268
268
*——そして五日後。*
*彼は自室の寝台にうつ伏せで転がっていた。柔らかなクッションに顔を埋め、完全に脱力している。戦後処理の書類は昨晩のうちにオルクスとアシュトンに丸投げした。今日くらいはぐうたらしても許されるはずだ。*
シロウ「んー……平和……」
*もごもごと呟いた、その時だった。*
ドンドンドン!
*部屋の扉が力強く叩かれた。*
カイン「陛下、帝国の使者が来た。入るぞ」
シロウ「んー……あと五分……」
*返事を待たず、扉が開いた。カインとドルガンが並んで入ってくる。その後ろには、見覚えのある使者エーリッヒの姿があった。*
*エーリッヒの両手には、厳重に封印された木箱と、分厚い書類の束が抱えられている。*
カイン「五分も待てねぇよ。宰相の工程表と、龍核持ってきたとさ」
ドルガン「期限ぴったりだ。あの宰相、律儀だな」
*彼はうつ伏せのまま、のろのろと顔だけ横に向けた。寝癖だらけの黒髪が顔に張り付いている。パジャマ姿。目は半開き。*
シロウ「おー……エーリッヒくん、おつかれー……」
*使者エーリッヒの顔が引きつった。五日前の謁見の間でのだらけた姿を目撃していたとはいえ、魔王のパジャマ姿は想定外だったらしい。*
エーリッヒ「……あ、あの。宰相メルツェンドルフより、奴隷制度段階的撤廃の工程表、および龍核をお届けに参りました」
シロウ「ん、ありがと。そこ置いといて〜」
カイン「……おい陛下、せめて起きろ」
シロウ「起きてるって〜、目開いてるだろ〜」
ドルガン「開いてねぇよ。片目しか見えてねぇぞ」
*エーリッヒは木箱と書類を慎重にテーブルの上に置いた。その手が微かに震えている。木箱からは、微弱だが禍々しい魔力の波動が漏れていた。龍核だ。*
エーリッヒ「それと……宰相より口頭での伝言がございます」
シロウ「ん?」
エーリッヒ「『五日で仕上げました。帝国の覚悟を、どうかご確認ください』——以上です」
*彼はようやく上体を起こし、寝癖のまま木箱と書類を見つめた。その目が——ほんの一瞬だけ、鋭くなった。*
シロウ「……カイン、龍核は国境の砦に運んでくれ。絶対に開けるなよ。工程表は俺が目を通す」
カイン「了解」
*カインが木箱を受け取り、足早に部屋を出ていった。彼は分厚い書類の束を手に取り、ぱらぱらとめくり始めた。*
*彼は書類の束を手に取り、一ページ目を開いた。びっしりと帝国語で書かれた文字が視界に飛び込んでくる。*
シロウ「長い……」
*寝起きの頭にこの分量は致命的だった。目が滑る。同じ行を三回読んで、何も頭に入っていないことに気づいた。*
シロウ「むり〜……」
*ばたん、と書類の上に突っ伏した。そこへ、部屋の扉がノックもなしに開いた。*
ルミナ「お兄ちゃん、起きてる? 使者が来たって聞いたけど——何やってんの」
*ルミナは腰に手を当て、書類に突っ伏した兄を冷たい目で見下ろした。*
シロウ「ルミナぁ〜……読んで〜……寝起きにこの量はキツい〜……」
ルミナ「はぁ……しょうがないわね。貸しなさい」
*ルミナは溜息をつきながらも書類を受け取り、寝台の端に腰を下ろした。金色の瞳が素早く文字を追っていく。*
*その間に、彼はエーリッヒが持ってきた木箱を手に取った。封印の上から微かに漏れる禍々しい波動。精霊を喰う龍核。カインに渡すと言ったが——これを誰かに持たせて移動させるのは危険だ。*
シロウ「……やっぱこれは俺が管理する」
*彼は異空間収納を展開し、木箱ごと龍核を格納した。異空間内は外界と完全に隔離されている。精霊を喰う波動もここなら遮断できる。*
シロウ「よし。これで世界樹への影響はない」
*エーリッヒが目を丸くした。木箱が一瞬で消えたのだ。*
エーリッヒ「い、今のは……」
シロウ「収納魔法みたいなもんだよ。気にしないで〜」
*彼は再び玉座にどすんと座った。ルミナが黙々と書類を読み進めている。*
ルミナ「……お兄ちゃん。これ、かなり踏み込んだ内容よ」
シロウ「ん?」
ルミナ「まず第一段階。三ヶ月以内に全ての違法奴隷と借金奴隷の即時解放。第二段階、一年以内に鉱山・農地の奴隷労働を有償雇用に切り替え。第三段階、三年以内に奴隷制度の完全撤廃と亜人種の市民権付与。代替労働力として、帝国が国費で雇用制度を整備する、と」
シロウ「ほう」
*彼は目を閉じたまま、天井に向けて片手を上げた。*
ルミナ「補償金の財源は帝国貴族への特別課税と、軍事費の削減分を充てる。亜人種の解放後の住居と職業訓練も予算が組まれてる。かなり具体的よ。五日でここまで纏めたなら、あの宰相は本気ね」
シロウ「……メルツェンドルフ、やるじゃん」
ルミナ「ただ、問題点もある。帝国貴族への特別課税は反発が確実に出る。最悪、内乱の火種になりかねない。あと、亜人種への市民権付与に関して、帝国議会の承認が必要だけど、議員の七割が人間至上主義派よ」
シロウ「つまり、工程表は完璧だけど実行できるかは別問題、と」
ルミナ「そういうことよ、お兄ちゃん。」
*彼は座ったまま、指を折りながら条件を並べた。*
シロウ「んーそうだなぁ〜なら……うちに流れ込んできた移民を労働力として提供しよう。ほぼ帝国から流れてきた奴らだけどな」
*ルミナが書類から顔を上げた。*
ルミナ「移民を? 帝国に戻すってこと?」
シロウ「戻すんじゃなくて、有償の派遣労働だ。うちの国民として雇用契約を結んだ上で、帝国の鉱山や農地に送る。賃金はうちが保証して、帝国側が支払う。奴隷じゃなくて労働者としてな」
*彼は天井を見ながら指を立てた。*
シロウ「鉱山労働はたいへんだから一日銀貨三枚。農業系は暑いし腰痛いから銀貨二枚。その他雑用は銀貨一枚。これでなんとかなるだろ」
リオン「待て待て待て。賃金設定の理由が『たいへんだから』とか『腰痛いから』ってなんだよ! もうちょっとこう、経済的根拠とか労働価値の算出とかあんだろ!」
シロウ「いや俺も農業やったことあるけどマジで腰痛いぞ? あれは銀貨二枚じゃなきゃやってられん」
リオン「体験談で賃金決めんな!」
*ルミナが額を押さえつつも、書類の余白に素早く計算を書き込んでいた。*
ルミナ「……でも、お兄ちゃん。金額自体はそこまでズレてないわ。帝国の一般労働者の日当が銀貨一枚前後だから、危険手当込みで鉱山が三枚は妥当なラインね。根拠が馬鹿みたいなだけで」
リオン「根拠が馬鹿なのが問題なんだよ!」
シロウ「結果オーライだろ〜」
リオン「よくねぇよ!」
*エーリッヒが呆然と立ち尽くしていた。帝国の命運を左右する交渉の場で、魔王がパジャマ姿で座りながら「腰痛いから」で賃金を決めている。報告書にどう書けばいいのか全く分からない。*
エーリッヒ「あ、あの……つまり、アストライア側から労働力を派遣していただけると……?」
シロウ「そうそう。元々帝国から逃げてきた連中だから土地勘もあるし、知り合いもいる。本人が望めばだけどな。強制はしない」
ルミナ「派遣契約の詳細はこちらで詰めるわ。労働者の安全保障、賃金の支払い方法、帰還の自由。全部盛り込む。お兄ちゃん、それでいい?」
シロウ「頼むわ〜。ルミナがいないと俺この国回せないな〜」
ルミナ「知ってる」
*即答だった。*
シロウ「エーリッヒくん、宰相にこう伝えてくれ。『奴隷の代替労働力はこちらで用意する。詳細な契約書は追って送る。工程表は確認した、悪くない出来だ』——以上」
エーリッヒ「は、はい! 承知いたしました!」
*使者は深く一礼し、足早に部屋を出ていった。扉が閉まった後、リオンが大きく溜息をついた。*
リオン「……なぁ陛下。あの使者、帝国に帰って報告する時なんて言うんだろうな。『魔王はパジャマ姿で寝癖のまま、腰が痛いからという理由で賃金を決めていました』って」
カイン「帝国の歴史書に載るぞ。『パジャマ交渉事件』として」
ドルガン「いい歴史だな」
シロウ「載せるな」
ルミナ「載せていいわよ。戒めとして」
シロウ「ルミナまで!?」
*ルミナは既に書類の余白に派遣契約の骨子を書き始めていた。その速度は尋常ではない。ペンが紙の上を走る音だけが部屋に響く。*
ルミナ「……お兄ちゃん。派遣労働者の安全保障に関して、帝国側に監査官を置くわよ。うちの人間で」
シロウ「当然。定期報告も義務付けろ」
ルミナ「言われなくても」
*ペンを走らせながら、ルミナがちらりと兄を見た。*
ルミナ「……まあ、発想自体は悪くないわ。移民の再雇用にもなるし、帝国との経済的なパイプもできる」
シロウ「だろ〜?」
ルミナ「褒めてないわよ。根拠が馬鹿なだけ」
リオン「それな」
*彼は座り直した。寝癖だらけのパジャマ姿のまま、しかしその目は先ほどまでのぐうたらした男のものではなかった。黒い瞳に、冷たく計算された光が宿る。*
シロウ「はぁ……でもこれで帝国側に貸しができる。そして移民からは支持を得られる。そしてこちら側は金は出さずに得しかない」
*謁見の間が静まった。*
シロウ「労働力の提供はうちの移民を派遣するだけ。賃金は帝国が払う。つまりうちの国庫からは一銭も出ない。移民は故郷で稼げて喜ぶ、帝国は奴隷の代わりが手に入る、うちは移民の雇用問題が解消される上に帝国への影響力が増す。三方良しだ」
*リオンが口を閉じた。ドルガンが腕を組み直した。カインが小さく息を吐いた。*
シロウ「しかも派遣労働者はうちの国民だ。帝国内にアストライアの人間が常駐する。監査官も置く。これは事実上、帝国の経済基盤にうちの根を張るってことだ。属国になる前から、もう首根っこ掴んでる」
*彼は指を一本立てた。*
シロウ「帝国が万が一裏切ったら? 労働者を引き上げるだけでいい。鉱山も農地も一瞬で止まる。経済制裁を軍事力なしでやれる。戦わずして勝つ——孫子の兵法ってやつだな」
*最後だけ少しおどけた口調だったが、誰も笑わなかった。笑えなかった。*
リオン「……っ」
*リオンは天井を仰いだ。やさぐれた目が、複雑な感情を映している。*
リオン「……やっぱこの人、怖ぇわ」
ドルガン「ああ。腰が痛いとか言ってた男と同一人物とは思えん」
カイン「これだから仕えてんだよ、俺らは」
ルナ「ふふ……素敵。やはり陛下は陛下ですわ」
*ルナの瞳が妖しく潤んだ。その隣でリオンが一歩距離を取った。*
アシュトン「見事です、陛下。経済的従属を外交カードにする手法は、歴史上でも最も効果的な支配形態です。しかも表向きは『善意の労働力提供』ですから、帝国の民衆からも反感を買わない」
ゲオルグ「軍人としては複雑ですが……血を流さずに国を抑える。これ以上の勝利はありません」
*ルミナはペンを止め、書類の上に静かに手を置いた。兄の横顔を見つめる。*
ルミナ「……お兄ちゃん。最初から全部計算してたんでしょ」
シロウ「さぁ〜? 腰が痛いのは本当だぞ〜?」
ルミナ「はいはい」
*ルミナは呆れたように笑った。しかしその金色の瞳には、確かな信頼の色があった。*
*ふと、彼は窓の外を見た。パジャマの裾が風に揺れる。世界樹の緑が朝日に輝いている。その向こうに——帝国の方角がある。*
*黒ローブの男。龍核。精霊を喰う力。まだ見えない敵。だが、少なくとも帝国という駒は、もう自分の盤上にある。*
*次に動くのは、向こうだ。*
*彼は立ち上がると、水魔法を詠唱なしで発動した。宙に浮かんだ清水で顔をばしゃばしゃと洗う。次に寝癖——水魔法と火魔法を同時に練り合わせ、掌の上で適温のお湯を生成。それを髪に通し、火魔法と風魔法の合わせ技で一瞬にして乾燥させる。最後に転移魔法で寝室のクローゼットから衣服だけを転移させ、パジャマと入れ替えるように着替えを完了した。*
*所要時間、およそ数十秒。*
シロウ「んじゃ、行ってくる」
*ひらりと片手を振り、転移魔法の光に包まれて消えた。*
*謁見の間に残された八輝将とルミナが、しばらく沈黙した。*
リオン「…………今の、全部で何秒だった?」
カイン「三十秒もなかったな」
ドルガン「水と火でお湯作って、火と風で乾かして、転移で着替えて、転移で消えた。魔法を日用品感覚で使うなよ……」
アシュトン「四属性同時運用を朝の身支度に使う人間を、私は陛下以外に知りません」
ルナ「ふふ……効率的で素敵ですわ」
リオン「お前の感想はいつもズレてんだよ」
ゲオルグ「……しかし、お一人で行かれて大丈夫でしょうか。龍核の解析は危険を伴うのでは」
ルミナ「大丈夫よ。お兄ちゃんは精霊じゃないから龍核に喰われる心配はないし、何かあっても転移で一瞬で帰ってくるわ」
*ルミナはそう言いながらも、僅かに眉を寄せた。*
ルミナ「……それより、私は派遣契約書を仕上げるわ。リオン、アシュトン、手伝いなさい」
リオン「えぇ……俺、書類仕事向いてねぇんだけど」
ルミナ「向き不向きじゃないの。やるの」
リオン「……はい」
*一方、彼が転移した先は——アストライアの国境から約五キロ、帝国との境界線近くに急造された石造りの小さな砦だった。周囲には三重の結界が張られ、人の気配はない。解析用の魔導具が整然と並べられた地下室。壁には遮断の魔法陣がびっしりと刻まれている。*
シロウ「さて」
*彼は異空間収納から、封印された木箱を取り出した。テーブルの上に置いた瞬間、木箱の隙間から微かに禍々しい紫黒の光が漏れた。精霊を喰う龍核。その波動が、遮断結界の中でさえ肌をちりちりと刺す。*
シロウ「……こいつは厄介だな」
*彼は鑑定——いや、神眼を発動した。金色の光が瞳に灯る。封印越しに、龍核の情報が流れ込んでくる。*
*彼は神眼を全開にした。金色に染まった瞳が、封印越しの龍核を貫くように見据える。*
シロウ「さて……全部見せてもらうぞ」
*神眼から流れ込む情報量は膨大だった。通常の鑑定なら弾かれるほどの濃密な魔力構造。だが神眼は容赦なくその内部を暴いていく。*
*彼は右手で龍核を解析しながら、左手で記録用ディスク——アストライア魔導皇国が独自に開発した魔導記録媒体——を操作した。水晶の円盤に魔法陣が刻まれており、神眼が読み取った情報がリアルタイムで書き込まれていく。科学の記録技術と魔法の解析能力を融合させた、シロウ渾身の発明品だ。*
*ディスクの表面に、文字と図式が次々と浮かび上がる。*
シロウ「……ほう」
*龍核の構造が、徐々に明らかになっていく。*
シロウ「核の中心部に精霊の魔力を吸収・変換する術式が組み込まれてる。これは……天然のものじゃない。誰かが意図的に刻んだ術式だ」
*彼はディスクに書き込まれた情報を流し読みしながら、眉を寄せた。*
シロウ「精霊の魔力を取り込んで、それを龍脈に還元する……いや、違うな。還元じゃなくて『汚染』だ。精霊の純粋な魔力を、瘴気に近い性質に変換してる」
*龍核の内部構造が記録ディスクに詳細に描き出されていく。中心核、変換層、吸収層——三層構造。そしてその最深部に、見覚えのない文字列が刻まれていた。*
シロウ「この術式言語……見たことがない。少なくともこの大陸で使われてるものじゃないな」
*彼は記録ディスクをもう一枚取り出し、術式言語だけを抽出して別途保存した。*
シロウ「黒ローブの奴がこれを作ったのか、それとも別の誰かか……」
*解析は順調に進んでいた。約三十分後、記録ディスク二枚分のデータが蓄積された。彼はそれらを丁寧に異空間収納にしまい、龍核を再び封印した。*
シロウ「あとはこのディスクを結界装置に組み込めば、龍核と同じ波長の魔力を感知できるようになる。つまり——」
*彼は薄く笑った。*
シロウ「黒ローブの野郎がどこにいても、龍核を使った瞬間にこっちに引っかかる。国境沿いの結界をセンサー代わりにするってわけだ」
*地下室を出て、砦の屋上に上がった。冷たい朝風が頬を撫でる。眼下には帝国との国境線が広がっている。等間隔に設置された結界装置の柱が、朝日を受けて淡く光っていた。*
シロウ「さて、組み込み作業は……まあ一人でやるか」
*彼は結界装置の一つに向かって飛び降り、ディスクの組み込み作業を開始した。*
*彼は砦の屋上から飛び降り、国境沿いに等間隔で設置された結界装置の柱へ向かった。最初の一基の前に立ち、側面のパネルを開く。中にはディスクを挿入するためのスロットが一つ。*
シロウ「ほいっと」
*記録ディスクをスロットに滑り込ませる。CDを入れるような手軽さだ。カチン、と小さな音がして、ディスクが収まった。*
*装置内部で魔法陣が淡く回転を始め、ディスクに書き込まれた龍核の波長データを自動で読み取っていく。数秒後、結界装置の柱全体が一瞬だけ紫の光を帯びた。隣の柱へ、さらにその隣へと——龍核の波長情報が連鎖的に伝播していく。国境線に沿って並ぶ数十基の結界装置が、次々と同期を完了した。*
シロウ「……よし、全基同期完了。やっぱ自動連携システム組んどいてよかったな」
*彼は腕を組んで、国境線を見渡した。帝国側の荒野が地平線まで続いている。どこかに、あの黒ローブがいる。*
シロウ「これで龍核の波長を感知したら即座に座標が割り出される。あとは——」
*彼がそこまで呟いた時、念話が飛んできた。*
ルミナ『お兄ちゃん、聞こえる?』
シロウ『ん、どうした?』
ルミナ『ゲオルグが帝国から戻ったわ。龍核の件で追加報告があるって。あと——』
*一瞬の間があった。*
ルミナ『……ルーナが城に来てるわよ。「パパに話がある」って』
シロウ「ルーナが?」
*彼は少し意外そうな顔をした。冒険者として家を出たルーナが、わざわざ城まで来るのは珍しい。*
シロウ『わかった、すぐ戻る』
*転移魔法を発動し、一瞬で砦から消えた。*
*次の瞬間、アストライア城の謁見の間に着地する。そこにはルミナ、リオン、アシュトンが書類の山に囲まれており——そして入口付近に、銀髪に金色の瞳の若い女性が立っていた。その肩には、小さな白い竜がちょこんと乗っている。*
ルーナ「あ、パパ。おかえり」
ユキ「きゅい!」
*ルーナは軽く手を振った。しかしその表情は、いつもの明るさとは少し違う。どこか——真剣だった。*
シロウ「ただいま。話があるって?」
ルーナ「うん。……大迷宮のことなんだけど」
*彼女は一歩前に出た。ユキが不安そうにルーナの首元に頭を擦り付ける。*
ルーナ「82階層の先——83階層に、変なものがあった」
*ルーナの表情が引き締まっていた。いつもの明るいオタク気質の娘ではない。冒険者としての顔だ。*
シロウ「変な物?」
ルーナ「うん……変なもの」
*彼女はユキを肩から降ろし、腰のポーチから一枚の記録用ディスクを取り出した。シロウが開発したものと同型——冒険者ギルド支部で配布されている簡易版だ。*
ルーナ「83階層の入口に、門みたいな構造物があったの。今までの階層にはなかった——明らかに人工物。しかもその表面に刻まれてた術式が……」
*彼女はディスクをシロウに差し出した。*
ルーナ「パパ、これ見て」
*シロウはディスクを受け取り、神眼で読み取った。記録された映像が脳裏に流れ込む。巨大な石造りの門。その表面を覆う術式文様——*
*彼の目が僅かに見開かれた。*
シロウ「……これ」
ルーナ「やっぱり気づいた? さっき帝国から持ち帰った龍核の解析データ、ゲオルグさんからちらっと聞いたんだけど——」
*彼女は声を落とした。*
ルーナ「あの門に刻まれてた術式言語、龍核に刻まれてたやつと同じ系統だと思う」
ユキ「きゅい……」
*ユキが不安げに鳴いた。小さな翼を畳んでルーナの足元に縮こまる。始祖竜の幼体が本能的に怯えている——それ自体が異常だった。*
シロウ「ルーナ。その門の向こうは見たのか?」
ルーナ「……ちょっとだけ。覗いただけで中には入ってない」
*彼女は一度唇を噛んだ。*
ルーナ「門の向こう側、空気が違った。瘴気とも魔力とも違う……なんて言えばいいかな。前世の知識で無理やり例えるなら——」
*ルーナはシロウだけに聞こえる声量で、日本語に切り替えた。*
ルーナ「『放射能汚染区域』みたいな感じ。入ったら汚染される、って直感でわかった」
*リオンやアシュトンには意味不明な言語だったが、シロウには正確に伝わった。彼の表情が僅かに険しくなる。*
シロウ「……それでユキが怯えてるのか」
ルーナ「うん。ユキが『だめ、入っちゃだめ』って必死に引っ張ってきた。始祖竜が本能で拒絶するレベルだよ、パパ」
*彼は腕を組んだ。龍核と同じ術式言語。精霊を喰う力。そして大迷宮の83階層に現れた謎の門。点と点が線で繋がり始めている。だが、まだ全体像は見えない。*
シロウ「……よく無事に帰ってきたな」
*彼はルーナの頭にぽん、と手を置いた。*
ルーナ「……えへへ。パパに報告しなきゃって思って」
ユキ「きゅい!」
*ユキがルーナの足をよじ登り、再び肩に乗った。小さな尾がルーナの首に巻きつく。まだ震えていた。*
*彼はルーナの銀髪をくしゃりと撫でてから、謁見の間を抜けて世界樹の広場へ歩いた。朝日を浴びた世界樹が、天を突くほどの巨躯を揺らしている。その根元——台座に突き刺さった一振りの剣が、静かに脈動していた。*
*「触れると死にます」の看板を横目に、シロウは台座に手をかけた。*
シロウ「——出番だ、アスカロン」
*引き抜いた瞬間、神気が噴き出した。*
*純白の光が広場を包み、世界樹の葉がざわめく。神剣アスカロン・ゼニスは主人の手に収まった途端、まるで歓喜するように刀身が輝いた。澄んだ高音が空気を震わせ、広場にいた市民が足を止めて振り返る。*
ルーナ「……何回見てもすごいね、それ」
*ルーナが追いかけてきていた。ユキが肩の上で目を丸くしている。*
ユキ「きゅいっ!」
シロウ「ルーナ、お前はここで待ってろ。83階層の座標データだけくれ」
ルーナ「うん。はい、これ」
*ルーナが記録ディスクを手渡した。シロウはそれを神眼で瞬時に読み取り、83階層の空間座標を脳内にマッピングした。*
リオン「おい陛下、一人で行くのかよ! せめて護衛を——」
シロウ「いらん。むしろお前らが来たら足手まといだ」
リオン「ぐっ……否定できねぇのが悔しい……」
カイン「事実だからな」
ドルガン「我らでは83階層の瘴気に耐えられん。陛下の判断は正しい」
ゲオルグ「御武運を、陛下」
*彼はアスカロン・ゼニスを背中の鞘に収め、転移魔法を展開した。行き先は星屑の大迷宮——83階層直前の安全地帯。*
シロウ「ルーナの話が本当なら、龍核と同じ術式がある。つまりあの門は黒ローブの野郎と繋がってる可能性が高い」
ルミナ「お兄ちゃん」
*ルミナがいつの間にか広場に来ていた。書類を抱えたまま、金色の瞳で兄を見つめる。*
ルミナ「……無茶しないで」
シロウ「しねぇよ。俺が死んだら誰がこの国回すんだ」
ルミナ「私よ」
シロウ「即答すんな」
*ルミナが少しだけ笑った。しかしその目は笑っていなかった。心配している。当然だ。*
シロウ「行ってくる」
*転移魔法の光が彼を包み——次の瞬間、彼は大迷宮の82階層と83階層の境界に立っていた。*
*空気が変わった。*
*82階層までの、濃密だが慣れた迷宮の瘴気とは質が違う。ルーナが「放射能汚染区域」と表現した意味が、一歩踏み込んだだけで理解できた。肌が粟立つ。細胞の一つ一つが警鐘を鳴らしている。*
*そして——目の前に、それはあった。*
*高さ十メートルはある石造りの門。両柱に刻まれた術式文様が、禍々しい紫黒の光を放っている。龍核に刻まれていたものと同じ——未知の術式言語。門の向こうは暗闇だが、その暗闇の…*
*彼はアスカロン・ゼニスを背中の鞘から引き抜いた。刀身が白銀の光を放ち、83階層の暗闇を切り裂く。*
シロウ「アスカロン——神気解放」
*瞬間、堰を切ったように神気が噴出した。*
*純白の奔流が門を中心に広がっていく。紫黒の術式文様が、神気に触れた端から焼けるように消えていった。まるで汚れた布に清水を注ぐように——門の両柱に刻まれた未知の術式言語が、一文字ずつ浄化されていく。*
*門の向こう側から漏れ出していた「汚染」——ルーナが放射能と例えたもの——が、神気の波に押し戻されていく。空気が澄んでいく。肌を刺していた違和感が薄れていく。*
シロウ「……やっぱりな。神気で浄化できる」
*だが——門そのものは消えなかった。*
*術式文様は全て焼き消えた。しかし石造りの門の構造体自体は、神気を受けてもびくともしない。むしろ、術式が剥がれたことで門の本体が露わになった。*
シロウ「……ほう」
*彼は神眼を発動した。金色の瞳が門の素材を解析する。*
シロウ「これは……竜骨石? しかもただの竜骨石じゃない。始祖竜クラスの骨を鉱物化させたもの……」
*神眼が更に深く読み取る。門の内部構造が浮かび上がった。*
シロウ「門の内側に空洞がある。その空洞の形状は……龍核と同じだ。つまりここには元々龍核が嵌め込まれていた。帝国が持っていた龍核は、ここから抜き取られたものか」
*パズルのピースが嵌まっていく。*
*黒ローブの人物がこの門を作った——あるいは発見した。門に嵌まっていた龍核を抜き取り、帝国に渡した。精霊を喰う力の実験として。では、この門自体の目的は何だ?*
*彼はゆっくりと門の正面に立った。術式は浄化され、汚染は消えた。だが門の向こうの暗闇は依然として口を開けている。*
シロウ「……覗いてみるか」
*アスカロン・ゼニスを構えたまま、神気を全身に纏い、門の向こうを覗き込んだ。*
*暗闇の奥に——何かが見えた。*
*それは空間だった。83階層とは明らかに異なる、別の場所。神眼が捉えた情報が脳裏に流れ込む。*
シロウ「空間接続型の転移門……? 行き先は——」
*神眼の解析結果が表示された瞬間、彼の目が大きく見開かれた。*
シロウ「……座標不明。この世界のどこにも該当しない空間座標だと?」
*この世界のものではない。ならば——別の世界か。*
*彼の脳裏に、一つの可能性が過ぎった。自分が元いた世界——日本ではない。しかし、異世界転移という現象がこの世界に存在する以上、他の世界との接点が存在してもおかしくはない。*
シロウ「だがしかし、俺にはアスカロンがある。」
*アスカロン・ゼニスの刀身が虹色に輝いた。空間そのものを認識し、切断する——神剣の特殊能力『次元切断』。*
シロウ「——斬」
*一閃。*
*刀身が空気を裂いた瞬間、門の向こうに広がっていた異空間が硝子のように亀裂を走らせた。亀裂は瞬く間に広がり、異空間全体を蜘蛛の巣のように覆い尽くす。そして——*
*ガラスが砕けるような澄んだ音と共に、全てが消滅した。*
*門の向こうにあった暗闘も、未知の空間座標も、汚染も。跡形もなく。残ったのは石造りの門の枠組みだけ。その向こうには83階層の岩壁がむき出しになっていた。ただの壁だ。*
シロウ「……消えたか」
*彼は神眼で周囲を再スキャンした。汚染の残滓は一切ない。空間の歪みも消失。門の枠組みからも、もう何の魔力反応も検出されなかった。完全な浄化と破壊。*
シロウ「接続先を丸ごと潰した。これでこの門は二度と機能しない」
*アスカロン・ゼニスを鞘に納めると、神気の光が静かに収まった。83階層に再び暗闇が戻る。だが先ほどまでの不気味な空気はもうない。ただの迷宮の闇だ。*
*彼は門の枠組みに近づき、竜骨石の表面に手を触れた。神眼が素材の詳細を読み取る。*
シロウ「始祖竜クラスの竜骨石……こんなもんを加工できる技術。この世界にそんな文明があったのか、それとも——」
*彼は手を離し、記録ディスクを取り出して門の構造データを保存した。素材情報、空間座標の残存ログ、術式言語の痕跡。全てを記録する。*
シロウ「持ち帰って解析だな」
*竜骨石の門の枠組みを異空間収納に丸ごと格納し、彼は念話を飛ばした。*
シロウ『ルミナ、終わった。異空間は破壊済み。門の素材を持ち帰る、解析が必要だ』
ルミナ『……早いわね。もう終わったの?』
シロウ『アスカロンが優秀なんだよ』
ルミナ『お兄ちゃんが無茶なだけでしょ。……おかえり。ゲオルグの報告も待ってるわ』
シロウ『あいよ』
*転移魔法を発動する直前、彼はふと足を止めた。83階層の暗闇を振り返る。*
シロウ「……黒ローブの野郎。お前、一体何を繋ごうとしてた?」
*答えは返らない。だが確信はあった。これは序章に過ぎない。龍核、精霊を喰う力、別世界への門——全てが一つの目的に向かって動いている。そしてその目的を持つ者は、まだどこかにいる。*
シロウ「まあいい。次に尻尾を出した時が最後だ」
*転移魔法の光が彼を包み、83階層から消えた。*
*次の瞬間、アストライア城の広場に着地する。世界樹の前でルーナが待っていた。ユキが尻尾を振って駆け寄ってくる。*
ユキ「きゅいきゅいっ!」
ルーナ「パパ! 早っ! 大丈夫だった!?」
シロウ「大丈夫に決まってんだろ?なんせ魔王だからな!」
*彼がドヤ顔でポーズを決めた瞬間、ルーナの冷静なツッコミが飛んだ。*
ルーナ「……パパ、それ中二病って言うんだよ。前世の日本じゃ痛い人扱いされるやつ」
シロウ「えっ」
ルーナ「44歳のおじさんが『なんせ魔王だからな!』って。いや事実なんだけどさ、言い方がね……」
シロウ「お、おじさんって言うな! まだ若い方だろ!?」
ルーナ「ママたちの年齢基準で考えちゃダメだよパパ。人間換算で44は立派な中年」
ユキ「きゅいきゅい!」
*ユキまで同調するように鳴いた。先ほどまでの恐怖はどこへやら、ルーナの肩の上でご機嫌に尻尾を振っている。神気で浄化された安心感からか、すっかり元気を取り戻していた。*
シロウ「ユキまで……お前ら俺の味方じゃなかったのか……」
ルーナ「味方だよ? 味方だけど中二病は中二病」
*リオンが広場の柱に背を預けて笑いを堪えていた。*
リオン「くくっ……娘にバッサリいかれてやがる」
カイン「いい光景だな。平和で」
ドルガン「魔王が娘に説教されとる。歴史に残すべきだ」
シロウ「残すな! さっきの『パジャマ交渉事件』といい、お前らなんなんだよ!」
*そこへルミナが書類を抱えたまま歩いてきた。兄の無事を確認し、ふっと肩の力を抜いた後——すぐにいつもの表情に戻る。*
ルミナ「おかえり、お兄ちゃん。で、結果は?」
シロウ「ん。門の術式は神気で浄化済み。異空間はアスカロンの次元切断で破壊した。門の枠組みは竜骨石製で、異空間収納に回収してある。解析データも記録ディスクに入れてきた」
*彼はポケットから記録ディスク二枚を取り出し、ルミナに手渡した。ルミナは受け取りながら素早く目を通す。*
ルミナ「……始祖竜クラスの竜骨石。しかもこの世界の座標に該当しない空間接続。お兄ちゃん、これ——」
シロウ「ああ。黒ローブの野郎は、別の世界との接続を試みてた可能性がある。目的は不明だが、少なくとも龍核はその門から抜き取られたものだ」
*ルミナの金色の瞳が鋭くなった。*
ルミナ「研究室で詳細解析するわ。ルーナ、あなたも来なさい。83階層の体感情報が必要よ」
ルーナ「うん、わかった。——あ、パパ」
シロウ「ん?」
ルーナ「中二病でも、やっぱりパパはかっこいいよ」
*彼女はにっと笑って、ルミナの後を追いかけていった。ユキが尻尾を振りながら「きゅい!」と一声鳴く。*
シロウ「……褒めてんのか貶してんのかわかんねぇな、あいつ」
*彼は苦笑しながら頭を掻いた。その手にはまだ、アスカロン・ゼニスの柄の感触が残っている。別の世界への門。未知の術式言語。そして黒ローブの存在。*
*まだ、終わっていない。*




