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《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
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*結界壁の向こう側——荒野。*


*大地が原形を留めていなかった。*


*数キロに渡って地面が抉れ、巨大なクレーターが無数に穿たれている。岩盤が剥き出しになり、赤黒い龍の炎で焼け焦げた大地が煙を上げていた。*


*その中心で、半竜化した皇帝ヴェルナーが吠えていた。*


ヴェルナー「ぐぉぉおおお!!」


*龍核の力が完全に解放されている。身体は4メートルを超え、全身を覆う赤黒い鱗は二重三重に重なり合い、背中の龍翼は広げれば20メートルに達する。両腕の龍爪は大地を一薙ぎで抉り、口腔からは灼熱の龍炎が途切れることなく噴き出されていた。*


*もはや人間の面影はない。龍核に呑まれた半龍——それが今の皇帝だった。*


ヴェルナー「死ねぇ! 死ね死ね死ねぇぇ!!」


*龍爪が横薙ぎに振るわれ、衝撃波が荒野を切り裂く。続けて龍炎が扇状に放たれ、数百メートル四方を灼熱の地獄に変えた。*


*その全てが——空を切った。*


レイラ「ふぅん」


*レイラは龍炎の真上に浮いていた。黒い魔力を纏った足が空を踏み、まるで地面を歩くように宙を移動している。琥珀の瞳は退屈そうに細められ、欠伸を噛み殺すように口元に手を当てていた。*


レイラ「もう終わりか? 妾はまだ指一本しか使っておらんのだが」


ヴェルナー「黙れぇぇ!!」


*皇帝が龍翼を羽ばたかせ、一気に上空へ飛翔した。両腕の龍爪に赤黒い光を凝縮させ、レイラに向かって突進する。速度は音を超え、衝撃波が地上の瓦礫を吹き飛ばした。*


*レイラは動かなかった。*


*龍爪が彼女の顔面に迫る。あと1メートル。50センチ。10センチ——。*


*レイラが人差し指を立てた。*


*たった一本の指が、龍爪の先端を受け止めた。音速を超えた突進が、細い指先一つで完全に停止する。衝撃波だけが背後に抜け、荒野の岩盤を粉砕した。*


ヴェルナー「な——」


レイラ「遅い。弱い。つまらん」


*琥珀の瞳が皇帝を見上げた。そこにあったのは——失望だった。*


レイラ「龍核とやらの力、こんなものか。妾の夫が片手間で退けた理由がよう分かったわ」


*人差し指を軽く弾いた。それだけで、4メートルの巨体が弾丸のように吹き飛び、地面に激突してクレーターを作った。*


*土煙の中から皇帝が這い出す。鱗が数枚剥がれ、龍血が地面に滴っている。*


ヴェルナー「ば、馬鹿な……龍核の力を……全て解放したのに……」


*レイラがゆっくりと地上に降り立った。黒い魔力が足元から波紋のように広がる。*


レイラ「全て解放した? ほう。ならば——妾も少しだけ本気を出してやろうか」


*「少しだけ」。その言葉に——空気が死んだ。*


*荒野を吹いていた風が止まった。音が消えた。虫の声も、遠くの戦場の喧騒も、何もかもが沈黙した。*


*レイラの琥珀の瞳が、紅く染まった。*


*黒い魔力が彼女の身体から溢れ出す。先ほどまでの遊びのそれとは質が違う。大地が軋み、空間そのものが歪む。足元の岩盤が魔力の重圧だけで粉々に砕け、彼女を中心に直径100メートルのクレーターが沈み込んだ。*


ヴェルナー「ぁ——」


*声にならなかった。半竜化した身体が、本能で震えていた。龍核が——怯えている。*


レイラ「どうした? 逃げてもよいぞ?」


*一歩、踏み出した。ただそれだけで地面が蜘蛛の巣状に砕け、衝撃波が皇帝の鱗を削った。*


ヴェルナー「ひっ——来るなぁぁ!!」


*龍炎を全力で放った。しかしレイラは炎の中を歩いた。黒髪一筋すら焦げない。*


レイラ「妾の夫はな——お主より遥かに強い。その程度で、退屈させるな」


*細い腕が皇帝の顔面を掴んだ。*


シロウ『レイラどう?そいつ強い?』


*念話がレイラの耳に届いた。皇帝の顔面を片手で掴んだまま、レイラは呆れたように鼻を鳴らした。*


レイラ『強いかと聞くか? 夫よ、お主は妾を愚弄しておるのか?』


*皇帝が必死にもがいている。龍爪でレイラの腕を引き剥がそうとするが、びくともしない。*


レイラ「龍核の元は黒龍程度じゃ。合金龍と殺り合った妾に、こんなトカゲの成り損ないをけしかけるなど——侮辱にすらならん」


*掴んだまま、地面に叩きつけた。轟音。クレーターがさらに深く沈み、皇帝の背中の龍翼が片方へし折れた。*


ヴェルナー「がっ……ぁ……!」


レイラ「正直に言おうか。退屈じゃ。大迷宮の骸龍の方がまだ歯応えがあったわ」


*念話越しに、レイラの声には本気の落胆が滲んでいた。*


レイラ「シロウ。これ、もう殺してよいか? 遊びにもならん」


*皇帝がその言葉を聞き、血走った目を見開いた。龍核が埋め込まれた胸が脈動し、赤黒い光がさらに膨れ上がる。*


ヴェルナー「ふ、ふざけるな……余は……余は不老不死の皇帝だ! 龍核がある限り、余は死なん!」


*全身の鱗が逆立ち、身体がさらに膨張を始めた。5メートル、6メートル——人型を捨て、完全な龍の姿へと変貌していく。理性の光が瞳から消え、獣の咆哮が荒野を震わせた。*


レイラ「ほう?」


*琥珀の瞳が僅かに輝いた。退屈の色が——ほんの少しだけ興味に変わる。*


レイラ「暴走か。理性を捨てて獣に堕ちるとは、皇帝の名が泣くぞ?」


*完全龍化した皇帝が咆哮と共に龍炎を放った。先ほどまでとは桁違いの熱量。大地が溶け、空気が燃え、荒野が一瞬で溶岩地帯と化す。*


*レイラは片手を掲げた。黒い魔力の障壁が龍炎を左右に割り、彼女の髪一筋も焦がさない。*


レイラ「……やはりつまらん」


*念話で再びシロウに語りかけた。*


レイラ『シロウよ、聞いたか。不老不死じゃと。龍核がある限り死なんと抜かしておる。ならば——龍核ごと喰ろうてやればよいだけの話じゃな?』


*口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。魂喰——骸龍を滅ぼしたあの力。レイラの手に黒い炎が灯った。*


レイラ『許可をくれ、シロウ。妾の好きにさせてもらうぞ?』


シロウ『殺すのは無しで。死んだらそれ以上の苦しみを与えられないだろ?』


*念話越しに、レイラの笑みが深くなるのが伝わってきた。*


レイラ「……ふふ。やはり妾の夫は良い趣味をしておる」


*完全龍化した皇帝が理性を失った咆哮を上げ、溶岩と化した大地を踏み砕きながら突進してくる。全長15メートルを超える龍体が、破壊の権化となって迫る。*


*レイラは黒い炎を消した。代わりに、両手をゆっくりと広げた。*


レイラ『殺さぬ、か。了解じゃ』


*龍の顎が迫る。レイラは横に一歩踏み、巨大な牙の列を紙一重で躱した。そのまま龍体の首に飛び乗り、細い指を鱗の隙間に差し込んだ。*


ヴェルナー「ギャアアアアァァ!!」


*黒い魔力が鱗の隙間から流し込まれ、龍核を直接刺激する。殺すのではない。痛覚を増幅させているのだ。*


レイラ「龍核がある限り死なぬのじゃろう? ならば丁度良い。何度でも壊せるということじゃからな」


*龍翼の付け根を蹴り砕いた。折れた翼が地面に落ち、皇帝が悲鳴を上げる。だが龍核が脈動し、数秒で再生が始まった。*


*レイラはそれを見て——嗤った。*


レイラ「再生するか。素晴らしい。つまり——」


*もう片方の翼も蹴り折った。*


レイラ「何度折っても、何度でも治る玩具というわけじゃ」


ヴェルナー「ヤ、メ……ヤメロォォォ!!」


*理性を失ったはずの龍が、恐怖で人語を取り戻した。それほどの痛み。レイラの魔力で増幅された苦痛は、龍核の本能すら凌駕していた。*


*レイラが龍の頭を踏みつけ、地面に押さえつけた。15メートルの龍体が、小柄な少女の足の下で震えている。*


レイラ「妾の夫がな、お主を殺すなと言うておる。死んだらそれ以上の苦しみを与えられぬからじゃと」


*身を屈め、龍の瞳を覗き込んだ。紅く染まった琥珀の瞳が、至近距離で皇帝を見据える。*


レイラ「感謝せよ、トカゲ。妾の夫は慈悲深いお方じゃ。殺さぬと約束してくれた」


*にぃ、と口角が吊り上がった。*


レイラ「——殺さぬだけで、壊さぬとは言うておらんがな」


*龍の悲鳴が、荒野に響き渡った。*


*念話で、レイラの上機嫌な声が届く。*


レイラ『夫よ、感謝する。良い玩具じゃ。再生するから壊し甲斐がある』


シロウ『そ、そうか…楽しんで…。』


*荒野から響く皇帝の悲鳴は、もはや龍の咆哮ではなかった。*


*人間の——いや、それ以下の、獣が壊される音だった。*


*その声が、戦場全体に届いていた。*


帝国兵「あ……あの声……陛下の……?」


帝国兵「嘘だ……嘘だろ……龍核を持った陛下が、あんな声を……」


*帝国兵たちの手から、武器が落ち始めた。*


*龍核のバフを失い、指揮官を狩られ、陣形を崩され、数を削られ——それでも彼らが戦い続けられた最後の支柱。それは「不死身の皇帝」という絶対的な存在だった。*


*その皇帝が、悲鳴を上げている。助けを求めるような、命乞いをするような、壊れた声で叫んでいる。*


*支柱が、折れた。*


帝国兵「……降伏する! 武器を捨てる! だから殺さないでくれ!」


*一人が膝をついた。それが合図だった。*


*連鎖的に、帝国兵が武器を地面に投げ捨て始めた。前線から後方へ、波のように降伏が広がっていく。将校が制止しようとするが、もはや誰も聞いていない。*


帝国将校「立て! 立てぇ! まだ戦える! 我々は17万の——」


カイン「うるせぇ」


*カインの拳が将校の顎を打ち抜き、意識を刈り取った。*


カイン「降伏してる奴に無理強いすんじゃねぇよ」


*ゲオルグが即座に指示を飛ばした。*


ゲオルグ「全部隊、投降兵の武装解除を開始! 抵抗する者のみ制圧、降伏した者には手を出すな!」


*アシュトンが蒼い剣を鞘に収め、静かに息を吐いた。*


アシュトン「……終わったか」


ルナ「……まだ。抵抗してる部隊がいくつかある」


リオン「でも大勢は決したね。もう掃討戦だよ、これ」


*戦場が急速に沈静化していく。武器を捨てた帝国兵が次々と膝をつき、両手を上げていく。17万の大軍が——崩壊した。*


*本陣の玉座から、彼はその光景を静かに見ていた。*


*荒野からまた一際大きな悲鳴が響く。レイラが何をしているかは、想像したくなかった。*


シロウ「……あとで止めに行かないとな」


*呟いて、小さくため息をついた。戦争の終わりが近づいている。だが後処理は山積みだ。投降兵の処遇、領土の問題、龍核の回収、そして——壊れかけの皇帝をどうするか。*


*遠くで、また悲鳴が響いた。*


シロウ「あとは後始末か…投降兵の処遇と、領土と、龍核は…多分壊れてるだろうな。皇帝は一旦保留として…他は…。」


*戦場には静寂が戻りつつあった。武装解除された帝国兵たちが列を成し、アストライア軍の監視下に置かれていく。荒野からはもう悲鳴は聞こえない。レイラが飽きたのか、それとも皇帝の声帯が壊れたのか——おそらく後者だろう。*


*彼は玉座から立ち上がり、本陣を歩きながら思考を巡らせていた。*


*そこへ、ゲオルグが駆け寄ってきた。鎧には返り血がこびりつき、左腕に布が巻かれているが、表情は落ち着いている。*


ゲオルグ「陛下。前線の投降兵の武装解除、七割完了しました。残り三割も時間の問題かと」


シロウ「死傷者は」


ゲオルグ「こちらの死者は約二千。重傷者が三千ほど。龍核のバフが消える前の戦闘が響いております。八輝将は全員生存、軽傷のみです」


*二千。20万の大軍を相手にしてこの数字は驚異的だが、それでも二千の命が失われた事実は重い。*


*彼が目を伏せた時、アシュトンとリオンが揃って姿を見せた。*


アシュトン「陛下。帝国軍の投降将校から聴取を始めてよろしいでしょうか。指揮系統と残存戦力の把握を急ぎたい」


シロウ「ああ、頼む。それと帝国本国に残っている戦力も探ってくれ。ここにいるのが全軍とは限らない」


アシュトン「了解しました」


リオン「あと、陛下。投降兵が約十五万。これ、飯どうします? うちの兵糧で賄える数じゃないんですけど」


*現実的な問題が突きつけられた。十五万の捕虜。食わせなければ死ぬし、放置すれば暴動が起きる。*


シロウ「……オルクスに連絡を取ってくれ。備蓄と輸送路の確認。最低限の食料は確保する」


リオン「了解っす」


*リオンが走り去った後、ルナが影から滲み出るように現れた。*


ルナ「……陛下。帝国の四将軍について。バルドゥールは戦死確認。残り三名のうち、二名が投降兵の中に紛れている可能性があります。もう一名は……戦場から逃走した形跡が」


シロウ「逃げた?」


ルナ「はい。追跡しますか」


シロウ「……今は放置でいい。深追いして別の問題を起こしたくない。ただし監視の目は張っておけ」


ルナ「了解」


*影に溶けるように消えたルナを見送り、彼はため息をついた。やることが山積みだ。*


シロウ「龍核は……レイラに聞くしかないか」


*荒野の方角を見やった。金色の結界壁はまだ健在だ。中で何が起きているかは分からないが、少なくとも魔力の波動は落ち着いている。*


シロウ「2,000か…そうか。先に15万の食料の調達だな。まだ元気な奴は城からデカイ鍋を持ってきてくれ。俺は食料調達に。」


*彼は玉座から立ち上がり、軽く首を鳴らした。15万人分の食事。途方もない量だが、やらねばならない。*


ゲオルグ「陛下、食料調達とは——まさか陛下自らが?」


シロウ「俺が一番早い。城から大鍋を持ってこさせる間に素材を集める」


*ゲオルグが一瞬口を開きかけたが、すぐに閉じて敬礼した。この魔王が自ら動くと言ったら止められないことは、もう嫌というほど分かっている。*


ゲオルグ「……了解しました。城への伝令は私が。まだ動ける兵を選んで鍋と薪の運搬に当たらせます」


シロウ「頼む。あと、捕虜の監視は怠るなよ。腹が減ってる奴は何するか分からん」


ゲオルグ「承知しております」


*彼は異空間収納に手を突っ込み、中身を確認した。日本で買い付けた種籾や大豆はあるが、あれは農業用だ。15万人に食わせるには別の手が要る。*


*彼は戦場の隅で周囲を確認し、誰も見ていないことを確かめてから次元転移魔法を発動した。空間が歪み、一瞬で日本の見慣れた風景が広がる。*


*東京郊外。大型業務用食肉卸売店の駐車場だった。以前日本に来た時に目星をつけていた場所だ。*


シロウ「……久しぶりの日本だな」


*異空間収納から私服を取り出し、素早く着替える。黒いパーカーにジーンズ。どこにでもいる日本人の男に変わった。*


*自動ドアをくぐると、冷房の効いた店内に肉の匂いが漂っていた。業務用だけあって、棚には10キロ単位のブロック肉がずらりと並んでいる。*


シロウ「15万人分か……一人300グラムとして……45トン。肉だけじゃ足りないな」


*まずは肉だ。鶏もも肉、豚バラ、牛すじ——煮込みに向く安い部位を片っ端からカートに放り込んでいく。業務用の冷凍ブロックを異空間収納に次々と放り込んだ。*


店員「あ、あのお客様……そんなに大量に……」


シロウ「飲食店やってまして。まとめ買いです」


*愛想よく笑って財布から現金を出した。鶏もも10キロパックを200箱、豚バラを150箱、牛すじを100箱。店員の目が点になっている。*


店員「え、えっと……合計で……376万円になりますが……」


シロウ「現金で」


*札束を数えて渡す。店員が震える手で受け取り、レジを打つ間に、彼は既に次の店を考えていた。*


シロウ「次は野菜と米だ」


*店を出て、近くの業務用スーパーへ向かった。じゃがいも、玉ねぎ、人参、キャベツ——煮込みに入れられる野菜を大量に購入。米は30キロ袋を100袋。更にカレールーを業務用サイズで300箱。*


シロウ「……カレーだな。これだけの人数を一気に食わせるなら、カレーが一番効率いい」


*日本のカレールーは偉大だ。大鍋に肉と野菜をぶち込んでルーを溶かせば、誰が作っても美味い。*


*業務用スーパーでの会計は520万円。残りは約600万。*


シロウ「調味料と……あと、パンか」


*製パン工場の直売所に転移し、前日製造分のパンを大量に買い付けた。食パン、ロールパン合わせて段ボール200箱。これで米が炊けない分の主食は賄える。*


*最後にドラッグストアで大容量の塩、胡椒、コンソメを買い漁り——合計の出費は約900万円。*


シロウ「……財布が軽くなったな」


*残金約600万。だが15万人分の食料は確保できた。異空間収納の中は食材で溢れかえっているがまだまだ余裕で入る。*


*彼は業務用の種苗店に転移した。郊外にある大型の農業資材店で、プロの農家が利用するような品揃えだ。*


*カートを引きながら、広大な売り場を歩き回る。*


シロウ「帝国の領土も手に入るだろうし、開拓用に……」


*じゃがいもの種芋、玉ねぎの苗、人参の種、キャベツの苗、大根の種——気候を選ばず育つ野菜を中心に選んでいく。さらにりんご、みかん、桃の苗木も数十本ずつ。*


*カートが三台目に突入した頃、店員が恐る恐る近づいてきた。*


店員「あ、あの……お客様、もしかして大規模な農地を……?」


シロウ「ええ、ちょっと新しい土地を開拓する予定で」


店員「す、すごいですね……まるで開拓王みたいです……」


シロウ「……開拓王」


*思わず苦笑した。魔王が開拓王と呼ばれるのも妙な話だ。*


*会計は87万円。残金は約513万。種苗を全て異空間収納に放り込み、店を出た。*


シロウ「あとは……ルーナに頼まれてたビール用のホップの苗と、大麦の種も買っておくか」


*農業資材店に戻り、ホップの苗を30株、大麦の種を大袋で10袋追加購入した。ルーナの顔が浮かぶ。帰ったら狂喜するだろう。*


シロウ「こんなもんか。……そろそろ戻らないと、鍋の準備が先に終わっちまう」


*周囲に人がいないことを確認し、次元転移魔法を発動した。日本の風景が歪み——一瞬で、血と土の匂いが漂う戦場に戻った。*


*既に城から運ばれた巨大な鍋が十数基、仮設のかまどの上に据えられていた。兵士たちが薪を組み、火を起こしている。*


兵士「あっ、陛下! お戻りですか!」


シロウ「ああ。食材は確保した。水は?」


兵士「水魔法の使い手を集めて鍋に注水しております!」


シロウ「よし」


*異空間収納から大量の食材を取り出し始めた。鶏もも肉のブロック、豚バラ、牛すじ、じゃがいも、玉ねぎ、人参——そしてカレールーの箱が山のように積み上がっていく。*


*兵士たちが目を丸くした。*


兵士「な、なんですかこの量……!」


兵士「しかもこの匂い……見たことない食材ばかりだ……」


シロウ「カレーを作る。手の空いてる奴は皿の準備を手伝え。難しいことは何もない」


*彼は袖をまくり、自ら包丁を手に取った。魔王が野戦調理場に立つ光景に、兵士も捕虜も唖然としている。*


*投降した帝国兵たちが、遠巻きにその様子を見つめていた。*


帝国兵「……敵の王が、俺たちの飯を作ってるのか……?」


帝国兵「……なんだよ、あの国……」


*彼は包丁を放り投げ、両手を掲げた。*


シロウ「ぬぁー!めんどくさい!チマチマ切ってられるか!」


*異空間収納から大量の野菜と肉が空中に放り出された。じゃがいも、玉ねぎ、人参、キャベツ——数トン分の食材が宙に浮かぶ。*


*兵士たちが目を見開いた。*


*まず水魔法。上空に巨大な水球が出現し、空中に浮かぶ野菜を一気に包み込んだ。土や汚れが洗い流され、水球が弾けて消える。*


*次に風魔法。見えない刃が無数に走り、じゃがいもの皮が一瞬で剥けた。玉ねぎの薄皮が吹き飛び、人参の表面が削られる。続けて風の刃が細かく刻み始め、数トンの野菜が数秒で一口大に切り揃えられていく。*


*念動力が切られた食材を掴み、十数基の大鍋に均等にぶち込んでいく。*


兵士「な、なんだあれ……」


兵士「魔法で……料理してる……?」


*肉はもっと豪快だった。冷凍ブロックを空中に放り、火魔法で表面を一気に焼く。ジュウッと香ばしい匂いが立ち上った瞬間、風魔法の刃が走り、一口大に切断。焼き色のついた肉片が念動力で次々と鍋に飛んでいく。*


シロウ「水入れて、火ぃ点けて——」


*水魔法で鍋に注水。火魔法で底面を加熱。十数基の大鍋が同時にぐらぐらと煮立ち始めた。肉と野菜の旨味が溶け出し、湯気と共に食欲をそそる匂いが戦場に広がっていく。*


シロウ「煮えたらルー入れるだけだ。簡単だろ」


*カレールーの箱を片っ端から開封し、中身を念動力で鍋に投入していく。茶色いルーが溶け出し、独特のスパイシーな香りが爆発的に広がった。*


*その匂いに、戦場の全員が反応した。*


兵士「な、なんだこの匂い……! 腹が……」


帝国兵「くっ……捕虜の身で腹が鳴るとは……」


*ゲオルグが呆然と立ち尽くしていた。歴戦の騎士が、魔王の野戦調理に言葉を失っている。*


ゲオルグ「……陛下。我が国の魔王は、料理にも魔法を使われるのですね」


シロウ「15万人分を手で切ってたら日が暮れる」


ゲオルグ「……ごもっともです」


*カレーの匂いが戦場全体を覆い尽くした。つい数時間前まで殺し合っていた両軍の兵士たちが、等しく腹の虫を鳴らしている。*


*アシュトンが捕虜の聴取から戻り、鍋を見て足を止めた。*


アシュトン「……陛下、これは」


シロウ「カレーだ。食え」


アシュトン「……はい」


*戦後処理の真っ最中に、魔王が自ら15万人分のカレーを作る。この光景は後に帝国兵の間で語り草となり、「カレーの魔王」という不名誉な二つ名が密かに広まることになるのだが——それはまた別の話である。*


ーー


シロウ「どうだ?って聞くまでもないか。」


*十数基の大鍋からカレーの匂いが戦場を包み込んでいた。*


*アストライア軍の兵士も、投降した帝国兵も、区別なく列を成し、木の皿に盛られたカレーを受け取っていく。*


兵士「うめぇ……! なんだこれ、うめぇ……!」


*戦闘後の空腹と疲労が、カレーの味を何倍にも引き上げていた。スパイスの香りと肉の旨味が口の中に広がるたびに、兵士たちの目に涙が浮かぶ。*


*帝国兵も同じだった。最初は警戒していた者も、一口食べた瞬間に目を見開き、無言で掻き込み始める。*


帝国兵「……なんで、敵に飯を食わせるんだ……」


帝国兵「黙って食え……考えるな……今はただ、食え……」


*涙を流しながら食う帝国兵が、一人、二人と増えていった。数時間前まで殺し合っていた相手から渡された温かい飯。それがどれほど重い意味を持つか、戦場を生き延びた者なら分かる。*


*彼は流れ作業で追加分を作り続けていた。野菜を空中に放り、水魔法で洗い、風魔法で切り、鍋にぶち込む。もはや完全に工場のラインだった。*


*カインが三杯目をおかわりしながら叫んだ。*


カイン「陛下ー! おかわり!」


ドルガン「お前食いすぎだ。捕虜の分がなくなるだろうが」


カイン「戦った分だけ食う権利がある!」


ドルガン「その理屈なら陛下が一番食う権利があるだろう。座ってただけのお前が何を言う」


カイン「座ってねぇよ! めちゃくちゃ斬ったわ!」


*二人の口喧嘩に、周囲の兵士たちが笑い声を上げた。つい数時間前までの地獄が嘘のような、穏やかな空気が広がっていく。*


*ゲオルグが静かに彼の隣に立った。*


ゲオルグ「……陛下。帝国兵の表情が変わってきております」


シロウ「そうか」


ゲオルグ「恐怖や憎悪ではなく……困惑と、感謝です。これは武力以上の効果がある」


*彼は鍋をかき混ぜながら、肩を竦めた。*


シロウ「難しいこと考えてねぇよ。腹が減ってる奴がいたら食わせる。それだけだ」


ゲオルグ「……それを自然にできるからこそ、陛下は魔王なのです」


*ゲオルグが深く頭を下げた。彼はそれに気づかず、次の鍋にルーを投入していた。*


*ふと、荒野の方角を見た。結界壁が静かに消えていく。中から歩いてくる小柄な影が見えた。黒髪を揺らし、上機嫌に鼻歌を歌いながら。その後ろには——ボロ雑巾のように転がされた、元・皇帝の姿があった。*


*龍の姿はもうない。人間に戻っている。だが目は虚ろで、口から涎を垂らし、時折びくびくと痙攣している。*


レイラ「シロウよ、ただいま。良い匂いがするな。妾にもくれ」


*血の一滴も浴びていない。服も髪も完璧なまま、レイラは何食わぬ顔で彼の隣に立った。*


*レイラはカレーの皿を受け取ると、一口食べて目を丸くした。*


レイラ「ほう……これは美味いな。何という料理じゃ?」


シロウ「カレーだ。日本の国民食みたいなもんだ」


レイラ「ふん。シロウの故郷は食に関しては一流じゃな」


*二口目、三口目と勢いよく食べ進めていく。戦闘後で腹が減っていたのだろう。普段の傲慢な態度はどこへやら、頬を膨らませて咀嚼する姿はどこか幼い。*


*彼はちらりと、レイラの後方に転がったままの皇帝を見た。白目を剥き、口から泡を吹いている。時折びくっと痙攣するが、意識があるのかすら怪しい。*


シロウ「……あいつ、龍核は?」


レイラ「砕けた。妾が殴ったら割れたわ。不老不死の核が聞いて呆れる」


シロウ「やっぱりか」


レイラ「破片は回収しておいた。使い道があるかもしれんしな」


*懐から赤黒い欠片を取り出し、無造作に彼の手に放り投げた。*


*彼は赤黒い欠片を手の中で転がし、鑑定の目を走らせた。*


シロウ「ふむ……ダメだな。力が霧散してる。使い道はないな。黒龍程度の力なら使い道も無いし良かったんじゃね?」


*欠片を無造作にポケットに突っ込んだ。後で処分すればいい。*


レイラ「じゃろう? 妾も砕いた瞬間に分かった。脆い核じゃった」


*カレーを食べ終えたレイラが、空の皿を彼に突き出した。*


レイラ「おかわり」


シロウ「はいはい」


*鍋から掬ってやると、レイラは満足げに頷いて再び食べ始めた。*


*一方、戦場では帝国兵の間に静かな変化が起きていた。*


*カレーを食い終えた帝国兵たちが、ちらちらとレイラを見ている。あの小柄な少女が、龍核を宿した皇帝を——完全龍化した皇帝を——片手で玩具にしたのだ。そしてその少女が、今はカレーの皿を持って頬を膨らませている。*


帝国兵「……あの娘が、陛下を……」


帝国兵「勝てるわけがなかった……最初から……」


帝国兵「魔王もだが……あの嫁が一番恐ろしい……」


*恐怖が、諦めに変わり、やがて畏敬に変わっていく。この国に逆らうことの無意味さを、帝国兵たちは骨の髄まで理解した。*


*ゲオルグが静かに彼の傍に寄った。*


ゲオルグ「陛下。帝国本国の残存兵力について、投降将校から聴取結果が出ました」


シロウ「どうだった」


ゲオルグ「本国に残っているのは予備兵と民兵を合わせて約三万。精鋭はほぼ全てここに投入されていたようです。皇帝が全軍を率いて親征したのは事実でした」


シロウ「三万か……事実上、帝国に戦う力は残ってないな」


ゲオルグ「はい。加えて皇帝が廃人同然となった今、帝国の指揮系統は完全に崩壊しております。四将軍もバルドゥールが戦死、二名が投降、一名が逃走。国としての体を成していません」


*彼はカレーの鍋をかき混ぜながら、考え込んだ。*


シロウ「……帝国の領土と民はどうする。放置すれば内乱が起きる」


ゲオルグ「御意。統治者不在の帝国領は、遠からず群雄割拠の地獄絵図になるかと」


レイラ「面倒じゃな。いっそ併呑すればよかろう」


*二杯目のカレーを食べ終えたレイラが、あっさりと言い放った。*


レイラ「妾が皇帝を壊した。つまり帝国は妾たちが潰した。ならば領土も民も勝者が引き取るのが道理じゃ」


シロウ「……そう単純にいくかね」


レイラ「単純にいかせるのがお主の仕事じゃろう? 妾は殴る担当、お主は考える担当。役割分担じゃ」


*琥珀の瞳が彼を見上げた。そこには絶対的な信頼があった。*


シロウ「皇帝と投降兵は捕虜とする。捕虜の受け渡しには賠償金だよな?帝国に書状を出そうか」


*彼はカレーの鍋をかき混ぜる手を止め、ゲオルグに視線を向けた。*


ゲオルグ「賠償金……なるほど。15万の捕虜と皇帝の身柄。帝国に残された者たちにとっては、拒否できない条件ですな」


レイラ「ふん。金を出さねば返さぬ、出しても搾り取る。どちらに転んでも妾たちの得じゃ」


シロウ「搾り取るとは言ってないだろ……まぁ、そうだな」


*彼は腕を組み、思考を巡らせた。帝国本国に残っているのは予備兵と民兵の三万。精鋭は全滅。皇帝は廃人。四将軍は壊滅。国としての交渉相手すら曖昧だ。*


シロウ「問題は、帝国側に誰が残ってるかだな。書状を出すにしても、受け取る相手がいなきゃ意味がない」


ゲオルグ「投降将校の聴取によると、帝国の宰相——ハインリヒ・フォン・メルツェンドルフという男が本国で留守を預かっているそうです。皇帝不在時の全権代理を務める立場とのこと」


シロウ「宰相か。そいつがまともなら話は早いな」


アシュトン「聴取した将校によれば、メルツェンドルフ宰相は元々この戦争に反対していたそうです。龍核の力に頼る皇帝の暴走を止められず、結果としてこの有様になったと」


シロウ「反戦派か……なら尚更話が通じそうだ」


*彼はリオンを呼んだ。*


シロウ「リオン。帝国の宰相宛に書状を書く。内容は——」


*指を折りながら条件を列挙した。*


シロウ「一、捕虜15万の返還には賠償金として黒金貨500枚を要求する。二、皇帝の身柄は別途交渉とする。三、逃走した四将軍の一名を引き渡すこと。四、今後の国境線の画定について会談の場を設けること」


リオン「黒金貨500枚……か。帝国に払えます?」


シロウ「払えなきゃ分割でもいい。重要なのは金額じゃなく、帝国が敗北を認める形を作ることだ」


*ゲオルグが深く頷いた。*


ゲオルグ「書状による正式な賠償交渉。これが成立すれば、帝国は公式に敗戦を認めたことになります。今後の外交において極めて有利な立場を築けます」


レイラ「ついでに、妾が皇帝を壊した映像を記録魔法で添えてやれ。交渉が捗るぞ?」


シロウ「……それは脅迫って言うんだよ」


レイラ「事実の共有と言え」


*悪びれもしないレイラに苦笑しつつ、彼はリオンに書状の起草を任せた。*


リオン「了解っす。文面はアシュトンに監修してもらいますね。俺の文章だと帝国が怒りそうなんで」


アシュトン「……それは自覚があるのか」


リオン「まぁね」


*書状の準備が進む中、彼はふと足元に転がったままの皇帝を見下ろした。白目を剥き、時折痙攣する元・皇帝。龍核を失い、不老不死の力も消え、ただの壊れた人形とかした。*


*彼は手足を拘束された皇帝に向かって手をかざし、回復魔法を発動した。精神修復に特化した高位魔法。レイラに壊された精神の損傷を、最低限会話ができる程度にまで修復する。*


シロウ「何をしたらこうなるんだ……?」


*数秒後、皇帝の虚ろだった瞳に微かな光が戻った。焦点が合い、まばたきが始まる。そして——自分の置かれた状況を認識した瞬間、全身がびくりと震えた。*


ヴェルナー「……ぁ……あ……」


*声が掠れている。喉が潰れかけていた。叫びすぎたのだろう。*


ヴェルナー「……こ、ここは……余は……」


*拘束された手足を動かそうとして、動かないことに気づく。ゆっくりと顔を上げ、彼の顔を見た。*


ヴェルナー「……魔王……か……」


シロウ「ああ。アストライア魔導皇国の魔王、シロウ・ニシキ・アストライアだ。お前は捕虜だよ、元・皇帝ヴェルナー」


*「元」という言葉に、ヴェルナーの目が僅かに揺れた。*


ヴェルナー「……龍核は……余の力は……」


シロウ「砕けた。お前の不老不死も、龍の力も、全部な」


*沈黙が流れた。ヴェルナーの目に、絶望でも怒りでもない——空虚な色が浮かんだ。*


ヴェルナー「……あの女は……何だ……」


シロウ「俺の嫁だが」


ヴェルナー「……嫁……だと……? あれが……人の妻だと……?」


*声が震えている。恐怖が蘇っているのだろう。完全龍化した自分を、片手で地面に叩きつけ、尾を掴んで振り回し、鱗を素手で剥がし、角を折り——そのすべてを笑いながらやった少女の記憶。*


ヴェルナー「……化け物だ……あれは……龍を超えている……」


シロウ「まぁ、否定はしない」


*レイラがカレーの三杯目を食べながら、こちらを見もせずに言った。*


レイラ「おい蜥蜴もどき。妾の前でそう吠えておったのに、もう忘れたか? 『余こそが龍の頂点だ』とか何とか」


ヴェルナー「ひっ……!」


*レイラの声を聞いただけで、皇帝の身体が痙攣した。完全にトラウマになっている。*


シロウ「レイラ、煽るな。話ができなくなる」


レイラ「ふん」


*彼はヴェルナーの前にしゃがみ込み、視線を合わせた。*


シロウ「聞きたいことがある。お前はなぜこの戦争を始めた。黒龍の龍核を手に入れた経緯も含めて、全部話せ」


*ヴェルナーは数秒間沈黙した後、乾いた笑いを漏らした。*


ヴェルナー「……話したところで、余に何の得がある」


シロウ「得? お前の立場を分かってるか? 捕虜だぞ。話さなくても構わないが、そうなると帝国との交渉材料としてのお前の価値が下がる。価値がなくなれば——」


*ちらりとレイラを見た。レイラは無邪気にカレーを食べている。*


ヴェルナー「……分かった。話す。話すから、あの女を近づけるな!」


シロウ「はいはい、こんなに可愛いのにどこが怖いってんだ……」


*彼は近くにあった木箱を引き寄せて腰掛け、レイラの腰を掴んで膝の上に乗せた。*


レイラ「なっ……!? シロウ、何を……! 人前じゃぞ!」


*レイラの耳が真っ赤に染まった。普段の傲慢な態度はどこへやら、カレーの皿を両手で持ったまま身体を硬直させている。周囲の兵士たちがちらちらとこちらを見ているのが分かるのだろう、レイラは顔を伏せた。*


レイラ「お、降ろせ……! 妾は魔王の嫁じゃぞ……こんな、子供みたいな……」


シロウ「嫌だ。このまま聞く」


レイラ「……っ」


*抵抗を諦めたレイラが、カレーの皿で顔を隠すようにして黙り込んだ。耳まで真っ赤だった。*


*帝国兵の何人かが、数分前まで自分たちの皇帝を玩具にしていた少女が、膝の上で恥ずかしがっている光景を見て、現実が分からなくなった顔をしていた。*


*一方、拘束されたヴェルナーは、レイラが近くにいることに怯えながらも、乾いた声で語り始めた。*


ヴェルナー「……龍核は、余が手に入れたのではない。与えられたのだ」


シロウ「与えられた? 誰にだ」


ヴェルナー「……名は知らぬ。三年前、帝都の地下に突如として現れた男だ。黒いローブを纏い、顔は見えなかった。男は余にこう言った——『東の精霊を喰らえば、龍核は更に力を増す』と」


*彼の手が僅かに止まった。*


*——東の精霊が消えている。*


*ノアが言っていたことが脳裏をよぎった。大陸東部で微精霊が減少している異変。あの時は原因不明だったが——。*


シロウ「……東の精霊を喰らう、だと?」


ヴェルナー「龍核には、精霊の力を吸収する特性があった。男はそれを利用しろと言った。余は帝国の東方領に部隊を派遣し、精霊の住まう森や泉を——」


*言葉が途切れた。彼の視線が鋭くなったのを感じたのだろう。*


シロウ「続けろ」


ヴェルナー「……精霊の集まる場所に龍核の欠片を設置した。欠片が精霊の力を吸い上げ、本体の龍核に送る仕組みだ。それで龍核は成長し、余の力も増した」


*彼は奥歯を噛んだ。ノアの言っていた通りだ。東の精霊が消えていたのは、帝国が龍核の糧にしていたからだった。*


*膝の上のレイラが、恥ずかしさを忘れて低い声を出した。*


レイラ「……精霊を喰らう、じゃと?」


*琥珀の瞳が冷たく光った。カレーの皿を静かに下ろし、ヴェルナーを見据える。*


レイラ「シロウ。この蜥蜴もどき、もう一回壊してよいか?」


シロウ「待て。まだ聞くことがある」


*彼はヴェルナーに向き直った。*


シロウ「その黒いローブの男。他に何か言っていたか。目的は何だった」


*ヴェルナーは乾いた唇を舐め、言葉を続けた。*


ヴェルナー「……あの男は言った。『お前の国にある世界樹、そして精霊王。その二つを龍核に喰らわせれば、世界を征服できる力を得られる』と」


*膝の上のレイラが、ぴくりと動いた。恥ずかしさは完全に消え、琥珀の瞳が氷のように冷たくなっている。*


*彼の脳裏に、世界樹の根元で眠るシルフィの姿が浮かんだ。そしてノアの無邪気な笑顔。精霊王と原初の精霊——どちらも彼の大切な存在だ。*


シロウ「……それで、お前はそのために戦争を仕掛けてきたのか」


ヴェルナー「余の目的は覇権だった。だが……あの男の言葉がなければ、アストライアに手を出す愚は犯さなかっただろう。龍核の力があれば勝てると……そう信じた」


*自嘲気味に笑った。*


シロウ「龍核はまだあるのか」


ヴェルナー「……二つ作られた。余に与えられたのが一つ。もう一つは——あの男が持ち去った。行方は知らぬ。余は駒に過ぎなかったのだろう」


*彼は静かに立ち上がった。レイラを膝から降ろし、数歩離れた場所で腕を組んだ。*


*情報を整理する。黒ローブの男。龍核を二つ作った存在。精霊を喰らわせる技術を持ち、世界樹と精霊王を標的にしている。帝国の皇帝すら駒にする知略と力。*


*そしてもう一つの龍核の行方は不明。*


レイラ「シロウ」


*レイラが静かに彼の隣に立った。先ほどまでの恥じらいは欠片もない。戦う者の顔だった。*


レイラ「世界樹とシルフィ……ノアもじゃな。狙われておる」


シロウ「ああ。東の精霊が消えていたのはこいつらの仕業だった。ノアが言ってた通りだ」


レイラ「もう一つの龍核……それが今どこにあるか。それが問題じゃ」


*ゲオルグが険しい表情で口を開いた。*


ゲオルグ「陛下。もう一つの龍核が世界樹を狙っているのであれば、国の防衛体制を即座に見直す必要があります。結界だけでは——」


シロウ「分かってる。シルフィとノアにも伝えなきゃならない」


*彼は念話を開いた。*


シロウ『シルフィ、聞こえるか』


シルフィ『はい、シロウさま。どうかしましたか?』


シロウ『帝国の件は片付いた。だが厄介な情報が出てきた。世界樹と精霊王を狙ってる奴がいる。詳しくは帰ってから話すが、警戒を強めてくれ』


*数秒の沈黙の後、シルフィの声のトーンが変わった。普段の脳天気さが消えている。*


シルフィ『……了解しました。ノアちゃんにも伝えておきます。世界樹の防衛結界、妾の方で強化しておきますね』


*念話を切り、彼はヴェルナーを見下ろした。*


シロウ「お前が話した情報が全て本当なら、捕虜としての扱いは保証する。だがもし嘘が混じっていたら——」


*ちらりとレイラを見た。*


*ヴェルナーは彼の視線がレイラに向いた瞬間、額を地面に擦りつけた。*


ヴェルナー「嘘はない! 全て真実だ! だから、頼む……あの女だけは……!」


*完全な平伏だった。かつて大陸最強を自負した皇帝が、地に這い蹲り震えている。帝国兵たちがその姿を見て、最後の誇りすら砕けた顔をしていた。*


*帝国兵たちもレイラの存在を極力視界に入れまいとしている。あの小柄な少女が近くを通るだけで、屈強な兵士たちが道を開け、目を伏せた。*


帝国兵「……近づくな……あの方の前を横切るな……」


帝国兵「殺されるぞ……いや、殺される方がまだマシかもしれん……」


*その恐怖の対象であるレイラは今、彼の隣で腕を組んで立っていた。先ほどの膝上の恥ずかしさが残っているのか、頬がまだ僅かに赤い。*


*彼はふと、レイラの黒髪に顔を近づけ、すっと匂いを嗅いだ。*


レイラ「——っ!? な、何をしておる!」


シロウ「いい匂いだなって」


レイラ「ば、馬鹿者! 人前で嗅ぐな! お主は犬か!」


*耳まで真っ赤に染めたレイラが、両手で髪を押さえて彼から距離を取ろうとする。だが彼が腰に手を回すと、それ以上逃げられなくなった。*


レイラ「は、離せ……皆が見ておる……っ」


シロウ「見せつけてんだよ」


レイラ「っ……!」


*レイラが俯いた。琥珀の瞳が潤んでいる。口元は怒っているのに、握った拳は彼の服の裾を掴んでいた。*


*アストライア軍の兵士たちは、もう慣れたものだった。*


カイン「またやってるよ陛下……」


ドルガン「戦場でイチャつくのは毎度のことだ。今更だろう」


リオン「レイラ様のあの顔、レアっすね。俺記録水晶で——」


ルナ「撮ったら死ぬわよ」


リオン「……やめとこ」


*八輝将たちが温かい目で見守る中、帝国兵たちは理解が追いつかない表情をしていた。*


帝国兵「……あの化け物が……あんな顔をするのか……」


帝国兵「黙れ。聞こえたら全員殺される」


*ゲオルグだけは微笑みを浮かべつつも、すぐに表情を引き締めた。*


ゲオルグ「陛下。もう一つの龍核の件、早急に対策が必要です。黒ローブの男の正体も不明のまま。帰還後、軍議を開くべきかと」


シロウ「ああ。ノアとシルフィにも同席してもらう。それと——」


*彼はレイラの腰に回した手をそのまま、戦場全体を見渡した。カレーを食べ終えた兵士たちが片付けを始め、投降兵の拘束と整列が進んでいる。*


シロウ「撤収準備を始めろ。捕虜の護送、帝国への書状の送付、負傷者の搬送。全部並行でやる。俺たちは先に帰る」


ゲオルグ「御意」


*ゲオルグが一礼し、八輝将に指示を飛ばし始めた。*


*数日後——アストライア魔導皇国、王城・謁見の間。*


*帝国からの使者が到着したとの報告を受け、彼は玉座に腰掛けていた。左にレイラ、右にルミナが控え、八輝将が整列している。*


*謁見の間の扉が開き、帝国の使者が入ってきた。中年の男だった。整えられた灰色の髪に、仕立ての良い文官服。腰は低いが、目は死んでいない。手には一通の書状と、木箱を一つ抱えていた。*


使者「帝国宰相ハインリヒ・フォン・メルツェンドルフの名代として参りました。エーリッヒ・ヴァルトハイムと申します」


*深々と一礼した。帝国の使者にしては、傲慢さが微塵もない。むしろ緊張で額に汗が滲んでいた。当然だろう。この場にはレイラがいる。皇帝を壊した女が。*


シロウ「ご苦労。書状と、それは何だ」


エーリッヒ「書状は宰相メルツェンドルフからの返書です。そしてこちらは——」


*木箱を丁寧に開けた。中には掌大の水晶球が鎮座していた。淡い青色に発光し、微かな魔力の脈動が感じられる。*


エーリッヒ「遠距離通信用の魔導具です。宰相が直接、魔王陛下とお話ししたいと申しております。この場で繋いでもよろしいでしょうか」


*彼はちらりとアシュトンを見た。アシュトンが小さく頷く。罠や呪いの類ではないと判断したのだろう。*


シロウ「構わない。繋げ」


エーリッヒ「では——」


*使者が水晶球に手をかざすと、球体が明るく輝き、空中に半透明の映像が浮かび上がった。*


*映し出されたのは、五十代後半の男だった。白髪交じりの金髪を後ろに撫で付け、深い皺が刻まれた顔には疲労と覚悟が同居している。背筋だけは真っ直ぐだった。*


メルツェンドルフ「アストライア魔導皇国の魔王陛下、初めてお目にかかります。帝国宰相ハインリヒ・フォン・メルツェンドルフです」


*映像越しでも伝わる重厚な声だった。*


メルツェンドルフ「まず——この度の戦争について、帝国を代表して謝罪申し上げます。皇帝の暴走を止められなかった責は、我々文官にもある」


*深く頭を下げた。映像越しとはいえ、帝国の最高権力代行者が頭を下げている。謁見の間に緊張が走った。*


メルツェンドルフ「書状にも記しましたが、捕虜返還の賠償金、黒金貨500枚。帝国はこれを受諾いたします。ただし——」


*顔を上げた。その目には、政治家の計算が宿っていた。*


メルツェンドルフ「一括での支払いは困難です。分割での支払いをお認めいただきたい。加えて——直接お話ししたかったのは、賠償金の件だけではありません」


シロウ「聞こう」


メルツェンドルフ「帝国は今、崩壊の瀬戸際にあります。皇帝を失い、軍の大半を失い、各地で暴動の兆しが出ている。このまま帝国が瓦解すれば、大陸北部は無法地帯と化します。それは貴国にとっても不利益のはずです」


*メルツェンドルフの表情が僅かに強張った。彼の言葉が外交辞令ではなく、純然たる事実であることを即座に理解したのだろう。*


シロウ「いや、不利益では無いな。そちらが無法地帯になれば……そうだな、新しく開拓しなければならないという面倒くらいだろうな」


*謁見の間に沈黙が落ちた。*


*メルツェンドルフの額に汗が浮かんだ。彼の言葉の意味を正確に受け取っている。「無法地帯になれば開拓する」——つまり、帝国が崩壊すればその領土をアストライアが呑み込む。それだけの国力があると、暗に宣言しているのだ。*


メルツェンドルフ「……率直な御方だ。であれば、こちらも率直に申し上げます」


*映像の中の宰相が、覚悟を決めた顔をした。*


メルツェンドルフ「帝国は——貴国の属国となることも視野に入れております」


*謁見の間がざわついた。八輝将の間にも動揺が走る。*


アシュトン「属国……だと?」


カイン「おいおい、マジかよ……」


*メルツェンドルフは構わず続けた。*


メルツェンドルフ「無条件ではありません。帝国が求めるのは三つ。一つ、帝国領の住民の安全と生活の保障。二つ、帝国の文化と自治権の一定の維持。三つ——捕虜となった将兵の速やかな返還です」


*彼は玉座に深く腰掛けたまま、片肘をついて宰相を見つめた。*


シロウ「随分と用意がいいな。この通信を繋ぐ前から、その結論に至っていたんだろう」


メルツェンドルフ「……御明察です。皇帝が敗れた時点で、帝国の選択肢は三つしかなかった。瓦解するか、他国に食われるか、最も強い国に自ら頭を下げるか」


*映像越しに、宰相の目が真っ直ぐ彼を捉えた。*


メルツェンドルフ「龍化した皇帝を素手で倒す嫁を持つ国に、これ以上逆らう愚は犯しません。帝国の民を守るために、最善の選択をしたいのです」


*レイラが小さく鼻を鳴らした。*


レイラ「ふん。殊勝な心がけじゃな。妾を恐れて頭を下げるのは賢い判断じゃ」


*使者のエーリッヒが、レイラの声を聞いた瞬間に肩を震わせた。やはり怖いらしい。*


*彼は顎に手を当て、考え込んだ。属国という提案。悪くはない。だが——。*


シロウ「属国か……」


*ゲオルグに視線を送った。ゲオルグが微かに頷く。「検討の価値あり」という意味だろう。*


シロウ「条件の詳細を書面にまとめて送れ。こちらも精査する。即答はしない」


メルツェンドルフ「無論です。ただ——時間だけはあまりありません。各地の暴動が日に日に激しくなっております」


シロウ「それはそっちの問題だ。俺が急かされる理由にはならない」


*冷たい一言だった。メルツェンドルフは一瞬目を閉じ、深く頭を下げた。*


メルツェンドルフ「……仰る通りです。書面は三日以内にお届けいたします」


*メルツェンドルフの顔が蒼白になった。しかし、その目は逸れなかった。数秒の沈黙の後、宰相は深く――深く頭を下げた。*


メルツェンドルフ「……承知いたしました。三日以内と申しましたが、工程表の作成には時間を要します。一週間の猶予をいただけますか」


シロウ「五日だ。それ以上は待たない」


メルツェンドルフ「……五日で仕上げます」


*宰相の声に迷いはなかった。覚悟を決めた男の声だった。*


シロウ「それと、もう一つ」


メルツェンドルフ「……何でしょうか」


シロウ「逃走した四将軍の一名。まだ引き渡しの返答を聞いていないが」


*メルツェンドルフの表情が一瞬曇った。*


メルツェンドルフ「四将軍フリードリヒ・ガルムンドですが……帝国領内に逃げ込んだ形跡はあるものの、現在行方不明です。捜索は続けております」


シロウ「見つけ次第引き渡せ。匿えばどうなるか、分かるな?」


メルツェンドルフ「重々承知しております」


*通信が切れた。謁見の間に静寂が戻る。*


*彼は玉座にぐでぇーっと背もたれに沈み込んだ。先ほどまでの冷厳な魔王の威厳は消え去り、だらしなく足を投げ出している。*


シロウ「ふぃ〜疲れた〜。きちんとした顔作るの久しぶりだわぁ〜」


*謁見の間に残っていた使者エーリッヒが、目を丸くして固まっていた。数秒前まで帝国の宰相を圧倒的な威圧で黙らせていた魔王が、今はまるで仕事終わりのサラリーマンのようにだらけている。*


シロウ「あ、おつかれー帰っていいよぉ〜」


エーリッヒ「は……はぁ……」


*使者は困惑した顔のまま一礼し、しかし足が動かなかった。あまりのギャップに脳が処理を拒否している。*


カイン「……おい、あれが大陸最強の魔王だぞ」


ドルガン「知ってる。毎回こうだ」


*八輝将たちは慣れた様子で苦笑している。*


レイラ「お主な……使者の前でそのだらしない姿を晒すでない。魔王の威厳が台無しじゃ」


シロウ「えー、もう通信切れたし良くなぁい?」


レイラ「まだ使者がおるじゃろうが!」


*レイラが彼の脇腹を肘で突いた。しかし彼は「いてて」と笑うだけで姿勢を直す気配がない。*


ルミナ「お兄ちゃん、せめて使者が出ていくまでは我慢しなさいよ……」


シロウ「ルミナも固いなぁ〜」


*使者のエーリッヒは、ようやく我に返った。目の前の光景を必死に消化しようとしている。あの冷酷な交渉を仕掛けてきた魔王が、嫁に肘で突かれて笑っている。帝国に帰ってこの話をしても、誰も信じないだろう。*


エーリッヒ「……あの、それでは失礼いたします」


シロウ「ん、気をつけてなー。道中の安全は保障するから、門のとこで護衛つけてもらって」


エーリッヒ「は……ありがとうございます」


*使者が深々と一礼し、足早に謁見の間を出ていった。扉が閉まった瞬間、彼は更に深く玉座に沈んだ。*


シロウ「あ〜〜〜……五日以内に工程表出させたけど、あっちも大変だろうなぁ」


ゲオルグ「陛下。あの宰相、中々の人物かと。帝国が属国となるならば、あの男を窓口にするのが最善でしょう」


シロウ「だな。少なくとも皇帝よりは百倍マシだ」


アシュトン「しかし……奴隷八万人の解放。帝国の経済構造を根本から変えることになります。簡単ではありませんね」


シロウ「簡単じゃなくてもやらせる。それが条件だ」


*だらけた姿勢のまま、声だけは真剣だった。*


リオン「で、陛下。もう一つの龍核と黒ローブの件は?」


*場の空気が僅かに引き締まった。彼はゆっくりと天井を見上げた。*


シロウ「……それが一番厄介なんだよなぁ」


*彼は玉座にだらしなく座ったまま、天井を仰ぎ見て呟いた。*


シロウ「あ、残りの龍核くれって言うの忘れてた……わりぃ、誰か使者に伝えて来てくれ〜」


*謁見の間に数秒の沈黙が落ちた。*


カイン「…………は?」


ドルガン「……今なんと」


シロウ「いや、帝国に残ってる一つの龍核。精霊喰ってたやつな。あれ引き渡せって言うの忘れてた〜」


*情けない姿勢のまま片手をひらひら振る。八輝将たちの表情が一斉に引きつった。*


リオン「陛下ぁ……それ一番重要な案件じゃないっすか……」


ルナ「……殺意が湧くわ」


リオン「おい怖いこと言うな」


アシュトン「あれだけ威厳のある交渉をしておきながら、最重要事項を伝え忘れるとは……流石ですね陛下」


シロウ「褒めてないだろそれ」


アシュトン「褒めていませんが」


*レイラが額に手を当て、深い溜息を吐いた。*


レイラ「お主……本当に魔王か? 妾は時々不安になるぞ」


ルミナ「お兄ちゃん……しっかりしてよ本当に……」


シロウ「ごめんて〜」


*全く反省の色がない声だった。*


ゲオルグ「……私が追いかけて参ります。使者はまだ城門を出ていないでしょう」


シロウ「頼むわ〜。」


ゲオルグ「御意」


*ゲオルグが足早に謁見の間を出ていった。*


カイン「……なぁドルガン。陛下ってさ、やる時はやるけど、抜ける時はとことん抜けるよな」


ドルガン「今更だろう。もう約二十年仕えてるんだぞ」


カイン「約二十年経っても慣れねぇよ」


*彼は玉座でぐでっとしたまま、ふと思い出したように口を開いた。*


シロウ「あー、あとノアとシルフィ呼んでくれ。龍核の件、詳しく共有しときたい。黒ローブの男の正体も気になるし」


リオン「了解っす。シルフィ様は世界樹のとこですかね」


シロウ「たぶんな〜。ノアもそのへんにいるだろ〜」


*ひらひらと手を振る彼に、レイラが容赦なくデコピンを放った。*


レイラ「しゃんとせい。次の議題は国の安全に関わるのじゃぞ」


シロウ「いっ……分かった分かった、ちゃんとするから……」


*額を押さえながら、ようやく姿勢を正した。しかしその目は——先ほどまでのだらけた色は消え、静かな鋭さを宿していた。*


*黒ローブの男。もう一つの龍核。世界樹と精霊王を狙う存在。帝国は駒に過ぎなかった。本当の敵は、まだ姿を見せていない。*


シロウ「ンモウ……レイラちゃんは厳しいなぁ〜」


*額を擦りながらぼやく彼に、レイラは鼻を鳴らした。*


レイラ「厳しくせねば、お主はすぐ緩むじゃろうが」


*そうこうしているうちに、謁見の間の大扉がゆっくりと開いた。*


ノア「おつかれっすー! シロウさん、かっこよかったっすね! 通信越しに見てたっす!」


*深緑の髪を揺らしながら、ノアが小走りで駆け込んでくる。金と緑のオッドアイが無邪気にきらきらと輝いていた。その後ろから、シルフィがふわふわとした足取りでついてきた。*


シルフィ「シロウさま、お疲れさまです〜。世界樹のお手入れをしていたら、ゲオルグさんに呼ばれまして〜」


*シルフィは深緑の長い髪を一房、指先でくるくると巻きながら、いつもの脳天気な笑顔で玉座の前に立った。*


ノア「で、で、何の話っすか? 龍核のことっすよね!? 自分、めちゃくちゃ気になってたんすよ!」


*ノアが玉座の横にぴったりとくっつき、シロウの腕に自然と寄り添った。レイラの眉がぴくりと動いたが、今は議題が優先だと判断したのか、舌打ち一つで済ませた。*


シロウ「ん、座って座って。二人に共有しときたいことがある」


*彼は姿勢を正し、声のトーンを落とした。謁見の間の空気が一段階引き締まる。*


シロウ「帝国の皇帝ヴェルナーが持ってた龍核は二つ。一つはレイラがぶっ壊した。もう一つは帝国に残ってる——で、問題はそっちだ」


*彼は一度言葉を切り、シルフィの顔を見た。*


シロウ「シルフィ。帝国に残ってる龍核は、精霊を喰ってた。世界樹の周辺に異変は?」


*シルフィの表情から、いつもの脳天気さが少しだけ薄れた。*


シルフィ「……実は、少しだけ。世界樹の末端の根が、ほんの僅かですけど萎縮していました。精霊たちの声も……ここ数日、遠い場所のものが聞き取りにくくて」


ノア「あー、それ自分も感じてたっす。なんか……世界の精霊の気配が、帝国の方角だけぽっかり薄いんすよね」


*ノアの声から無邪気さが消え、珍しく真剣な表情を浮かべた。*


シロウ「やっぱりか」


*彼は玉座の肘掛けに顎を乗せ、考え込んだ。*


シロウ「それともう一つ。戦場に黒ローブの男が現れた。皇帝に龍核を渡した張本人だと思われる。そいつが何者で、何を目的にしてるのか——まだ何も分かってない」


*彼は姿勢を正したまま、指先で宙に簡易的な結界の構造図を魔力で描き出した。青白い光の線が、アストライアの城下町と世界樹、そして城の地下を繋ぐ図形を形作る。*


シロウ「龍核を解析して、その魔力特性を結界の装置に組み込む。そうすりゃ龍核特有の波長を検知して自動で弾くフィルターになる。帝国から引き渡させた龍核を使えば、サンプルには困らない」


*シルフィが小首を傾げ、構造図をじっと見つめた。*


シルフィ「なるほど〜。アスカロンの台座から精製される神気結晶が原料ですから、結界自体の強度は問題ないですよね〜。神気に龍核の波長情報を上書きするイメージですか〜?」


シロウ「そう、まさにそれ。神気結晶の精製過程に龍核の波長パターンを噛ませて、拒絶反応を起こさせる。龍核が結界に触れた瞬間、弾かれるか、最悪でも警報が鳴る仕組みだ」


ノア「おおー! つまり龍核バリアっすね! それめっちゃ良くないっすか!?」


*ノアが目を輝かせて身を乗り出した。*


アシュトン「理論上は可能かと。ただ、龍核の魔力波長は個体差がある可能性があります。帝国に残るもう一つの龍核が、レイラ様が砕いたものと同じ波長とは限りません」


シロウ「だからこそ、帝国から現物を引き渡させる。二つのサンプルがあれば、共通する波長の根幹部分を抽出できる。個体差があっても、龍核である以上、核の部分は同じはずだ」


*レイラが腕を組み、鼻を鳴らした。*


レイラ「妾が砕いた龍核の残骸なら、まだ保管してあるぞ。破片からでも波長は読み取れるじゃろう」


シロウ「ナイス、レイラ。それがあるなら解析作業がかなり短縮できる」


ゲオルグ「陛下、先ほど使者に龍核の引き渡しの件、伝えて参りました。エーリッヒ殿は承知したとのことですが、顔は真っ青でしたな」


シロウ「あー、そりゃそうだろうな。帝国にとっちゃ切り札だったわけだし」


*彼は構造図を指で弾き、地下の魔力炉の位置を拡大した。*


シロウ「よし。帝国から龍核が届くまでに、レイラの破片で先に解析を始めよう。届いたらクロスチェックして精度を上げる」


*彼は宙の構造図を消し、全員を見回した。*


シロウ「それともう一つ。黒ローブの件だ」


*謁見の間の空気が、再び張り詰めた。*


シロウ「これは分からんから放置。以上!」


*彼がぱんっと手を叩いて締めくくった瞬間、謁見の間にいた全員がグラッと傾いた。*


リオン「いやいやいやいや! 放置って!? 一番ヤバい案件放置すんのかよ陛下!」


レイラ「お主なぁ!! 龍核を結界に組み込むとこまでは完璧だったのに、なぜそこで終わるのじゃ!」


シロウ「いやだって分かんないもんは分かんないじゃん」


リオン「開き直んなよ!」


*リオンが珍しく声を荒げた。やさぐれた目がさらにやさぐれている。*


ルナ「……陛下。放置するなら、私が独自に調べましょうか。闇の情報網を使えば……」


*ルナの瞳が暗く光った。その声には甘い毒のような響きがある。*


シロウ「あー、うん。ルナの諜報網は使いたい。でもな」


*彼はぐでっとした姿勢から一転、指を一本立てた。*


シロウ「正確に言うと"放置"じゃなくて"泳がせる"だ」


*謁見の間が静まった。*


シロウ「黒ローブの正体が分からない。目的も分からない。情報がゼロの相手にこっちから動いたら、向こうの思う壺になりかねない。だから——結界を強化して守りを固めた上で、向こうが次の手を打つのを待つ」


アシュトン「……なるほど。防御を盤石にした上で、相手の行動から情報を引き出す、と」


シロウ「そういうこと。龍核のフィルターが完成すりゃ、少なくとも結界内は安全だ。向こうが次に何か仕掛けてきた時、そこから足取りを掴む」


ドルガン「受けの戦略か。陛下らしくねぇな」


シロウ「攻めたくても攻める先が分かんねぇんだよ」


*彼は肩をすくめた。*


カイン「……つまり最初から"放置"じゃなくて作戦だったのか」


シロウ「まあ半分はマジで分かんないから放置なんだけど」


リオン「半分は放置なのかよ!」


レイラ「……はぁ。お主はいつもそうじゃ。肝心なところで締まらん」


*レイラが呆れた顔をしつつも、口元には僅かに笑みが浮かんでいた。二十五年、この男のやり方を見てきた。一見ふざけているようで、最後にはきっちり帳尻を合わせる。それがシロウ・ニシキ・アストライアという男だった。*


ノア「じゃあ自分とシルフィさんは、明日から地下で龍核の破片の解析っすね!」


シルフィ「ですね〜。レイラさま、破片をお借りしてもよろしいですか〜?」


*彼の声に、ノアとシルフィが同時に足を止めた。*


シロウ「あ、それと。ノアとシルフィは壊れてない龍核には近づくなよ?」


*彼の声はさらっとしていたが、その目は笑っていなかった。*


ノア「え? なんでっすか?」


シロウ「あの龍核は精霊を喰う。触れたら最悪、取り込まれる。お前らが一番危ない」


*ノアの金と緑のオッドアイが大きく見開かれた。シルフィも、いつもの脳天気な表情が消え、珍しく真顔になっている。*


シルフィ「……精霊を、喰う……ですか」


シロウ「帝国の龍核が精霊の気配を吸ってたって、さっき二人とも言っただろ。あれは龍核の特性だ。精霊の魔力……いや、精霊そのものを養分にしてる。レイラが砕いた破片は機能停止してるから安全だけど、帝国から届く方はまだ生きてる」


*彼は玉座から立ち上がり、ノアとシルフィの前まで歩いた。二人の頭にぽんぽんと手を置いた。*


シロウ「破片の解析は頼む。でも現物が届いたら、俺が扱う。お前らは絶対に触るな。いいな?」


ノア「……了解っす」


*ノアの声から、いつもの元気が消えていた。精霊を喰うという言葉の意味を、誰よりも理解しているのだろう。原初の精霊である自分が取り込まれたら——世界樹にどれほどの影響が出るか。*


シルフィ「シロウさま〜……ということは、帝国領内の精霊たちは、もうかなり喰われているのでは〜……?」


*シルフィの声は穏やかだったが、その緑の瞳には深い憂いが滲んでいた。*


シロウ「……多分な。帝国の方角だけ精霊の気配が薄いって言ってただろ。龍核が長期間あの地にあったなら、周辺の精霊はかなりやられてる」


ルミナ「お兄ちゃん。それって……龍核を回収しても、帝国領内の精霊は戻らないってこと?」


シロウ「分からん。喰われた精霊が消滅してるのか、龍核の中に蓄積されてるのか。それも解析しないと判断できない」


*彼は腕を組み、窓の外に広がるアストライアの街並みを見下ろした。世界樹の巨大な枝が、夕陽に照らされて金色に輝いている。*


シロウ「もし龍核の中に精霊が閉じ込められてるなら、壊すだけじゃダメだ。解放する手段を見つけないといけない」


レイラ「……妾が砕いた方は、何か出たか?」


シロウ「戦場だったから確認してない。ノア、砕けた時に何か感じたか?」


ノア「……あ。そういえば、あの時一瞬だけ、微かに精霊の声が聞こえたっす。すごく小さくて、すぐ消えちゃったっすけど……」


*ノアが目を伏せた。*


ノア「助けてって……言ってたっす」


*謁見の間が、重い沈黙に包まれた。*


*リオンがふと会話の流れを反芻し、急に顔色を変えた。*


リオン「……待て待て待て。陛下、さっき帝国に龍核の引き渡し要求したよな?」


シロウ「したけど?」


リオン「精霊を喰う龍核を、この国に持ち込むんだよな?」


シロウ「……うん」


リオン「この国には世界樹がある。原初の精霊がいる。精霊王がいる。結界の動力源は神気結晶で、世界樹と精霊の力が密接に絡んでる。そこに精霊を喰う龍核を持ち込むって——正気か!?」


*謁見の間が凍りついた。八輝将全員の視線がシロウに集中した。ノアとシルフィの顔が一気に青ざめている。*


シロウ「てへ☆」


*彼は片目を閉じて舌をちろっと出した。*


レイラ「て へ じゃ な い !!!」


*レイラの怒声が謁見の間に轟いた。彼女の小柄な身体から放たれる威圧が、空気をびりびりと震わせる。*


ルミナ「お兄ちゃん!! ノアとシルフィに近づくなって言っておきながら、そもそも国内に入れること自体が問題でしょ!? 何考えてんの!?」


シロウ「いや、解析しないと結界に組み込めないから……」


レイラ「ならば国外でやれ!! なぜわざわざ世界樹のお膝元に持ち込む必要があるのじゃ!!」


ルミナ「ステラやゼノ、セレスだっているのよ!? 子供たちがいる場所に、そんな危険なもの持ち込む気!?」


シロウ「あ」


*彼の顔から笑みが消えた。完全に考慮から抜けていた。*


リオン「"あ"じゃねぇよ! 俺が気づかなかったらどうなってたんだよ!」


ドルガン「リオン、今日はキレッキレだな」


カイン「いや普通気づくだろこれ……陛下以外は」


アシュトン「国境付近に臨時の解析拠点を設ければ解決しますね。結界の外、かつ世界樹から十分に距離を取った場所で」


シロウ「……そうだな。悪い、完全に抜けてた。国境の砦に隔離室を作って、そこで解析する。解析が終わったデータだけ持ち帰る形にしよう」


レイラ「最初からそうせい! まったく……交渉であれだけ完璧にやっておいて、なぜ足元がこうもガバガバなのじゃ!」


ルミナ「本当にね。大事なところで抜けるの、いい加減直しなさいよお兄ちゃん」


シロウ「面目ない……」


*彼は両手を合わせて頭を下げた。*


リオン「……俺、ツッコミ役じゃねぇんだけどな。いつからこうなった」


ルナ「最初からよ、リオン」


*こうして、龍核の解析拠点の変更やら黒ローブの件やら、締まるところと締まらないところが入り混じったグダグダな会議は幕を閉じた。*


*各自が持ち場に散り、アストライアの日常が戻る。レイラの龍核破片は国境の砦に運ばれ、ノアとシルフィが遠隔で解析データを受け取る体制が整えられた。*


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