↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
175/265

270

270


シロウ「よし、農業組は任せた。次は鉱山だ」


*帝国の街を抜け、鉱山地帯へと向かう山道を1時間以上歩いた。普段は身体強化を無意識にかけて生活しているが、今日は派遣監督としての立場上、あえて素の状態で歩いていた。これが裏目に出た。*


シロウ「はぁはぁ……山! 遠い!」


*彼は膝に手をつき、肩で息をしていた。44歳の体に身体強化なしの山道はきつい。額に汗が滲み、足がじわじわと悲鳴を上げている。*


*一方、鉱山組の28名は涼しい顔で歩いている。元帝国兵の14名は行軍慣れしているし、労働者たちも日頃の肉体労働で鍛えられていた。*


盗賊頭「……あんた、本当にSSランク冒険者か?」


シロウ「うるせぇ……普段は……はぁ……身体強化してんだよ……素だと……はぁ……ただのおっさんなんだよ……」


ハルト「シロウさん、荷物持ちましょうか?」


シロウ「いらん……! これは……はぁ……意地の問題だ……」


*ハルトが苦笑いを浮かべた。SSランク冒険者が山道でへばっている光景は、護衛冒険者たちにとって新鮮すぎた。*


ドーグ「つーか運動してなさすぎだろ。冒険者なのに」


シロウ「ここ数年は……はぁ……デスクワークばっかなんだよ……国の運営で……」


*彼がぼそっと漏らした言葉に、ハルトが首を傾げた。*


ハルト「国の運営……?」


シロウ「なんでもない。忘れろ」


*さらに20分ほど歩くと、ようやく鉱山の入口が見えてきた。山肌に大きな穴が開き、木製のレールが坑道の中へ伸びている。周囲には粗末な小屋が点在し、煤けた顔の鉱夫たちがちらほらと作業していた。しかし、その数は明らかに少ない。*


*坑道の前に立つ禿頭の大男が、こちらに気づいて手を振った。鉱山監督らしい。*


鉱山監督ボルグ「おお! アストライアからの派遣か! 待ちかねたぞ!」


*ボルグと名乗った監督が大股で近づいてきた。岩のような体格に、両腕は筋骨隆々。元鉱夫が叩き上げで監督になったタイプだ。*


シロウ「はぁ……はぁ……鉱山組28名、連れてきた……」


ボルグ「おい、大丈夫か兄ちゃん。顔真っ赤だぞ」


シロウ「大丈夫……水……水くれ……」


*ボルグが水筒を差し出し、彼は一気に飲み干した。盗賊頭が呆れた顔で腕を組んでいる。*


ボルグ「で、状況だがな。戦前は鉱夫200人で回してたんだが、今は40人もいねえ。鉄鉱石の採掘量は5分の1以下だ。帝国の武器や農具の生産が完全に止まってる」


シロウ「5分の1か……28人追加しても全然足りないな」


ボルグ「ああ。だが、いないよりは遥かにマシだ。……ところで、後ろの縄付きは何だ?」


シロウ「元帝国脱走兵。労働刑だ。力仕事しかできないって言うから、ちょうどいいだろ?」


シロウ「釘は刺してあるからこき使ってやってくれ。なんでもするってよ。な?」


*盗賊頭を含む元帝国兵14名が、彼の視線を受けて一斉に首を縦に振った。まるで壊れた人形のようにカクカクと。目が必死だ。*


盗賊頭「は、はい! なんでもやります! 掘ります! 運びます! 何でも!」


*盗賊の一人が涙目で頷いていた。重力魔法で地面にめり込まされた恐怖が、しっかりと刻まれているようだ。*


ボルグ「がっはっは! 威勢がいいな! 気に入った! うちの鉱山は甘くねえぞ、覚悟しとけ!」


*ボルグが巨大な拳で盗賊頭の背中をバンと叩いた。盗賊頭が前につんのめる。元帝国兵でも、この鉱山監督の膂力には敵わないらしい。*


シロウ「縄は外していい。逃げたらこっちで処理する。護符も渡してあるから、万が一の時はアストライアに緊急転移できる」


ボルグ「おう、了解だ。……しかし兄ちゃん、さっきから息切れしてるが本当に大丈夫か? そこの岩に座るか?」


シロウ「……頼む」


*彼は坑道の入口脇にある平たい岩に腰を下ろした。足が微かに震えている。情けない。SSランク冒険者が山道でへばって岩に座っている。護衛冒険者のハルトが水筒を差し出してくれた。*


ハルト「シロウさん、帰りは身体強化使った方がいいですよ……」


シロウ「……そうする」


*ボルグが鉱山組28名を坑道の前に整列させた。元鉱夫らしい手際の良さで、一人一人の体格と経験を確認していく。*


ボルグ「よし、お前は第三坑道。お前は運搬組。お前はデカいから掘削の先頭だ」


*テキパキと振り分けが進む中、ボルグが彼の方を振り返った。*


ボルグ「なあ兄ちゃん。一つ聞いていいか」


シロウ「なんだ?」


ボルグ「第五坑道なんだが……1ヶ月前から奥で変な音がするんだ。地鳴りとも違う、何か生き物が蠢いてるような音だ。鉱夫が怖がって近づかねえ。見てもらえるか?」


*彼は岩から立ち上がり、神眼を第五坑道の方角に向けた。坑道の奥深く、地下200メートル付近に——何かがいる。巨大な魔力反応。生命体だ。*


シロウ「……いるな。デカいのが」


ボルグ「やっぱりか……。魔物か?」


シロウ「多分な。鑑定してみないと分からんが……ちょっと見てくるか」


ハルト「シロウさん! さっきまでへばってたのにもう行くんですか!?」


シロウ「こういう時は身体強化使っていいんだよ」


*彼は身体強化を発動した。一瞬で体の疲労が消え、足取りが軽くなる。先ほどまでの疲弊が嘘のようだ。*


ハルト「最初から使えばよかったのでは……」


シロウ「それを言うな」


*彼は一人で第五坑道の奥へと進んでいった。身体強化をかけた体は軽く、暗い坑道の中を神眼が照らすように周囲の情報を読み取っていく。地下200メートル付近。空気が湿り気を帯び、岩壁に鉱石の結晶がちらちらと光っている。*


*そして——坑道が大きく開けた空間に出た瞬間、そいつがいた。*


*全長8メートルほどの巨大なトカゲ。全身が鉄鉱石のような金属質の鱗で覆われ、口から鉱石の欠片をバリバリと噛み砕いている。メタルリザード。鉱石を主食とし、鉱山に住み着く厄介な魔物だ。Aランク相当。*


シロウ「あーこれか」


*彼は神眼で鑑定した。*


「メタルリザード Lv.62

HP:18,400

MP:3,200

物理防御が極めて高い。金属質の鱗は通常の剣では傷一つつかない。弱点は雷属性。」


*メタルリザードがこちらに気づき、鉱石を咥えたまま威嚇の唸り声を上げた。尻尾が地面を叩き、坑道全体が揺れる。これがボルグの言っていた「地鳴りのような音」の正体か。*


シロウ「物理防御高いけど、雷に弱い。はい終わり」


*彼が右手を軽く振った。紫電が指先から迸り、メタルリザードの全身を貫いた。金属質の鱗が電気を通し、体内を雷が駆け巡る。メタルリザードは一瞬痙攣し、白煙を上げてそのまま倒れた。即死だ。*


シロウ「鱗は素材として売れるな。尻尾は特に純度が高い」


*彼はメタルリザードの尻尾を掴み、ずるずると引きずりながら坑道を戻り始めた。8メートルの巨体を引きずるのは流石に重いが、身体強化があれば問題ない。*


*10分ほどで坑道の入口に戻ると、ボルグと鉱山組、護衛冒険者たちが待っていた。暗い坑道の奥から巨大なトカゲの死体を片手で引きずって出てきた男に、全員が絶句した。*


ボルグ「…………は?」


シロウ「メタルリザードだった。鉱石食ってたぞ。これが地鳴りの原因だな」


*彼がメタルリザードの死体をどさりと地面に放り出した。金属質の鱗が日光を反射してぎらぎらと光る。焦げ臭い匂いが漂った。*


ボルグ「メタルリザードだと……!? あれはAランク冒険者でも討伐に苦労する魔物だぞ! どうやって……」


シロウ「雷で感電死」


ボルグ「……一撃か」


シロウ「一撃だな。鱗は素材として使えるから、好きに剥いでくれ。鍛冶に回せば良い合金が作れるぞ」


*ボルグが震える手でメタルリザードの鱗に触れた。硬く、冷たく、そして純度の高い金属の手触り。鉱山監督の目が職人のそれに変わった。*


ボルグ「こ、こいつは凄えぞ……! この鱗一枚で金貨5枚はする! 尻尾だけでも白金貨1枚の価値がある……!」


盗賊頭「……あの人、本当にさっきまで山道でへばってたのに……」


*彼がおもむろに坑道の壁に拳を突っ込んだ。岩盤が紙のように砕け、腕が肘まで壁の中に沈む。周囲の全員が唖然として動きを止めた。*


*そしてゆっくりと腕を引き抜くと、その手には拳大の緑色に輝く鉱石が握られていた。淡い光を放ち、空気中の魔力を吸って微かに脈動している。*


シロウ「こんな浅い場所に……珍しいな」


*ボルグの顔色が一瞬で変わった。鉱山監督として何十年も地下に潜ってきた男の目が、信じられないものを見るように見開かれた。*


ボルグ「ミ……ミスリルだと……!? 馬鹿な! ミスリルは最低でも地下500メートル以下の深層鉱脈にしか出ないはずだ! こんな浅い場所に……!」


シロウ「さっきのメタルリザードが原因かもな。あいつらは高純度の鉱石を食う。つまり、この辺に高純度の鉱脈があるからこそ住み着いてたんだろう」


*ボルグが震える手でミスリル鉱石に触れた。確かな重量と、指先に伝わる魔力の振動。本物だ。*


ボルグ「こ、この一塊だけで白金貨3枚は下らねえぞ……! 鉱脈があるなら……」


*彼は神眼で壁の奥を透視した。岩盤の向こう、第五坑道の壁面に沿うように——緑色の鉱脈が走っている。太さは不均一だが、長さは相当なものだ。*


シロウ「鉱脈、ある。壁の向こうに結構な規模で走ってる。メタルリザードが食い荒らした分を差し引いても、かなりの量が残ってるな」


ボルグ「な……!」


*ボルグが膝から崩れ落ちた。屈強な鉱山監督の目に涙が浮かんでいる。*


ボルグ「嘘だろ……戦争で鉱夫は減る、採掘量は落ちる、帝国からは増産しろと怒鳴られる……もう駄目かと思ってたのに……ミスリル鉱脈だと……?」


シロウ「泣くなおっさん。ただし、この情報は慎重に扱え。ミスリル鉱脈の存在が外に漏れたら、帝国の貴族どもが利権争いで群がってくるぞ」


*ボルグがハッとした顔で涙を拭い、真剣な表情に戻った。*


ボルグ「……ああ。分かってる。あの連中に嗅ぎつかれたら、鉱山ごと持っていかれる」


シロウ「宰相のメルツェンドルフにだけ報告しろ。あの爺さんなら上手くやるだろう。あと——」


*彼はミスリル鉱石をボルグに手渡した。*


シロウ「これは鉱山への手土産だ。好きに使え」


ボルグ「い、いいのか……!? 白金貨3枚分だぞ……!?」


シロウ「見つけたのは俺だが、掘り出すのはお前たちの仕事だ。最初の一塊くらい、景気づけにくれてやるよ」


*ボルグがミスリル鉱石を両手で握りしめ、深々と頭を下げた。*


ボルグ「恩に着る……! あんた、名前は?」


*彼は腕を組みながら、何でもないことのように言い放った。*


シロウ「シロウだ。それと、どんな鉱山でも基本的に地下に20〜30キロでアダマンタイトくらい出るぞ?」


*坑道の前が静まり返った。ボルグが固まった。護衛冒険者たちが固まった。元盗賊たちが固まった。全員が同じ顔をしていた。「何を言ってるんだこの男は」という顔だ。*


ボルグ「……に、20〜30キロだと? 正気か? 今の第五坑道ですら地下200メートルだぞ! その100倍以上掘れってのか!?」


シロウ「まあ理論上はな。地殻の深部に行けば行くほど鉱石の純度と希少性が上がる。アダマンタイトは地下20キロ付近の高圧高温層で生成されるからな」


ボルグ「理論上って……そんな深さまで掘ったら溶岩に当たるだろうが! 鉱夫が焼け死ぬわ!」


シロウ「そう。溶岩に当たるし、地下洞窟にぶち当たる可能性もある。洞窟には大抵ヤバい魔物が棲んでるし、ガスも溜まってる。普通にやったら死人の山だな」


ボルグ「分かってて言ってんのかよ……!」


シロウ「だから『出る』とは言ったが『掘れ』とは言ってない。今はミスリルで十分だろ」


*ボルグが脱力したように肩を落とした。*


ボルグ「心臓に悪いことをさらっと言いやがる……」


ハルト「シロウさん、もしかして掘ったことあるんですか……? その深さまで……」


シロウ「ん? まあ、魔法で掘ったことはあるな。溶岩は障壁で防いで、ガスは浄化魔法で処理して。実際にアダマンタイトの鉱脈に当たった」


*全員が沈黙した。*


盗賊頭「……この人、人間の規格じゃねえだろ」


ドーグ「今更だよ」


*ボルグが深いため息をつき、ミスリル鉱石を大事そうに懐にしまった。*


ボルグ「とりあえず、うちはミスリルで十分だ。アダマンタイトなんぞ手を出したら鉱夫全員逃げ出すわ」


シロウ「賢明だな。じゃ、鉱山組は任せた。」


*彼は最後に鉱山組28名を見渡した。元盗賊の14名も、労働者の14名も、それぞれ覚悟を決めた顔をしている。*


シロウ「お前ら、しっかり働けよ。稼いだ金は全額渡す。ピンハネはしない」


*盗賊頭が拳を胸に当て、帝国式の敬礼をした。兵士の頃の癖が抜けていないのだろう。*


盗賊頭「……必ず。恩は返す」


シロウ「恩じゃない。労働の対価だ。じゃあな」


*彼は身体強化をかけたまま、護衛冒険者たちと共に山道を下り始めた。帰りは足取りが軽い。行きの醜態が嘘のようだ。*


ハルト「……残りの雑用組8名はどうします?」


シロウ「帝国の街に戻って、宰相に引き渡す。あの爺さんなら適材適所で配置してくれるだろ」


*帝国の街に戻ると、彼の目に飛び込んできたのは不快な光景だった。*


*大通りの中央を、豪華な馬車が我が物顔で走っている。その後ろには鎖で繋がれた数人の亜人たち——獣人の少女、エルフの青年、魔族の子供。全員が薄汚れた衣服を纏い、足元には重い鉄球が繋がれていた。*


*馬車の窓から顔を出しているのは、金糸の刺繍が施された衣装を纏った若い男。20代前半だろうか。脂ぎった顔に薄ら笑いを浮かべ、手にはワイングラスを持っている。その周囲を重装備の護衛が6名囲んでいた。*


貴族の坊ちゃん「おい、もっと早く歩け! のろま共が!」


*護衛の一人が鞭を振り、獣人の少女の背中を打った。少女が小さく悲鳴を上げ、よろめきながらも必死に歩を進める。*


シロウ「…………」


*彼の目が細くなった。通りの住民たちは見て見ぬ振りをしている。中には目を伏せて足早に立ち去る者もいた。帝国では日常の光景なのだろう。*


ハルト「シロウさん……あれは……」


シロウ「ああ。奴隷だな」


*彼の声が低くなった。アストライアとの属国化交渉で、奴隷制度の撤廃は条件として突きつけたはずだ。メルツェンドルフ宰相に5日以内の工程表作成を命じた。しかし現実はこれだ。条約なんぞ紙切れ同然に、貴族どもは平然と奴隷を引き連れて街を闊歩している。*


シロウ「禁止したはずなんだがな……」


*彼は神眼を発動し、貴族の坊ちゃんの情報を読み取った。*


「ヴィクトール・フォン・ブレンハイム

帝国貴族ブレンハイム伯爵家の嫡男

年齢:23歳

Lv.12

所有奴隷:14名(うち違法奴隷8名)」


シロウ「……違法奴隷8名。しかもLv.12で護衛6人連れか。典型的なボンボンだな」


*鎖に繋がれた魔族の子供が転んだ。小さな体が石畳に叩きつけられ、膝から血が滲む。護衛がまた鞭を振り上げた。*


護衛「立て! 立たんか!」


*彼の拳がぎりっと握られた。しかし、ここは帝国だ。アストライアの法は及ばない。今この場で暴れれば、外交問題になる。メルツェンドルフが積み上げた交渉が水泡に帰す可能性がある。*


*だが——*


ハルト「シロウさん。顔、怖いですよ」


シロウ「……悪い。ちょっと腹が立ってな」


*彼は深く息を吐いた。護衛冒険者たちも、雑用組の8名も、全員が不快そうな顔をしている。アストライアでは奴隷制度は存在しない。この光景は彼らにとっても異常だった。*


シロウ「……先に宰相のところに行く。雑用組の引き渡しと、もう一つ話がある」


*彼は貴族の馬車に背を向け、宰相府へと足を向けた。しかしその目は、鎖に繋がれた子供の姿を確かに焼き付けていた。*


*彼は宰相の屋敷の前で、両手を口に添えて叫んだ。*


シロウ「たのもー!」


*重厚な鉄門の前に立つ帝国兵二名が、ぎょっとした顔でこちらを見た。豪華な石造りの屋敷には、帝国の紋章と宰相家の家紋が並んで掲げられている。*


帝国兵A「な、何者だ! ここは帝国宰相メルツェンドルフ閣下の邸宅だぞ! アポイントはあるのか!」


シロウ「アポは無い。アストライアのシロウだ。宰相に用がある」


*帝国兵二人が顔を見合わせた。「アストライア」の名前に明らかに緊張が走る。属国化の交渉相手——つまり実質的にこの帝国の上に立つ国の人間だ。*


帝国兵B「し、少々お待ちを……!」


*一人が慌てて屋敷の中に駆け込んでいった。残された兵士が居心地悪そうにシロウをちらちら見ている。*


*数分後、屋敷の扉が開き、見覚えのある白髪の老人が姿を現した。メルツェンドルフ宰相だ。杖をつきながらも背筋は伸び、鋭い眼光は健在。しかしその顔には明らかな疲労の色が見えた。書類仕事に追われているのだろう。*


メルツェンドルフ「……『たのもー』とは、また随分と風変わりな訪問の仕方ですな、シロウ殿」


シロウ「堅苦しい挨拶は苦手でな」


メルツェンドルフ「ふむ。まあ立ち話も何です、中へどうぞ。ちょうど茶を淹れさせたところでしてな」


*宰相が門兵に目配せし、鉄門が開かれた。屋敷の中は質素だった。貴族の邸宅にしては装飾が少なく、実務的な調度品が並んでいる。この老人が私腹を肥やすタイプではないことが一目で分かった。*


*応接間に通され、メイドが紅茶を運んできた。宰相が椅子に腰を下ろし、シロウを真っ直ぐに見据えた。*


メルツェンドルフ「して、本日はどのようなご用件で。鉱山の件でしょうか、それとも——」


*老宰相の目が僅かに細まった。シロウの表情から、ただの報告ではないことを察したようだ。*


メルツェンドルフ「何かありましたな」


シロウ「ああ。まず雑用組8名の引き渡しと、鉱山の報告が一つ。それと——」


*彼は紅茶のカップを置き、声のトーンを一段落とした。*


シロウ「街中で奴隷を引き連れた貴族のボンボンを見た。ヴィクトール・フォン・ブレンハイムって名前に覚えはあるか?」


*メルツェンドルフの眉間に深い皺が刻まれた。*


メルツェンドルフ「……ブレンハイム伯爵家の嫡男ですか。あの愚か者の名を、まさかシロウ殿の口から聞くことになるとは」


シロウ「正直、すぐに撤廃って言われても無理だとは思ってた。だが、逮捕はしないのか?」


*メルツェンドルフが紅茶のカップを静かにソーサーに戻した。カチャリ、という小さな音が応接間に響いた。老宰相の表情は苦渋に満ちていた。*


メルツェンドルフ「……逮捕、ですか。率直に申し上げます。現状、できておりません」


シロウ「理由を聞こうか」


メルツェンドルフ「工程表をお送りしたはずですが、あの中に記載した通り——まず帝国議会での法的承認が必要です。奴隷制度の撤廃法案は現在、議会に提出済みではあります。しかし……」


*老宰相が深い溜息をついた。*


メルツェンドルフ「賛成派と反対派が拮抗しております。特にブレンハイム伯爵家を筆頭とする旧貴族派閥が猛反発しておりましてな。『アストライアの犬になるのか』と公然と私を罵倒する始末です」


シロウ「……つまり、法律がまだ通ってないから逮捕の根拠がないと」


メルツェンドルフ「左様です。現行の帝国法では奴隷の所有は合法のままです。属国化の条約は締結されましたが、国内法の改正には議会の承認が不可欠。私の一存では動かせません」


*彼はカップの縁を指でなぞりながら、冷静に問いかけた。*


シロウ「工程表では段階的に撤廃すると書いてあったな。第一段階の違法奴隷の取り締まりはどうなってる」


メルツェンドルフ「それすらも難航しております。違法奴隷の定義そのものを議会で争っている状態でしてな。ブレンハイム派は『戦争捕虜は合法奴隷である』と主張し、定義を骨抜きにしようとしている」


シロウ「……あのボンボン、違法奴隷を8名抱えてたぞ。神眼で確認した」


*メルツェンドルフの目が鋭くなった。*


メルツェンドルフ「8名……。証拠があれば、現行法でも違法奴隷の所持については動けます。しかしブレンハイム伯爵家には私兵が300名。宰相府の兵力で正面からぶつかれば、帝国内で内乱が起きかねません」


シロウ「要するに、法も兵力も足りてないと」


メルツェンドルフ「面目次第もございません」


*老宰相が椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。疲労の色が濃い。この5日間、この老人がどれほど奔走したかが顔に刻まれていた。*


メルツェンドルフ「シロウ殿。私は本気で撤廃するつもりです。しかし、帝国は200年以上この制度の上に経済を回してきた。根が深い。」


シロウ「貴族社会も大変だなぁ……うちは俺かレイラくらいだからなぁ……」


*彼は紅茶を一口啜りながら、天井を見上げた。アストライアには貴族制度がほぼ存在しない。建国者である自分と、女王格のレイラ。あとはオルクスやリーシアといった側近がいるだけで、議会も派閥もない。決定権は基本的にシロウかレイラに集約されている。だからこそ奴隷制度なんぞ最初から存在しないし、作る理由もなかった。*


*しかし帝国は違う。200年の歴史を持つ巨大な官僚機構と貴族社会。宰相一人が旗を振っても、末端まで浸透するには途方もない時間がかかる。ましてや経済の根幹に奴隷労働が組み込まれているなら、いきなり引き抜けば帝国経済そのものが崩壊しかねない。*


メルツェンドルフ「……お恥ずかしい限りです。アストライアのような一枚岩の統治体制が、正直羨ましくもあります」


シロウ「一枚岩っつーか、うちは建国25年だからな。しがらみが少ないだけだ。200年の歴史があるってのは、200年分の利権が絡み合ってるってことだろ」


メルツェンドルフ「……よくお分かりで」


*老宰相が少し驚いたように目を瞬かせた。この若い——若く見える男が、ただの武力一辺倒ではないことを改めて認識したようだ。*


シロウ「で、提案なんだが」


メルツェンドルフ「はい」


シロウ「議会を通すのに時間がかかるのは分かった。だが、違法奴隷に関しては現行法でも取り締まれるんだろ?」


メルツェンドルフ「定義さえ確定すれば、はい。現行法でも誘拐・拉致による奴隷化は重罪です」


シロウ「なら、まずそこから潰せ。定義の議論で揉めてるなら、俺がアストライアの名義で『違法奴隷の定義に関する勧告書』を出す。属国条約に基づく正式な勧告だ。議会が無視すれば条約違反になる」


*メルツェンドルフの目が光った。老練な政治家の顔になっている。*


メルツェンドルフ「……なるほど。外圧を使うと」


シロウ「嫌な言い方をすれば、そうだな。だがお前さんにとっても都合がいいだろ。『アストライアに逆らえば属国条約が破棄される』って脅しが使える。反対派の貴族どもも、帝国が完全に併合される恐怖には勝てないはずだ」


メルツェンドルフ「ブレンハイム伯爵派は……しかし、それでも抵抗するかもしれません。私兵300名という戦力は——」


シロウ「300人?」


*彼はカップを置いて、にやりと笑った。*


シロウ「余裕で潰せる数だな。まあ、そうはしないが」


メルツェンドルフ「……」


シロウ「武力行使は最終手段だ。だが、選択肢として存在することは相手に知らしめておけ。『アストライアのSSランク冒険者が帝国に滞在中である』——それだけで抑止力になる」


*メルツェンドルフが深く頷き、懐から手帳を取り出して素早くメモを取り始めた。*


*彼はにやにやしながら、指を一本ずつ立てて説明を続けた。*


シロウ「例えば、偶然魔王が歩いてるとするだろ?」


メルツェンドルフ「……偶然、ですか」


シロウ「で、その坊ちゃんにぶつかって、相手が不敬罪とか言ってくるじゃん?」


メルツェンドルフ「……まあ、あの男ならば確実に言いますな」


シロウ「んで護衛騎士をけしかけられて、俺がボコる」


メルツェンドルフ「……正当防衛ですな」


シロウ「そのまま国際問題に——」


メルツェンドルフ「おやめください」


*老宰相が即座に遮った。杖を床にコンッと突き、鋭い目でシロウを見据えた。しかしその口元は微かに震えている。笑いを堪えているのだ。*


メルツェンドルフ「シロウ殿。流れは確かに美しいほど自然ですが、『偶然魔王が敵国の街を歩いている』という前提が既に偶然ではありません」


シロウ「え、俺今歩いてるけど」


メルツェンドルフ「それは……まあ、そうですが……」


*老宰相が額を押さえた。この男は本気で言っているのか冗談なのか、判別がつかないのだ。*


メルツェンドルフ「仮にその筋書き通りに事が運んだとしましょう。ブレンハイム伯爵家の嫡男が、アストライアの——魔王に喧嘩を売った。護衛6名が瞬殺された。国際問題になり、帝国側が全面的に非を認めざるを得なくなる」


シロウ「完璧だろ?」


メルツェンドルフ「完璧ですが、その後が問題です。ブレンハイム伯爵が『息子が一方的に暴行された』と被害者面をして旧貴族派閥を糾合し、反アストライア運動を始める可能性がある。帝国内の世論が割れます」


シロウ「あー……面倒くさいな貴族って」


メルツェンドルフ「面倒くさいのです」


*老宰相が深い溜息をついた。しかし、その目には微かな光があった。*


メルツェンドルフ「……ですが、シロウ殿。一つだけお聞きしたい」


シロウ「ん?」


メルツェンドルフ「本気で、あの坊ちゃんを潰す気はおありですか」


*彼は紅茶を飲み干し、カップをソーサーに置いた。真っ直ぐに老宰相の目を見た。*


シロウ「さっき通りで見た。魔族の子供が転んで、鞭で打たれてた。あの子供の目、死んでたぞ。もう何も感じてない目だった」


*応接間が静まり返った。*


シロウ「国際問題とか政治とか、そういうのは分かる。お前さんの立場も分かる。だが——あの子供が明日も鞭で打たれるのを、俺は黙って見てられない性格なんだ」


メルツェンドルフ「…………」


*老宰相が長い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がった。書棚から一冊の革装丁の書類を取り出し、テーブルに置いた。*


シロウ「それなら……たまたま偶然奇跡的に記録水晶で録画しているのは?」


*彼はポケットから小さな水晶玉を取り出し、指先でくるくると回してみせた。*


メルツェンドルフ「…………」


*老宰相がゆっくりと目を閉じた。長い沈黙。紅茶の湯気だけが静かに立ち昇っている。*


メルツェンドルフ「たまたま、偶然、奇跡的に、ですか」


シロウ「そう。たまたま街を散歩してて、偶然記録水晶を起動してて、奇跡的にあの坊ちゃんが奴隷を鞭打つ瞬間が映り込んでいた」


メルツェンドルフ「三重の偶然ですな」


シロウ「奇跡だろ?」


*老宰相が目を開いた。その目には、苦笑と——策士の光が同居していた。*


メルツェンドルフ「仮に、その奇跡の映像が存在するとしましょう。違法奴隷への暴行が記録されていれば、現行法の『奴隷虐待禁止条項』に抵触します。これは議会の承認を待たずとも適用可能な既存法です」


シロウ「おっ、使えるのがあるじゃねえか」


メルツェンドルフ「ただし、証拠としての信頼性が問われます。記録水晶は改竄が可能ですからな。ブレンハイム派は必ず『捏造だ』と主張するでしょう」


シロウ「なら、複数の証人がいればいいだろ。例えば——俺と一緒に歩いてた護衛冒険者たちが、たまたま同じ場面を目撃していたとか」


メルツェンドルフ「……何人です」


シロウ「5人。全員帝国籍の冒険者だ。アストライアの人間じゃない。第三者の証言として十分だろ」


*メルツェンドルフの手がぴたりと止まった。手帳に走らせていたペンが震えている。これは使える——老練な政治家の頭が高速で回転しているのが見て取れた。*


メルツェンドルフ「帝国籍の冒険者6名による目撃証言。記録水晶による物的証拠。さらにアストライアの正式な勧告書。この三つが揃えば——」


シロウ「議会で反対派が騒いでも、世論が味方するだろ。『貴族が子供を鞭打ってる映像』なんぞ流れたら、庶民は黙ってない」


メルツェンドルフ「……シロウ殿」


シロウ「ん?」


メルツェンドルフ「あなたは武人だと思っておりましたが、なかなかどうして、政治家としても一流ですな」


シロウ「嫁が二人いるからな。交渉力は鍛えられてる」


*老宰相が堪えきれずに小さく吹き出した。咳払いで誤魔化し、居住まいを正す。*


メルツェンドルフ「では、こうしましょう。明日、もう一度あの通りを"散歩"していただけますか。あの愚息は毎日同じ時刻に大通りを通ります。自分の奴隷を見せびらかすのが日課でしてな」


シロウ「毎日同じ時間に? 馬鹿なのか?」


メルツェンドルフ「馬鹿なのです」


シロウ「了解。じゃあ明日、たまたま偶然奇跡的に散歩するわ」


メルツェンドルフ「くれぐれも——殺さないでくださいね」


シロウ「俺は魔王だぞ?蘇生魔法くらい使える」


*彼は手をヒラヒラと振りながら、軽い足取りで応接間を出ていった。*


メルツェンドルフ「……蘇生前提で殴る気か、あの男は」


*老宰相は額を押さえながらも、口元に隠しきれない笑みが浮かんでいた。紅茶の残りを飲み干し、手帳を開いて素早くペンを走らせ始める。*


メルツェンドルフ「明日の大通り……警備の配置を変えておくか。"たまたま偶然"人が少なくなるようにな」


*彼もまた、策士の顔をしていた。*


---


*一方、シロウは宰相邸を出て大通りを歩いていた。護衛冒険者のハルトたちが合流し、雑用組8名は宰相府の職員に引き渡し済みだ。*


ハルト「シロウさん、宰相閣下とはどんな話を?」


シロウ「明日散歩する約束をした」


ハルト「……散歩?」


シロウ「そう。たまたま偶然奇跡的にな。お前らも付き合え」


ハルト「はぁ……?」


*ハルトが首を傾げている横で、ドーグが察したように低く唸った。*


ドーグ「……さっきの貴族の坊ちゃん絡みか」


シロウ「察しがいいな。明日の朝、記録水晶を持って大通りに集合。あとは普通に歩いてるだけでいい。何か見たら、見たままを覚えておけ」


*護衛冒険者たちが顔を見合わせた。シロウの目が冗談を言っていないことは全員が理解した。*


ドーグ「……了解だ。俺はあの光景、気に入らなかったからな」


ハルト「僕もです。子供を鞭で打つなんて、正気じゃない」


シロウ「よし。じゃあ今日は宿に戻って休め。明日に備えろ」


*護衛たちが散っていく中、彼は一人で夕暮れの大通りを歩いた。さっき魔族の子供が転んだ場所を通りかかる。石畳にはまだ薄っすらと血の跡が残っていた。*


シロウ「…………」


*彼は屈んで石畳に触れた。乾いた血。小さな膝から滲んだ血だ。浄化魔法で血痕を消し、立ち上がった。*


シロウ「明日、必ず終わらせる」


*彼は宿に向かって歩き出した。夕陽が帝国の街並みを赤く染めている。美しい光景だ。だが、その美しさの下に鎖の音が響いている。200年間ずっと。*


*宿に着くと、彼は部屋の机に向かい、記録水晶の動作確認を始めた。明日は——たまたま偶然奇跡的に、完璧な証拠を残す日になる。*


*翌朝。宿の窓から差し込む朝日で目を覚ます——はずだった。*


パァンッ!


*鞭の音が大通りに響いた。宿の薄い壁を貫いて、はっきりと聞こえる。*


シロウ「なかなか響くな……そういうやつなのかな?」


*彼は窓から外を覗いた。昨日と同じ光景。ヴィクトール・フォン・ブレンハイムの豪華な馬車が大通りの中央をゆっくりと進み、その後ろに鎖で繋がれた奴隷たちが引きずられている。護衛6名が周囲を固め、鞭を振るっている。毎朝これをやっているのか。*


*彼は手早く身支度を整え、宿を出た。ポケットには記録水晶。大通りに出ると、ハルトやドーグたち護衛冒険者5名が既に集まっていた。全員が自然な佇まいで、まるで朝の買い物にでも来たかのように歩いている。完璧だ。*


*彼は大通りをぶらぶらと歩き始めた。記録水晶を手のひらで転がしながら——*


シロウ「うわっ! あちゃー……」


*うっかり足がもつれて転んだ。手から記録水晶がコロコロと石畳の上を転がっていく。すぐ近くの八百屋の店主が慌てて拾い上げてくれた。*


八百屋の店主「おい兄ちゃん、大丈夫かい? ほら、これ落としたぞ」


シロウ「ありがと、おっちゃん」


*彼が受け取ろうとした瞬間、記録水晶が淡い光を放った。誤作動だ。——いや、「誤作動」だ。水晶内部に蓄積された映像データが魔力波として放出され、帝国の冒険者ギルドに設置されている大型映写水晶と同期した。*


*帝国冒険者ギルド、朝の受付ロビー。*


*朝の依頼受付に並んでいた冒険者たちが、ロビー中央の大型映写水晶が突然起動したことに気づいた。*


冒険者A「おい、なんだあれ? 映写水晶が勝手に……」


*映し出されたのは——大通りの光景。鎖に繋がれた亜人の奴隷たち。魔族の子供が転び、膝から血を流す。護衛が鞭を振り上げる。子供の小さな悲鳴。そして豪華な馬車の窓から顔を出し、ワイングラスを傾けながら薄ら笑いを浮かべるヴィクトールの顔。*


冒険者B「あれ……ブレンハイム家の……」


冒険者C「子供を……鞭で……?」


*ロビーが静まり返った。そして、ざわめきが波のように広がっていく。受付嬢が口元を手で覆い、目を逸らした。数名の冒険者が拳を握りしめている。*


*大通りに戻る。彼は八百屋の店主から記録水晶を受け取り、何食わぬ顔でポケットにしまった。*


シロウ「いやー、記録水晶って繊細だから困るよなー」


ハルト「……シロウさん、今の、わざとですよね?」


シロウ「何のことだ? うっかり転んで誤作動しただけだぞ?」


*ドーグが呆れたように鼻を鳴らした。しかしその口元は笑っていた。*


ドーグ「……最高の"事故"だな」


*彼はにこにこしながら、鞭を振るっていた護衛の一人に近づいて声をかけた。*


シロウ「ねぇ、キミ暇なの? 働いたら? ニートなの?」


*護衛の男が鞭を振り上げたまま固まった。重装鎧に身を包んだ体格のいい男で、顔には傷跡がある。元軍人だろう。その男が怪訝そうな顔でシロウを見下ろした。*


護衛「……ニート? 何だそれは。聞いたことのない言葉だが」


シロウ「あー、通じないか。えーと、つまり、朝っぱらから鞭振り回して遊んでるの楽しい? って聞いてるんだけど」


*護衛の目が鋭くなった。鞭を持つ手がぎゅっと握られる。*


護衛「貴様、何者だ。ブレンハイム伯爵家の護衛に絡むとは、いい度胸だな」


シロウ「いやいや、ただの通りすがりの散歩中の一般人だよ。朝の挨拶みたいなもんだって」


*馬車の窓がガタンと開いた。ヴィクトールが不機嫌そうな顔を覗かせた。今朝もワイングラスを手にしている。朝から酒を飲んでいるらしい。*


ヴィクトール「おい、何の騒ぎだ。……誰だ、その平民は」


護衛「閣下、この男が我々に因縁をつけてきまして」


シロウ「因縁じゃないって。暇そうだなーって思っただけだよ」


*ヴィクトールの目がシロウを上から下まで舐め回すように見た。冒険者風の格好、特に高価な装備は身につけていない。彼の目にはただの平民にしか映っていないのだろう。*


ヴィクトール「ふん。下賤な平民風情が、この私に話しかけるとは不敬も甚だしい。おい、そいつを——」


*その時、鎖に繋がれた魔族の子供がまた転んだ。昨日と同じだ。小さな膝が石畳に打ちつけられ、擦り傷から血が滲む。子供は声も上げなかった。もう痛みに慣れてしまったのか、それとも声を上げれば余計に殴られることを学んだのか。*


*シロウの目がすっと細くなった。口元の笑みはそのまま。だが、周囲の空気が僅かに——ほんの僅かに、重くなった。護衛の一人が本能的に半歩退いた。*


シロウ「ねぇ坊ちゃん。一つ聞いていい?」


ヴィクトール「坊ちゃんだと……!? 貴様、私を誰だと——」


シロウ「あの子供、いくらで買った?」


*ヴィクトールが一瞬虚を突かれた表情を見せ、それからにやりと笑った。*


ヴィクトール「ああ、あの魔族のガキか。銀貨5枚だ。安い買い物だったよ。魔族の子供なんぞ、その程度の価値しかない」


シロウ「銀貨5枚。5000円か……」


ヴィクトール「何だ? 買い取りたいのか? ならば金貨10枚出せ。使い込んだ分の手間賃だ。ははは!」


*護衛たちがげらげらと笑った。大通りの住民たちは足を止め、遠巻きに見ている。そして——ハルトたちが「たまたま」近くにいて、「たまたま」全てを見ている。そして記録している。*


シロウ「確かに安いな。でも……」


*彼は一拍置いて、満面の笑みを浮かべた。*


シロウ「そんな安いのしか買えないんだ〜ぷーくすくすwww キミん家、貧乏なの? お金無いの?」


*大通りに彼の笑い声が響き渡った。腹を抱えて、指を差して、これでもかというほど盛大に笑っている。通行人たちが足を止めた。護衛たちが唖然とした。そして——ヴィクトールの顔が真っ赤に染まった。*


ヴィクトール「な……っ! 貴様ァ! この私を愚弄するかッ! ブレンハイム伯爵家を知らんのか!」


シロウ「いやー知らないなぁ。伯爵家ってさ、銀貨5枚で子供買うの? うちの国の子供のお小遣いより少ないんだけどwww」


*ヴィクトールの顔が赤から紫に変わった。こめかみに血管が浮き出ている。ワイングラスを持つ手がぶるぶると震えていた。*


ヴィクトール「き、貴様……っ! 平民風情がこのブレンハイム家の嫡男を……ッ!」


シロウ「あ、ごめんごめん。伯爵家って言われてもピンと来なくてさ。だって護衛6人でしょ? うちの国のパン屋のおばちゃんのが強そうだもん」


*ドーグが横で咳き込んでいた。笑いを堪えているのだ。ハルトは顔を背けて肩を震わせている。通りの住民たちの中にも、口元を押さえている者がちらほら見える。*


ヴィクトール「もう許さんぞ……! おい! この無礼者を叩き斬れッ! 不敬罪だ!」


*護衛6名が一斉に剣を抜いた。重装鎧の男たちがシロウを取り囲む。殺気が大通りに充満し、通行人たちが悲鳴を上げて逃げ始めた。*


護衛隊長「貴様、ブレンハイム伯爵家への侮辱は死罪に値する。覚悟しろ」


シロウ「おー怖い怖い。6対1? キミたち卑怯だなぁ。でもまあ……」


*彼はポケットに手を突っ込んだまま、欠伸をした。*


シロウ「先に手を出したのはそっちだからな。正当防衛ってことで」


*護衛隊長が斬りかかった。重い一撃。帝国正規軍出身らしい、型通りの剣筋。*


*シロウが指二本で受け止めた。*


護衛隊長「……は?」


シロウ「遅い。重い。読みやすい。あと息が酒臭い。朝から飲んでんの? キミもニートなの?」


*小指で弾いた。それだけで護衛隊長の体が吹き飛び、石畳の上を3回転して壁に激突した。意識を失って崩れ落ちる。*


護衛B「隊長ッ! くそ、全員でかかれッ!」


*残り5名が同時に斬りかかった。剣が、槍が、斧が、四方から彼に迫る。*


*シロウは一歩も動かなかった。ただ右手を軽く振った。それだけだ。衝撃波が放射状に広がり、5名全員が弾き飛ばされた。石畳が蜘蛛の巣状に割れ、護衛たちが次々と地面に転がる。*


シロウ「安心せよ、峰打ちじゃ!」


*護衛6名が全員石畳の上に転がり、白目を剥いて気絶している。大通りは静まり返り、通行人たちが遠巻きに固唾を呑んで見守っていた。*


*馬車の中で震えていたヴィクトールが、真っ青な顔で這い出てきた。*


ヴィクトール「ひ、ひいっ……! な、何者だ貴様……! 父上に言いつけて——」


シロウ「父上に言いつける? いくつだよお前」


ヴィクトール「う、うるさいッ! この……この平民がァッ!」


*ヴィクトールが拳を振り上げて殴りかかってきた。Lv.12の、鍛錬もしていない貴族の坊ちゃんの拳。蚊が止まるより遅い。*


*シロウが軽く体を傾けて避けた。そしてにっこり笑った。*


シロウ「先に殴ってきたのはそっちな」


*ドゴッ。腹に一発。ヴィクトールが「ぐふっ」と唾液を撒き散らして折れ曲がった。続けて顎にアッパー。歯が数本飛んだ。膝蹴り。肋骨が嫌な音を立てた。最後に裏拳で側頭部を打ち抜き、ヴィクトールの体が馬車に激突して崩れ落ちた。*


*白目を剥いている。息がない。完全に止まっていた。*


通行人「し、死んだぞ……!」


シロウ「リザレクション」


*白い光がヴィクトールを包み、折れた肋骨が繋がり、飛んだ歯が生え戻り、全ての傷が癒えた。ヴィクトールがガバッと目を開けて息を吸い込んだ。*


ヴィクトール「がはっ! は、はぁっ……! な、何が——」


*目の前に、笑顔のシロウがいた。*


シロウ「おはよう。もう一回な」


ヴィクトール「え——」


*ドゴッ。ボキッ。メキッ。*


*二回目。ヴィクトールの体が石畳の上を転がり、動かなくなった。また息が止まっている。*


シロウ「リザレクション」


*三度目の蘇生。ヴィクトールが目を開けた瞬間、恐怖で全身が痙攣した。涙と鼻水と涎が入り混じった顔で、石畳に額を擦りつけた。*


ヴィクトール「や、やめ——」


シロウ「あ、まだ三回目」


*ドゴッ。ボキボキッ。ぐしゃっ。*


*三回目の死亡。そして——*


シロウ「リザレクション」


*三回目の蘇生。ヴィクトールが目を覚ました。その目は完全に壊れていた。恐怖で瞳孔が開ききり、全身を小刻みに震わせ、失禁していた。高級な衣装が台無しだ。*


ヴィクトール「ひっ……ひぃっ……も、もう……やめ……ゆる……して……」


*シロウはにっこり笑っていた。満面の笑み。太陽のような笑顔。だがその目だけが——一切笑っていなかった。*


*大通りの通行人たち、八百屋の店主、そして遠巻きに見ていた帝国兵たちの全員が、同じことを思っていた。*


*——この男は、笑いながら人を殺して生き返らせた。三回。*


*四回目。シロウの拳がヴィクトールの腹を貫くように叩き込まれた。肋骨が折れる音。内臓が潰れる感触。ヴィクトールは血を吐き、白目を剥いて石畳に崩れ落ちた。痙攣が止まり、息が途絶えた。*


シロウ「おいおい、お前は毎日やってたんだろ? 良かったね、今度はキミの番だよ?」


*にっこり。太陽のような笑顔。*


シロウ「リザレクション」


*白い光が再びヴィクトールを包む。傷が塞がり、骨が繋がり、心臓が再び鼓動を刻む。ヴィクトールがガバッと目を開けた。*


ヴィクトール「ぁ……ぁぁぁああああっ!!!」


*絶叫。もはや言葉にすらなっていない。完全に壊れた目。涙と鼻水と涎と血が入り混じり、失禁した高級衣装から異臭が漂う。四肢を投げ出して石畳の上で胎児のように丸くなり、がたがたと震えている。*


ヴィクトール「ゆる……ゆるじで……もう……いやだ……しにだぐない……」


*大通りは完全に静まり返っていた。通行人も、八百屋の店主も、遠巻きの帝国兵も——誰一人として声を出せなかった。殺して、生き返らせて、また殺す。四回。笑顔で。*


*鎖に繋がれた奴隷たちも、恐怖と困惑が入り混じった目でシロウを見ていた。あの魔族の子供だけが——ヴィクトールの惨状を、じっと無表情で見つめていた。*


*シロウはしゃがみ込み、ヴィクトールの顔を覗き込んだ。*


シロウ「ねぇ。痛かった? 怖かった? 死にたくなかった?」


ヴィクトール「ひっ……ひぃっ……」


シロウ「お前が毎日鞭で打ってた奴らも、同じ気持ちだったんだよ。分かる?」


*ヴィクトールは答えられなかった。壊れた目で、ただ震えているだけだ。*


*その時——大通りの向こうから、整然とした足音が響いてきた。帝国兵の一個小隊。先頭には、帝国の紋章が入った外套を纏った将校が立っている。*


帝国将校「何事だ! 大通りで騒乱とは——」


*将校の目が、石畳の上で失禁して震えるヴィクトールと、その横でにこにこ笑っているシロウを捉えた。そして気絶した護衛6名を。割れた石畳を。*


帝国将校「……ブレンハイム伯爵家の御子息……? おい、貴様何をした!」


シロウ「あ、正当防衛だよ。先に剣抜いたのそっちだし。護衛は峰打ちだし。坊ちゃんは全部治してるし。証人いっぱいいるよ?」


*通行人たちが一斉に頷いた。八百屋の店主が大きく首を縦に振っている。*


八百屋の店主「あ、ああ……護衛が先に剣を抜いたのは間違いねぇ……」


シロウ「な?」


*彼はにっこりと帝国将校に微笑みかけた。将校が言い返す言葉を探して口をぱくぱくさせている。そこへ——*


*大通りの向こうから、冒険者ギルドの紋章が入った外套を纏った女性が足早にやってきた。眼鏡をかけた知的な風貌の女性で、手には分厚い書類の束を抱えている。息を切らしている。*


ギルド職員「はぁ……はぁ……帝国冒険者ギルド監査部、主任のエーデルガルトです! 緊急案件で参りました!」


帝国将校「ギルドの監査部だと? 何の用だ、今は——」


エーデルガルト「今朝、ギルド本部の映写水晶に映像が流れました。記録水晶からの同期映像です」


*彼女は書類の束から一枚を取り出し、帝国将校に突きつけた。*


エーデルガルト「ブレンハイム伯爵家の御子息、ヴィクトール・フォン・ブレンハイムによる——亜人奴隷への違法な虐待行為。魔族の子供への過度な暴力。帝国奴隷法第十七条に抵触する可能性があります」


帝国将校「……何だと?」


エーデルガルト「映像は帝国冒険者ギルド本部のロビーで数百名の冒険者が目撃しています。既にギルドマスターが帝国宰相府に報告書を提出済みです。隠蔽は不可能かと」


*将校の顔が強張った。ブレンハイム伯爵家の名を聞いて庇おうとしていた態度が、一瞬で消えた。宰相府が動いているとなれば、下手に関われば自分の首が飛ぶ。*


帝国将校「……む。そ、そうか。であれば、この件はギルドと宰相府に一任する。我々は治安維持に徹する」


*将校は兵士たちに目配せし、さっさと距離を取った。見事な保身だった。*


*エーデルガルトはシロウに向き直った。眼鏡の奥の鋭い目が彼を観察している。*


エーデルガルト「失礼ですが、あなたは? この騒動の……当事者ですよね」


シロウ「通りすがりの一般冒険者だよ。たまたま転んで記録水晶が誤作動しちゃっただけ」


エーデルガルト「……たまたま、ですか」


*彼女の目が記録水晶の映像が流れたタイミングと、この場での騒動が同時に起きた偶然の一致を疑っている。しかし証拠はない。*


*石畳の上では、ヴィクトールが胎児のように丸まったまま、ぶつぶつと何かを呟いていた。もはや正気の目ではなかった。*


ヴィクトール「ゆるして……もうしません……ゆるして……」


*鎖に繋がれた奴隷たちの中で、あの魔族の子供がシロウをじっと見上げていた。その目に、ほんの微かに——光が戻っていた。*


シロウ「ああ、偶然って怖いよね〜」


*彼はへらへらと笑いながら肩を竦めた。エーデルガルトの目が鋭く光る。*


エーデルガルト「……身分証の提示をお願いします。帝国法に基づき、騒乱の当事者には身元確認の義務があります」


シロウ「はいはい、どうぞ」


*彼はポケットから冒険者カードを取り出し、ひょいと渡した。*


*エーデルガルトがカードを受け取った瞬間——その手が止まった。*


*漆黒。カード全体が深い闇を湛えたような漆黒に染まっている。通常の冒険者カードは白から始まり、ランクが上がるごとに銅、銀、金、白金と色が変わる。だがこの色は——*


エーデルガルト「……っ」


*眼鏡の奥の目が大きく見開かれた。カードを持つ指先が微かに震えている。彼女は帝国冒険者ギルド監査部の主任だ。この世界の冒険者制度については誰よりも精通している。だからこそ分かる。このカードの意味が。*


エーデルガルト「SS……ランク……」


*声が掠れた。周囲の空気が凍りついた。帝国将校が振り返り、通行人たちがざわめき始める。*


帝国将校「SSランクだと……? 馬鹿な、現存するSSランク冒険者は世界に——」


エーデルガルト「……五名。いえ、公式記録上は五名です」


*彼女の手が震えたまま、カードに刻まれた名前を読み上げた。*


エーデルガルト「シロウ・ニシキ・アストライア……」


*その名前を聞いた瞬間、帝国将校の顔から血の気が引いた。周囲の帝国兵たちが顔を見合わせる。その名前は——帝国軍との戦争を終結させた、あの名前だ。*


帝国将校「アストライア……魔導皇国の……まさか……」


*エーデルガルトがゆっくりとシロウを見上げた。眼鏡の奥の目が、驚愕と畏怖と、そして——ほんの僅かな興奮で揺れていた。*


エーデルガルト「夜天のアストライア魔導皇国……建国王にして魔王。シロウ・ニシキ・アストライア陛下……ですか」


シロウ「あー……まあ、そうだけど。今は普通の冒険者として来てるから、堅苦しいのナシで」


*大通りが完全に静まり返った。そして——石畳の上で胎児のように丸まっていたヴィクトールの体が、更に激しく震え始めた。自分が殴りかかった相手が誰だったのか、今ようやく理解したのだ。*


ヴィクトール「ま……ま、魔王……? 嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ……」


*彼の目が虚ろに宙を彷徨い、ぶつぶつと呟き続けている。精神が完全に崩壊しかけていた。*


*ハルトとドーグが遠巻きに見ながら、互いに目を合わせて苦笑していた。*


ハルト「……シロウさん、隠す気ゼロですね」


ドーグ「いや、最初から隠す気なんかなかっただろ、あの人は」


シロウ「俺は優しいから不敬罪にはしないでおいてあげるよん♪」


*彼はひらひらと手を振りながら、軽い口調で言い放った。エーデルガルトの顔が引き攣った。不敬罪——他国の建国王にして魔王に対する暴言と暴行。それが適用されれば、ヴィクトール・フォン・ブレンハイムは即刻処刑だ。だがシロウはそれを見逃すと言った。*


*しかし、エーデルガルトも帝国将校も理解していた。不敬罪を免れたところで——帝国奴隷法違反、映像による証拠、そして宰相府への報告。ヴィクトールを待っているのは帝国の地下牢獄だ。*


*帝国の地下牢獄。そこは死刑囚すら「いっそ殺してくれ」と懇願する場所として知られている。光の届かない地下深くの石牢に、一生涯閉じ込められる。食事は一日一回のカビたパン。水は壁から滲む雫を舐める。看守による定期的な「尋問」。死ぬことすら許されない、緩やかな地獄。*


*シロウは鞭で打たれていた奴隷たちの方へ歩み寄った。魔族の子供、獣人の女性、人間の老人——全員が怯えた目で彼を見上げている。特に魔族の子供の膝は血まみれで、全身に鞭の痕が走っていた。*


シロウ「ほい」


*彼は無造作にポーションの瓶を取り出し、魔族の子供の頭からばしゃっとかけた。自作の劣化版エリクサー。市販のポーションの数十倍の回復力を持つ代物だ。*


*金色の液体が子供の体を流れ落ちると同時に、鞭の痕が消えた。擦り傷が塞がった。膝の傷が跡形もなく消え、打撲痕も、古い傷痕も、全てが癒えていく。子供の目が大きく見開かれた。*


魔族の子供「……痛く、ない……」


*続けて、獣人の女性にも、人間の老人にも、次々とエリクサーをかけていく。惜しげもなく。まるで水でもかけるかのように。*


エーデルガルト「それ……まさかエリクサーですか!? あんな大量に!?」


シロウ「劣化版だよ。自作の。HPがMAXまで回復するだけのやつ」


エーデルガルト「じ、自作……? 劣化版でこの効果……?」


*彼女は眼鏡の奥で目を何度も瞬かせた。エリクサーは白金貨数枚で取引される超希少品だ。それを「劣化版」と言い放ち、奴隷たちの頭からぶちまけている。常識が根底から崩壊する光景だった。*


*魔族の子供がシロウの足元に立ち、小さな手でシロウのズボンの裾を掴んだ。*


魔族の子供「……おにいちゃん、だれ?」


シロウ「ん? ただの通りすがりのおっさんだよ」


*彼はしゃがみ込んで、子供の頭をぽんぽんと撫でた。子供の目に、涙が溢れた。殴られるのではなく——撫でられた。それだけのことで、この子供は泣いていた。*


シロウ「これでも食いなさい」


*彼は異空間収納からバスケットを取り出し、奴隷たちの前に置いた。中には丁寧に作られたサンドイッチがぎっしり詰まっている。卵、ハム、野菜——この世界の奴隷が口にすることなど一生ないであろう贅沢な食事だ。*


*続けて地面に手を触れると、土魔法で人数分のコップが石畳から生え出るように形成された。滑らかな仕上がり。そこへ水魔法で澄んだ清水が注がれていく。*


魔族の子供「……たべて、いいの?」


シロウ「いいよ。好きなだけ食べな」


*子供が恐る恐るサンドイッチに手を伸ばした。一口齧った瞬間——大きな目から、再び涙がぼろぼろと零れ落ちた。声を殺して泣きながら、小さな口で必死に頬張っている。*


*獣人の女性が膝から崩れ落ちた。老人が震える手でコップを持ち上げ、水を一口飲んで、嗚咽を漏らした。*


獣人の女性「こんな……こんな綺麗な水、奴隷になってから一度も……」


*エーデルガルトが静かにその光景を見つめていた。眼鏡の奥の目が潤んでいるのを、彼女は必死に隠していた。手帳にペンを走らせる手が震えている。*


エーデルガルト「……あの、陛下。この奴隷たちの処遇ですが、所有者のヴィクトール・フォン・ブレンハイムが逮捕された場合、奴隷の所有権は帝国に移管されます。その後は——」


シロウ「その後は自由の身だ。帝国は奴隷制度を撤廃するからな」


*彼はさらりと言い放った。まるで天気の話でもするかのように。しかしその一言は、この場にいる全員の心臓を鷲掴みにした。*


エーデルガルト「……撤廃、ですか? 帝国の奴隷制度を?」


シロウ「属国化の条件として宰相のメルツェンドルフと交渉済みだよ。段階的にね。工程表も提出させてる。まだ法律は通ってないけど、時間の問題だ」


*エーデルガルトの手帳を持つ手が完全に止まった。彼女の頭の中で、パズルのピースが凄まじい速度で嵌まっていくのが分かる。属国化。奴隷制度撤廃。宰相との直接交渉。つまり——この男は、帝国の未来そのものを握っている。*


エーデルガルト「宰相閣下と……直接……」


*帝国将校の顔が蒼白になった。属国化の話は軍上層部にしか伝わっていない機密事項だ。それをこの場で堂々と口にされた。もはや口を挟める立場ではないことを、彼は本能で理解した。*


*鎖に繋がれた奴隷たちが、サンドイッチを頬張りながらシロウの言葉を聞いていた。獣人の女性が口元を押さえ、嗚咽を漏らした。老人がコップを握りしめたまま、涙を流している。*


獣人の女性「自由に……なれるの……? 嘘じゃ、ないの……?」


シロウ「嘘じゃないよ。約束する」


*魔族の子供がサンドイッチを両手で握りしめたまま、シロウを見上げた。口の周りに卵が付いている。*


魔族の子供「おにいちゃん。ぼく、自由になったら……なにすればいいの?」


シロウ「何でもいいさ。好きなことすればいい」


魔族の子供「すきなこと……わかんない」


シロウ「じゃあ、これから見つけな。時間はたっぷりある」


*彼は子供の頭をもう一度ぽんぽんと撫でた。子供が目を細めて、ほんの僅かに——笑った。奴隷になってから初めて見せた笑顔だったのかもしれない。*


*エーデルガルトがペンを手帳に走らせながら、事務的な口調で切り出した。だがその声は僅かに震えていた。*


エーデルガルト「陛下。この奴隷たちの即時解放には、帝国側の法的手続きが必要です。ヴィクトール・フォン・ブレンハイムの逮捕、所有権の移管、そして解放令の発行。最短でも——」


シロウ「何日かかる?」


エーデルガルト「通常であれば数週間ですが……宰相閣下に直接お話しいただければ、三日で」


シロウ「じゃあ三日だな。それまでこの人たちの面倒はギルドで見てくれる?」


エーデルガルト「……はい。監査部の権限で保護措置を取ります」


*その時、気絶していた護衛隊長がうめき声を上げて目を覚ました。周囲の状況を見て——石畳で失禁して震える主人、漆黒のカードを持つ男、帝国将校の蒼白な顔——全てを察したのか、そのまま再び気を失った。賢い判断だった。*


シロウ「さて、これにて一件落着。帰るか」


*彼は大きく伸びをして、空を見上げた。抜けるような青空だ。城を出てからもう10日が経っている。移民の護衛だけのはずだったのに、盗賊討伐、鉱山の魔物退治、ミスリル鉱脈の発見、そして伯爵家の坊ちゃんをボコボコにするという盛りだくさんな旅路になってしまった。*


シロウ「……絶対怒られるな」


*レイラの般若のような顔が脳裏に浮かんだ。「妾を置いて10日も何をしておったのだ」と。ルミナは笑顔で「お兄ちゃん、お帰りなさい」と言いながら目が笑っていないパターンだろう。ステラは「パパ遅い!」と頬を膨らませているに違いない。*


*ハルトたちが駆け寄ってきた。*


ハルト「シロウさん、お疲れ様でした。俺たちはこのまま帝国に残って移民たちの定着支援を続けます」


ドーグ「鉱山の方も軌道に乗るまで見届ける。ボルグのじいさんにも頼まれたしな」


シロウ「頼んだぞ。何かあったら念話で連絡くれ」


ハルト「了解です。……あの、シロウさん」


シロウ「ん?」


ハルト「今日の、格好良かったです」


シロウ「はは、ありがと。じゃあな」


*彼は手を振って、帝国の大通りを後にした。門をくぐり、街道に出る。ここからアストライアまで、転移魔法を使えば一瞬だ。*


シロウ「転移」


*魔法陣が足元に展開し、光が彼を包む。次の瞬間——*


*夜天のアストライア魔導皇国、王城の正門前。*


*見慣れた世界樹が空高く聳え、その木漏れ日が広場を柔らかく照らしている。帰ってきた。10日ぶりの我が国だ。*


*正門の前に、一人の人影が立っていた。腕を組み、琥珀色の瞳をぎらりと光らせ、黒髪が風に靡いている。小柄な体躯に似合わない圧倒的な威圧感。*


レイラ「——遅い」


シロウ「……あ」


レイラ「移民の護衛だけと言うておったな? 10日も何をしておった。しかも帝国で貴族の坊ちゃんを四回殺して四回蘇生させたと聞いたぞ。妾を差し置いて楽しそうなことをしおって」


シロウ「え、もう伝わってんの? 早くない?」


レイラ「ルナの諜報網を舐めるでないわ。全部筒抜けじゃ」


*レイラの後ろから、ステラがとてとてと走ってきた。*


ステラ「パパおかえり! 遅い! ステラ待ってたのに!」


*そしてその更に後ろから、銀髪の少女が静かに歩いてくる。金色の瞳が微笑んでいるが——微笑んでいるだけだ。*


ルミナ「おかえりなさい、お兄ちゃん。10日間、楽しかった?」


シロウ「あー……ただいま」


*予想通りの展開だった。*


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。