↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
164/265

255

255


*彼は目を擦りながら、自分の小さな手を見つめた。まだ10歳の少年の体のままだ。*


シロウ「はぁ……戻ってないか……」


*隣では、ルーナが簀巻きのまま穏やかな寝息を立てている。拘束魔法は夜中に自動解除されていたが、ルーナは布団に包まったまま丸くなり、幸せそうな表情で眠っていた。口元が微かに緩み、小さく寝言を呟いている。*


ルーナ「……んぅ……パパ……あったかい……」


*シロウは溜息をつき、ベッドからそっと降りた。足が床に届くまでの距離が、この体の小ささを改めて実感させる。*


*窓から朝日が差し込み、ルーナの銀髪が金色に輝いている。安らかな寝顔は年相応の23歳の娘のそれだ。昨夜のオタクトークの興奮も、ショタへの葛藤も、今は夢の中に溶けている。*


シロウ「……あと6日か」


*彼は首を回し、体の調子を確認した。魔力の回復はまだ遠い。今日も一日、この体で過ごすことになる。*


*廊下から、パタパタと小さな足音が近づいてくる。*


ステラ「パパー! 朝ごはんだよー!」


*ドアの向こうからステラの声。シロウはルーナに毛布を掛け直し、部屋を出た。*


シロウ「おはよう、ステラ。」


*次の瞬間、ステラがシロウに飛びついた。12歳の少女の腕がぎゅっと彼を包み込む。シロウの頭がステラの肩あたりに収まる形になった。*


ステラ「パパおはよう! ……ふふ、パパちっちゃい」


*ステラが嬉しそうにシロウの頭を撫でた。普段は撫でられる側の彼女が、今は完全に「お姉ちゃん」の立ち位置だ。*


シロウ「……お前に見下ろされる日が来るとはな」


ステラ「えへへ。なんかね、弟ができたみたいで嬉しい」


*ステラが満面の笑みを浮かべながら、シロウの手を握った。その手は彼より一回り大きい。*


ステラ「ねぇパパ、今日はステラが守ってあげるね! 危ないところ行っちゃダメだよ?」


シロウ「いや、俺は別に弱くなったわけじゃ……」


ステラ「ダーメ! ちっちゃい子は大人しくしてるの! 朝ごはん、ステラが取り分けてあげるから!」


*ステラがシロウの手を引いて食堂へ向かう。廊下を歩く二人を見たメイドたちが、微笑ましそうに視線を送った。*


*食堂に着くと、既にゼノとセレスが席についていた。ゼノが本から顔を上げ、シロウを見て目を瞬かせた。*


ゼノ「……パパ、まだ戻ってないんだね」


セレス「……」


*セレスが無表情のまま、自分の隣の椅子をぽんぽんと叩いた。「ここに座れ」という無言の主張だ。*


シロウ「弟って……ゼノがいるだろう……」


*彼はセレスの隣に座った。椅子が少し高く、足がぶらぶらと揺れる。*


ステラ「ゼノは弟! パパは今ちっちゃいから弟みたいなの! 別枠!」


*ステラが胸を張って言い切った。彼女なりの理論らしい。*


ゼノ「……姉さん、パパは弟じゃないよ。見た目が変わっただけで……」


*ゼノが本を閉じ、呆れたようにステラを見た。だが、その視線がシロウに移ると、少しだけ口元が緩んだ。*


ゼノ「……でも、確かに今のパパは僕より小さいね」


*セレスが無言でシロウの皿に、トーストとスクランブルエッグを取り分けた。普段より多い。さらにジャムを塗り、丁寧にカットまでしている。*


シロウ「……セレス、俺は自分で……」


セレス「……小さい。届かない」


*彼女が無表情のまま、テーブル中央のジャム瓶を指差した。確かに、今の体では少し遠い。*


ステラ「あ! ステラもパパにやってあげる! はい、牛乳!」


ゼノ「パパ、フォークこっちの方が持ちやすいんじゃない? 小さいやつ」


*三人が競うようにシロウの世話を焼き始めた。完全に「ちっちゃい子を甘やかす」モードに入っている。*


シロウ「……俺、お前らの父親だからな?」


ステラ・ゼノ・セレス「「「……」」」


*三人が顔を見合わせ、全く聞いていない笑顔を返した。*


*セレスがシロウの隣で、小さなフォークにスクランブルエッグを刺し、シロウの口元に差し出していた。*


シロウ「いや、セレス。自分で食えるから……」


*セレスが無表情のまま、フォークを引っ込めない。金色の瞳がじっとシロウを見つめている。*


セレス「……あーん」


シロウ「……」


ステラ「あ! セレスずるい! ステラもやる! パパ、はい、あーん!」


*反対側からステラがトーストの欠片を差し出した。挟まれた形のシロウが溜息をつく。*


ゼノ「……二人とも、パパ困ってるよ」


*ゼノが本を開きながら冷静にツッコむ。だが、彼の皿の隣には小さめのコップに注がれた牛乳が置いてある。明らかにシロウ用に用意したものだ。*


シロウ「ゼノ、お前もか……」


ゼノ「……別に。たまたま余っただけ」


*目を逸らすゼノ。全員バレバレだった。*


*セレスが再びフォークを差し出す。無言の圧。シロウは観念して口を開けた。*


セレス「……ん」


*セレスの口角が、ほんの1ミリだけ上がった。*


ステラ「次ステラ! 次ステラの番ね!」


シロウ「お前ら……あと6日もこれ続ける気か……?」


ステラ・セレス「「……(こくこく)」」


*満場一致だった。シロウは天井を仰いだ。*


*朝食を終え、シロウが食器を片付けようとした時——食堂の扉が勢いよく開いた。*


レイ「シロー! おはよ!」


*黒髪ロングの小柄な少女が駆け込んできた。琥珀色の瞳がシロウを捉え、一瞬で輝きが増す。*


レイ「……あ」


*レイがシロウの前で立ち止まった。見下ろす形になっている。普段はシロウを見上げていた彼女が、今は完全に上から。*


シロウ「またややこしいことに……」


レイ「シロー……ちっちゃい……ちっちゃいシロー……」


*レイの目がきらきらと輝き始めた。両手を伸ばし、シロウの脇の下に手を差し込む。*


シロウ「おい、レイ——」


レイ「たかいたかーい♪」


*ひょいっと持ち上げられた。10歳の体は軽い。レイが満面の笑みでシロウを抱き上げ、くるくると回った。*


レイ「わー♪ シローが軽い♪ ボクより小さい♪ かわいい♪」


シロウ「下ろせ……! 下ろしてくれ……!」


レイ「やーだ♪」


*レイがシロウを胸に抱きかかえ、頬ずりを始めた。完全にぬいぐるみ扱いだ。*


ステラ「あ! レイお母様ずるい! ステラもパパ抱っこしたい!」


セレス「……次」


*子供たちが群がり始める。シロウは天井を仰いだ。*


*レイがシロウを抱えてくるくると回っている最中、食堂の扉が静かに開いた。*


ルミナ「……朝から騒がしいわね」


*銀髪の美女が冷たい目でレイを見つめた。その手がすっとシロウに伸び、レイの腕からひょいと引き抜いた。*


レイ「あっ! ルミナずるい! ボクのシロー返して!」


ルミナ「あなたのじゃないでしょ。お兄ちゃんは皆のよ」


*ルミナがシロウを自分の胸に抱き寄せた。10歳の体はすっぽりと彼女の腕の中に収まる。シルバーの髪がさらりとシロウの頬に触れた。*


シロウ「ルミナ、助かった……」


ルミナ「……ふふ。お兄ちゃん、小さいと守りがいがあるわ」


*彼女の声がいつもより甘い。金色の瞳が蕩けるように細められ、シロウの黒髪を指で梳いた。*


シロウ「……お前もか」


ルミナ「私は違うわ。ちゃんと保護してるだけ。あの人たちみたいに玩具扱いしてないもの」


*そう言いながらも、離す気配は全くない。むしろ腕に力が入っている。*


レイ「ルミナ独り占めダメー!」


ステラ「パパー! こっち来てー!」


セレス「……」(じーっとルミナを見ている)


*シロウは溜息をついた。朝食の時間はまだ終わらないらしい。*


シロウ「あーもう!」


*彼は苛立ちを込めて転移魔法を発動した。一瞬で食堂から自室へと移動する。*


*静寂。ようやく一人になれた。*


シロウ「……はぁ」


*自室のベッドに腰掛け、短い足をぶらぶらさせながら溜息をついた。鏡に映る自分は相変わらず10歳の少年だ。黒髪黒目、あどけない顔。44歳のSSランク冒険者には到底見えない。*


シロウ「玩具扱いすんのやめてくれ……マジで……」


*ドンドンドン。自室の扉が叩かれた。*


レイ「シロー! 逃げないでよー! ボクまだ抱っこしてないー!」


ステラ「パパー! 開けてー!」


*扉の向こうから複数の声が聞こえる。シロウは即座に鍵をかけた。*


シロウ「……入室禁止」


*彼は結界魔法を扉に重ね掛けした。念には念を入れる。*


*しばらくドアの向こうで「えー!」「ずるい!」と声が上がっていたが、やがてパタパタと足音が遠ざかっていった。*


*彼は天井を見上げ、もう一度深い溜息をついた。窓から差し込む朝日が、小さな体を照らしている。*


*コンコン。今度は控えめなノック。*


リーシア「シロウ様。お茶をお持ちしました」


シロウ「今は要らん」


*扉の向こうでリーシアの気配が一瞬止まった。*


リーシア「……かしこまりました。何かございましたらお呼びください」


*足音が静かに遠ざかっていく。シロウは安堵の息を漏らし、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。小さな体が沈み込む。*


シロウ「……疲れた。朝飯食っただけなのに……」


*彼は天井を見つめながら、今後の6日間を思った。このままだと毎朝あの争奪戦が繰り広げられる。レイの高い高い、ステラの世話焼き、セレスの無言の圧、そしてルーナの危うい理性。*


シロウ「……仕事でもするか」


*彼はベッドから降り、デスクに向かった。椅子に座ると顎がぎりぎりデスクの高さだ。書類を読もうにも、目線が低すぎる。*


シロウ「……クッション」


*彼はクッションを二枚重ねて椅子に置き、ようやくまともな高さになった。ペンを握ると、手が小さすぎて普段の筆跡が出ない。丸っこい文字が羊皮紙の上に並んだ。*


シロウ「……字まで変わるのかよ」


*彼はペンを置き、額に手を当てた。小さな手が額を覆いきれない。*


シロウ「外出るか……いや、この姿で外出たら誰だか分からねぇな。逆に好都合か……?」


*ふと、一つの考えが浮かんだ。この姿なら、誰にも気づかれずに街を歩ける。魔王シロウとしてではなく、ただの少年として。*


シロウ「久しぶりに国を見て回るか…」


*彼は結界魔法を解除し、窓から城下町を見下ろした。25年かけて築き上げた国。人間、エルフ、ドワーフ、獣人、魔族、竜人、鬼族——様々な種族が行き交う街並みが朝日に照らされている。*


*鏡を見ると、どこにでもいそうな黒髪の少年が映っている。完璧な変装だ。*


*転移魔法で城下町の路地裏に降り立った。途端に喧騒が耳に飛び込んでくる。市場の呼び込み、子供たちの笑い声、荷車の車輪が石畳を転がる音。*


*大通りに出た。人々の目線が高い。普段は見上げられる側だったのに、今は全員を見上げる形だ。*


商人「坊ちゃん、果物いらんかね? 今日は火竜桃が安いよ!」


*露店の商人が気さくに声をかけてくる。シロウの正体など誰も気づかない。*


シロウ「……いや、大丈夫」


商人「そうかい。迷子じゃないだろうね? お母さんは?」


シロウ「……迷子じゃねぇよ」


*商人が笑って手を振った。シロウは少し複雑な顔をしながら、大通りを歩き始めた。世界樹の巨大な枝が空を覆い、木漏れ日が街を優しく照らしている。活気のある朝の城下町——自分の国の日常を、少年の目線で見上げるのは不思議な感覚だった。*


*彼は城下町の大通りをゆっくりと歩いた。10歳の目線から見る自分の国は、新鮮な景色に溢れている。*


*最初に目に留まったのは、獣人の女性が営む焼き串の屋台だった。香ばしい匂いが漂い、朝から行列ができている。*


屋台の女性「はいよ、火竜肉の串焼き一本銅貨3枚! 坊や、食べてく?」


*シロウは首を横に振り、次の露店へ向かった。*


*雑貨屋、武器屋、ポーション屋、布地屋——様々な露店が軒を連ねている。ドワーフの鍛冶師が即席で刃物を研ぎ、エルフの薬師がハーブの束を並べ、人間の商人が革鎧を売り込んでいる。種族の壁なく商売が成り立っている光景に、シロウは少しだけ口元を緩めた。*


シロウ「……ちゃんと回ってんな」


*彼が宝飾品の露店の前で足を止めた。ガラスケースの中に、淡い光を放つ石が並んでいる。*


露店主「おや、坊や。綺麗だろう? これは星光石っていってな、夜になると星みたいに光るんだ」


*髪飾りに加工されたものが目に入った。銀の台座に小さな星光石が三つ嵌められた可憐なデザイン。*


露店主「それは銀貨5枚。お母さんへのプレゼントかい?」


シロウ「……娘に」


露店主「はは! 坊やが娘に? 妹さんだろう? まぁいいや、おまけしとくよ。銀貨4枚でいい」


*シロウは異空間収納から銀貨4枚を取り出し、髪飾りを購入した。ステラが喜びそうだ。*


*その時——大通りの奥から、甲高い悲鳴が響いた。*


女性「きゃあぁぁ! 盗賊よ!」


*人々がざわめき、逃げ惑い始める。シロウの目が鋭くなった。*


*彼はこっそりと地面に手を向け、小さく詠唱した。盗賊の逃走経路に泥濘が広がり、男の足がずるりと滑った。*


盗賊「うおっ!?」


*どしゃっと派手に転倒した盗賊に、すぐさま衛兵が駆けつけた。*


衛兵「動くな! 御用だ!」


*二人の衛兵が盗賊を取り押さえ、縄で拘束した。周囲から歓声と安堵の声が上がる。誰もシロウが何かしたとは気づいていない。彼はそっと路地の壁にもたれ、満足げに頷いた。*


シロウ「……よし」


*彼は歩きながら考えた。この姿で話す時、普段の口調だと違和感がある。10歳の少年が「俺」で大人びた話し方をしていたら目立つ。*


シロウ「……僕、とか? いや、気持ち悪ぃな……。でもまぁ、誰かに話しかけられた時だけ変えりゃいいか」


*彼は市場の奥へと歩き進めた。衛兵に取り囲まれた盗賊を横目に、野次馬たちが噂話を始めている。*


野次馬A「急に転んだな、あの盗賊」


野次馬B「地面が濡れてたんだろ。運がなかったな」


*大通りの先にある冒険者ギルド支部が見えた。懐かしい場所だ。*


シロウ「……ちょっと覗いてくか」


*彼は冒険者ギルド支部の重い木製の扉を押し開けた。10歳の体では、普段なら片手で軽く開ける扉がやけに重い。身体強化を常時展開し、ようやくまともに動ける程度になった。*


シロウ「……こんなに違うもんか」


*ギルド内は朝の活気に満ちていた。冒険者たちが依頼掲示板の前で品定めをし、酒場スペースでは遅い朝食を摂る者たちがいる。受付嬢が忙しそうにカウンターで対応している。*


*シロウが入った瞬間、数人の冒険者がちらりと視線を向けた。すぐに興味を失ったように視線を戻す。ただの迷い込んだ子供だと思ったのだろう。*


冒険者A「おい、ガキが入ってきたぞ」


冒険者B「迷子か? まぁ放っとけ」


*彼は気にせず掲示板に近づいた。目線が低いので、下の方の依頼書しか読めない。背伸びしても上段には届かない。*


シロウ「…………」


*小さな舌打ちが漏れた。自分が建てた国の、自分が設立したギルド支部で、掲示板すら満足に見られない屈辱。*


*その時、隣から長い腕が伸びてきて、上段の依頼書を一枚取った。見上げると、猫耳の獣人の女性冒険者がシロウを見下ろしていた。*


獣人の女性「坊や、冒険者志望? まだ早いんじゃない?」


*にこりと笑いかけてくる。首からBランクのプレートが下がっている。*


*ミラは「おーひさま」という言葉に一瞬首を傾げたが、すぐに理解したようだ。*


ミラ「王妃様のこと? どっちの王妃様?」


*シロウが曖昧に首を傾げると、ミラは指を立てて語り始めた。*


ミラ「えーっとね、まずルミナ様。銀髪の美しいお方で、魔法がとんでもないの。大迷宮で上位階層まで単独で行けるって噂よ。あたしなんか50階層で命からがらだったのに」


冒険者C「レイラ様は武の方だな。あの方が本気出すと大地が割れるって話だ。実際にアークライト聖王国を——」


*男は声を潜めた。*


冒険者C「——単身で滅ぼしたって噂がある。まぁ公式にはいろいろあるが……」


ミラ「あとレイ様もいるわよ。レイラ様にそっくりだけど、すっごく気さくなお方で、たまに市場で買い食いしてるの見かけるわ」


*ミラは再びしゃがんでシロウの頭をぽんぽんと撫でた。*


ミラ「坊やも大きくなったら冒険者になれるよ。この国は種族も年齢も関係なく、実力さえあれば認めてくれるからね。」


*周囲の冒険者たちも何気なくシロウを見ている。迷子の子供が冒険者ギルドに一人でいれば、心配するのは当然だった。*


*ミラは目を輝かせた。冒険者として子供に自分の経験を語れる機会を楽しんでいるようだ。*


ミラ「迷宮っていうのはね、この街の外れにある巨大なダンジョンのことよ。地下100階層まであって、下に行けば行くほどモンスターが強くなるの」


*彼女はカウンターの方を指差した。壁に大きな地図が貼られており、迷宮の断面図が描かれている。*


ミラ「あたしたち冒険者は、そこに潜ってモンスターを倒したり、お宝を持ち帰ったりするのがお仕事。坊やも見たことない? 街の東の方にでっかい入り口があるでしょ」


冒険者C「80階層より下はSランク以上じゃないと行けねぇ。つまり実質、魔王陛下くらいしか行けねぇってことだ」


ミラ「あたしの最高は50階層。あそこでキメラに追い回されて、もう二度と行くかって思ったわ……」


*彼女はぶるっと身震いした。猫耳が伏せられる。*


ミラ「坊や、名前は? お家の人はどこ? こんな朝から一人で歩いてるの、危ないよ?」


*彼女の声に心配の色が混じった。Bランク冒険者でありながら、面倒見の良い性格らしい。周囲の冒険者も何となくシロウを気にかけている。*


「だいじょぶ!かえれる!」


*ミラは少し心配そうな顔をしたが、シロウの真っ直ぐな目を見て、やがて苦笑した。*


ミラ「……そう? しっかりした子ね。まぁ、この国は治安いいから大丈夫だとは思うけど」


*彼女は立ち上がり、腰に手を当てた。*


ミラ「でも何かあったら衛兵さんに声かけなよ。あと、東の大通り沿いに駄菓子屋あるから、寄ってみな。おばあちゃんが優しいよ」


「うん! ありがとー!」


*ミラに手を振って、彼はギルドを出た。少年らしい喋り方は思ったより疲れる。だが、国民が自分の国を誇りに思っている様子を直に聞けたのは良かった。*


*大通りを歩いていると、ふと路地の奥に人だかりが見えた。*


「……?」


*覗き込むと、数人の子供たちが円陣を組んでいる。その中心で、一人の小さな獣人の少女が座り込んで泣いていた。犬耳がぺたんと伏せられ、薄汚れた服を着ている。周りの子供たちが何やら囃し立てている。*


子供A「おまえんち貧乏だろー!」


子供B「くっせー! あっち行けよ!」


*獣人の少女はぎゅっと膝を抱え、小さく震えていた。尻尾が体に巻きつくように丸まっている。*


*シロウの足が自然と、そちらに向かった。*


*彼は足を止め、小さな眉を寄せた。*


シロウ「……スラムは潰した。住居支援も福祉制度も整えたはずだ。それでも貧困は完全には消えねぇか……」


*獣人の少女は5、6歳ほどだろうか。服は破れてはいないが、何度も洗って色褪せている。栄養状態も良くはなさそうだ。*


子供C「奴隷のくせにこっち来んなよー!」


*その言葉にシロウの目が鋭くなった。*


シロウ「……奴隷?」


*この国では奴隷制度は廃止している。建国時に真っ先に法で禁じた。にもかかわらず「奴隷」という言葉が子供の口から出てくるということは——*


*彼は子供たちの輪に近づいた。*


シロウ「ねぇ、なにしてるの?」


*子供たちがシロウを振り返った。見知らぬ黒髪の少年に、一瞬怯んだ。*


子供A「……なんだよ、おまえ。関係ないだろ」


シロウ「その子、どうしたの? どれいってなに?」


子供B「こいつんち、借金あるんだって。親が言ってた。うちの親に金借りてるから、奴隷みたいなもんだって」


*シロウは内心で舌打ちした。法律上の奴隷は存在しなくても、社会的な隷属関係は生まれるということか。子供たちは親の言葉をそのまま真似しているに過ぎない。*


*獣人の少女がシロウを見上げた。涙で濡れた琥珀色の瞳が揺れている。犬耳がぺたりと伏せられたまま。*


「奴隷はこの国禁止にしてた気がするんだけど?」

「もしかして犯罪者?衛兵呼んでこようか?」


*子供たちの顔が一瞬で青ざめた。「衛兵」という言葉の威力は絶大だ。*


子供A「え……い、いや、別にそういうんじゃ……」


子供B「お、俺たちただ遊んでただけだし!」


シロウ「ふーん。でもこの国で奴隷って言ったら犯罪だよね? パパとママが言ってたんでしょ? それ、衛兵さんに言ったらパパとママ捕まっちゃうかもよ?」


*にっこりと、無邪気な笑顔で言った。しかしその目は笑っていない。子供たちは本能的に何かを察したのか、顔を見合わせた。*


子供C「……い、行こうぜ!」


*三人は蜘蛛の子を散らすように走り去った。残されたのは、膝を抱えて震えている獣人の少女だけだ。*


*シロウはゆっくりとしゃがみ込み、少女の目線に合わせた。犬耳がびくりと震えた。琥珀色の瞳に涙が溜まっている。年は6歳くらいだろうか。薄茶色の髪に、同じ色の垂れた犬耳と尻尾。*


シロウ「もう大丈夫だよ。怪我してない?」


*少女はおずおずと顔を上げた。シロウの顔を見て、少しだけ耳が持ち上がった。*


少女「……うぅ……ひっく……だい、じょぶ……」


シロウ「お家どこ? 一人?」


少女「……おかあさん、おしごと……」


*彼は内心で考えを巡らせた。子供が言った「借金」という言葉。この国に奴隷制度はなくとも、高利貸しによる実質的な隷属は起こり得る。法の穴だ。*


「おとうさんは?」


*少女の犬耳がさらに伏せられた。尻尾が体に巻きつくように丸まる。*


少女「……おとうさん、いない……」


*それだけ言って、少女は俯いた。それ以上は聞けない空気だった。死別か、蒸発か——どちらにせよ、母子家庭で借金を抱えているという状況が浮かび上がる。*


シロウ「……そっか。ごめんね」


*彼は異空間収納からハンカチを取り出し、少女の涙を拭いた。少女はびくりと肩を跳ねさせたが、やがておずおずと顔を上げた。*


少女「……ありがとう……」


シロウ「お名前は?」


少女「……ポプラ」


シロウ「ポプラちゃんか。僕はえーっと……シロ」


*本名を出すわけにもいかず、咄嗟に縮めた。ポプラの琥珀色の瞳が少しだけ輝いた。*


ポプラ「シロ……おにいちゃん?」


シロウ「……うん、まぁ」


*彼は立ち上がり、ポプラに手を差し伸べた。*


シロウ「お母さんのお仕事、どこか知ってる?」


ポプラ「……うん。お洗濯のおしごと……東のお屋敷……」


*シロウは内心で整理した。母親は屋敷の洗濯女中。父親不在。借金がある。高利貸しの相手は先ほどの子供たちの親——おそらく金を持った商人あたりだろう。法の目をかいくぐった実質的な隷属関係。*


「そっか。おうちかえれる?」


*ポプラは小さく頷いた。だが、その表情はどこか不安げだ。*


ポプラ「……うん。でも……あの子たち、いつもいじめてくるの……おうちのちかくにいるから……」


*シロウは内心で眉を顰めた。近所の子供による日常的ないじめ。親が「うちに借金してるから奴隷みたいなもの」と子供に吹き込んでいる。根本的な問題は親の方だ。*


シロウ「そっか……。じゃあ、途中まで一緒に行こうか?」


ポプラ「……いいの?」


*琥珀色の瞳が少しだけ明るくなった。垂れた犬耳がほんの少し持ち上がる。*


シロウ「うん。僕、暇だし」


*ポプラがおずおずと立ち上がり、シロウの隣に並んだ。彼の方が少し背が高い。二人で路地を抜け、大通りに出た。*


*歩きながら、シロウは考えていた。*


シロウ「……(高利貸しか。法律では禁止してないが、利率の上限は設けてあるはずだ。もし違法な利率で貸し付けてるなら——取り締まれる。あとで調べさせるか)」


ポプラ「シロおにいちゃん、どこの子? 見たことない……」


シロウ「えっと……遠くから来たんだ。この街、大きくてすごいね」


ポプラ「うん……ポプラ、この街すき。おかあさんも、ここに来てよかったって……」


*ポプラが小さく微笑んだ。その笑顔を見て、シロウは心の中で決めた。帰ったらオルクスに命じて、高利貸しの実態調査をさせよう。自分の国で、こんな思いをする子供がいてはいけない。*


「前はどこにいたの?」


*ポプラの足が一瞬止まった。犬耳がぴくりと動き、少し考え込むような顔をした。*


ポプラ「……えっとね、むかし、べつのくにに住んでたの」


*ポプラは小さな手で自分の犬耳を触りながら、ぽつぽつと話し始めた。*


ポプラ「おとうさんがね……おしごとでけがして、動けなくなって……それで、お薬のお金がいっぱいいるって……」


*彼女の声が小さくなっていく。*


ポプラ「おとうさん、ポプラたちのために頑張ったのに……お空に行っちゃった。それで、おかあさんが『あの国に行けば大丈夫』って……」


*シロウは黙って聞いていた。夜天のアストライア魔導皇国は、他国から見れば希望の地だ。種族差別がなく、福祉制度が整い、仕事もある。流入してくる移民は年々増えている。*


ポプラ「この街に来てからね、おかあさん、毎日おしごとしてる。でも……おとうさんのお薬代、まだ返せてないって……」


*つまり他国で作った借金を、この国まで追いかけてきた高利貸しがいるということだ。シロウの目が僅かに細まった。*


シロウ「……(他国の債権者がうちの国民を食い物にしてるのか。……法整備が甘かったな)」


ポプラ「シロおにいちゃん? どうしたの?」


シロウ「……ううん、なんでもない。ポプラちゃんのおかあさん、頑張り屋さんだね」


*ポプラがぱっと笑った。尻尾がぶんぶんと揺れる。*


ポプラ「うん! おかあさん、すっごくやさしいの!」


「さっきの3人はこの近くに住んでるの?」


*ポプラの顔がぱっと明るくなった。尻尾がぶんぶんと揺れる。*


ポプラ「えへへ! これね、おかあさんとポプラで植えたの! おとうさんが好きだったお花なんだって」


*小さな花壇には、青い小花が丁寧に並んでいた。質素な長屋だが、手入れが行き届いている。母親の几帳面さが伝わってくる。*


ポプラ「シロおにいちゃん、ありがとう。あの子たち追い払ってくれて……」


*彼女はもじもじと裾を握りしめた。*


ポプラ「……また、会える?」


*琥珀色の瞳が不安げに見上げてくる。犬耳がぴくぴくと揺れた。*


シロウ「うん、また来るよ。ポプラちゃん、お母さん帰ってくるまで家にいるんだよ」


ポプラ「うん! 約束!」


*小さな小指が差し出された。シロウは少し目を細め、自分の小指を絡ませた。*


ポプラ「ゆびきりげんまん……えっと、この続きなんだっけ」


シロウ「嘘ついたら針千本飲ます」


ポプラ「はりせんぼんのーます! ゆびきった!」


*ポプラは満面の笑みで手を振り、長屋の中に入っていった。扉が閉まるのを見届け、シロウは踵を返した。*


*彼の視線がトムソン金貸しの商家に向いた。二階の窓から、恰幅の良い男がこちらを見ている気がした。*


シロウ「……(帰ったら即オルクスに調査命令。あと、移民の債務問題に関する法整備も急がせる。あの子をこれ以上泣かせるわけにはいかない)」


*彼は転移魔法で城に戻り、すぐさま執務室に向かった。小さな体で廊下を歩くと、すれ違うメイドたちが不思議そうな顔をするが、シロウが軽く手を上げると慌てて頭を下げる。ショタ姿でも魔力は隠しきれないらしい。*


*執務室の扉を開けると、オルクスが書類の山と格闘していた。痩せ型の中年男は、入ってきた少年の姿に一瞬目を瞬かせた。*


オルクス「……陛下、でございますね。そのお姿にはまだ慣れませんが」


シロウ「悪いな。で、本題だ。移民問題はどうなっている?」


*オルクスはすぐに表情を引き締め、書類を一枚引き抜いた。*


オルクス「移民の受け入れ数は昨年比で約15%増加しております。特に周辺諸国からの流入が多く、住居支援制度は概ね機能しておりますが……」


*彼は眼鏡を押し上げた。*


オルクス「問題は、他国で作った債務を抱えたまま移住してくる者が増えている点です。我が国の法では奴隷制度を禁じておりますが、他国の債権者が合法的な『取り立て』として入国し、事実上の隷属関係を強いるケースが報告されております」


シロウ「何件だ」


オルクス「把握しているだけで……32件。実際はもっとあるかと」


*シロウの目が鋭くなった。椅子に座ると——クッションがない。オルクスが素早くクッションを二枚重ねて差し出した。*


シロウ「……ありがとう。それと、城下町の東区画にある『トムソン金貸し』を洗え。他国の債権を買い叩いて移民を食い物にしている可能性がある」


オルクス「トムソン……承知いたしました。直ちに調査を」


シロウ「移民用居住区は足りてるか?」


*オルクスは別の書類束を引き出し、ページをめくった。*


オルクス「居住区についてですが……現状、第一から第七区画までの移民用居住区の稼働率は約87%です。第七区画が昨年増設されたばかりですが、このペースですと半年以内に満杯になる見込みです」


*彼は地図を広げ、城下町の外縁部を指差した。*


オルクス「第八区画の建設計画は既に図面段階まで進んでおります。ただ、予算の承認が……」


シロウ「通せ。予算は問題ない」


オルクス「承知いたしました。それと、居住区の問題は住居だけではございません。移民が増えるに従い、子供の教育施設が不足しております。現在、東区画の学舎は定員の1.5倍を抱えている状態です」


*シロウは椅子の上で小さな腕を組んだ。10歳の体で威厳を出すのは難しいが、オルクスは微塵も態度を変えない。*


シロウ「学舎の増設もだ。あと、さっきのトムソンの件——他国の債権者が入国して取り立てを行う場合の法的規制を調べてくれ。必要なら新法を起草する」


オルクス「他国債務の国内取り立てに関する規制、ですか。現行法では……明確な禁止条項はございません。商取引の自由の範囲内と解釈されております」


シロウ「そこが穴だ。移民保護法の改正案を作れ。他国で発生した債務について、利率の上限と取り立て方法の制限を設ける。違反者には国外追放と資産凍結」


オルクス「……陛下、商人ギルドからの反発が予想されますが」


シロウ「構わない。俺の国で子供が泣いてるんだ。商人の顔色なんか知るか」


*オルクスは一瞬目を見開き、それから深く頷いた。*


オルクス「……御意。直ちに草案を作成いたします」


シロウ「半年で埋まるか…どうなってんだこの世界は…」


*オルクスは重々しく頷いた。*


オルクス「はい。周辺諸国の情勢が年々悪化しております。特にここ数年は——」


*彼は壁に掛けられた大陸地図を指し示した。*


オルクス「北のガルディア帝国では増税が続き、南のメルヴィア王国では獣人への迫害が激化。東のアークライト聖王国は……既に廃墟ですので、そこからの難民も未だ流入しております」


*シロウは小さな手で額を押さえた。*


シロウ「……つまりうちの国が唯一のまともな受け皿になってるってことか」


オルクス「左様です。種族差別がなく、福祉が整い、迷宮経済で仕事がある。他国の民から見れば理想郷に映るのでしょう。しかし、受け入れ能力には限界がございます」


*彼は眼鏡を外し、目頭を揉んだ。*


オルクス「さらに問題なのは、移民に紛れて他国の間者や犯罪者が流入しているケースです。リオンとルナの第一部隊が対応しておりますが、人手が追いつかず……」


シロウ「移民審査の強化と、入国後の追跡体制の整備……両方やらなきゃならんな」


オルクス「はい。それと、もう一点」


*オルクスの声が少し低くなった。*


オルクス「北のガルディア帝国から、先日外交書簡が届いております。内容は——『移民流出の原因はアストライアにある。移民受け入れを制限せよ』と」


シロウ「……はぁ? 自分とこの国民が逃げ出す理由を作っといて、受け皿に文句つけてくるのか」


オルクス「帝国側は、我が国が意図的に人材を引き抜いていると主張しております。外交問題に発展する可能性も……」


*シロウは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。10歳の体が大きな椅子に埋もれる。*


シロウ「……面倒くせぇ国だな。返答は保留でいい。こっちから何か言えば足元見られる」


オルクス「御意」


シロウ「まとめるぞ。第八居住区の建設承認、学舎の増設、移民保護法の改正案起草、トムソン金貸しの調査、移民審査の強化案——全部一週間以内に報告上げろ」


オルクス「……陛下、一週間は少々厳しいかと……」


*シロウが振り向いた。10歳の顔に、44年分の圧が宿る。*


シロウ「俺がこの姿でいる間に片付けたいんだ。元に戻ったら、どうせまた別の案件が山積みになる」


オルクス「……承知いたしました。全力で対応いたします」


*彼は深く一礼し、書類を抱えて退室した。シロウは一人、執務室の椅子で小さく溜息をついた。*


シロウ「……25年経っても、まだまだだな。この国」


*窓の外には、世界樹の枝葉が風に揺れている。その下で暮らす民の笑顔を守るために——まだやるべきことは山ほどあった。*


シロウ「北の帝国か…昔行ったのはその更に北だったか…。」


*彼は椅子の上で小さな足をぶらぶらさせながら、窓の外を見た。*


シロウ「……レイラは政治の駆け引きや外交は天才的なんだが、庶民の暮らしぶりとか、そういう細かいところは見えてねぇんだよな」


*以前、レイラに「市場の物価が上がっている」と報告した時、彼女は「下等な者どもの財布事情など妾の知ったことか」と一蹴した。その後シロウに一時間説教されて渋々政策を通したが、根本的な意識は変わっていないだろう。*


シロウ「ルミナは……あいつは優しいが、元天使だからな。人間社会の泥臭い部分は分からん」


*彼は机の上に散らばった書類を眺めた。小さな手でペンを取り、メモを書き始める。丸っこい文字で。*


シロウ「……今日見たこと、まとめとくか。ポプラの件、トムソン金貸し、子供の教育環境、移民の債務問題……」


*ペンが走る。25年間、上から見ていた景色と、今日少年の目線で見た景色は全く違っていた。*


シロウ「……たまにはこうやって街に出るのも悪くねぇか。元の姿じゃ絶対無理だが」


*ふと、時計を見ると昼を過ぎている。腹が鳴った。子供の体は燃費が悪い。*


シロウ「……飯にするか。今日はリーシアに頼まず、自分で厨房行くか……いや、この姿で厨房行ったらまた大騒ぎになるな」


*彼は転移魔法で城に戻ると、真っ直ぐ訓練所に向かった。北方で見た光景が脳裏に焼きついている。荒廃した村、痩せ細った子供、放棄された畑——あの状況が続けば、移民の流入は加速する一方だ。*


*彼は執務室の窓際に立ち、転移魔法を発動した。行き先は——ガルディア帝国との国境付近。以前訪れたことのある北方の街道沿いに座標を合わせる。*


*一瞬で景色が変わった。*


*冷たい風が頬を打つ。アストライアの温暖な気候とは打って変わって、北方の空気は肌を刺すように冷たい。灰色の空の下、荒れた街道が真っ直ぐ北へと伸びている。*


シロウ「……さむ」


*10歳の体は寒さに弱い。彼は異空間収納から厚手のマントを取り出し、小さな体に巻きつけた。それでも鼻の先が赤くなる。*


*周囲を見回した。国境の関所が遠くに見える。アストライア側の検問所には自国の兵士が立っており、帝国側からこちらへ入国しようとする人々の列が長く伸びていた。*


シロウ「……あんなに並んでんのか」


*列には様々な種族がいた。人間の家族連れ、荷車を引いた商人、痩せ細った獣人の集団——皆、疲弊した顔をしている。子供を抱えた母親が何人も見える。*


*彼は関所に近づいた。子供の姿なので、誰も気に留めない。列に並ぶ人々の会話が耳に入ってくる。*


移民の男「今月また税が上がったらしい。もう払えん……」


移民の女「あの国に行けば、獣人でもまともに扱ってもらえるって聞いたの。お願い、もう少しの辛抱よ……」


*女の腕の中で、幼い獣人の子供がぐったりとしていた。栄養失調だ。シロウの拳が小さく握られた。*


シロウ「……(帝国側の状況、想像以上に酷いな。これが流入の原因か)」


*彼は関所を通り過ぎ、帝国側の街道へ足を向けた。国境を越えた途端、景色が一変した。道は整備されておらず、街道沿いの村は荒廃している。畑は半分が放棄され、家屋は傾いていた。*


ーー


*訓練所の扉を開けると、剣戟の音と怒号が響いていた。*


*中央の訓練場では、第四部隊のカインが木剣を振るっていた。相手はドルガン。巨体が地面を揺らしながら重い一撃を放ち、カインが軽やかに躱す。*


*その脇で、第一部隊のリオンが壁にもたれて欠伸をしていた。隣にはルナが影のように佇んでいる。*


リオン「……あー、だりぃ。今日も平和だな」


*シロウが訓練所に入った途端、全員の視線が集まった。10歳の少年が訓練所に——一瞬の沈黙。*


リオン「……は? ガキ? どっから入ってきた」


*ルナの目が一瞬鋭くなり、すぐに膝をついた。*


ルナ「……陛下」


*その一言で空気が変わった。カインが木剣を下ろし、ドルガンが振り返る。リオンの目が見開かれた。*


リオン「……え、マジで? その姿……何があったんすか」


*彼は訓練所の扉を蹴り開けた。中では八輝将の面々が各々訓練に励んでいた。突然現れた10歳の少年——しかしその魔力を感じ取り、全員が動きを止めた。*


カイン「……陛下?」


ドルガン「そのなりで来られると心臓に悪いですな」


*シロウは腕を組み——小さな体で精一杯の威厳を出しながら言い放った。*


シロウ「おい、関所で炊き出ししてやれ」


*一瞬の沈黙。第三部隊のゲオルグが最初に反応した。*


ゲオルグ「……関所、というと北の国境検問所ですか」


シロウ「そうだ。今あそこに移民の列が伸びてる。子供を抱えた母親、栄養失調のガキ——あいつら何日も飯食ってない顔してた」


*カインが剣を鞘に収め、壁にもたれた。*


カイン「炊き出しか。で、規模は?」


シロウ「列に並んでる全員分。百人か二百人か知らねぇが、足りなくなったら追加しろ。厨房に話通しとく」


ドルガン「了解した。第四部隊で動く。ついでに警備もつけておきましょう。弱った移民を狙う盗賊がいるかもしれん」


シロウ「頼む。それと——」


*彼はゲオルグに視線を向けた。*


シロウ「ゲオルグ、お前は関所の兵士から話を聞け。帝国側から来る移民の状況、最近変わったことがないか。特に子供や病人の数を把握しろ」


ゲオルグ「承知しました」


*リオンが訓練場の隅から気怠そうに手を上げた。*


リオン「俺らは? 何か仕事あんの?」


シロウ「リオン、ルナ。お前らは帝国側に潜れ。国境付近の村の状況を見てこい。税の取り立てがどうなってるか、民がどれだけ追い詰められてるか——情報が欲しい」


*ルナが音もなくリオンの背後に現れ、薄く微笑んだ。*


ルナ「……了解しました。帝国の闇、覗いて参ります」


リオン「はいはい。行くぞ、ルナ」


*八輝将たちが次々と動き始める。シロウは訓練所の壁にもたれ、小さな溜息をついた。*


シロウ「……(帝国が外交書簡で文句言ってきてるタイミングでこっちが動くのは刺激するかもしれねぇが……目の前で飢えてる人間を放っとくわけにはいかねぇ)」


*白金貨一枚——金貨10枚相当、つまり10万円。兵士の月給の数倍だ。訓練所の空気が一変した。*


兵士A「白金貨!? マジかよ!」


兵士B「おい、弓持ってこい! 今すぐ行くぞ!」


*八輝将の部下たちが一斉に武器を手に取り始めた。目の色が変わっている。カインが呆れたように肩をすくめた。*


カイン「……単純な連中だ。まぁ、士気が上がるなら良いか」


ドルガン「陛下、北の森となると氷牙猪や雪鹿の群れがいますな。数は確保できるでしょう」


シロウ「ああ。肉だけじゃなく、穀物や野菜も必要だ。厨房に伝令出して備蓄の確認をさせる。あと、鍋と薪も運べ。関所周辺に炊き出し用の設備を即席で組め」


*リオンがだるそうに壁から背を離した。*


リオン「で、俺とルナは?」


シロウ「お前らは帝国側の情報収集だ。国境付近の村の状況、帝国軍の動き、移民を狙う人攫いがいないか——探ってこい。ただし目立つな」


*リオンの隣で、ルナが無言で頷いた。その目だけが暗く光っている。*


ルナ「……人攫い、いたらどうしましょう」


*ルナの目が一瞬だけ細められた。その口元に薄い笑みが浮かぶ。*


ルナ「……了解しました、陛下」


*その声は静かだったが、明確な殺意を含んでいた。リオンが肩を竦める。*


リオン「はいはい、痕跡なし了解。……お前、楽しそうだな」


ルナ「別に。ただ……子供を攫う輩には、相応の対価を払わせるべきだと思っただけです」


*二人は影に溶けるように訓練所から消えた。第一部隊の諜報能力は八輝将随一——帝国側に入り込むのに、国境の検問など必要ない。*


*一方、兵士たちは既に武器を担いで北の森へ向かう準備を始めていた。*


兵士C「氷牙猪なら一頭で二十人分はいけるぞ!」


兵士D「馬鹿、雪鹿の群れ狙った方が数稼げるだろ!」


カイン「……おい、怪我人出すなよ。治癒師は関所に回すんだからな」


*カインが兵士たちに釘を刺しつつ、ドルガンと共に出撃準備を整えていた。ドルガンが巨大な斧を肩に担ぎ、シロウに向き直る。*


ドルガン「陛下。設営資材と鍋釜の手配は第四部隊で行います。二刻後には関所に炊き出し場を組み上げてみせましょう」


*ゲオルグが静かに敬礼した。*


ゲオルグ「移民の状況報告、夕刻までにまとめます。……帝国の増税が原因であれば、今後さらに流入が増えるかと」


シロウ「……ああ、分かってる」


*彼は小さな体で腕を組み、考え込んだ。帝国との関係は既に緊張状態にある。ここで大規模に移民を受け入れれば、向こうは「我が国の民を奪っている」と難癖をつけてくるだろう。だが——*


シロウ「(……目の前で飢えてるガキを見捨てる選択肢はねぇ。外交の問題はレイラに投げる)」


*彼は転移魔法を展開し、次の目的地——城の厨房へと消えた。*


*兵士たちが次々と森から戻ってくる。氷牙猪を担いだ者、雪鹿を三頭引いた者——白金貨を巡る競争は熾烈を極めているようだ。*


兵士E「こっち氷牙猪二頭! まだ行けるぞ!」


兵士F「馬鹿言え、俺は雪鹿五頭だ! 白金貨は俺のもんだ!」


*ドルガンが巨大な斧で手際よく解体を進め、新鮮な肉が次々と鍋に投入されていく。*


*北の関所に即席の炊き出し場が設営された。大鍋がいくつも火にかけられ、湯気が冷たい空気の中に白く立ち上る。兵士たちが森から仕留めてきた氷牙猪と雪鹿が次々と解体され、温かいスープへと変わっていく。*


*八輝将の女性陣——ルナ、クロエが中心となって配膳を取り仕切っていた。*


クロエ「はい、こちらお椀どうぞ。お子さんの分もありますよ」


*扇子を帯に挟んだ和風美女が、穏やかな笑みで獣人の母親に器を渡す。母親の目に涙が浮かんだ。*


移民の母「あ、ありがとうございます……こんな……」


*子供たちが温かいスープを口にした瞬間、その目が丸く見開かれた。何日ぶりのまともな食事だったのか——小さな手が震えている。*


*一方、ゲオルグが関所の兵士から聞き取りを行い、シロウの元へ駆け寄ってきた。*


ゲオルグ「陛下。報告です。ここ一月で移民の数が先月の倍に増えているとのこと。帝国側で新たな徴兵令が出たらしく、逃れてきた家族が急増しています」


*シロウは小さな体でスープの鍋の横に立ち、腕を組んだ。温かい湯気が頬をかすめる。*


シロウ「……徴兵令、か。戦争でも始める気か、あいつら」


ゲオルグ「その可能性は否定できません。帝国は近年軍備を増強しているとの噂がありましたが……」


*列に並んでいた老人が、炊き出しの器を受け取りながら、近くにいた——10歳の少年にしか見えない彼に話しかけてきた。*


老人「坊や、お前さんもこっちに来たのかい? 一人か? 親御さんは?」


シロウ「……あー、うん。大丈夫」


老人「そうかい……この国は優しいな。わしらみたいな余所者にも飯を食わせてくれる。魔王様は恐ろしい方だと聞いておったが……」


*老人は皺だらけの顔で笑った。*


老人「案外、良い国じゃないか」


*シロウは何も言わず、ただ小さく頷いた。その視線は北——帝国の方角を見据えていた。*


シロウ「帝国は違うんですか?」


*老人はスープを啜りながら、遠い目をした。皺だらけの手が器を震わせている。*


老人「帝国かい……坊やは知らんかもしれんが、あそこはもう……」


*老人は声を落とした。周囲の移民たちも、その話題に耳を傾けている。*


老人「先月、新しい徴兵令が出てな。15歳以上の男子は全員、軍に入らにゃならん。断れば一家まとめて投獄じゃ」


*老人の隣にいた若い獣人の女が、膝の上の子供を抱きしめた。*


獣人の女「うちの旦那は……連れて行かれました。逃げようとしたら、殴られて……それきり」


*彼女の頬に青痣が残っている。子供は母親の胸に顔を埋めたまま動かない。*


老人「税も上がった。収穫の七割を持っていかれる。残りで冬を越せるわけがない。それに……」


*老人の声がさらに小さくなった。*


老人「……獣人や亜人は、人間より先に徴兵される。前線に送られて、盾代わりじゃよ。わしの孫も……」


*老人の目に涙が浮かんだ。スープの入った器を握る手が白くなるほど力が込められている。*


老人「じゃから皆、逃げてきたんじゃ。ここなら……この国なら、種族関係なく受け入れてくれると聞いてな」


*シロウは黙って聞いていた。10歳の少年の顔に、老人には読み取れない冷たい怒りが一瞬だけ浮かんだ。*


シロウ「……そうですか。大変でしたね」


*彼は老人にスープのおかわりを渡しながら、脳裏で情報を整理していた。*


シロウ「(収穫の七割徴収、強制徴兵、亜人を盾にする……帝国は戦争準備に入ってるな。問題は——どこに仕掛ける気だ?)」


*冷たい北風が吹き抜ける中、関所の列はまだ長く伸びていた。*


シロウ「魔王様ってどういう人って聞いたんですか?」


*老人はスープを飲みながら、少し考え込むような顔をした。*


老人「魔王様かい? ……わしらが帝国で聞いた話じゃあ、恐ろしい化け物じゃったよ」


*老人は声をひそめた。*


老人「人間を喰らう魔族の王、何万もの軍勢を一人で滅ぼす破壊の権化……帝国じゃそう教えられておった。だから最初は怖くてな、この国に来るのも迷ったんじゃ」


*老人はスープの器を両手で包み、温もりを確かめるように目を細めた。*


老人「じゃが……国境を越えてみりゃ、どうじゃ。道は整備されとる、獣人も普通に歩いとる、兵士は優しい。こうして余所者のわしらにまで飯を食わせてくれる」


*老人は関所で働くクロエたちを見やった。*


老人「帝国で聞いた話と全然違うわい。あの恐ろしい魔王が治める国が、こんなに穏やかなはずがないと思っとったが……」


*老人はシロウ——10歳の少年の顔を見て、くしゃりと笑った。*


老人「案外、魔王様ってのは優しいお方なのかもしれんなぁ。少なくとも、帝国の皇帝よりはよっぽどマシじゃろうて」


*近くで聞いていた獣人の女も、小さく頷いた。*


獣人の女「……私も最初は震えてました。でも、入国の時、兵士さんが子供に飴をくれて……」


*彼女の腕の中の子供が、小さな手でシロウの袖を引っ張った。*


子供「おにいちゃん、ここのくに、こわくない?」


シロウ「……怖くないよ。大丈夫」


*彼は子供の頭をぽんと撫でた。その手は優しかったが、目は北を向いていた。*


シロウ「(帝国は俺のことをプロパガンダに使ってやがるな……。恐怖で民を縛って、外に敵を作って目を逸らす。典型的な独裁のやり口だ)」


シロウ「帝国って良いところあるんですか?」


*老人は器のスープをじっと見つめた。湯気が立ち上る中、その目に複雑な感情が浮かんだ。*


老人「良いところ、かい……」


*しばらく沈黙が流れた。老人は口元を拭い、ゆっくりと語り始めた。*


老人「……昔はな、良い国じゃったよ。わしが若い頃は」


*老人の目が遠くを見る。*


老人「街道は帝国が一番整っとったし、学術院は大陸随一じゃった。魔導技術の研究も盛んでな……商人も活気があって、市場に行けば何でも手に入った」


*老人は首を横に振った。*


老人「変わったのは……十年前くらいからかのう。先代の皇帝が亡くなって、今の皇帝が即位してからじゃ」


*周囲の移民たちが顔を伏せた。その名を口にするのさえ恐ろしいとでも言うように。*


老人「今の皇帝……ヴァルトハイム陛下は、とにかく軍を大きくすることしか頭にない。『人間至上主義』を掲げてな。獣人や亜人を下等と見なし、奴隷以下の扱いじゃ」


獣人の女「……私たちは『資源』と呼ばれていました。人じゃなく、物として」


*彼女の声が震えていた。*


老人「唯一残っとる良いところと言えば……北部の鉱山都市くらいかのう。あそこはまだ古い領主が治めとって、比較的マシだと聞く。じゃが、それもいつまで持つか……」


*シロウは黙って聞きながら、頭の中で情報を組み立てていた。*


シロウ「(人間至上主義、軍拡、亜人の迫害——しかも即位から十年でここまで変えたのか。有能ではあるな、方向性は最悪だが)」


*老人が急に声を潜めた。*


老人「……坊や、一つだけ忠告じゃ。もし帝国から来たなら、もう戻るんじゃないぞ。最近、国境付近で……逃げた民を連れ戻す『狩人』が出るという噂がある」


シロウ「……狩人?」


老人「帝国の兵じゃない。黒い鎧の連中じゃ。逃亡した移民を捕まえて、連れ戻す……いや、連れ戻された者がどうなったか、誰も知らん」


*冷たい風が吹き抜けた。シロウの目が鋭く細められた。*


シロウ「(黒い鎧……帝国の正規軍じゃない別動隊か。ルナとリオンに伝えねぇと)」


シロウ「それにしても7割か…ルクセンブルク並だな…」


*老人がきょとんとした顔をした。聞き慣れない言葉だったようだ。*


老人「る、るくせん……? 何じゃそれは、どこかの国かい?」


シロウ「……あ、いや。なんでもないです」


*しまった、と内心舌を打った。ルクセンブルクなど、この世界に存在しない。日本の——いや、元いた世界の知識がつい口をついて出てしまった。*


老人「坊やは変わった子じゃのう。物知りなのか、不思議なことを言うのか……」


*老人はくすくすと笑い、スープの残りを飲み干した。*


シロウ「(……気をつけねぇと。ガキの姿だと気が緩むな)」


*彼は関所の列を改めて見渡した。炊き出しのおかげで、移民たちの表情は幾分和らいでいる。しかし列はまだ伸び続けている。次から次へと、疲弊した人々が北から流れてくる。*


*その時、ゲオルグが小走りで駆け寄ってきた。声を落として耳元に囁く。*


ゲオルグ「陛下。……関所の兵から追加情報です。三日前、国境付近で黒い鎧の集団が目撃されたと。移民の列の後方を尾行していたようですが、我が国の結界圏内に入る前に引き返したとのこと」


シロウ「……結界で止まったか。つまり、結界がなけりゃ追ってきてたってことだな」


ゲオルグ「はい。それと……連中、帝国の紋章を一切身につけていなかったそうです。非正規部隊かと」


*シロウの目が鋭く細まった。10歳の顔に、老練な為政者の表情が浮かぶ。*


シロウ「(黒い鎧、非正規、紋章なし——国家が関与を否定できるようにしてる。汚い手を使いやがる)」


*老人がスープの器を取り落としそうになった。周囲の移民たちも一斉に振り向く。*


老人「ご、5分じゃと!?」


*その声が響き渡り、列に並んでいた移民たちの間にざわめきが広がった。*


移民の男「嘘だろ……帝国は七割だぞ!?」


獣人の女「5分……5分って……収穫のほとんどが手元に残るってこと?」


老人「わ、わしの耳がおかしくなったんか? 坊や、もう一度言うてくれ」


シロウ「えっと……確か5%だって聞きました。あとは住民税とかも安いって……」


*老人の目から涙が溢れた。皺だらけの手で顔を覆う。*


老人「そんな……そんな国があるのか……わしら、帝国で何のために働いとったんじゃ……七割持って行かれて、残りで飢えて……」


*周囲の移民たちにも動揺が広がっていた。母親たちが互いに顔を見合わせ、信じられないという表情を浮かべている。*


獣人の女「本当に……ここで暮らせるの? 私たちみたいな者でも?」


*関所の兵士が、騒ぎを聞きつけて近づいてきた。*


関所の兵士「どうかしましたか? ……ああ、税の話ですか。本当ですよ。この国は種族問わず一律5%です。あと、移住者には最初の半年は免税措置もあります」


*移民たちの間から、すすり泣きが聞こえ始めた。長い旅路の果てに、ようやく安堵が訪れたのだろう。*


シロウ「魔王様は冒険者時代にかなり稼いだとかで…。」


*老人が目を丸くした。周囲の移民たちも聞き耳を立てている。*


老人「冒険者時代に……? 魔王様が冒険者じゃったのか?」


シロウ「はい、なんかSSランクだったとかで……迷宮とか討伐で稼いだお金を国の運営に充ててるって聞きました」


*老人は口をぽかんと開けた。移民たちの間にもざわめきが広がる。*


移民の男「SSランク……大陸に数人しかいないっていう、あの?」


老人「じゃ、じゃから税が安いのか……国庫が潤っとるから民から搾り取る必要がないと……」


*獣人の女が目を潤ませながら、腕の中の子供を強く抱きしめた。*


獣人の女「……帝国とは正反対ですね。あちらは民から絞り取って軍に注ぎ込む。こちらは王が自ら稼いで民を楽にする……」


老人「はぁ……魔王というから恐ろしい暴君かと思うとったが、冒険者上がりの苦労人じゃったか。どおりで民の暮らしに目が届くわけじゃ」


*老人は何度も頷きながら、深い溜め息をついた。*


老人「わしも若けりゃ、そんな王に仕えたかったもんじゃ……」


*シロウは少し照れくさそうに頭を掻いた。子供の仕草としては自然だったが、内心ではこそばゆい。*


シロウ「(……自分で自分を褒めさせる形になっちまったな。まぁ、移民の不安が和らぐなら良いか)」


*その時、クロエがスープの大鍋を持って近づいてきた。*


クロエ「おかわりいかがですか? まだたくさんありますよ」


*老人は涙を拭いて、笑顔で器を差し出した。*


老人「……頂くよ。ありがとうなぁ」


シロウ(自分の自慢話みたいになったが…国を褒められるとやっぱり気持ちいいな…)

「では、俺はこれで。」


*彼は関所を離れ、帝国側の街道を歩き始めた。10歳の少年が一人で歩いていても、この辺りでは珍しくないだろう。戦禍を逃れる子供は多い。*


*昼過ぎの太陽が薄い雲越しに差し込み、僅かな温もりを与えてくれる。しかし帝国側に入ると、その温もりさえ奪われるような寒々しさがあった。*


*街道沿いの風景は荒廃していた。放棄された畑には雑草が伸び放題、納屋は半壊し、かつて人が住んでいたであろう家屋の窓は板で塞がれている。*


シロウ「(……ゴーストタウンか。住人はみんな逃げたか、徴兵されたか)」


*三十分ほど歩くと、小さな集落が見えてきた。煙突から煙が上がっている家が数軒——まだ人が住んでいるようだ。しかし、その村の入り口に立てられた看板を見て、彼の足が止まった。*


*看板には帝国の公用語で記されていた。*


『亜人居住禁止区域。違反者は即刻逮捕・強制労働に処す。——帝国軍北部方面司令部』


シロウ「……(露骨だな)」


*村の中を遠目に観察する。人影は少ない。老人と女性ばかりだ。若い男は一人もいない——徴兵で連れて行かれたのだろう。*


*その時、村の奥から馬蹄の音が聞こえた。三騎——黒い鎧を纏った騎馬兵が、村の中を悠然と進んでいる。*


シロウ「……(来たか。あれが『狩人』か?)」


*彼は素早く街道脇の茂みに身を隠し、気配を消した。黒い鎧の兵士たちが村の家を一軒一軒確認するように巡回している。その動きは明らかに——何かを、あるいは誰かを探していた。*


*彼は茂みから出て、何食わぬ顔で街道を歩き続けた。10歳の少年が一人で歩いている——帝国側では珍しくない光景だ。戦禍で親を失った孤児など、そこら中にいるだろう。*


*黒い鎧の騎馬兵三騎が、村の中を巡回しながらこちらに近づいてくる。馬蹄の音が徐々に大きくなった。*


*一騎が彼の前で馬を止めた。兜の奥から冷たい視線が降り注ぐ。*


黒鎧の兵士A「おい、ガキ。どこから来た」


*シロウは怯えたふりをして足を止めた。子供らしく肩を竦め、上目遣いで見上げる。*


ギメイ(シロウ)「……き、北の村から。お母さんが病気で、薬を買いに……」


*兵士は馬上から彼を見下ろし、品定めするように視線を這わせた。*


黒鎧の兵士A「人間か。耳を見せろ」


*シロウは素直に帽子を取り、丸い人間の耳を見せた。兵士は鼻を鳴らした。*


黒鎧の兵士B「人間のガキだ。放っておけ。俺たちの標的じゃない」


黒鎧の兵士A「……南に行くなよ。あっちの国に逃げる奴は——」


*兵士は首に手刀を当てる仕草をした。*


黒鎧の兵士A「分かるな?」


ギメイ(シロウ)「は、はい……」


*三騎は再び馬を走らせ、村の奥へと消えていった。シロウは怯えた表情を崩さないまま、しかしその目だけが冷静に黒鎧の装備、紋章の有無、武器の質を観察していた。*


シロウ「(……装備の質は高い。正規軍じゃないと言いつつ、金はかけてるな。それと——あいつら、亜人だけを探してる)」


*彼はそのまま街道を歩き続けた。次の村へ向かう。帝国の実態を、この目で確かめるために。*


*彼は街道脇の建物の壁に手をかけた。10歳の軽い体は、まるで猫のように壁を駆け上がる。指先が窓枠を掴み、膝で壁を蹴り、一瞬で屋根の上に辿り着いた。*


シロウ「……ふっ、軽いな。44年生きてきて一番身軽だ」


*彼は屋根の上を低姿勢で移動した。瓦が古く、一部がぐらついているが、足裏の感覚で安全な場所を選んで踏む。SSランク冒険者の身体制御は、子供の体でも健在だった。*


*数軒先の屋根から、村の外れにある大きな建物が見えた。元は農家の倉庫だったのだろうが、今は黒い鎧の兵士たちの拠点に改造されている。馬が五頭繋がれており、先ほどの三騎以外にもまだいることが分かる。*


シロウ「(五頭……最低でも五人か。交代制なら倍の十人前後)」


*彼は目を凝らした。鑑定を軽く発動し、建物の内部を探る。*


*兵舎の裏手に、檻が並んでいた。——中に人影がある。*


シロウ「……(あれは)」


*檻の中には、数人の獣人が押し込められていた。手足を縛られ、口枷を嵌められている。大人が三人、子供が二人。全員が痩せ細り、衣服はボロボロだ。*


*捕らえられた移民だ。連れ戻された——いや、まだ連れ戻されていない。ここに一時的に収容されている。*


シロウ「……(さて、どうするか)」


*拳が小さく握られた。ルナとリオンに任せると言った手前、ここで自分が動くのは——*


*その時、兵舎の扉が開いた。黒鎧の兵士が一人、檻に近づき、中の獣人の少女の髪を掴んで引きずり出した。*


黒鎧の兵士C「おい、こいつは上物だ。帝都の闇市に送れば金貨五十枚はいく」


*少女の悲鳴が上がった。シロウの目が冷たく光る。*


シロウ「(……人身売買か。『連れ戻す』じゃねぇ。捕まえて売り飛ばしてやがる)」


シロウ「狙撃☆」


*彼の指先から小さな石が放たれた。音もなく、光もなく——ただ一瞬の風切り音だけが空気を裂いた。*


*黒鎧の兵士Cの右目に石が突き刺さった。*


黒鎧の兵士C「ぎ——ッ!?」


*兵士は獣人の少女の髪を掴んだまま、崩れ落ちた。目から血が噴き出し、地面に転がる。少女は悲鳴を上げて後退った。*


黒鎧の兵士D「何だ!? 奇襲か!?」


*兵舎の中から二人が飛び出してきた。武器を構え、周囲を警戒する。しかし——*


*屋根の上のシロウは、既に別の位置に移動していた。彼の姿は逆光に溶け込み、10歳の小さな体は屋根の突起に完全に隠れている。*


黒鎧の兵士D「どこだ!? 方向は!?」


黒鎧の兵士E「分からん……こいつ、目をやられてる。即死じゃないが戦闘不能だ」


*兵士Cは地面で痙攣しながら呻いている。石は眼球を貫通し、奥まで到達していた。命に別状はないが、片目は確実に失った。*


シロウ「(……殺さなかったのは情報源として残しておくためだ。ルナたちが来た時に尋問できる)」


*彼は静かに屋根の上で状況を観察し続けた。檻の中の獣人たちは混乱の隙に身を縮めている。兵士たちは四方を警戒しているが、攻撃の方向すら特定できていない。*


黒鎧の兵士D「くそ……森か!? 森に弓兵が潜んでるのか!?」


シロウ「(森を疑ってるな。……もう一発いくか)」


*彼の指が弾いた。小石が風を切り、弧を描いて——不自然なカーブを描きながら、兵士Dの左目に吸い込まれた。*


黒鎧の兵士D「がァッ!?」


*兵士Dが顔を押さえて崩れ落ちた。血が指の間から噴き出す。残った兵士Eは完全にパニックに陥った。*


黒鎧の兵士E「ど、どこだ!? どこから撃ってる!? 森か!? 上か!?」


*兵士Eは盾を構え、背中を兵舎の壁に押し付けた。目だけが忙しなく動く。しかし屋根の上の10歳の少年など、誰が疑うだろうか。*


*檻の中の獣人たちは身を寄せ合い、震えながら外の騒動を見ている。少女は地面に座り込んだまま、倒れた兵士Cから離れることもできずにいた。*


黒鎧の兵士E「撤退だ! こいつら担いで撤退——」


シロウ「(逃がすかよ)」


*三発目。今度は兵士Eの右膝の隙間——鎧の繋ぎ目を正確に撃ち抜いた。*


黒鎧の兵士E「ぐあッ!」


*膝から崩れ落ちる兵士E。三人全員が地面に転がった。誰一人、攻撃の方向すら特定できていない。*


*彼は屋根から音もなく飛び降り、路地裏に着地した。猫のように軽い。*


*彼は村の外れへと足を向けた。黒鎧の兵舎から離れ、さらに北へ。帝国の内側を探るためだ。*


*しばらく歩くと、街道沿いに少し大きな集落が見えてきた。先ほどの廃村とは違い、人の気配がある。しかし——異様に静かだった。*


*村の入り口に、木製の掲示板が立っている。帝国の公用語で書かれた複数の布告が貼り付けられていた。*


シロウ「(……『徴兵令第七条、15歳以上の男子は速やかに出頭せよ』『亜人登録義務化、未登録者は財産没収の上投獄』『反帝国思想の流布は死刑』……)」


*彼は眉を顰めた。布告の日付は全て直近一ヶ月以内だ。矢継ぎ早に締め付けを強めている。*


*村の中に入ると、数人の老婆が井戸端で水を汲んでいた。全員が痩せ細り、目に生気がない。シロウの姿を見ると、一人が怯えたように目を逸らした。*


*村の奥に、帝国正規軍の旗が翻る小さな詰所が見えた。正規軍と黒鎧——二重の監視体制。*


シロウ「(民を守るためじゃなく、民を逃がさないための軍か。……最悪だな)」


*彼は村の中を子供らしくふらふらと歩きながら、目と耳で情報を集め続けた。*


*彼は街道をさらに北へ進んだ。介入はしない——だが、情報は集める。それが為政者としての判断だった。*


*一時間ほど歩くと、帝国の城下町が見えてきた。高い城壁に囲まれた都市。門には帝国の紋章——双頭の鷲が刻まれている。入城の列には厳しい検問が敷かれていた。*


*シロウは列に並んだ。子供一人でも、物乞いや使い走りの子供は多いのか、兵士はさほど気にしていない様子だった。*


帝国兵「次。……ガキか。身分証は」


ギメイ(シロウ)「ないです……お母さんが病気で、薬を……」


帝国兵「チッ……また孤児か。入るのは構わんが、日暮れまでに出ろ。夜間に浮浪児が見つかれば労働施設送りだ」


ギメイ(シロウ)「は、はい……」


*門を潜ると、城下町の光景が広がった。*


*アストライアとは全く違う空気だった。道は整備されているが、人々の表情は暗い。商人の露店は半分が閉まっており、開いている店も品薄が目立つ。兵士の巡回が異常に多く、十歩歩けば鎧の音が聞こえる。*


*そして——目についたのは、首輪を付けられた獣人たちだった。荷車を引き、石材を運び、主人に鞭で打たれながら働いている。街の至る所に。*


シロウ「(……うちとは真逆だな。ここじゃ獣人は完全に奴隷扱いか)」


*彼は城下町の中を歩き始めた。市場、兵舎、貴族街——帝国の内情を、10歳の目線で観察する。*


シロウ「で、問題は徴兵されてることなんだが…」


*彼は城下町の中央広場付近に腰を下ろした。噴水の縁に座り、行き交う人々の会話に耳を傾ける。10歳の子供が座っていても、誰も気に留めない。*


*すぐ近くのベンチで、中年の男二人が疲れた顔で話し込んでいた。*


男A「……お前んとこの息子も持ってかれたのか」


男B「ああ。先週だ。十七だぞ、まだ十七だ。剣なんか握ったこともねえのに……」


男A「うちは二人目だ。長男が去年持ってかれて、今度は次男。嫁は毎晩泣いてる。……帰ってきた奴、聞いたことあるか?」


男B「……ない。前線に送られたら、それっきりだ」


*男Bが声を潜めた。*


男B「聞いたか? 南の方——アストライアって国があるらしい。魔王が治めてるとかいう……そこに逃げた奴がいるって」


男A「馬鹿言え。魔王の国なんぞ、もっとひでえに決まってる」


男B「いや……逃げた奴の手紙が来たんだと。獣人も人間も平等に暮らしてるって。飯も食えるし、子供は学舎に通えるって……」


男A「……嘘だろ。そんな国あるわけ——」


男B「俺も信じちゃいねえよ。だが、ここにいたら息子は死ぬ。どっちに賭けるかって話だ」


*男Aが長い沈黙の後、唾を吐いた。*


男A「……前線はどこなんだ。誰と戦ってるんだ。皇帝陛下は何がしてえんだ」


男B「知らん。だが……最近、東の砦に兵が集められてるって話だ。大規模な何かがあるんだろうよ」


*二人は周囲を気にしながら、声をさらに落とした。*


男B「逃げるなら……北の関所だ。あそこの検問が一番緩いらしい。賄賂が効くとか……」


シロウ「(……東の砦に兵力集中、か。帝国は次にどこを攻める気だ? そして——うちの国が避難先として認知され始めてる。移民が増えるのはそのせいか)」


*彼は噴水の水面を見つめながら、静かに情報を整理した。*


ーー


*彼は城下町の中を歩きながら、さらに情報を集めることにした。兵士の巡回パターン、物資の流れ、そして——噂話。*


*市場の裏手に回ると、酒場が数軒並んでいた。昼間から開いている安酒場。兵士崩れや傭兵風の男たちが集まっている。10歳の子供が入れる場所ではないが——*


*彼は酒場の裏壁に背を預け、開いた窓から中の会話を拾った。*


傭兵風の男「……東の砦、また増員だとよ。今度は傭兵にも声がかかってる」


別の男「報酬は?」


傭兵風の男「金貨50枚の前払い。死んだら遺族に金貨100枚だとさ」


別の男「ハッ、死亡前提かよ。……相手はどこだ?」


傭兵風の男「知らねえ。だが——竜人の国がどうとか聞いたぞ」


別の男「は? 正気か? 竜人に喧嘩売るなんざ自殺行為だろ」


傭兵風の男「だから傭兵にまで声かけてんだろうよ。正規兵じゃ足りねえんだ。……皇帝陛下は竜人の領地にある『何か』が欲しいらしい」


別の男「何かって?」


傭兵風の男「さあな。龍脈とか、古代の遺物とか……噂じゃ『不老の秘薬』だとか言う奴もいる」


*シロウは目を細めた。*


シロウ「(竜人の国……東の砦に兵力集中……不老の秘薬。皇帝の狙いは竜人領か。徴兵で民を搾り取って、竜人に戦争を仕掛ける気か)」


*さらに聞き耳を立てる。*


傭兵風の男「まあ、俺は受けねえよ。竜人相手なんざ割に合わん。それより——聞いたか? 南の魔王の国、あそこの軍事力が相当ヤバいって話」


別の男「アストライアだろ? あそこは中立だからいいが……帝国がちょっかい出さなきゃいいがな」


傭兵風の男「皇帝はまず東。南は後回しだとよ。……今のところはな」


*彼は静かに壁から背を離した。*


シロウ「(帝国の優先順位は——まず竜人領。うちは『後回し』か。だが、いずれ矛先が向く可能性がある。…か。)」


*彼は路地を歩きながら、もう少し城の方を観察しようと足を向けた。城壁の内側、貴族街の方角に——帝国軍の本営と思しき大きな建物が見えた。*


*彼は「隠匿神」を発動し、完全に気配と姿を消した。城壁を越え、帝国城の内部へと侵入する。警備兵の間をすり抜け、豪奢な回廊を進む。*


*皇帝の私室と思しき最上階の扉を抜けた瞬間——彼は思わず眉を上げた。*


シロウ「(……は?)」


*部屋は異常だった。*


*床は純白の大理石に金箔の紋様。壁には宝石を散りばめた巨大な絵画が並び、天井にはシャンデリアが三つ。一つ一つが黒金貨数枚はくだらない代物だ。絹のカーテン、毛皮の敷物、宝石箱が無造作に積まれたテーブル——*


*そして部屋の奥、巨大な執務机の前に——一人の男が座っていた。*


*歳は五十代後半か。金の冠を被り、紫の皇衣を纏った痩身の男。鋭い目つきで書類に目を通している。傍らには赤ワインの杯と、銀の皿に盛られた果物。*


*机の上に広げられた地図が見えた。シロウは静かに近づき、地図を覗き込んだ。*


シロウ「(……東の竜人領に赤い矢印。侵攻ルートか。三方向から同時攻撃——兵力は……十万? 徴兵で集めた数がこれか)」


*地図の脇に置かれた書類にも目を走らせた。*


シロウ「(『龍核』の確保が最優先目標……龍核? 竜人の心臓か何かか? 『不老不死の鍵』……なるほど、皇帝自身が不老を求めてるのか。国民を搾り取って、自分の永遠の命のために戦争を仕掛ける——)」


*皇帝が書類をめくり、独り言を呟いた。*


皇帝「……あと二ヶ月。二ヶ月で兵は揃う。竜人どもめ、貴様らの龍核は余のものだ」


*皇帝の目には狂気じみた執念が宿っていた。*


シロウ「(二ヶ月後に開戦か。……だが、これは帝国と竜人領の問題だ。うちが首を突っ込む義理はない——今のところはな)」


*彼は部屋の中をさらに見回した。壁際の棚に、南方——アストライアの方角を示す別の地図も丸められて置かれているのが目に入った。*


シロウ「(……やっぱり、うちも視野には入ってるか)」


*彼は皇帝の机の周辺に散らばった書類をさらに読み進めた。兵力の配置図、補給線の計画書——その数字を見て、彼は内心で唸った。*


シロウ「(……常備軍だけで三十万。徴兵分を合わせれば五十万近い。国の規模からすると異常な軍事比率だ。国民を飢えさせてでも軍を維持してる)」


*書類の中に、各方面軍の編成表があった。*


シロウ「(東方軍十五万——これが竜人領攻略の主力。南方軍五万——うちへの牽制か。北方軍三万——国境警備。西方軍七万——防衛線。中央予備軍……五万)」


*皇帝が椅子から立ち上がり、窓辺に歩いた。ワインの杯を傾けながら、眼下の城下町を見下ろしている。*


皇帝「……余の治世は永遠でなければならぬ。龍核さえ手に入れば——」


*その時、扉がノックされた。*


側近「陛下、宰相閣下がお目通りを」


皇帝「入れ」


*痩せた老人が入室した。恭しく頭を下げる。*


宰相「陛下。南方のアストライアについてですが——移民の流出が加速しております。このままでは徴兵対象者が不足する恐れが」


皇帝「……ふん。あの魔王の国か。目障りだが、今は東が先だ。南の国境を封鎖しろ。一人たりとも逃がすな」


宰相「はっ。しかし……既に関所を越えた者が数千——」


皇帝「逃げた者は構わん。これ以上逃がすなと言っている。……竜人を滅ぼした後、次はあの国だ」


*シロウは静かにその言葉を聞いた。*


シロウ「(——やっぱりな。竜人の次はうちか。……二ヶ月後に東が片付いて、そこから準備期間を入れても半年以内には南に矛先が向く。これは持ち帰って共有しないとな)」


*彼は天井裏の隙間に小型の盗聴器を設置した。日本製の電子機器——魔力を一切使わない純粋な科学技術の産物だ。この世界の探知魔法は魔力の流れを感知する仕組みであり、電気信号で動く機械は完全に盲点となる。*


シロウ「(受信範囲は限られるが……まあ、定期的に回収しに来ればいい。転移で一瞬だしな)」


*彼は盗聴器の位置を最終確認した。天井の装飾彫刻の裏——掃除の手も届かない場所だ。バッテリーは三ヶ月は持つ。*


*皇帝と宰相の会話はまだ続いていた。*


宰相「陛下。もう一件……西方のドヴァルグ鉱山国から、武器の納品が遅れております」


皇帝「理由は」


宰相「鉱石の産出量が落ちたと。……しかし実態は、我が国への不信感かと。徴兵令が西方にも波及するのではないかと警戒している模様です」


皇帝「……ふん。ドワーフどもめ。竜人を片付けた後、次の交渉材料にしてやる。今は泳がせておけ」


宰相「御意」


*シロウは静かに窓から退出した。城壁を越え、城下町の路地裏に着地する。「隠匿神」を解除し、再び10歳の子供の姿で街に紛れた。*


シロウ「(整理するか。帝国の動き——二ヶ月後に竜人領へ侵攻。目的は『龍核』、皇帝の不老不死。兵力は東方軍十五万。南方軍五万がうちへの牽制。竜人を落とした後、次はうち。……そして西のドワーフ国との関係も悪化中)」


*彼は城門に向かって歩きながら、小さく息を吐いた。*


シロウ「(竜人領に警告するか? ……いや、余計なお世話だな。だが——竜人が落ちれば、次はうちだ。竜人に頑張ってもらった方が時間稼ぎになる。……とはいえ、帝国に直接介入する気はない。あくまで防衛の準備だけだ)」


*城門を出て、街道を南に歩き出す。日が傾き始めていた。*


シロウ「(とりあえず帰るか。八輝将に情報共有して、防衛方針を練り直す必要がある)」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。