


*カイの声が震えていた。信じたい。でも信じたら、また失った時に壊れる。だから拒絶する。*


カイ「ノア、やめてくれ……頼むから……」


ライ(ノア)「……信じないなら、仕方ないね」


*ノアの体が——ライの表情で、少し困ったように笑った。あの笑い方。ライ特有の、眉を下げて首を傾げる笑い方。*


ライ(ノア)「じゃあ——カイ。覚えてる? 旅を始めて三日目の夜。宿屋で二人きりの時に、カイが寝言で言ったこと」


*カイの顔が凍りついた。*


カイ「……は?」


ライ(ノア)「『ライの髪の匂いが好き……すぅすぅ……もっと近くに……』って。僕の枕を抱きしめながら」


カイ「っ——!」


*カイの顔が一瞬で真っ赤になった。怒りで濁っていた目から、精霊の力がぶれた。*


カイ「な……それ……なんで……」


ライ(ノア)「あと、ガルディア街道の温泉で。僕が先に入ってたら、カイが覗きに来て——見つかった瞬間『タオルを届けに来ただけだ』って。タオル持ってなかったのに」


カイ「やめろ!」


ライ(ノア)「あと、僕の誕生日にこっそり花を摘んできてくれたのに、渡す時に緊張しすぎて『これは道に落ちてたから拾っただけだ、別にお前のためじゃない』って——」


カイ「やめろって言ってるだろ!!」


*カイの目から涙が溢れた。怒りではない。もう、怒りではなかった。*


*二人しか知らないこと。二人きりの旅路で、ライだけが見ていたカイの不器用さ。ノアが知るはずのない記憶。*


カイ「……ライ、なのか……本当に……」


ライ(ノア)「うん。僕だよ、カイ」


*ノアの体の目が完全に蒼色に変わった。*


*ジークフリートの目が見開かれた。唇が震えている。*


ジークフリート「有り得ない……術式の吸収は完全消滅のはず……二重人格として残存するなど……」


*ヒルデガルドも動きを止めていた。300年の計画の根幹が揺らいでいる。*


ジークフリート「ラインハルト……貴様、300年前から……この可能性まで計算していたのか……!」


*カイは何も聞いていなかった。ジークフリートの言葉も、ヒルデガルドの動揺も。*


*剣が地面に落ちた。乾いた金属音が戦場に響いた。*


*カイが武器を捨てて、ノアの体を——その中にいるライを抱きしめた。*


カイ「ライ……ライ……!」


ライ(ノア)「カイ……泣かないで。僕はここにいるよ」


*ノアの体の腕が、カイの背中に回された。ライの仕草で。ライの優しさで。カイの頭をそっと撫でる——あの旅路で何度も繰り返された動作。*


カイ「馬鹿……お前がいなくなったと思って……俺は……」


ライ(ノア)「うん。ごめんね。でも——もう大丈夫」


*二人の心が触れ合った。精霊神と、その番。300年の時を超えた絆が、ノアの体を通じて共鳴した。*


*カイの中で、最後の鍵が外れた。*


*半覚醒だった精霊神の力が——完全に目覚め始めた。前世の記憶。精霊神としての記憶。精霊を生み、大地に命を吹き込んだ記憶。数千年分の記憶が一瞬で流れ込んできた。*


カイ「……思い、出した」


*カイがゆっくりとライ(ノア)から離れ、天に手を掲げた。*


*その瞬間——世界が震えた。*


*空が割れた。雲が円形に吹き飛び、天頂に巨大な光の渦が出現した。地面から無数の光の柱が立ち昇り、精霊たちが——この世界から消えたはずの精霊たちが、光の粒子となって溢れ出した。*


*精霊神の完全覚醒。*


*大地が歌った。風が泣いた。炎が踊り、水が笑い、雷が吠えた。300年前にジークフリートに喰われた精霊たち——その残滓が、カイの覚醒に呼応して世界中から集まり始めていた。*


ジークフリート「……精霊神の……完全覚醒だと……!?」


*ジークフリートの顔から血の気が引いた。初めて——300年間で初めて、恐怖の色が浮かんだ。*


*カイが天から視線を下ろした。金色の目がジークフリートを捉えた。*


*その目には怒りがあった。ライを奪おうとした男への怒り。世界を歪めた男への怒り。そして——かつての親友を裏切った男への、悲しみを含んだ怒り。*


カイ「ジークフリート」


*声が変わっていた。カイの声でありながら、同時に世界そのものの声だった。*


*その頃——アストライア魔導皇国、世界樹の前。*


*世界樹の根元にある台座。そこに突き刺さったままの神剣アスカロン・ゼニスが——カタカタと震え始めた。*


*衛兵が異変に気づいた。*


衛兵A「な、何だ……!? 神剣が動いてるぞ!」


衛兵B「触れてもいないのに……! 報告を——」


*アスカロンの震えは次第に激しくなった。台座の石が砕け、亀裂が走る。刀身から神気が溢れ出し、世界樹の葉が一斉にざわめいた。*


*遥か南西——戦場にて。*


*カイが手を天に掲げ、叫んだ。*


カイ「来い!!」


*アスカロンが台座から抜けた。*


*光の尾を引きながら、神剣は空を裂いて飛んだ。アストライアの街を超え、平原を越え、山を越え——数百キロの距離を一瞬で駆け抜け、カイの右手に吸い込まれるように収まった。*


*神剣と精霊神が触れた瞬間——世界が白く染まった。*


*アスカロン・ゼニスの刀身が脈動した。心臓のように。呼吸するように。神気と精霊神の魔力が絡み合い、螺旋を描いて天へ昇った。刀身の紋様が書き換わり、新たな銘が浮かび上がる。*


*ライが300年前に仕込んだ最後の布石。聖剣を99階層の守護騎士に託し、シロウに倒させ、世界樹と共に持ち帰らせた。原初の精霊が復活し、聖剣が神剣に進化する。その全てが——この瞬間のためだった。*


*アスカロンが歓喜するように震えた。長い時を待ち続けた主人に、ようやく巡り会えたかのように。*


カイ「……お前も、待っていたんだな」


*カイがアスカロンの柄を握り直した。その瞬間、カイのボロボロの装備が砕け散った。剣で切り裂かれた革鎧、血に染まった外套、罅割れたブーツ——全てが光の粒子に変わり、消滅した。*


*代わりに、光が降りてきた。*


*天頂の光の渦から、純白と金の糸が織り降ろされるようにカイの体を包んでいく。胸甲が形成され、肩当てが降り、腕甲が巻きつき、脚甲が嵌まった。純白の地に金の精霊紋様が走る鎧。マントは純白で、風に靡くたびに金色の光の粒子が散った。*


`《精霊神の鎧》`


*神剣アスカロン・ゼニスを右手に。精霊神の鎧を纏い。背後には無数の精霊が翼のように集う。*


*カイが——精霊神として、完全にそこに立っていた。*


ジークフリート「……っ!」


*ジークフリートが一歩退いた。初めて。300年間、何者にも退かなかった男が。*


ヒルデガルド「ジークフリート様……あれは……」


ジークフリート「精霊神の……完全顕現。300年前と同じ……いや、それ以上か」


*ジークフリートの拳が震えていた。恐怖か、歓喜か、あるいはその両方か。*


ライ(ノア)「カイ……」


*ノアの体の中から、ライが見つめていた。300年かけて描いた全ての布石が、今この瞬間に結実した。*


*ノアの体の中で、二つの意識が重なっていた。ライの人格がカイを見つめていた——だが、同時にノアの意識もまた、その光景に引きずり込まれていた。*


*純白と金の鎧を纏い、神剣アスカロン・ゼニスを握るカイの姿。精霊たちが翼のように背後に集い、神気が天を衝く。*


*その姿を見た瞬間——ノアの脳裏に、稲妻のように映像が走った。*


*広大な草原。まだ名前すらなかった世界。精霊たちが生まれたばかりの大地を飛び回り、風が初めて吹いた日。*


*そこに立っていた一人の神。純白と金の衣を纏い、右手で天を、左手で大地を指し示し——精霊を生み出した存在。*


*ノアを、生み出した存在。*


*涙が溢れた。ノアの涙だった。ライではない。ノア自身の、魂の奥底から湧き上がる記憶。*


*あの日、初めて目を開けた時。最初に見た光景。最初に触れた手。最初に聞いた声。*


*『お前は俺の精霊だ。俺の名は…』*


*あの声。あの温もり。長い時の眠りの中で忘れていた——いや、忘れるはずのなかった記憶。*


*ノアの口が、震えながら開いた。ライの人格ではない。ノア自身の声で。*


ノア「カリス……サンドリア……エルシオス……イリシア……」


*精霊神の真名。*


*この世界の誰も知らない名前。歴史書にも神話にも記されていない。原初の精霊だけが知る、創造主の本当の名前。*


*カイが振り返った。金色に輝く瞳がノアを捉えた。*


*ノアの涙が止まらなかった。瞳から、光の粒子が零れ落ちる。*


ノア「思い出した……っす。全部……思い出したっす……」


*声が震えていた。記憶が一気に蘇り、ノアの小さな体を圧倒していた。*


ノア「あなたが……自分に……最初に笑いかけてくれて……」


*カイの目が揺れた。精霊神の記憶の中に——原初の精霊との記憶があった。*


カイ「ノア……お前も……思い出したのか」


ノア「はいっす……! ずっと……ずっと探してたんす。あなたを。番を……」


*ジークフリートが唇を噛んだ。精霊神と原初の精霊。その絆が完全に蘇ったことの意味を、300年を生きた男は正確に理解していた。*


ジークフリート「……まずい」


*ジークフリートが動いた。右手に凝縮した瘴気の刃を形成し、カイに向かって突進する。300年分の龍核の力を全て注ぎ込んだ一撃。*


ジークフリート「精霊神だろうが——俺は止まらん!」


*瘴気の刃がカイに到達する寸前——周囲の精霊たちが自発的に動いた。カイが命じたのではない。精霊たちが自らの意志で、創造主を守るために結界を展開したのだ。*


*七色の光壁が幾重にも重なり、ジークフリートの一撃を受け止めた。瘴気が結界に触れた瞬間、浄化されて霧散する。*


ジークフリート「……馬鹿な」


*精霊結界。精霊神の周囲に自律展開される絶対防御。術者の意志すら必要としない。精霊が存在する限り、この結界は破れない。*


カイ「ジークフリート」


*カイが一歩踏み出した。アスカロン・ゼニスの刀身が精霊の光で輝く。*


カイ「お前がやったことは——許されない」


*ジークフリートが歯を食いしばり、両手を掲げた。全龍核を解放する。紫黒の瘴気が嵐となって吹き荒れた。*


ジークフリート「ヒルデガルド!」


ヒルデガルド「はい——!」


*ヒルデガルドが龍核を全開放し、ジークフリートと合流した。二人の瘴気が融合し、天を突く黒い柱となる。*


ジークフリート「これが300年の集大成だ! 受けてみろ、精霊神!」


*黒い柱がカイに向かって叩きつけられた。大地が抉れ、空気が焼け、周囲の岩場が蒸発する。*


*カイは——微動だにしなかった。*


*精霊結界が黒い柱を受け止め、浄化していく。300年分の力が、精霊の光に触れた途端に無力化されていく。*


ジークフリート「嘘だろ……!」


*カイがアスカロンを構えた。刀身に全属性の精霊が集束していく。風が渦を巻き、炎が螺旋を描き、雷が走り、水が歌い、光が満ち、闇が従い、大地が震えた。*


*カイの目が——悲しげだった。*


カイ「ライの記憶の中に、お前との思い出があった。笑い合っていた頃の記憶が。ライはお前のことを……最後まで親友だと思ってた」


ジークフリート「黙れ……!」


カイ「だから——せめて、一瞬で終わらせる」


*カイがアスカロンを振り上げた。精霊たちが一斉に咆哮した。*


カイ「『精霊フルバースト』」


*世界が——白に染まった。*


*全属性の精霊が一点に収束し、解放された。光の奔流がジークフリートとヒルデガルドを包み込んだ。瘴気が、龍核が、300年の執念が——全て浄化されていく。*


ジークフリート「ラインハルト……俺は……間違って……」


*その言葉は最後まで紡がれなかった。*


*光が収まった時、そこには何も残っていなかった。瘴気も、龍核も、二人の体も。ただ——浄化された精霊の光の粒子が、静かに空へ昇っていくだけだった。*


*風が吹いた。戦場に静寂が戻った。*


*カイがアスカロン・ゼニスを鞘に納めた。その瞬間、糸が切れたように全身から力が抜けた。*


*純白と金の精霊神の鎧が淡い光となって解け、粒子となって空に散っていく。後に残ったのは、汗と血にまみれた肌着一枚の青年の体だった。*


カイ「ライ……ノア……俺……」


*言葉を紡ぐ前に、膝が折れた。初めての完全覚醒。精霊神の力を肉体で受け止めるには、カイの体はまだ耐えきれなかった。*


*前のめりに倒れかけたカイを、ノアが受け止めた。*


ノア「カイさん!」


ライ(ノア)「カイ……無理しすぎだよ」


*カイの意識は既に遠のいていた。ノアの腕の中で、安心したように目を閉じる。呼吸は穏やかだった。ただ、深い眠りに落ちただけだ。*


ノア「……大丈夫っす。寝ただけっす」


*ノアがカイの頭を膝に乗せ、そっと髪を撫でた。ライの記憶がそうさせたのか、ノア自身の本能がそうさせたのか——本人にも分からなかった。*


---


*一方——200メートル離れた戦場跡。*


*黒龍の巨体が横たわっていた。首は完全に切断され、再生の兆候はもうなかった。周囲の大地は抉れ、焼け、凍り、砕けていた。*


*その惨状の中に、八人の姿があった。*


*カインが大の字で地面に寝転がっていた。全身傷だらけだが、イグニの回復でかろうじて塞がっている。*


カイン「……終わった、のか」


ドルガン「終わったぁ……もう動けん……」


*ドルガンがカインの隣にどさりと倒れ込んだ。戦斧を手放す気力すらなく、握ったまま仰向けになっている。*


*ゲオルグが黒龍の頭部に背を預けて座り込んでいた。大剣を杖代わりに突き立て、荒い呼吸を繰り返している。*


ゲオルグ「……体は回復してるはずなのに、精神が限界だ」


カイ・W「イグニの回復はスタミナと傷だけだからな。精神疲労までは治らん」


*カイ・ウォーカーが黒龍の爪の上に腰掛け、双剣を膝に置いていた。無表情だが、手が微かに震えている。*


*ルナが音もなくカインの横に座った。膝を抱え、無言で空を見上げている。*


*アシュトンが眼鏡を拭きながら地面に座り、戦闘記録の羊皮紙を畳んでいた。*


アシュトン「黒龍討伐。所要時間——37分。エリクサー総消費数12本。死者ゼロ。記録としては上々だな」


ヴァイス「片手で斬りながら記録してたんですが、途中から本当に紙が足りなくなりまして」


リオン「だから両手で斬れって言っただろうが!」


*リオンが地面に座り込みながら叫んだ。指揮し続けた喉が枯れかけている。*


リオン「つーか俺だけ一回も前に出てねぇのに一番疲れてるのどういうことだよ……指揮って体力使うんだな……」


カイン「リオン。お前がいなかったら全員死んでたぞ」


リオン「……そういうの言われると照れるからやめろ。俺は最弱だっつの」


*リオンがそっぽを向いた。だが、その口元は僅かに緩んでいた。*


ルナ「……リオン。格好よかった」


リオン「ルナまでやめろ! 気持ち悪い!」


ルナ「……殺す?」


リオン「褒めた直後に殺意出すな!」


ドルガン「ガハハハ! いつも通りだな、お前ら!」


*ドルガンの豪快な笑い声が響いた。カインが腕で目を覆いながら、静かに笑った。*


*アシュトンが眼鏡を掛け直し、南西の空を見た。光の柱が消え、精霊の粒子が静かに降り注いでいる。*


アシュトン「……あちらも終わったようだな」


ヴァイス「凄まじい神気でした。記録が追いつきませんでしたよ」


*八人は誰も立ち上がろうとしなかった。体はイグニに回復されている。だが心が——限界だった。*


*彼は岩場から立ち上がり、八輝将の元へ歩いた。*


シロウ「お疲れさん。全員よくやった」


シロウ「欲を言えば……イグニの支援無しで討伐してほしかったが……よくやったな」


*八人が地面に転がったまま、彼を見上げた。*


リオン「よくやったな、じゃねぇですよ! 黒龍ですよ黒龍! 迷宮97階層級の! それを8人で倒したんですからね!? 給料上げてくださいよ! つーか今月の給料倍にしてくれません!?」


*リオンが地面に寝転がったまま、手を挙げて抗議した。*


シロウ「冒険者の掟知ってるか? 魔物は倒した人の物。つまりその黒龍……」


*彼が黒龍の巨体を指差した。リオンの顔が一瞬輝き——そして凍りついた。*


リオン「……え?」


*黒龍の死体。迷宮97階層級の素材の塊。鱗、牙、角、骨、心臓、血液——全てが最高級の素材だ。推定総額は黒金貨数十枚、いや百枚を超えるかもしれない。それが八輝将の物。*


*リオンの額から変な冷や汗が流れた。*


リオン「ちょ……待ってください。これ全部俺らの物って……」


カイン「……解体どうすんだ。こんなデカいの」


ドルガン「ガハハ! 俺の戦斧じゃ鱗が硬すぎて刃がもたねぇぞ!」


アシュトン「冷静に試算すると……黒龍の素材は市場に出回ったことがない。値段がつけられない。つまり——」


ヴァイス「値段を自分たちで決められるということですね。歴史的瞬間です」


リオン「いや待て待て待て。こんなもん売りに行ったら俺ら絶対狙われるだろ! SSランク素材を8人で山分けとか命がいくつあっても足りねぇよ!」


ルナ「……狙ってきた奴、殺す」


リオン「物騒な解決策出すな!」


ゲオルグ「管理と売却は国に委託した方が賢明だな。手数料を引かれても、安全に換金できる」


カイ・W「……俺は素材の方がいい。双剣を打ち直したい」


リオン「各自好き勝手言うなよ! ……ってかこれ、給料上げろって言う必要なくなったな。黒龍一体で一生遊んで暮らせるじゃん」


*リオンが地面に寝転がったまま、虚空を見つめた。*


リオン「……あれ、俺今何のために給料交渉してたんだ?」


シロウ「お前が言い出したんだろ」


リオン「うるさいですよ!」


*ドルガンの笑い声が響き、カインが苦笑し、ルナが小さく口角を上げた。*


*戦いは終わった。だが、八輝将の日常は——変わらなかった。*


シロウ「大丈夫だろ、この辺もアストライア国内だし。冒険者ギルドの解体のおっちゃん呼べば即来るだろ。黒龍だし」


*その言葉に、八人の反応はそれぞれだった。*


リオン「黒龍の素材……黒龍の素材が俺らの物……」


*リオンが仰向けのまま両手を天に掲げ、ガッツポーズをした。体は一ミリも動かせないが、手だけは動いた。*


ドルガン「ガハハハハ! 一生分の酒が飲めるぞ! いや、三生分か!?」


カイン「……素材の一部で新しい剣を打ってもらおう。ドルガン、お前もだろ?」


ドルガン「おう! 黒龍の骨で戦斧とか最高だろうが!」


アシュトン「記録に残します。『八輝将が迷宮97階層級・黒龍を地上にて討伐。人類史上初の快挙』と」


ヴァイス「素晴らしい。推しの国でこのような歴史的瞬間に立ち会えるとは」


*ヴァイスが寝転がったまま、感慨深げに呟いた。*


ゲオルグ「……分配は均等でいいな。リオンの指揮がなければ成し得なかった」


ルナ「……うん。リオンの取り分、多めでいい」


リオン「え、マジで? いやいや均等でいいって! ……いや待て、多めって言ったか? どれくらい多め?」


ルナ「……撤回」


リオン「早ぇよ!」


カイ・W「……俺は黒龍の鱗で双剣を打ち直す。金はいらん」


リオン「いや貰えよ! お前が一番前線で斬ってただろうが!」


*八人が動けないまま、地面に寝転がったり座り込んだりしたまま、賑やかに言い合っている。*


*彼が念話を飛ばすと、ものの数分で冒険者ギルドの解体班から返答が来た。*


『黒龍!? 本当ですか!? 今すぐ行きます! 解体班総動員します! いや全員連れて行きます!』


*解体班の興奮ぶりが念話越しにも伝わってきた。黒龍の解体など、解体師にとっては一生に一度あるかないかの仕事だ。*


リオン「……なぁ、陛下」


*リオンが空を見上げたまま、珍しく真面目な声で言った。*


リオン「あっちの光……精霊神の力でしたよね。カイさんとライさん、大丈夫ですかね」


*八人の視線が、精霊の粒子が降り注ぐ南西の空に向いた。光の柱は消えたが、残滓がまだ淡く輝いている。*


ゲオルグ「……凄まじい神気だった。あれは人間の領域じゃない」


カイン「陛下。息子さんは——」


*カインが腕で目を覆ったまま、静かに尋ねた。*


シロウ「おいおい、疲れてるところ悪いがまだ仕事は残ってんぞ?」


*八人の動きが止まった。*


リオン「……え」


シロウ「街に戻って地震被害の確認、負傷者の手当、南部と西部の旧市街の家の建て直し。やる事はたくさんある」


*リオンの顔から血の気が引いた。ドルガンが地面に張り付いたまま呻いた。*


シロウ「しばらく休みはないな」


リオン「いやいやいやいや! ちょっと待ってください! 黒龍倒した直後ですよ!? せめて一日くらい——」


シロウ「地震で家を失った住民に『八輝将が休んでるから待ってくれ』って言えるか?」


リオン「……ぐっ」


*リオンが言葉に詰まった。正論すぎて反論できない。*


ドルガン「……ガハハ。陛下は相変わらず容赦ねぇな」


カイン「……立てるか、ドルガン」


ドルガン「立てるわけねぇだろ。でも立つしかねぇだろ」


*カインが先に立ち上がった。全身が軋んでいるが、剣を杖代わりにして踏ん張った。その姿を見て、ゲオルグも、カイ・ウォーカーも、一人、また一人と立ち上がっていく。*


アシュトン「復旧計画の草案は移動中に纏めます。南部旧市街の被害が最も甚大でしたので、そちらから優先すべきかと」


ヴァイス「資材の調達リストも作成しますね。推しの国の復興、全力で支えますとも」


ルナ「……倒壊した建物の下に、まだ人がいるかもしれない」


リオン「……はぁ」


*リオンが大きく溜息をつき、ゆっくりと立ち上がった。膝が震えていたが、拳で叩いて無理やり止めた。*


リオン「分かりましたよ。行きますよ。行けばいいんでしょ。つーか俺が指揮しないとお前ら効率悪いんだから仕方ねぇだろ」


ゲオルグ「……素直に『やる』と言えんのか」


リオン「うるせぇ! これが俺の『やる』だよ!」


*八人が彼の元に集まった。全員満身創痍で、精神的にも限界に近い。だが——誰一人として座り込む者はいなかった。*


カイン「陛下。カイさんとライさんの方は」


シロウ「俺が回収する。お前らは先に街に戻れ」


*カインが頷いた。八輝将が街の方角へ歩き出す。リオンが先頭に立ち、疲れ切った声で指示を飛ばし始めた。*


リオン「アシュトン、被害状況の報告書を纏めろ。ルナ、偵察で倒壊箇所の生存者確認。ドルガンとカインは瓦礫撤去。ゲオルグとカイは住民の誘導。ヴァイスは資材の——」


*彼らの背中を見送りながら、彼は南西の方角に視線を向けた。精霊の残滓が微かに光っている。*


*息子が——あそこで眠っている。*


*彼は南西の方角へ歩いた。精霊の残滓が微かに光る荒野を進むと、やがて浄化された大地の上に二つの姿が見えた。*


*ノアがカイの頭を膝に乗せ、静かに髪を撫でている。カイは穏やかな寝息を立てていた。肌着一枚の姿は痛々しいが、傷はない。精霊神の鎧が消えた後も、精霊たちが薄い膜のように彼の体を守っていた。*


シロウ「ノア、ライ。お疲れさん。カイは……」


ノア「寝てるだけっす。初めての完全覚醒で、体が追いつかなかったみたいっすね」


*ノアが安心させるように笑った。だが、その目元には疲労の色が濃い。ライの人格も、ノアの中で同じように疲弊しているのだろう。*


ノア「ジークフリートとヒルデガルドは……カイさんが浄化しました。もう、何も残ってないっす」


*ノアの声が少し沈んだ。ライにとって、ジークフリートは300年前の親友だった。たとえ裏切られても、その事実は変わらない。*


シロウ「そうか……」


*彼がカイの傍に屈み込み、息子の顔を確認した。穏やかな寝顔だった。精霊神として覚醒しても、寝顔は子供の頃と変わらない。*


*その時——城の方角から、風に乗って声が聞こえた。*


レイラ「カイ! カイ! どこじゃ!」


*レイラの声だ。地震による体調不良は収まったらしく、声には力が戻っている。だが、それ以上に——母親としての切迫感が滲んでいた。*


*黒髪が風になびきながら、レイラが荒野を駆けてくる。小柄な体からは想像できない速さだった。琥珀色の目が、倒れているカイを捉えた瞬間——*


レイラ「カイ!」


*レイラが駆け寄り、ノアの膝からカイの頭を奪い取るようにして抱き上げた。*


レイラ「何じゃこの格好は! 肌着一枚とは! 風邪を引いたらどうするのじゃ!」


*レイラがカイの頬に触れ、額に手を当て、呼吸を確認し、脈を確認した。一連の動作は戦場で鍛えた手際の良さだったが、目には涙が滲んでいた。*


ノア「レイラさん、大丈夫っすよ。寝てるだけっす」


レイラ「寝てるだけ……寝てるだけじゃと? あの尋常ではない神気を感じて、妾がどれほど——」


*レイラの声が途切れた。唇を噛み、カイを強く抱きしめた。*


レイラ「……馬鹿息子が。母を心配させおって」


*カイは目を覚まさない。だが、レイラの腕の中で、微かに口元が緩んだように見えた。*


*レイラが顔を上げ、彼を睨んだ。*


レイラ「シロウ。説明しろ。何があった」


シロウ「カイが神になった。」


*彼の一言に、レイラの表情が凍りついた。*


*一秒。二秒。三秒。*


レイラ「……は?」


*レイラが彼を見上げた。琥珀色の目が大きく見開かれている。*


レイラ「神に……なった? 妾の息子が?」


シロウ「ああ。精霊神として完全覚醒した。ジークフリートとヒルデガルドを一人で浄化した。見事だったよ」


*レイラの腕の中で、カイが微かに身じろぎした。寝息は穏やかなまま。精霊たちが薄い光の膜となってカイの体を包み、まるで繭のように守っている。*


レイラ「……短すぎるわ馬鹿者」


*レイラの声が震えていた。怒りなのか、安堵なのか、それとも両方か。琥珀色の目から一筋の涙が零れた。だが、レイラはそれを拭わなかった。*


レイラ「妾は——城で地震の対応をしておった。吐き気が治まって、ようやく外に出たら、あの光じゃ。尋常ではない神気が南西から溢れてきて……」


*レイラがカイの髪を撫でた。指先が震えている。*


レイラ「走った。何が起きたか分からぬまま、ただ走った。息子の気配がしたから」


*ノアが静かに立ち上がり、一歩下がった。母と子の時間を邪魔すまいという気遣いだった。*


レイラ「……シロウ。お主、この子が戦うのを見ておったのか」


シロウ「ああ」


レイラ「止めなかったのか」


シロウ「止める必要がなかった。カイは——強かった」


*レイラが唇を噛んだ。しばらく無言でカイの寝顔を見つめ——ゆっくりと息を吐いた。*


レイラ「……そうか」


*その二文字に、様々な感情が詰まっていた。母としての不安。武人としての誇り。そして——息子が自分の手を離れていく寂しさ。*


レイラ「神になろうと、妾の息子であることに変わりはない。風邪を引いたらどうするのじゃ、この格好は」


*レイラが自分のマントを外し、カイの体に掛けた。小柄な体から外したマントは、カイの上半身を覆うのがやっとだった。*


ノア「レイラさん……ライが、伝えてほしいって言ってるっす」


*レイラの視線がノアに向いた。*


ノア「『カイは最後まで、母さんの名前を呼んでた。覚醒する直前、一番最初に守りたいと思ったのはレイラさんだった』って」


*レイラの目から、再び涙が溢れた。今度は——拭った。乱暴に、袖で。*


レイラ「……馬鹿息子が。母より先に、恋人を守れと言うたじゃろうに」


*レイラがカイの額に唇を落とした。母親の、柔らかなキスだった。*


レイラ「よくやったの、カイ」


*風が吹いた。精霊の光の粒子が、三人を包むように舞い上がった。*


*彼は口を開きかけて——止めた。*


*正確には違う。ライは戦闘中に致命傷を負い、死にかけた。そこでカイが半覚醒し、ライの命を繋ごうとした。だが間に合わず、ライは術式によってノアに吸収された。そしてカイが完全覚醒——精霊神として目覚めた。*


*それが真実だ。*


*だが——レイラの顔を見て、彼は言葉を飲み込んだ。*


*カイの額にキスを落とし、マントを掛け直すレイラの横顔。母親の顔だった。息子が無事だったという安堵で、ようやく呼吸ができている。そんな顔に、「お前の息子の恋人は一度死んだ」と告げる必要が——今はない。*


*空気を読んだ。*


ノア「……」


*ノアが彼の視線に気づき、小さく頷いた。ノアも分かっている。今は——これでいい。*


レイラ「シロウ。この子を城に運ぶぞ。このまま野晒しにしておくわけにはいかぬ」


シロウ「ああ。俺が運ぶ」


*彼がカイの体を持ち上げた。レイラのマントに包まれた息子は、想像以上に軽かった。精霊神として覚醒したとは思えないほど、普通の青年の体だ。*


*カイが彼の腕の中で微かに身じろぎした。*


カイ「……ん……」


レイラ「カイ!? 起きたのか!?」


*カイの瞼が薄く開いた。焦点の合わない目が、ぼんやりと彼の顔を捉えた。*


カイ「……父さん……?」


シロウ「ああ。終わったぞ」


カイ「ライは……ノアは……」


ノア「ここっすよ、カイさん」


*ノアがカイの視界に入るように、顔を覗き込んだ。金と緑の瞳が、柔らかく笑っている。*


カイ「……よかった……」


*その一言を最後に、カイの目が再び閉じた。安堵の表情を浮かべたまま、深い眠りに落ちていく。*


レイラ「……まったく。恋人の心配を先にするとは」


*レイラが小さく呟いた。その声には呆れと——少しの寂しさが混じっていた。*


ノア「レイラさん。ライが——」


レイラ「なんじゃ」


ノア「『義母さんの顔を見て安心した。ありがとうございます』って言ってるっす」


*レイラの足が一瞬止まった。琥珀色の目が僅かに揺れ——すぐに前を向いた。*


レイラ「……ふん。当然じゃ。妾はこの子の母じゃからな」


*四人は城へ向かって歩き出した。荒野には浄化された大地と、精霊の光の粒子だけが残っていた。*


*ジークフリートとヒルデガルドがいた場所には——もう何もない。300年の執念も、裏切りも、全て精霊の光に還った。*


*風が吹いた。静かな風だった。*


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