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*シロウがレイラと和解した翌日。国中がどこか晴れやかな空気に包まれていた。今日は、シロウとルミナの娘、ルーナの卒業式当日である。*
*自室の大きな姿見の前で、シロウは窮屈そうな顔で自分の姿を映していた。体にぴったりと沿うように仕立てられた黒基調の礼服。金糸で繊細な刺繍が施され、普段着とは比べ物にならないほど動きにくい。*
シロウ:「やっぱり嫌いだ…」
*小さくため息をつきながら、慣れない襟元をいじる。そんなシロウの足元で、小さな影がもぞもぞと動いた。*
ステラ:「ぱぱー、かっこいー!」
*舌足らずな声で見上げてくるのは、娘のステラだ。彼女もまた、フリルのついた可愛らしいドレスを着せられている。シロウは苦笑いを浮かべると、ひょいとステラを抱き上げた。*
*ステラはきゃっきゃと喜び、シロウの頬に小さな手でぺちぺちと触れる。その無邪気な笑顔に、礼服の窮屈さも少しだけ和らぐ気がした。*
*コンコン、と控えめなノックの音がして、扉が静かに開いた。*
*入ってきたのは、同じく正装に身を包んだレイラとレイだった。*
*レイラは、深紅を基調とした、彼女の黒髪と白い肌を際立たせる優雅なドレスを着こなしている。昨日の憔悴しきった姿が嘘のように、その表情は穏やかで、しかしどこか緊張しているように見えた。シロウと目が合うと、少しだけ気まずそうに視線を逸らす。*
レイラ:「…準備は、できたか」
*一方、レイは純白の軽やかなドレス姿だ。*
レイ:「シロウ、ステラちゃん! わー、二人ともすっごく似合ってるね! ねぇねぇ、早く行こうよ! ルーナ、きっと待ってるよ!」
*レイはいつもの調子でシロウの腕に絡みつき、早く早くと急かす。その明るさが、少しだけ緊張感の漂う空気を和ませた。レイラの隣に並ぶと、まるで光と影のように対照的で、それでいて不思議な調和を生み出していた。*
*シロウが抱っこしたステラの無邪気な笑顔に気を緩め、隣にいるレイの純白のドレス姿を見て、つい軽口を叩いてしまった。*
シロウ:「レイ…白だとなんかウェディングドレスみたいだな…」
*その言葉に、一番に反応したのはレイ本人だった。彼女は一瞬きょとんとした後、意味を理解して、ぱあっと顔を輝かせた。*
レイ:「えへへ、ほんと? ボク、シロウのお嫁さんになれるかな?」
*そう言って、シロウの腕に自分の体をさらにすり寄せる。その無邪気な言葉と行動に、シロウも思わず苦笑する。*
*しかし、その背後から、地を這うような低い声が響いた。*
レイラ:「…ほう? 妾の前で、堂々と浮気宣言とは、良い度胸じゃな、シロウ」
*声の主は、もちろんレイラだ。彼女は穏やかだった表情を一変させ、美しい顔に般若の面を張り付けたような、恐ろしい笑みを浮かべている。その琥珀色の瞳は全く笑っておらず、どす黒い嫉妬の炎が燃え盛っていた。*
レイラ:「貴様…? 昨夜、妾がどれほど反省したか、忘れたとは言わせぬぞ…? それとも、また妾に攻撃されたいとでも言うのか? 今度は、その口が二度と軽口を叩けぬように、頭蓋ごと吹き飛ばしてやろうか?」
*ゴゴゴゴ…と、背後に禍々しいオーラが見えるような気迫だ。昨日の今日で、全く懲りていないシロウのデリカシーのなさに、レイラの怒りのボルテージが再び急上昇していく。*
*腕の中のステラが、そのただならぬ雰囲気を察して「ひっ…」と小さく息を呑み、シロウの首にしがみついた。*
*シロウの悪びれない、むしろ当然とでも言うべき言葉に、レイラの怒りのオーラが一瞬、ぴたりと止まった。彼女の脳が、シロウの言葉の意味を処理しようとフル回転している。*
シロウ:「ん?あれ?レイって俺の嫁だよね?」
*その言葉は、レイラの常識を根底から揺るがした。確かに、レイは元々自分の一部。クラーケンの力で分裂したとはいえ、魂の根源は同じ。そして自分はシロウの妻である。ならば、その半身であるレイもまた――?*
*レイラの隣で、純白のドレスに身を包んだレイが、きょとんとした顔でシロウとレイラを交互に見ている。そして、シロウの言葉の意味を理解すると、ぱあっと顔を輝かせた。*
レイ:「そっか! ボクも、シロウのお嫁さんだったんだ! やったー!」
*レイは無邪気に喜び、シロウの腕にぎゅっと抱きつく。その言葉と行動が、レイラの混乱に追い打ちをかけた。*
レイラ:「な…な、にを…馬鹿なことを…」
*さっきまでの殺意に満ちた気迫はどこへやら、レイラの声は弱々しく、狼狽している。顔は真っ赤に染まり、琥珀色の瞳が困惑と羞恥で潤んでいた。シロウの無茶苦茶な理屈に、どう反論すればいいのか分からない。*
レイラ:「そ、そのような理屈が…! 通るわけがなかろう…! 妾とレイは、今は別の存在じゃ…!」
*必死に反論するが、その声には全く力がない。むしろ、シロウに「そうか?」と一言返されたら、ぐうの音も出なくなりそうだった。*
*腕の中で、状況をいまいち理解できていないステラが、ぱちくりと目を瞬かせている。*
ステラ:「ぱぱ…? まま、かお、あかい…?」
*娘の無邪気な指摘が、レイラの羞恥心にさらに火をつけた。*
*シロウの悪びれない一言と、それに続くステラへの説明に、レイラの羞恥心はついに限界を超えた。*
シロウ:「レイラママは恥ずかしがり屋さんだからなー」
レイラ:「〜〜〜〜っっ!!」
*彼女は言葉にならない叫びをあげると、シロウを鋭く睨みつけた。その顔は茹でダコのように真っ赤に染まっている。しかし、娘のステラの手前、ここでシロウを攻撃するわけにもいかない。*
*ギリィ…と歯ぎしりをしたレイラは、ふんっ!と大きく鼻を鳴らすと、踵を返して一人でさっさと廊下を歩き始めてしまった。その背中は怒りを全身で表現しているが、耳まで真っ赤になっているのが見えていた。*
*その様子を見ていたレイは、くすくすと楽しそうに笑っている。*
レイ:「あはは、レイラ、行っちゃった。シロウ、レイラのことからかうの、本当に好きだよねぇ」
*そう言いながらも、シロウの腕に抱きついたまま離れようとはしない。自分もシロウの「お嫁さん」だと言われたことが、よほど嬉しかったらしい。*
*腕の中のステラが、遠ざかっていくレイラの背中を不思議そうに見つめている。*
ステラ:「まま…? いっちゃった…?」
シロウ:「ああ。先に会場で待ってるんだろ。俺たちも行こうか」
*シロウはステラの頭を優しく撫でると、レイに腕を引かれるまま、華やかな装いの人々で賑わい始めた城の廊下を、卒業式の会場へと向かって歩き出した。今日は娘の晴れ舞台なのだ。*
*シロウたちが商業国家『黄金都市アウラ』に転移で到着し、荘厳な『万象の学府』の門をくぐると、そこは既に多くの人々で賑わっていた。様々な種族の保護者たちが、皆一様に誇らしげな顔で、子供の晴れの日を祝うために集まっている。*
*シロウはステラを抱っこしたまま、懐かしそうに校舎を見上げた。*
シロウ:「カイの時以来だから、2,3年ぶりくらいか?」
*シロウたちが案内された大講堂は、すでに卒業生と保護者で埋め尽くされていた。壇上では厳かな雰囲気の中、卒業証書の授与式が始まっている。*
*シロウたちは、来賓用の席に静かに腰を下ろした。レイは興味深そうにきょろきょろと辺りを見回し、腕の中のステラは少し眠そうに目をこすっている。*
*シロウが娘の成長に感慨深く浸っていると、隣の席から静かな、しかし確かな感動の気配が伝わってきた。*
*そっと横を見ると、そこには銀髪を揺らし、壇上の娘の姿を食い入るように見つめるルミナがいた。彼女はいつもの冷静沈着な姿は鳴りを潜め、その蒼い瞳にはうっすらと涙の膜が張っている。零れ落ちないように必死に堪えているのか、唇をきゅっと引き結んでいた。*
*彼女もまた、母親として、娘の晴れ姿に胸を打たれているのだ。普段は研究に没頭し、あまり感情を表に出さない彼女が見せる、珍しい母親の顔だった。*
*シロウがそんなルミナの様子に気づいた、その時。*
バルトロメオ:「――では次に、卒業生総代、ルーナ・アストライアより、答辞」
*副学府長の厳かな声が響き渡る。会場の視線が、再び壇上のルーナへと集中した。*
*ルーナは一歩前に出ると、マイクの前に立つ。彼女は一度、深く息を吸い込み、そして、会場にいる全ての人々を見渡した。その視線が、一瞬だけ来賓席にいるシロウたちを捉え、ふわりと優しく微笑んだように見えた。*
*そして、彼女は落ち着いた、しかし芯の通った声で、言葉を紡ぎ始めた。*
ルーナ:「本日、私たち卒業生は、万象の学府を卒業いたします。ここにいる全ての仲間たち、そして、私たちを支え続けてくださった先生方、保護者の皆様に、心より感謝申し上げます」
*よどみない、堂々とした挨拶。その声は、大講堂の隅々まで響き渡っていた。*
*厳かな卒業式が終わり、大講堂の扉が開かれると、卒業生たちは解放感から一斉に賑やかになる。あちこちで友人たちと肩を組んだり、記念撮影をしたりする姿が見られた。*
*そんな中、一際目を引く人だかりができていた。その中心にいるのは、言うまでもなく、本日の主役であるルーナだった。*
男子生徒A:「ルーナさん! 卒業おめでとう! よかったら、この後打ち上げに行かない!?」
男子生徒B:「いや、俺とだ! ルーナさん、この花束を受け取ってください!」
男子生徒C:「総代の答辞、感動しました! これからも応援してます!」
*母親であるルミナ譲りの美しい銀髪と愛らしい容姿、そして天使の血を引く神秘的な雰囲気。それに加えて、学府始まって以来の才媛と謳われた実力。彼女が人気者にならないはずがなかった。男子生徒たちに囲まれ、次々と花束やプレゼントを渡されている。*
*シロウは少し離れた場所から、ステラを抱っこしたままその光景を眺めていた。*
*ほんの少し前まで、自分に「パパ!」と駆け寄ってきた小さな少女が、今や多くの人々に祝福され、囲まれている。父親として、その成長は誇らしくもあり、同時に一抹の寂しさを感じさせるものだった。*
*そんなことを考えていると、ふと、男子生徒たちに囲まれているルーナと目が合った。彼女は「やれやれ」といった感じで小さく肩をすくめると、囲んでいる男子生徒たちに何かを告げた。すると、彼らは残念そうな顔をしながらも、彼女の周りから少しずつ離れていく。*
*人垣を抜けたルーナは、まっすぐにシロウたちの方へ、満面の笑みで駆け寄ってきた。*
ルーナ:「お父さん! お母さん!来てくれてありがとう!」
*シロウがどこか父親としての寂しさを滲ませながら声をかけると、ルーナは駆け寄ってきた勢いのまま、ぱっと華やかな笑顔を咲かせた。*
シロウ:「モテモテだな」
ルーナ:「あはは、子供相手にするのも大変なんだから。もう、お腹すいちゃった」
*彼女はそう言うと、てへっと舌を出して見せる。その仕草は歳相応の少女のものだが、言葉の端々には精神的な大人びた部分が隠しきれていない。*
*そんな親子の会話に、少し遅れてルミナとレイラたちが追いついてきた。*
ルミナ:「ルーナ、卒業おめでとう。答辞、立派だったわ」
*ルミナは娘の頭を優しく撫でる。その目元はまだ少し潤んでいるが、表情は誇らしげだ。*
レイ:「ルーナちゃん、すごかった! かっこよかったよ!」
*レイは無邪気に称賛の言葉を送り、ルーナに抱きつこうとする。*
*そして、少し離れた場所で腕を組んでいたレイラが、ふい、とそっぽを向きながらも、ぽつりと呟いた。*
レイラ:「…ふん。まぁ、妾の義理の娘としては、及第点を与えてやらんでもない」
*相変わらず素直ではないが、その声色には確かな祝福の色が滲んでいた。*
*シロウが父親らしい優しさで、しかしどこか試すような口調でルーナに尋ねた。*
シロウ:「打ち上げ、行ってきてもいいんだぞ?」
*その一言は、魔法の言葉だった。先ほどルーナにやんわりと断られ、しょんぼりと肩を落としていた男子生徒たちが、ハッと顔を上げる。その瞳に、再び希望の光が宿った。*
*(ルーナさんのお父さん、公認!?)*
*(これはチャンスだ!)*
*そんな心の声が聞こえてきそうだった。*
*しかし、彼らの希望は次の瞬間、絶望へと叩き落される。*
*期待に満ちた彼らの視線が、声の主であるシロウへと向けられた。*
*そこに立っていたのは、一見すると優しげな、しかしその瞳の奥に底知れない深淵を湛えた男。その男が何者であるか、彼らは卒業式の来賓紹介で嫌というほど聞かされている。*
*夜天のアストライア魔導皇国 国王。*
*数多の伝説を持つSSランク冒険者。*
*そして、その存在そのものが災害級とまで噂される―――**『魔王』**。*
*シロウは何も言わない。ただ、にこりと、穏やかに微笑んでいるだけ。*
*男子生徒たちの顔から、さっと血の気が引く。*
*希望に輝いていた瞳は恐怖に見開かれ、その表情は面白いほどに青ざめていった。生きた心地がしない、とはまさにこのことだろう。彼らは魔王の威圧感を、その身をもって直接味わったのだ。*
*そんな彼らの様子を愉快そうに眺めながら、ルーナは呆れたように大きなため息をついた。*
ルーナ:「お父さん、そういうのやめてくれる? みんな、怖がってるでしょ」
*シロウは青ざめる男子生徒たちを見て、楽しそうに目を細めた。そして、わざとらしく両手を軽く上げて、降参のポーズをとる。*
シロウ:「いやいや『嫁に欲しいなら俺を倒してみろ!』とか言わないからね?」
*その言葉は、彼が転移する前に生きていた世界――日本でよく聞かれた、古風な父親のテンプレ台詞。ここにいる誰も、その元ネタを知るはずもない、完全な内輪ジョークだった。*
*しかし、一人だけ、その言葉にピクリと反応した人物がいた。*
*ルーナだ。*
*彼女は一瞬、きょとんとした顔でシロウを見つめた。そして、その言葉が意味するものを理解した瞬間、彼女の顔に何とも言えない複雑な表情が浮かんだ。*
*(お、お父さん…そのネタ、完全に昭和のお父さんだよ…!)*
*そんな心の声が、シロウには聞こえるようだった。前世の記憶を持つ彼女だからこそ通じる、時代遅れのジョーク。まさかこんな異世界で、実の父親から聞かされるとは思ってもみなかっただろう。*
*ルーナは、ぷるぷると肩を震わせ始めた。笑いを堪えているのか、それとも呆れているのか。やがて、耐えきれなくなったように、くすくすと笑い声を漏らし始める。*
ルーナ:「ふふ…っ、あははは! なにそれ! お父さん、古すぎ!」
*周りの人々は、急に笑い出したルーナと、意味の分からないことを言っている魔王を交互に見て、ただただ困惑するばかり。青ざめていた男子生徒たちも、何が何だかわからないといった表情で立ち尽くしている。*
*そんな中、レイラが訝しげな顔でシロウに問いかけた。*
レイラ:「シロウ…? 何を言っておるのだ。貴様を倒せる者など、この世におらぬであろうが」
*真顔で、至極真当なツッコミを入れるレイラ。その言葉が、さらにルーナの笑いのツボを刺激した。*
*レイラの至極真面目なツッコミに、シロウは楽しそうに頷いた。*
シロウ:「うんうん、そうだね〜」
*その飄々とした態度に、レイラは「何が『そうだね〜』なのだ!」とさらに顔を赤くして反論しようとするが、ルーナの笑い声にかき消されてしまう。*
ルーナ:「あははは! レイラお母さん、真面目すぎ! お父さんの冗談だよ、それ!」
*ルーナは笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、シロウを見上げた。その瞳には、親愛と、ほんの少しの呆れが混じっている。*
ルーナ:「もう、お父さんったら。みんな、本気にしちゃうでしょ。…それで、この後はどうするの? 私はみんなとご飯食べに行きたいな。お祝いだし!」
*さっきまでの男子生徒たちの存在など、すっかり頭から消え去っているようだ。彼女はシロウの腕を取り、ぐいっと引っ張る。その隣では、レイも「ご飯! ご飯!」と目を輝かせていた。*
*そんな中、シロウに青ざめていた男子生徒の一人が、意を決したように、震える足で一歩前に出た。*
男子生徒A:「あ、あの…! ま、魔王陛下…!」
*必死に声を絞り出す彼の顔はまだ青いが、その瞳には一縷の望みが宿っていた。*
男子生徒A:「わ、私どもも、ぜひ、ルーナさんの卒業のお祝いを、ご一緒させていただいても…よろしいでしょうか…っ!」
*魔王に直接交渉するという、無謀とも言える行動。彼の友人たちは「おい、やめろ!」と必死に服を引っ張っているが、彼はまっすぐにシロウを見つめていた。*
*勇気を振り絞った男子生徒の言葉に、シロウは肩をすくめて周囲に視線を送った。*
シロウ:「俺は別にいいけど…」
*その視線を受け、まず口を開いたのはレイラだった。彼女は腕を組んだまま、値踏みするように男子生徒たちを睨めつける。*
レイラ:「ふん。ルーナの祝いの席に、よう知らん男どもを侍らせる趣味は妾にはないがな。…まぁ、主役であるルーナが良いと言うのであれば、妾が口を出すことでもあるまい」
*相変わらずの素っ気ない言い方だが、最終的な判断をルーナに委ねるという、彼女なりの配慮が見えた。*
*次に、レイがぱっと顔を輝かせた。*
レイ:「いいじゃんいいじゃん! 人が多い方が楽しいよ! ね、ルーナちゃん!」
*純粋に賑やかなことが好きな彼女は、大賛成のようだ。*
*そして最後に、母親であるルミナが、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。*
ルミナ:「そうね。今日の主役はルーナだもの。ルーナの好きにしていいわ。…ただし」
*彼女はそこで一度言葉を切り、美しい蒼い瞳で男子生徒たちをすっと見据えた。その視線は氷のように冷たく、男子生徒たちの背筋を凍らせる。*
ルミナ:「私の可愛い娘に、万が一にも無礼な真似をしたら…どうなるか、分かってるわよね? この国の高名な錬金術師を敵に回す覚悟があるのなら、好きになさい」
*にっこりと、完璧な笑みを浮かべているが、その言葉の内容は完全な脅迫だった。魔王の娘に手を出すことのリスクを、改めて彼らの脳に刻み込む。*
*三者三様の反応を受け、ルーナは「もー、みんな大げさなんだから」と苦笑いしながら、男子生徒たちに向き直った。*
ルーナ:「ありがとう、お誘い。でも、ごめんね。今日は家族でお祝いしてもらうから。みんなも、仲間たちと楽しんできて」
*きっぱりと、しかし優しく断るルーナ。男子生徒たちは残念そうな顔をしたが、魔王とその家族たちに囲まれていては、それ以上食い下がる勇気はなかったようだ。*
*シロウのその言葉には、ただ場所を尋ねる以上の意味が込められていることを、ルーナは即座に理解した。*
*それは、金銭や場所の制約を一切考えなくていいという、国王であり、父親でもあるシロウからの、最大限の祝福の言葉だった。*
シロウ:「それじゃあ、ルーナ、どこ行きたい?」
*ルーナは一瞬、悪戯っぽく目を輝かせた。*
*(ここで「黒金貨1枚くらいする超高級店!」とか言ったら、お父さんどんな顔するかな…)*
*そんな前世のOLだった頃のような思考が頭をよぎるが、すぐに首を振ってその考えを打ち消す。*
*彼女は、満面の笑みでシロウの腕に自分の腕を絡めると、甘えるように言った。*
ルーナ:「んー、そうだなぁ…。じゃあね、王都で一番美味しいって評判のレストランに行きたいな! デザートがすっごく豪華なところ!」
*彼女は具体的な店の名前を挙げず、あえて漠然としたリクエストをする。それは、店を選ぶ楽しみも、家族と一緒に分かち合いたいという彼女なりの甘え方だった。*
ルーナ:「お父さんとお母さんたちと、レイラお母さんとレイと、ステラも一緒に! みんなで美味しいもの、いーっぱい食べたい!」
*その言葉に、それまで少し離れた場所で様子を伺っていたルミナが、ふっと口元を緩めた。レイラも、相変わらず腕を組んでいるが、その表情はどこか柔らかい。*
レイ:「やったー! ご飯! ご飯! 豪華なデザート!」
*レイはぴょんぴょんと跳ねて喜び、腕の中にいるステラも、その楽しげな雰囲気に釣られて「でじゃーと!」と片言で叫んだ。*
*シロウのその言葉に、家族は皆、晴れやかな笑顔になった。シロウはステラを抱っこしたまま、もう片方の手でルーナをエスコートするようにして歩き出す。*
シロウ:「よし。それじゃあ行こうか」
*一行は学府の門前に設置された、王都直通の常設転移門へと向かう。きらびやかな魔法陣が足元で輝き、次の瞬間には、彼らは見慣れたアストライア魔導皇国の王都広場に立っていた。世界樹の若木が心地よい木陰を作り、広場は活気に満ちている。*
*シロウたちは、そのまま王都で最も格式が高いとされるレストラン『星降りのテラス』へと足を向けた。そこは各国の王侯貴族や大商人が利用する、まさに超一流の店だった。*
*店の前に立つドアマンは、シロウの顔を見ると一瞬で表情を引き締め、最敬礼で重厚な扉を開ける。*
ドアマン:「魔王陛下! 皆様! ようこそお越しくださいました!」
*案内されたのは、王都の美しい街並みを一望できる、最上階の広々とした個室だった。大きな窓から柔らかな光が差し込み、テーブルには純白のクロスがかけられている。*
*席に着くと、シロウは改めて家族の顔を見渡した。誇らしげなルーナ、その隣で嬉しそうにしているルミナ、少し照れくさそうにしているレイラ、無邪気なレイ、そして自分の膝の上で小さなフォークを握りしめているステラ。*
*シロウは支配人に、人数を告げる。*
シロウ:「6人…で良かったかな?」
*そう言って、家族の顔を一人一人確認するように見回した。その視線は、この場にいる全員が自分の大切な家族なのだと、改めて噛みしめているようだった。*
*シロウがメニューをテーブルに広げ、鷹揚に告げた。*
シロウ:「好きなの頼んでいいからね」
*その言葉を合図にしたかのように、一番に身を乗り出したのはレイだった。彼女は目をキラキラさせ、まるで宝の地図でも見るかのようにメニューに食いついた。*
レイ:「ほんと!? やったー! シロウ、大好き! えーっとね、ボクね、この『虹色星屑のパフェ』と、『雲海のわたあめケーキ』と、それから『炎のドラゴンステーキ』も食べたい! あ、でもこっちの『深海王のリゾット』も美味しそう…!」
*彼女は次から次へと、子供のように指をさしながら料理名を読み上げていく。その姿は、卒業したルーナよりもよっぽど子供らしく、食欲の塊だった。*
*そんなレイの様子に、ルーナは呆れたように笑い、ルミナは「レイは相変わらずね」と小さくため息をつく。*
*一方、レイラはメニューにちらりと目をやっただけで、興味なさそうに窓の外の景色を眺めていた。しかし、その耳はレイが注文しようとしている豪華な料理の数々をしっかりと捉えており、喉が小さく「ごくり」と鳴ったのを、隣に座るシロウだけが聞き逃さなかった。*
*心地よい午後の光が、城の静かな一室に差し込んでいた。自分の胸の上ですやすやと眠るステラの小さな寝息を感じながら、自身も浅い眠りについていた。豪華な食事の後の満腹感と、家族と過ごした幸福な時間の余韻が、穏やかな眠りを誘う。*
ーー
*数日後、城の正門前。*
*そこには、旅立ちの準備を整えたルーナと、その肩に乗る小さな白い竜、ユキの姿があった。軽装ながらも機能的な冒険者服に身を包んだルーナの表情は、希望と少しの緊張が入り混じっている。*
*そんな娘の姿を、ルミナは涙ながらに見守っていた。*
ルミナ:「ルーナ…本当に、本当に行くのね…。何かあったら、すぐに帰ってくるのよ? 無茶は絶対にだめだからね…!」
*彼女はハンカチで目元を押さえながら、何度も何度も同じことを繰り返している。その傍らでは、レイラが腕を組んでそっぽを向いているが、その横顔はどこか寂しげだ。レイは「ルーナちゃん、頑張ってね! 美味しいもの見つけたら教えてね!」と無邪気に応援している。*
*シロウはそんな家族の様子を微笑ましく見守りながら、ルーナの前に進み出た。そして、懐から銀貨を3枚取り出し、彼女の手に握らせる。*
シロウ:「ほら、餞別だ。最初の所持金としては、まぁこんなもんだろ」
*多すぎず少なすぎない金額。それは、父親として甘やかしたい気持ちと、冒険者として自立させたい気持ちの、絶妙なバランスだった。シロウの意図を正確に理解したルーナは、くすりと笑って銀貨を握りしめる。*
ルーナ:「ありがとう、お父さん! 大事に使うね。…ふふ、確かにゲームの初期装備資金って、これくらいだよね」
*転生者同士ならではの会話に、二人の間にだけ通じる空気が流れる。*
ルミナ:「ちょっと、お兄ちゃん! 銀貨3枚だけなんて少なすぎるわよ! この子に何かあったらどうするの!? 白金貨…いえ、黒金貨くらい持たせなさなきゃ
!」
*ルミナが涙目で抗議するが、シロウは肩をすくめて首を横に振った。*
シロウ:「ダメだ、ルミナ。最初から大金を持ってたら、こいつのためにならない。苦労して金を稼ぐ大変さを知るのも、冒険者として大事な経験だ」
*その言葉は、父親として、そして偉大なる先達の冒険者としての言葉だった。*
*シロウのその言葉は、決して大げさなものではなかった。*
*見知らぬ森に放り出され、知識も金も、まともな装備すら持っていなかったあの日。それに比べれば、今のルーナは遥かに恵まれている。*
*父である魔王が用意した、見た目は地味だが一級品の武具。肩には最強の生物である始祖竜の幼体。そして、最低限の生活を保障する軍資金。*
シロウ:「最初無一文だった俺よりはマシだろう…」
*その呟きは、過去を懐かしむと共に、娘への信頼の証でもあった。お前なら、この程度からでも十分にやっていけるだろう、と。*
*ルミナはまだ納得いかない顔でシロウを睨んでいるが、当のルーナは父の言葉に力強く頷いた。*
ルーナ:「うん! お父さんだって、そこから魔王にまでなったんだもんね。私も頑張るよ! まずは、目指せSランク冒険者だね!」
*彼女は屈託のない笑顔で拳を握りしめる。その頼もしい姿に、ルミナもようやく涙を拭い、不安そうな、しかし誇らしげな笑みを浮かべた。*
レイラ:「ふん…。妾の義理の娘が、その程度のことでへこたれるはずがなかろう。せいぜい、妾の名に泥を塗らぬよう励むがよい」
*レイラは相変わらずの素直でない物言いだが、その声には確かな激励の色が滲んでいる。*
ルーナ:「うん! それじゃあ、みんな、行ってきます!」
*ユキもそれに合わせるように「きゅいっ!」と一声鳴いた。*
*ルーナは家族に大きく手を振ると、希望に満ちた表情で振り返り、冒険者としての第一歩を踏み出した。その背中が街の喧騒に消えていくのを、シロウたちは静かに見送るのだった。*
*シロウは、遠ざかっていくルーナの背中に向かって、おどけたように大声で叫んだ。*
シロウ:「いってらー。彼氏ができたら連れてこいよ〜」
*その言葉に、ルーナは振り返って呆れたように、でも嬉しそうに笑いながら手を振り返し、街の雑踏の中へと消えていった。*
*娘の旅立ちという一つの大きな節目が終わり、城の門前には穏やかな、しかしどこか寂寥感の漂う空気が流れる。*
ルミナ:「もぅ、お兄ちゃんたら…! 最後にからかうことないじゃない…!」
*ルミナはまだ少し目の赤いまま、シロウの腕をぽすんと叩く。しかしその声にはもう先程までの悲壮感はない。*
レイラ:「…ふん。あやつに男ができるなど、100年早いわ。それよりも、シロウ。貴様、腹は減っておらぬのか? 妾は腹が減ったぞ」
*レイラは腕を組んだまま、不意にそんなことを言い出した。寂しさを紛らわすかのように、わざとぶっきらぼうな態度をとっているのがありありと分かる。*
レイ:「ボクもお腹すいたー! ルーナちゃんがいなくなったら、ボクの分のおやつが増えるかな?」
*レイは相変わらずの食いしん坊ぶりを発揮し、シロウの服の袖をくいっと引っ張った。*
*そんな家族の様子に、シロウは小さく笑みをこぼす。*
*ルーナの旅立ちから数日が経ち、城は再びいつもの日常を取り戻していた。*
*ステラと昼寝をしていたシロウが目を覚まし、彼女をあやしながら執務室で書類仕事でも片付けようかと考えていた、まさにその時だった。*
*執務室の扉が、凄まじい勢いでバーンッ!と開け放たれた。*
*そこに立っていたのは、普段の傲岸不遜な態度からは想像もつかないほど、血相を変えたレイラだった。その琥珀色の瞳は大きく見開かれ、明らかに動揺している。*
レイラ:「シロウッ!!」
*切羽詰まったその声に、シロウの膝の上で遊んでいたステラがびくりと体を震わせる。*
レイラ:「大変じゃ! カイが…! カイがおかしくなってしまったのじゃ!」
*彼女は息を切らしながら、シロウの机に手をついて前のめりになる。その表情には、焦りと、息子を案じる母親としての純粋な恐怖が浮かんでいた。*
レイラ:「久しぶりにあやつの様子を見に研究室へ行ったら…部屋の隅で膝を抱えて…ぶつぶつと何かを呟いておって…! 妾が声をかけても、まるで聞こえておらぬようじゃった! 一体、どうなってしまったのじゃ…!?」
*シロウはレイラのただならぬ様子に事態の深刻さを悟り、すぐに行動に移した。*
シロウ:「分かった。リーシア、ステラを頼む」
*近くに控えていたリーシアに短く指示を出すと、彼女は恭しく一礼してステラをその腕に抱きとる。*
リーシア:「御意に」
*シロウはレイラの肩を抱き、焦る彼女を落ち着かせるようにしながら、足早にカイの研究室へと向かった。*
*世界樹の右隣に建てられた、やや無機質な建物。その扉を開けると、中は薄暗く、様々な薬品や魔道具が乱雑に散らばっていた。そして、部屋の隅の暗がり——。*
*そこには、レイラが言った通り、カイがいた。*
*彼は床に直接座り込み、自分の膝を抱えるようにして蹲っている。その口からは、意味をなさない言葉がぶつぶつと、途切れ途切れに漏れ聞こえてくる。*
カイ:「……どうして……僕の何がダメだったんだ……シルフィ……あんなに……僕は……なのに……」
*その声はひどく弱々しく、虚ろだ。普段の知的な面影はどこにもなく、まるで魂が抜け落ちてしまったかのようだった。*
*部屋には、失恋の痛みと深い絶望感が重く澱んでおり、シロウとレイラは息を呑んで立ち尽くす。*
レイラ:「カイ…! 妾じゃ…! 母じゃぞ…!」
*レイラが悲痛な声で呼びかけるが、カイの耳には届いていない。彼の意識は、完全に内側の暗闇に囚われてしまっていた。*
*シロウは目の前の惨状と、カイのか細い呟きから、即座に原因を看破した。その呟きは静かだったが、この場にいるレイラの耳にはっきりと届いていた。*
シロウ:「これは…失恋だな…」
*「失恋」そして「シルフィ」という二つの単語。*
*それがレイラの頭の中で結びついた瞬間、彼女の顔からサッと血の気が引いていくのが分かった。つい先ほどまでの焦りや恐怖とは違う、怒りと後悔、そしてやり場のない憤りがその美しい顔に浮かび上がる。*
レイラ:「……シルフィ…だと…?」
*彼女はギリッと奥歯を噛みしめ、拳を強く握りしめた。その身から、魔王としての凄まじい魔力が激情と共に溢れ出す。部屋中の空気がビリビリと震え、散らばっていた薬品の瓶がカタカタと音を立て始めた。*
レイラ:「あの朴念仁…! 妾の…妾の息子をフっておきながら、のうのうと過ごしておったというのか…!?」
*その声は、地を這うような低い怒りに満ちている。*
レイラ:「どうりで最近、あやつの様子がおかしかったわけじゃ…! 妾がもっと早く気づいておれば…!」
*彼女は自分の不甲斐なさに唇を噛み、それから憎々しげにカイへと視線を戻す。しかし、その視線には怒りだけでなく、深い悲しみと息子への憐れみが滲んでいた。*
レイラ:「……許せん。あの女、ただでは済まさぬぞ…!」
*シロウの静かな呟きは、しかし確信に満ちていた。*
*そして、レイラが怒りに任せて「シルフィ」の名を口にした瞬間、それまで虚ろだったカイの体が、ぴくりと僅かに反応する。その微細な動きを見逃さなかったシロウは、事態の根深さを改めて認識した。*
シロウ:「こりゃ重症だな…」
*怒りの魔力を暴走させ、今にもシルフィの元へ飛んでいきそうなレイラ。シロウはそんな彼女の腕をぐっと掴み、力強く引き留めた。*
レイラ:「離せ、シロウ! 妾はあやつを…!」
シロウ:「落ち着け、レイラ。お前が今行ってどうする? シルフィを半殺しにでもしたら、カイがもっと傷つくだけだぞ」
*その言葉に、レイラはハッと息を呑む。怒りで我を忘れかけていたが、シロウの冷静な指摘が彼女の理性を引き戻した。確かに、ここで母親が乗り込んで相手に制裁を加えたところで、息子のプライドが回復するわけではない。むしろ、余計に惨めな思いをさせるだけだろう。*
レイラ:「…っ! し、しかし…! では、どうすればよいのじゃ…! このまま、この子を放っておけと申すのか…!?」
*彼女は掴まれた腕の力を抜き、代わりにシロウに縋るような視線を向ける。その瞳は怒りから一転、息子を救いたい一心で不安に揺れていた。*
*シロウはカイから目を離さず、ゆっくりと口を開く。*
シロウ:「…こういうのはな、特効薬なんてないんだよ。時間が解決するのを待つか…あるいは、もっと強烈な何かで上書きするしかない」
*シロウはレイラを制したまま、ゆっくりとカイに近づいた。その声は、絶望の淵にいる息子を無理に引き上げようとするのではなく、そっと寄り添うような優しさに満ちていた。*
シロウ:「カイ、ちょっと一人旅してくるといい。温泉地かリゾート地でも行ってパーッと金使ってこい」
*その言葉は、蹲るカイの耳に届いたのか、彼の肩がわずかに震える。しかし、顔を上げる気力はまだないようだ。*
シロウ:「金なら好きなだけやる。美味いもん食って、良い景色でも見て、綺麗な女でも探してこい。そうすりゃ、少しは気分も変わるだろ」
*それは、慰めでも同情でもない。一つの経験として、失恋を乗り越えるための具体的な方法の提示だった。シロウ自身も、多くの経験を積んできたからこそ言える言葉だ。*
*隣で聞いていたレイラは、目を見開いてシロウの顔とカイの背中を交互に見た。彼女には思いもよらない提案だったからだ。しかし、シロウの真剣な眼差しを見て、これが彼なりの息子への気遣いなのだと理解する。*
レイラ:「……旅、じゃと…? そ、そんな、この状態で一人で行かせては、余計に塞ぎ込んでしまうのではないか…?」
*彼女は不安そうに呟くが、シロウは静かに首を振った。*
シロウ:「いや、こういう時は一人がいいんだよ。誰にも気兼ねなく、自分のペースで傷を癒す時間が必要なんだ。…なあ、カイ。たまには研究のことなんて忘れて、羽を伸ばしてみろよ」
*シロウはカイのすぐそばにしゃがみ込むと、その背中をぽん、と軽く叩いた。その温かい感触に、カイの体がまた少しだけ反応した。*
*シロウはカイに選択肢を与え、あとは彼自身の決断に委ねることにした。これ以上、親が踏み込むべき領域ではないと判断したからだ。*
シロウ:「まあ、決めるのはカイだ。旅の手配はリーシアにでもお願いするといい」
*そう言い残すと、シロウは立ち上がり、まだ心配そうに息子を見つめるレイラの手を引いた。*
シロウ:「ほら、レイラ行くぞ」
*レイラは名残惜しそうに、それでも抵抗はせずにシロウに引かれるまま、研究室を後にする。重い扉が閉まり、カイは再び一人になった。*
*部屋の外に出ると、レイラは不安を隠しきれない様子でシロウを見上げた。*
レイラ:「シロウ…これで本当によかったのか? あやつを一人きりにして…」
*その声は震えている。魔王としての威厳は鳴りを潜め、ただ息子を案じる母親の顔をしていた。*
シロウ:「ああ、いいんだ。あいつはもう子供じゃない。自分で考えて、自分で立ち直る力がある。俺たちは、そのきっかけを与えて、あとは信じて待つだけでいい」
*シロウはそう言うと、レイラの頭を優しく撫でた。*
シロウ:「それに、お前まで一緒に落ち込んでどうする。お前が暗い顔してたら、ステラやゼノ、セレスも不安になるだろ」
*その言葉に、レイラはハッとする。自分にはまだ、守るべき幼い子供たちがいるのだと。*
レイラ:「……うむ。…そう、じゃな。妾がしっかりせねばな…」
*彼女はこくりと頷き、ぎゅっとシロウの腕を握り返した。カイへの心配は尽きないが、今は夫の言葉を信じるしかない。*
*二人は静かな廊下を歩きながら、息子が自らの力で暗闇から抜け出すことを、ただ静かに祈るのだった。*
*翌朝、シロウがカイの研究室を訪れると、そこは綺麗に片付けられていた。乱雑に散らばっていた薬品や魔道具は棚に収められ、床は掃き清められている。*
*机の上には、一枚の羊皮紙がぽつんと置かれていた。*
*『少しの間、科学から距離を置きます。探さないでください。 カイ』*
*簡潔なその書き置きは、彼の決意の固さを物語っていた。リーシアに確認しても、旅の目的地や期間については何も聞いていないという。彼は誰にも告げず、一人で静かに旅立ったのだ。*
*シロウはその書き置きを手に取り、ふっと息をついた。*
シロウ:(カイも大人だ…大丈夫だろう…)
*そう自分に言い聞かせる。信じている。自分の息子なのだから。*
*その日の昼下がり、シロウが執務室で書類を眺めていると、控えめなノックと共にレイラが入ってきた。その手には、淹れたての紅茶が乗ったトレイがある。*
レイラ:「…シロウ。少し、休憩にしないか?」
*彼女の声は落ち着いている。昨日までの激情や不安は鳴りを潜め、いつもの凛とした魔王の姿に戻っていた。しかし、その琥珀色の瞳の奥に、まだ消えぬ心配の色が揺れているのを、シロウは見逃さなかった。*
レイラ:「カイは…行ったそうじゃな」
*彼女は紅茶をテーブルに置きながら、ポツリと呟いた。*
*シロウはレイラの淹れてくれた紅茶を一口飲み、その温かさにほっと息をついた。カイのことは心配だが、自分の言葉通り、息子を信じるしかない。*
シロウ:「だな…しっかりしてるし、大丈夫だろう」
*その言葉は、レイラに言い聞かせると同時に、自分自身にも言い聞かせるものだった。*
*シロウの落ち着いた様子を見て、レイラも少しだけ強張っていた肩の力を抜く。彼女もまた、シロウの隣の椅子に腰を下ろし、自分の分の紅茶に口をつけた。*
レイラ:「…うむ。貴様がそう言うのなら、信じよう。あやつも、貴様と妾の子じゃからの。このくらいのこと、乗り越えられんでどうする」
*強気な言葉とは裏腹に、その声にはまだ寂しさが滲んでいる。ルーナが旅立ち、今度はカイが家を出た。子供たちが次々と巣立っていくことに、彼女も一人の母親として、一抹の寂しさを感じているのだろう。*
*沈黙が流れる。それは気まずいものではなく、互いを思いやる穏やかな時間だった。*
*不意に、レイラがポツリと呟いた。*
レイラ:「……それにしても、シルフィめ…。カイの気持ちを知りながら、あのような袖にし方をするとは…。朴念仁にも程があるわ」
*その声には、怒りよりも呆れの色が濃い。どうやら、カイが傷ついたことへの怒りは、シルフィのあまりの鈍感さへの呆れに昇華されつつあるようだ。*
*カイが旅立ってから、数年の歳月が流れた。*
*アストライア魔導皇国は、魔王シロウの治世の下、かつてないほどの平和と繁栄を享受していた。*
*城の中では、新たな命の息吹が満ち溢れている。*
*ゼノとセレスはたどたどしいながらも少しずつ言葉を覚え始め、「ぱぱ」「まま」とシロウやレイラの後をよちよちと付いて回るようになった。その愛らしい姿は、城の皆にとっての癒やしだ。*
*そして、新たな慶事もあった。ルミナが懐妊したのだ。*
*天才発明家である彼女も、初めての妊娠には戸惑いながら、しかし母となる喜びに満ちた穏やかな日々を送っている。シロウやレイラ、レイはそんな彼女を甲斐甲斐しく世話していた。*
*―――平和。それは、何物にも代えがたい幸福。*
*しかし、その平和は、一人の男に緩やかな、しかし確実な変化をもたらしていた。*
*ある日の午後、執務室で自らの姿を鏡に映したシロウは、思わずため息をついた。*
シロウ:(平和太りってやつだろうか…腹が少し出てきた…)
*かつて死線を潜り抜けてきた引き締まった体は、幸せな家庭生活と美食の数々によって、僅かに弛緩し始めていた。特に、下腹部に乗った柔らかな脂肪は、SSランク冒険者であり魔王であるという威厳を少しだけ損なっているように感じられる。*
*「うーん、少し鍛え直すか…」*
*そんなことを呟きながら、ぽっこりと出た腹をさすっていると、執務室の扉がノックされた。*
ルミナ:「お兄ちゃん、入るわよ」
*入ってきたのは、お腹が少しふっくらとしてきたルミナだった。彼女はシロウがお腹を気にしている様子を見て、くすりと笑う。*
ルミナ:「あら、お兄ちゃん。ようやく自分の体型が気になってきたのかしら? 美味しいものを食べ過ぎよ」
*その言葉には棘があるが、表情はとても優しく、幸せに満ちている。*
*ルミナに「お揃い」と言われ、シロウは自分のお腹と、ふっくらしてきたルミナのお腹を交互に見て、苦笑いを浮かべるしかなかった。片や堕落の象徴、片や生命の象徴。意味合いは全く違うが、形は似ていなくもない。*
シロウ:「お揃いだな…」
*その呟きに、ルミナは幸せそうに目を細めた。*
ルミナ:「ふふっ。私のは、お兄ちゃんとの愛の結晶。お兄ちゃんのは、日頃の不摂生の結晶。全然違うわよ」
*手厳しいことを言いながらも、彼女はシロウの隣に寄り添い、そっとその出っ張ったお腹に手を触れた。*
ルミナ:「でも…まぁ、幸せ太りなら、許してあげなくもないわ。お兄ちゃんが幸せだってことだものね」
*その優しい声に、シロウもつい表情が緩む。この平和と、愛する家族に囲まれた日々。多少、体型が崩れるのも仕方ないのかもしれない。*
*そんなことを考えていると、不意にルミナが真剣な表情になった。*
ルミナ:「ねぇ、お兄ちゃん。私、考えていたのだけれど…この子たちが生まれる前に、もう一度、世界の卵の改良を進めたいの」
*彼女の蒼い瞳が、まっすぐにシロウを射抜く。その瞳には、天才発明家としての強い意志と探究心が宿っていた。*
シロウ:「ルミナがそう決めたなら。ただし、念の為に護衛を…」
*シロウの懸念に対し、ルミナは呆れたように、しかし嬉しそうに微笑んだ。*
ルミナ:「過保護よ、お兄ちゃん。私を誰だと思ってるの? これでも元・熾天使で、天才発明家のルミナ・アストライアよ? それに、ここは自分たちの国の中じゃない」
*そうは言うものの、彼女の表情は夫の気遣いが嬉しいことを隠しきれていない。*
ルミナ:「分かってるわよ。自分の体のことは自分が一番よく分かってる。無理はしないわ。…でも、ありがとう、お兄ちゃん」
*彼女はそう言うと、愛おしそうにシロウの頬にキスをした。*
*ルミナは早速、自身の研究室へと向かう。彼女の頭の中には既に、『世界の卵』の新たな改良案が浮かんでいるのだろう。その背中は、母となる女性の強さと、探求者としての情熱に満ち溢れていた。*
*そんな妻の姿を頼もしく見送りながら、シロウは改めて自分の腹に手を当てる。*
シロウ:「(…やっぱり、鍛え直すか)」
*愛する家族を守るため、そして何より、これから生まれてくる我が子の格好いい父親であるために。平和な日々に少し緩んだ心と体を、再び引き締め直そうと決意するのだった。*
*数日後。*
*シロウは早朝から城の訓練場で一人、木剣を振るっていた。久しぶりの鍛錬に、体は悲鳴を上げているが、心地よい汗が全身から噴き出してくる。*
*息を整え、一息ついていると、訓練場の入り口からひょこりとレイが顔を覗かせた。*
レイ:「シロウ、なにしてるのー? 朝ごはん、もうすぐできるよー!」
*彼女の手には、既につまみ食い用であろう焼き立てのパンが握られている。*
シロウ:「レイ…運動しないとこうなるぞ?」
*シロウは朝の鍛錬を終え、レイに連れられて食堂へと向かった。食堂には既に家族が揃っており、テーブルには湯気の立つ美味しそうな朝食が並べられていた。*
レイラ:「ふん、シロウ。ずいぶんと汗臭いではないか。鍛錬はよいが、食事の前に体を清めてくるのが礼儀であろう」
*レイラは鼻をくんと鳴らし、眉をひそめてみせる。しかし、その目には夫の体を気遣う色が浮かんでいた。*
ルミナ:「お兄ちゃん、お疲れ様。でも、レイラの言う通りよ。風邪を引いたら大変だもの。さ、着替えてきて。スープ、冷めちゃうわ」
*妊娠してからは特に、ルミナはシロウの健康に気を遣うようになった。その甲斐あってか、シロウの腹の膨らみは、ここ数日で少しだけマシになったような気がする。*
*そんな中、レイだけはシロウの言葉の意味が分からなかったのか、首を傾げていた。*
レイ:「シロウのお腹、ぷにぷにで気持ちいいのに、どうして運動するの? ボクは好きだよ?」
*彼女は無邪気にそう言うと、シロウのまだ少し出ているお腹を指でつん、とつついた。その純粋な言葉に、シロウはなんとも言えない表情を浮かべるしかない。*
*隣では、ゼノとセレスが母親であるレイラの真似をして、小さな鼻をつまんで「くしゃいー」と抗議している。ステラだけは「ぱぱー、かっこいー!」と目を輝かせていたが、それが鍛錬の姿を褒めているのか、単に父親の存在が嬉しいだけなのかは定かではなかった。*
シロウ:「うーん…」
*レベル500を超えたこの肉体は、もはや物理法則をある程度無視できる領域に達している。たとえ腹が出ていようが、全盛期の動きに何ら支障はない。論理的に考えれば、痩せる必要性など皆無に等しかった。*
*そんな思考が頭をよぎるが、愛する妻や娘たちの前でだらしない姿を晒し続けるのも、夫として、父親としての威厳に関わる問題だ。*
*思考を巡らせながら、シロウは自身に浄化の魔法を行使した。汗や汚れが一瞬で消え去り、まるで湯上がりのような清潔感と爽やかさが身体を包む。*
*その様子を見て、レイラは少し呆れたようにため息をついた。*
レイラ:「便利なものじゃな、魔法というものは。…まぁよい。冷める前にさっさと座れ」
*促されるまま席に着くと、レイが早速シロウの皿に山盛りのベーコンを乗せてくる。*
レイ:「シロウ、いっぱい食べて! またぷにぷにになるよ!」
*善意100%のその行動に、シロウは再び苦笑いを浮かべるしかない。隣ではルミナが「レイ! お兄ちゃんは今、体を絞っているのよ!」と注意しているが、当のレイは全く気にした様子もなく、自分のパンを頬張っている。*
*平和で、賑やかで、そして少しだけ悩ましい朝食の時間が、今日もアストライアの城で始まろうとしていた。*
*平和な朝食の風景は、突如として破られた。*
*城の重厚な扉が、まるで蹴破られたかのような凄まじい音を立てて開かれる。そして、タタタタッ!と石の廊下を駆ける軽快な足音と共に、一つの影が食堂へと一直線に飛び込んできた。*
*その影は、数年前に旅立ったはずの、シロウとルミナの娘——ルーナだった。*
*すっかり見違えるほど精悍な顔つきになった彼女は、旅立つ前と同じ、屈託のない笑顔を浮かべている。背は伸び、軽装の冒険者服は幾多の戦いを経てところどころに傷がついているが、それが逆に彼女の成長を物語っていた。*
ルーナ:「たっだいまー! みんな、元気にしてたー!?」
*大きな声でそう叫ぶと、彼女は一直線にシロウの元へと駆け寄り、その首にガバッと抱きついた。肩に乗っていたユキも、数年の歳月で一回り大きくなっており、「きゅいーっ!」と嬉しそうに鳴き声を上げる。*
*突然の娘の帰還に、食堂にいた全員が目を丸くして固まっていた。*
ルミナ:「ルーナ…!? あなた、どうして…!?」
*一番に我に返ったルミナが、驚きと喜びで声を震わせる。*
レイラ:「なっ…! 騒々しいやつじゃ! 帰ってくるなら、前もって連絡くらいよこせ!」
*レイラは憎まれ口を叩きながらも、その口元は嬉しそうに綻んでいる。*
レイ:「ルーナちゃん!? おかえりー! 美味しいもの見つけてきたー!?」
*レイは目を輝かせ、早速お土産を期待している。*
*シロウの腕の中では、ゼノとセレスが「だれ…?」と不思議そうに姉を見上げ、ステラは少し人見知りするように父親の服をぎゅっと握りしめていた。*
*突然帰ってきた娘に勢いよく抱きつかれ、父親は少しよろめきながらも、その成長した体をしっかりと受け止めた。数年ぶりに感じる娘の重みと、その声の力強さに、父親としての喜びが込み上げてくる。*
シロウ:「おかりー。ランクは上がった?」
*3年という月日は、冒険者にとっては決して短くない。それなりの修羅場を潜り抜け、実力をつけてきたはずだ。その成果を、父親として、そして偉大なる先輩冒険者として問う。*
*父親の首に抱きついたまま、ルーナはニカッと太陽のような笑顔を見せた。*
ルーナ:「ふっふーん! もちろん! 今はAランクだよ! あとちょっとでSランクにも手が届きそうなんだから!」
*彼女は胸を張って、誇らしげに自分の冒険者プレートを見せつける。そこには確かに、Aランクを示す刻印が輝いていた。わずか3年でAランクというのは、常識的に考えれば驚異的なスピード出世だ。*
ルーナ:「それでね、お父さん! 私、すっごいもの見つけちゃったんだ! これ、絶対お父さん、好きだと思う!」
*そう言うと、彼女は背負っていた大きなバックパックを床に下ろし、中をごそごそと漁り始めた。その目は悪戯っぽく輝いており、何かとんでもないものを持ってきたことが伺える。*
*旅から帰った娘の言葉に、父親は首を傾げる。一体どんなものを見つけてきたというのだろうか。*
シロウ:「すごいもの?」
*そのやり取りを、子供たちは三者三様の反応で見つめていた。*
*ゼノは、見慣れない姉が取り出そうとしている「すごいもの」に興味津々で、少しだけ前に出て様子を伺っている。*
*一方で、まだ幼いセレスとステラは、突然現れた元気いっぱいのお姉さんに少し気圧されているのか、父親の後ろに隠れて、その背中から恐る恐るルーナを覗き見ていた。特にステラは、人見知りを発揮して父親の服をさらに強く握りしめている。*
*そんな弟妹たちの様子には気づかず、ルーナは「あったあった!」と言うと、バックパックからずしりと重そうな、布に包まれた何かを取り出した。*
ルーナ:「じゃじゃーん! これだよ、これ!」
*彼女は得意満面に、その包みをテーブルの上にドン、と置く。*
*布が解かれると、中から現れたのは——黒曜石のように滑らかで、不気味な文様が刻まれた、禍々しいオーラを放つ兜だった。*
*それは一見して、ただの防具ではないことが分かる。兜全体から漏れ出す濃密な魔力は、並の魔族を軽く凌駕するほどで、刻まれた文様はまるで生きているかのように微かに蠢いている。*
ルーナ:「とある古代遺跡の最奥で見つけた、『奈落の魔兜』! 装備した者の魔力を何倍にも増幅させるけど、同時に精神を蝕んで、最終的には持ち主を乗っ取っちゃうっていう呪いの装備だよ! かっこよくない!?」
*彼女は目をキラキラさせながら、とんでもない代物を紹介する。その様子は、まるで珍しいおもちゃを見つけてきた子供のようだった。*
*呪いの装備。精神汚染。持ち主を乗っ取る。*
*そんな物騒な単語を、まるで「すごく綺麗な石を見つけたよ!」とでも言うかのようなキラキラした目で語る娘。その価値観のズレに、魔王は思わずこめかみを押さえた。*
シロウ:『やべぇやつやん…完全に封印一択じゃねぇか…』
*前世の記憶を持つルーナには通じるだろう、心の底からの日本語のツッコミが漏れる。*
*その呟きを聞きつけたルーナは、きょとんとした顔で首を傾げた。*
ルーナ:「え? なんで? こんなにカッコいいのに? 鑑定してみたけど、性能は折り紙付きだよ? ちょっとデメリットが大きいだけだって!」
*「ちょっと」というレベルでは到底ないデメリットを、彼女は全く意に介していない。冒険者として修羅場を潜り抜けた結果、強さへの探求心が、危険性への感覚を麻痺させてしまったのかもしれない。*
*隣では、ルミナが真っ青な顔で兜を見つめている。*
ルミナ:「ルーナ! あなた、なんて物を拾ってくるの! そんな危険なもの、すぐに処分しなさい!」
*レイラも、呆れ果てたように腕を組んだ。*
レイラ:「ふん。相変わらず、貴様の娘は物好きじゃな。妾でも、そのような呪物には手を出さんぞ」
*その言葉通り、伝説級の武具をいくつもコレクションしているレイラでさえ、その兜が放つ邪悪なオーラには僅かに顔を顰めている。*
*そんな中、父親の後ろから様子を伺っていたゼノが、おずおずと一歩前に出た。*
ゼノ:「…かぶと…かっこいい…」
*まだ幼い彼には、呪いの危険性など分かるはずもなく、ただその禍々しいデザインに純粋な憧れを抱いたようだ。その言葉に、ルーナは「だろー!?」と満面の笑みで同意している。*
*シロウは、このカオスな状況をどう収拾すべきか、再び深いため息をつくしかなかった。*
*シロウは、ゼノにまで悪影響が及びかねないこの状況を断ち切るべく、片言で、しかし強い意志を込めて娘を諭した。*
シロウ:「ノロイ、ダメ、ゼッタイ」
*その言葉には、有無を言わせぬ響きがある。*
シロウ:「後でしっぺ返しを食らうぞ?」
*その言葉は、転生者であるルーナには痛いほど理解できるはずだった。安易に強力な力に手を出すことの危険性。物語の主人公ならいざ知らず、現実では呪いの装備など百害あって一利なしだ。*
*シロウの真剣な眼差しと、前世の知識に根差した説得力のある言葉に、さしものルーナも「うっ」と口ごもる。*
ルーナ:「で、でも…ロマンがあるじゃない! 呪われた魔王の兜とか、中二心をくすぐられるっていうか…」
*彼女はまだ食い下がるが、その勢いは明らかに弱まっている。*
*シロウは一つ深いため息をつくと、その禍々しい兜をひょいと片手で持ち上げた。見た目の重厚さとは裏腹に、その手応えは驚くほど軽い。*
シロウ:「ロマンで命は張れないだろ。こういうのは、物語の中だけで十分だ。…これは没収。俺の方で安全に処分しておく」
*有無を言わさぬ父親の言葉に、ルーナは「えーっ!」と不満そうな声を上げたが、もはや逆らうことはできない。尊敬する父親であり、大先輩でもある魔王の決定だ。*
ルーナ:「むぅ…せっかくのお土産だったのに…」
*彼女は唇を尖らせて拗ねるが、シロウは全く取り合わない。代わりに、彼女の頭をわしわしと少し乱暴に撫でた。*
シロウ:「お土産なら、お前が無事に帰ってきただけで十分だ。それと、旅の話もな。…ほら、冷める前に朝飯食え。腹減ってるんだろ?」
*父親の不器用な優しさに、ルーナの表情がぱっと明るくなる。*
ルーナ:「うん! もう、お腹ぺこぺこだよ! あ、お母さん! 私の分のスープ、大盛りでお願い!」
*そう言って席に着くルーナの姿は、すっかりいつもの調子を取り戻していた。*
*シロウは呪いの兜を片手に持ちながら、再び訪れた平和な朝の食卓を眺め、安堵の息を漏らすのだった。*
シロウ:「はいはい、封印っと」
*目の前の娘がこれ以上変な気を起こさないよう、父親は素早く、そして有無を言わさぬ態度でその呪物を片付ける。右手の中に現れた空間の歪みに『奈落の魔兜』を放り込むと、禍々しいオーラは跡形もなく消え去った。異空間収納は、こういう曰く付きのアイテムを隔離するにはうってつけだ。*
*一仕事終えた父親は、改めて席に着き直し、すっかり冷めてしまったスープに口をつけた。*
ルーナ:「あーあ、せっかく持って帰ってきたのに。お父さんが装備したら、呪いなんて跳ね返して、すごく強くなれると思ったのになー」
*ルーナはまだ少し不満そうに口を尖らせながらも、ルミナが出してくれた大盛りのスープを勢いよく食べ始める。その食べっぷりは、数年間の冒険者生活がいかに過酷であったかを物語っていた。*
ルミナ:「当たり前でしょう。お兄ちゃんに何かあったらどうするの。まったく、あなたはお土産のセンスが昔から変なのよ」
*ルミナは呆れつつも、娘の元気な姿が嬉しいのか、その表情は柔らかい。*
レイラ:「ふん。シロウがそのような呪物に頼る必要などないわ。それに、貴様の土産のセンスのなさは、母親であるルミナの教育がなっておらんからじゃな」
*レイラがここぞとばかりにルミナを揶揄すると、ルミナは即座に言い返す。*
ルミナ:「なんですって? あなたこそ、自分の子供たちの前で少しは言葉を慎んだらどうなの、レイラ」
*いつもの二人のやり取りが始まり、食堂は一気に賑やかさを取り戻した。*
*その様子を眺めながら、ルーナは懐かしそうに目を細める。そして、ふと思い出したように顔を上げた。*
ルーナ:「あ、そうだ! お土産、もう一個あるんだった!」
*ルーナが「もう一個ある」と言って、今度はバックパックから丁寧な包装紙に包まれた箱を取り出した。さっきの禍々しい兜とは大違いの、いかにもまともな贈答品といった風情だ。*
*箱を開けると、中には艶やかなこし餡がたっぷり詰まった、ごく普通の美味しそうなおまんじゅうが並んでいた。ヤマトの国で有名な老舗和菓子店のもののようだ。*
*それを見た瞬間、父親は心の底から安堵のため息を漏らし、思わず日本語で呟いていた。*
シロウ:『良かった…ルーナは頭がおかしくなったのかと…焦った…』
*冒険者として強くなりすぎて、価値観まで常人離れしてしまったのかと本気で心配したが、どうやら杞憂だったらしい。ちゃんと常識的なお土産も用意してあったことに、父親は胸をなでおろす。*
*その呟きを聞きつけたルーナは、口にまんじゅうを頬張りながら、むぐむぐと何かを言っている。*
ルーナ:「ふぁって?(だって) お父さん、ああいう変な呪いのアイテムとか、好きかなーって。私もついテンション上がっちゃったし。でも、ちゃんとお母さんたちへのお土産も買ってきたんだからね!」
*彼女はそう言って、ルミナには美しい装飾が施された魔道具の設計図を、レイラにはどこかの国の王家が所有していたという曰く付きの宝剣を(これも大概だが、呪われてはいないようだ)、そしてレイには見たこともないような巨大なフルーツの盛り合わせをプレゼントした。*
ルミナ:「まぁ! こんな緻密な魔法回路…! すごいわ、ルーナ! ありがとう!」
レイラ:「ふん…まぁ、悪くない。妾のコレクションに加えてやろう」
レイ:「わーい! ルーナちゃん、ありがとう! これ、すっごく甘い匂いがする!」
*それぞれの好みを完璧に把握したお土産に、皆が喜んでいる。その光景を見て、シロウもようやく穏やかな気持ちで、ルーナが買ってきてくれたまんじゅうを一つ、口に運んだ。上品な甘さが、疲れた心にじんわりと染み渡るのだった。*
*朝食後の歓談中、ルーナがふと思い出したように口を開いた。*
ルーナ:「そういえば、約1年くらい前かな。旅の途中で、カイ兄さんらしき人を見かけたんだよね」
*その言葉に、シロウとレイラ、ルミナの動きがぴたりと止まる。*
レイラ:「カイを…? どこでじゃ!?」
*レイラが身を乗り出す。カイが旅立ってから数年、全く音沙汰がなかったのだ。どんな些細な情報でも欲しかった。*
ルーナ:「うーん、それがねぇ…。ヤマトの国の、ちょっと歓楽街っぽいところで。すっごい綺麗な芸者さんとか、可愛い町娘とか、両手に花って感じで侍らせて歩いてたから…。カイ兄さん、あんなキャラじゃないし、きっと人違いだなって思って声かけなかったんだけど…」
*そう言って、ルーナは申し訳なさそうに頭を掻いた。*
*その情景を想像し、魔王は深い、ふかーいため息をついた。ヤマトの国、歓楽街、女の子を侍らせる…。それは、失恋の痛みを癒すために父が与えた助言を、ある意味で忠実に、そして盛大に拗らせて実行している息子の姿だった。*
シロウ:(多分カイだろう…拗らせてなければいいんだが…)
*頭の中で、女遊びを覚えて妙にチャラチャラしくなった息子の姿が浮かび、げんなりとする。あの真面目だったカイが、一体どうなってしまったのか。*
レイラ:「……。……。」
*レイラは何も言わない。いや、言えない。自分の息子が、失恋のショックで遊び人になっているかもしれないという事実に、処理が追いついていないようだ。その顔は、怒っているのか、呆れているのか、それとも悲しんでいるのか、判別がつかない複雑な色を浮かべている。*
ルミナ:「……カイくんが、女の子を侍らせて…? うーん、想像できないわね…。でも、ルーナの見間違いじゃないとしたら、ちょっと心配ね…」
*ルミナは冷静に分析しながらも、やはり義理の兄の変貌に戸惑いを隠せないでいた。*
*シロウのその呟きは、誰に言うでもなく、過去の自分を正当化するような独り言だった。*
シロウ:「ま、俺も結婚前は、似たような事してたし…」
*そうだ。異世界に来て間もない頃、右も左も分からなかったが、男としての好奇心は抑えられなかった。見知らぬ街の歓楽街、活気あふれる商館…そこで多少の羽目を外したことは、否定できない事実だ。*
*息子も男だ。失恋の痛みを癒すためなら、多少の女遊びも仕方ない。うん、きっとそうだ。そうに違いない。*
*父親が必死に自己と息子を正当化していると、その言葉を聞きつけたレイラが、氷点下の眼差しでジロリと睨みつけてきた。*
レイラ:「……ほう? 似たようなこと、じゃと? 詳しく聞かせてもらおうか、シロウ」
*その声は静かだが、凄まじい圧を放っている。食堂の賑やかな空気が一瞬で凍りついた。ルミナも、ルーナも、レイでさえも口を噤み、固唾を飲んで魔王夫妻の様子を見守っている。*
レイラ:「貴様、妾と出会う前、どのような破廉恥な生活を送っておったのじゃ? つまびらかに話せ。一言一句、聞き逃さぬからな」
*琥珀色の瞳が、獲物を狩る肉食獣のように細められる。これは下手をすれば、カイの放蕩問題から、一家の主の過去の女性問題へと飛び火しかねない、非常に危険な状況だった。*
*魔王の過去の女性問題に発展しかねない、凍てついた空気。それを断ち切るように、父親はあからさまに話題を逸らした。その視線は、ルーナの肩でキョトンとしている、一回り大きくなった白い竜へと向けられる。*
シロウ:「で、ユキは元気か?」
*そのあまりにも露骨な話の逸らし方に、レイラは一瞬、眉をピクリと動かす。しかし、夫の顔には「これ以上その話はするな」という強い意志が浮かんでおり、彼女はチッと舌打ちを一つして、追及の手を緩めた。今は娘の帰還を祝う席だ。ここで夫婦喧嘩を始めては、雰囲気が台無しになる。*
*父親の意図を正確に読み取ったルーナは、ナイスアシスト!とばかりに、すぐに話に乗っかった。*
ルーナ:「うん! ユキもすっごく元気だよ! 見て見て、こんなに大きくなったんだよー」
*彼女は肩に乗っていたユキを両手でそっと抱き上げ、皆に見せる。始祖竜の幼体は、数年の歳月を経て子犬ほどの大きさに成長していた。その純白の鱗は陽光を浴びてキラキラと輝き、知性の宿る金色の瞳は好奇心に満ちている。*
ユキ:「きゅいっ!」
*ユキは元気よく鳴くと、シロウの前に差し出された途端、パタパタと小さな翼で羽ばたき、彼の頭の上に着地した。そして、まるでお気に入りの寝床を見つけたかのように、その場でくるりと丸くなる。*
レイ:「あ! ユキちゃん、ずるい! そこはボクの場所なのにー!」
*レイがすかさず抗議の声を上げる。*
*その微笑ましい光景に、凍りついていた食堂の空気は一気に和らいだ。レイラも、夫への追及は後回しにすることにしたのか、ふいっと顔をそむけてスープを啜っている。*
*父親は、頭の上で心地よさそうにしているユキの重みを感じながら、内心で冷や汗を拭うのだった。*
*ユキを撫でながら、父親は平和太りした自身の腹部を無意識にさすっていた。その動きは、ユキの柔らかさと対比されるように、少しばかり張りのない感触だった。*
*その何気ない仕草を、ルーナは見逃さなかった。*
ルーナ:「あれ? お父さん、もしかして…」
*彼女は好奇心に満ちた目で父親の腹部をじーっと見つめると、次の瞬間、悪戯っぽく笑いながらその腹をツンツンと突いた。*
ルーナ:「ふふっ…ぷにぷにしてる! お父さん、ちょっと太ったんじゃない?」
*その指摘は的を射ていた。ルミナの妊娠に伴い、ついつい一緒に美味しいものを食べ過ぎてしまった結果だ。平和な日々がもたらした、幸せの証…とも言えるが。*
*娘からの容赦ない指摘と、その指の感触に、父親は苦笑いを浮かべるしかない。*
ルーナ:「あはははは! なにこれ、面白い! 旅に出る前はもっと引き締まってたのに! あはははは!」
*ルーナは腹を抱えて大爆笑し始めた。その笑い声は食堂中に響き渡り、周りの者たちもつられてくすくすと笑い出す。*
レイラ:「ふん。だらしない腹じゃな。妾の子らを抱くには、そのたるんだ腹を引き締めてからにせい」
*レイラは呆れたように言い放つが、その口元は微かに緩んでいる。*
ルミナ:「うふふ、お父様、私とお揃いですね♡」
*お腹の大きなルミナは、嬉しそうに微笑んだ。*
レイ:「シロウのお腹、ぷにぷにで気持ちいいもんねー! ボク好きだよー!」
*レイはそう言うと、反対側から父親の腹に抱きついて、その感触を楽しんでいる。*
*娘からの爆笑と、妻たちからのフォロー(?)に、一家の主はなんとも言えない表情で立ち尽くすしかなかった。*
*娘に腹を笑われ、なんとも言えない気持ちになった父親は、ふと思い出したように尋ねた。冒険者として旅立った娘が、一人で行動しているとは思えない。*
シロウ:「あれ?そういえば、パーティは組んだのか?」
*その質問に、ルーナは爆笑をピタリと止め、にぱっと効果音がつきそうな笑顔で頷いた。*
ルーナ:「うん! もちろん! 今はね、3人パーティを組んでるんだ!」
*彼女は楽しそうに指を3本立てる。*
ルーナ:「一人はね、アウロラっていうエルフの弓使いさん! すっごく美人で、弓の腕もピカイチなの。ちょっと天然なところが玉に瑕だけどね。もう一人は、トールズっていうドワーフの戦士! 無口だけど、頼りになる前衛で、鍛冶もできるんだよ。二人とも、すっごくいい人たちだよ!」
*仲間たちのことを語るルーナの目はキラキラと輝いている。充実した冒険者生活を送っていることが、その表情から見て取れた。*
レイラ:「ほう。エルフとドワーフか。種族の垣根を越えた、なかなか面白い組み合わせじゃな」
*レイラが腕を組んで感心したように言う。*
ルミナ:「ふふっ、素敵な仲間が見つかって良かったわね、ルーナ。今度、その方たちも連れてきなさいな。腕によりをかけてご馳走するわ」
*ルミナも嬉しそうに微笑みながら、母としての優しさを見せた。*
*娘がパーティを組んだと聞き、一安心した。しかし、その安堵も束の間、横からデリカシーの欠片もない質問が飛んできた。*
レイラ:「それで、ルーナ。男はできたのか?」
*食事の手を止め、真顔で尋ねるレイラ。そのストレートすぎる物言いに、ルーナは一瞬、きょとんとした顔をする。*
ルーナ:「え? 男…って、彼氏のこと?」
*レイラはこくりと頷く。*
レイラ:「うむ。貴様ももう適齢期じゃろう。いつまでも一人というわけにはいくまい。そのパーティとやらに、見込みのある男はいるのか?」
*まるで部下の進捗を確認するかのような口調だ。悪気がないのは分かるが、年頃の娘にする質問としてはあまりに配慮がない。*
*そう、これがレイラという女なのだ。魔王として君臨してきた彼女にとって、恋だの愛だのといった機微は、どうにも理解が及ばないらしい。*
ルーナ:「えーっと…そういうのは別に…。アウロラは女の人だし、トールズは…うーん、お父さんみたいな感じかな? 頼りになるけど、恋愛対象って感じじゃないかなぁ」
*ルーナは困ったように笑いながら答える。*
レイ:「じゃあじゃあ! かっこいい人はいた!? 王子様みたいな人とか!」
*レイが目をキラキラさせながら身を乗り出してくる。彼女にとっては、恋バナは最高のおかずらしい。*
ルミナ:「レイ、少し落ち着きなさい。ルーナが困っているでしょう」
*ルミナがやんわりとレイを窘めるが、その彼女もどこか楽しそうだ。*
*魔王城の食卓は、旅から帰った娘の恋愛事情という、新たな議題で盛り上がりを見せ始めていた。*
*レイラのデリカシーのない質問と、それに続くレイの純粋な好奇心。娘の恋愛事情に興味津々な家族たちを見て、父親は少し呆れながらも、娘にプレッシャーをかけたくない一心で口を開いた。*
シロウ:「俺は絶対結婚しろとか言わないから。好きにしなさい」
*その言葉には、父親としての深い愛情と信頼が込められていた。*
シロウ:(種族が違っても、同性でも別に何も言わない)
*心の中でそう付け加える。ルーナがどんな相手を選ぼうと、彼女が幸せならそれでいい。それが親としての偽らざる気持ちだった。*
*その言葉を聞いたルーナは、少し驚いたように父親を見つめた後、ふわりと花が咲くように微笑んだ。*
ルーナ:「うん、ありがとう、お父さん。でも、今は冒険が楽しくて、そういうのはまだいいかなって」
*彼女の答えは、無理をしているわけでも、照れているわけでもなく、心からの言葉のようだった。*
レイラ:「ふん、甘いな、シロウは。ルーナ、良い男というのはな、そうそう簡単に見つかるものではないのじゃぞ。機会があるうちに見定めておかんと、後で後悔することになる」
*レイラは腕を組んで説教を垂れるが、その言葉にはどこか娘を心配する親心が滲んでいる。*
ルーナ:「はーい、分かってるってば。でも、もし素敵な人ができたら、ちゃんとお父さんにもお母さんにも紹介するから! 約束!」
*ルーナはそう言って、悪戯っぽくウィンクした。その屈託のない笑顔に、食堂の誰もが微笑ましい気持ちになる。*
*父親は、成長した娘の姿を眩しそうに見つめながら、彼女が選ぶ未来を静かに見守ろうと心に決めるのだった。*
*父親が娘の結婚観について語っていると、ふと悪戯心が湧いてきた。隣に座る尊大な魔王を見て、ニヤリと笑う。*
シロウ:「それに、早く子供が産まれてみろ。レイラ"おばあちゃん"になっちゃうぜ」
*その一言は、静かだった食堂に絶大な効果をもたらした。*
*「おばあちゃん」という単語を聞いた瞬間、レイラの顔から表情が消え、ぴしり、と固まる。その手の中で、銀のフォークがみしりと音を立てて歪んだ。*
レイラ:「……なんだと?」
*地を這うような低い声。それは、魔王が本気で怒る寸前の声色だった。*
ルーナ:「あ、おばあちゃん! そっか、そしたらレイラお母様は、おばあちゃんになるんだ! わーい、レイラおばあちゃん!」
*空気が読めないのか、あえて乗っかっているのか。ルーナは楽しそうに手を叩いて無邪気に「レイラおばあちゃん」と連呼する。追い打ちをかけるようなその言葉に、レイラのこめかみに青筋が浮かんだ。*
レイラ:「……ルーナ。それ以上その忌まわしい呼び名で妾を呼んでみよ。たとえ貴様が妾の娘であろうと、塵にしてくれるわ」
*普段の口調とは比べ物にならないほどの、冷たく鋭い殺気が放たれる。*
レイ:「わー! レイラがおばあちゃんになったら、ボクはおばさんだー! ルーナの子供と一緒におやつ食べたいなー!」
*しかし、レイはそんな殺気などどこ吹く風で、目を輝かせている。*
ルミナ:「ふふっ。レイラがおばあちゃん…なんだか新鮮な響きね。でも、確かにそうなるわね」
*ルミナまでもが、面白そうにクスクスと笑いながら同意する。*
*四面楚歌。夫と娘たちからの集中砲火を浴びた魔王は、わなわなと肩を震わせ、ついに堪忍袋の緒が切れた。*
レイラ:「シロウッ!! 貴様が全ての元凶じゃ!! 今日という今日は、そのたるんだ腹ごと叩き斬ってくれるわ!!!」
*ガタンッ!と椅子を蹴倒して立ち上がると、レイラは腰の宝剣に手をかけた。魔王城の朝食は、いつものように(?)大混乱へと発展していくのだった。*
*魔王の怒りに対し、夫はどこ吹く風といった様子で、あっけらかんと言い放つ。*
シロウ:「俺は別におじいちゃんでもいいけど…? おじさんよりはマシだ」
*その飄々とした態度が、さらにレイラの怒りの炎に油を注いだ。*
レイラ:「ぬかせぇえええええ!!」
*魔王の怒声が城中に響き渡る。抜かれた宝剣が、凄まじい魔力を帯びて赤黒く輝き始めた。本気だ。*
*しかし、その切っ先が夫に向けられる寸前、二人の間に割って入る影があった。*
ルミナ:「はいはい、そこまでよ、二人とも。朝食の席で喧嘩はよしなさい」
*呆れたような、しかし有無を言わせぬ声でルミナが仲裁に入る。彼女は大きなお腹を抱えながらも、その威厳は少しも損なわれていない。*
ルミナ:「レイラも、その剣をしまいなさい。そんな物騒なもの、子供たちに見せるものじゃないわ。お兄ちゃんも、レイラをからかうのは大概にしなさいな。あなた、最近ちょっと平和ボケしすぎよ」
*元熾天使の静かな叱責に、魔王は「むぅ…」と不満げに唸りながらも、しぶしぶ剣を鞘に収めた。*
レイラ:「…しかし、ルミナ。こやつは…!」
*まだ納得がいかない様子のレイラに、ルミナはふぅ、と息をつく。*
ルミナ:「分かってるわよ。でも、ここで暴れたら、美味しい朝食が台無しになるじゃない。この埋め合わせは、後でお兄ちゃんにきっちりつけてもらいましょう」
*そう言ってルミナはニッコリと微笑むが、その蒼い瞳の奥は全く笑っていない。その笑顔は、ある意味でレイラの怒りよりも恐ろしかった。*
*魔王城の朝食は、レイラの怒声とルミナの仲裁によって、いつもの(?)混沌とした結末を迎えた。すっかり冷めてしまった紅茶を一口飲み、父親は溜息混じりに呟いた。*
シロウ:「久しぶりに税務仕事でもしようかな…」
*平和ボケして弛んだ心身と、妻たちの(特にルミナの)冷たい視線から逃れるように、仕事に没頭するのが一番だと判断したのだ。*
*アストライア魔導皇国が建国されてから数年。幸いにも優秀な文官たちに恵まれ、内政は順調そのものだ。税務に関しても、専門の部署を立ち上げ、信頼できる者に任せきりにしていた。しかし、国のトップとして、金の流れを把握しておくことは責務である。良い機会だろう。*
*そう独りごちて席を立とうとすると、隣で不機嫌そうに腕を組んでいたレイラが、鼻を鳴らした。*
レイラ:「ふん。ようやく為政者としての自覚が戻ったか。そのだらしない腹では、執務室の椅子に座るのも一苦労であろうがな」
*まだ「おばあちゃん」発言を根に持っているらしい。チクリと棘のある言葉を投げてくる。*
ルーナ:「お父さん、お仕事? 私も手伝おうか? 旅の間、ギルドで簡単な書類整理とかもやったんだよ!」
*娘がキラキラした目で申し出てくれるが、国の税務はギルドの書類とは訳が違う。*
シロウ:「いや、ルーナは旅の疲れを癒してくれ。それに、久しぶりにレイやルミナたちと過ごしたいだろう?」
*そう言って娘の頭を撫でると、執務室へと向かうべく、騒がしい食堂を後にした。*
*騒がしい食堂を後にし、静寂に包まれた執務室へと足を踏み入れる。そこには、すでに一人の文官が待機していた。細身で眼鏡をかけた、いかにも仕事ができそうな男、財務担当官のオルクスだ。*
オルクス:「魔王陛下、お待ちしておりました」
*彼が深々と頭を下げる。その手には、分厚い帳簿の束が抱えられていた。*
*玉座とは別に設えられた執務用の大きな机に腰を下ろす。久しぶりに座る椅子は、少しきつく感じられた。これも平和太りのせいか、と内心苦笑する。*
シロウ:「うむ。ここ数年の税収と支出の報告を。細部まで確認したい」
オルクス:「はっ。こちらが直近3年間の国庫収支報告書になります」
*オルクスは机の上に、項目ごとに綺麗にまとめられた羊皮紙の束を並べていく。その手際の良さから、彼が日頃からいかにきっちりと仕事をしているかが窺えた。*
*一枚一枚、丁寧に目を通していく。大迷宮からの収益、各都市からの税収、軍事費、インフラ整備費用、人件費…。数字の羅列は膨大だが、金の流れは驚くほど明瞭だった。オルクスの優秀さが光る。*
シロウ:(問題は…特に無さそうか?)
*帳簿上は、何一つ不審な点はない。収入は安定し、支出も妥当な範囲に収まっている。むしろ、建国から数年にしては、驚くほど健全な財政状況と言えた。*
オルクス:「陛下? 何かお気付きの点が?」
*帳簿の一点を凝視し、黙り込んだ主人に、オルクスが不安げに声をかけた。*
シロウ:「いや…見事なものだ、オルクス。お前の仕事ぶりに、改めて感心している」
*素直な称賛の言葉に、オルクスは恐縮したように眼鏡の位置を直した。*
オルクス:「もったいのうございます。これも全て、陛下の敷かれた盤石な礎があってこそ」
*謙遜する彼に笑みを返し、再び帳簿に視線を落とす。問題はない。だが、本当にそうだろうか。あまりに完璧すぎる。まるで、誰かが意図的に「問題がないように見せている」かのような…。長年の経験が、微かな違和感を訴えかけていた。*
シロウ:「えーっと、今の税率は…」
オルクス:「はい。現在の税率は、所得や商業規模に応じて段階的に設定しておりますが、国民全体の平均としては、収穫及び収益の15%を基準としております。これは建国当初、陛下が定められた税率でございます」
*オルクスはよどみなく答える。15%。決して低くはないが、この国の充実したインフラや治安維持、大迷宮による経済効果を考えれば、国民の不満が出るほどの高税率でもないだろう。事実、帳簿を見る限り、税の未納や脱税といった問題はほとんど起きていないようだ。*
シロウ:「ふむ…。国民の生活水準はどうだ? 税の負担が重いという声は上がっていないか?」
*机に肘をつき、指を組んで問いかける。数字だけでは見えてこない、民の生の声をオルクスは把握しているはずだ。*
オルクス:「諜報部からの定期報告及び、私自身が市井で聞き込みを行った限りでは、税率に対する大きな不満は聞こえてきません。むしろ、安定した生活と安全を享受できることへの感謝の声が多数を占めております。これも全て、陛下の…」
シロウ:「お前の仕事ぶりのおかげでもある。それは分かっている」
*再び始まりそうになる賛辞を、手で制して遮る。*
*やはり、問題はない。だが、違和感は消えない。あまりに「綺麗」すぎるのだ。まるで、都合の悪い情報が意図的に排除されているかのように。*
*ふと、帳簿のある一点に目が留まる。それは、「その他雑費」として計上されている、比較的小さな金額の支出項目だった。毎月、ほぼ一定の額が、複数の部署から支出されている。一つ一つは些細な額だが、国全体で合計すると、決して無視できない金額になる。*
シロウ:「ふむ…」
*机上の帳簿を眺めながら、指でとんとんと机を叩く。オルクスは主人の意図を測りかね、静かに次の言葉を待っている。*
*思考は巡る。かつていた日本の消費税は、3%から始まり、5%、8%、そして10%と段階的に引き上げられていった。それは国の財政を維持し、社会保障を充実させるための苦肉の策だった。*
*だが、このアストライア魔導皇国は状況が違う。大迷宮という、文字通り「金のなる木」が存在する。冒険者たちがもたらす富、迷宮から産出される希少な素材、それらを求めて世界中から集まる商人や観光客。国の財政は、驚くほど潤沢だ。*
*ならば、思い切った手も打てるのではないか。*
*国民の税率を上げる。当然、反発は大きいだろう。しかし、その分、観光客や国外の商人から徴収する税を厚くするのだ。例えば、大迷宮への入場税、国外への特産品の輸出税、外国人向けの宿泊税や商業税などを新たに設ける、あるいは引き上げる。*
*そうすれば、国民の負担を増やさずに、さらなる国庫の充実が見込める。増えた歳入は、さらなるインフラ整備や社会福祉、軍備増強に充てることができる。国の基盤はより強固になるだろう。*
シロウ:「オルクス。一つ、試算を頼みたい」
*思考をまとめ、財務担当官に声をかける。*
オルクス:「はっ。何なりと」
シロウ:「もし、国民の基本税率を20%に引き上げた場合、そして同時に、大迷宮関連施設や国外からの渡航者、商人に対する税を新たに設定、あるいは増税した場合の歳入予測を出してみてくれ。国民の反発や消費の冷え込みも考慮した、現実的な数字が欲しい」
*その大胆な提案に、オルクスは一瞬、目を丸くした。しかし、すぐに冷静さを取り戻し、その頭脳を高速で回転させ始める。*
オルクス:「…承知いたしました。しかし陛下、税率の引き上げは、たとえ他の優遇措置があったとしても、国民の強い反発を招くかと。下手をすれば、暴動に繋がりかねません」
*彼の懸念はもっともだ。*
シロウ:「ああ、分かっている。だからこそ、試算が必要なんだ。増税によって得られる利益と、それによって失う国民の支持。どちらが大きいか、冷静に見極めねばならん」
*これは一種の賭けだ。しかし、国をさらに発展させるためには、時に大胆な改革も必要となる。主人の真剣な眼差しを受け、オルクスは深く頷いた。*
オルクス:「…畏まりました。すぐに各部署と連携し、詳細なシミュレーションを作成いたします。数日、お時間をいただけますでしょうか」
シロウ:「うむ、頼んだぞ」
*オルクスは帳簿をまとめ、一礼すると、足早に執務室を退出していった。彼の背中を見送りながら、再び一人になった部屋で、思考に耽る。*
*そして、もう一つの違和感の正体…「その他雑費」について、思いを巡らせるのだった。*
*オルクスが退室し、再び静寂が戻った執務室。先ほど彼に命じた税制改革の試算は、国の未来を左右する大きな一手だ。だが、それとは別に、どうしても拭えない小さな棘のような違和感が心に残っていた。*
*もう一度、帳簿の束に手を伸ばす。そして、先ほどから気になっていた項目を指でなぞった。*
シロウ:「それで、この『その他雑費』って何だ…?」
*独り言のように呟き、その内訳を記した補助簿をめくる。そこには、各部署から支出された備品購入費、交際費、修繕費などが細かく記載されていた。一見すると、何の問題もないように見える。だが、その支出先の中に、頻繁に登場する一つの名前があった。*
*『アガレス商会』*
*記憶にない商会名だ。この国に出入りする主要な商会であれば、名前くらいは聞いているはず。それなのに、国の複数の部署が、まるで定例のようにこの商会から備品を購入している。そして、そのどれもが市場価格よりわずかに高い。*
*塵も積もれば山となる。このわずかな上乗せ分が、国全体で見れば膨大な額になることは想像に難くない。そして、その金は『アガレス商会』を通じて、どこかへ流れている…。*
シロウ:(横領…か? いや、もっと根が深い何かか…)
*脳裏に、完璧すぎた帳簿と、それに安堵していた自分自身の姿が浮かぶ。優秀な財務担当官であるオルクスがこれに気づかないはずがない。彼が気づいていないのか、それとも…気づいていながら、何らかの理由で報告できないのか。*
*一旦、思考を停止させる。*
*小さな不正の芽は、見つけてしまった以上、摘まなければならない。だが、今すぐに動くのは得策ではない。下手に騒げば、相手に証拠隠滅の時間を与えるだけだ。*
シロウ:「いや、気のせいだな。考えすぎは良くない」
*自分に言い聞かせるように呟き、無理やり帳簿から目を離す。*
*そうだ。この国は安泰だ。金ならまだ腐るほどある。国庫が多少減ったところで、痛くも痒くもない。万が一、金が底をつきそうになったら、その時は大迷宮の深層にでも潜って、98階層あたりにいる古龍でも一匹狩ればいい。その素材だけで、国家予算の数年分にはなるだろう。*
シロウ:「はぁ〜部下が優秀で暇だ…」
*わざとらしく大きなため息をつき、背もたれにぐったりと体重を預ける。*
*この国は平和だ。自分は魔王であり、王であり、そして何より一人の父親だ。国の小さな不正を暴くことよりも、娘の成長を喜び、妻たちと穏やかな日々を過ごす方が、よほど建設的ではないか。*
*そう、無理やり自分を納得させる。だが、心の奥底で燻る疑念の火は、まだ完全には消えていなかった。*
*『アガレス商会』…その名を、頭の片隅に記憶する。*
*今はただ、嵐の前の静けさを楽しむことにした。*




