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《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
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*街の様子を観察しながら歩を進めたシロウは、やがて巨大な建造物――アストライア大迷宮の入り口にたどり着いた。活気のあるロビーには、これから迷宮に挑む冒険者や、探索を終えて帰還した者たちで賑わっている。ここはシロウが作った娯楽施設であり、同時に国の防衛戦力たる冒険者を育成する重要な場所でもある。*


*シロウは特に変装もせず、普段着のままギルド支部の受付カウンターへと向かった。彼の顔を知る者はこの国でもごく一部に限られており、大半の冒険者やギルド職員は、彼が王であることなど知る由もない。*


*カウンターの向こうでは、猫の獣人族の若い女性職員が忙しそうに書類を整理していた。シロウはカウンターに軽く肘をつき、気さくな口調で話しかける。*


シロウ:「すんませーん、今って何階層までクリアされてますかー?」


*その声に、猫耳をぴくりと動かした受付嬢――ミャレーナは、顔を上げた。目の前の男が誰かは知らないが、その佇まいに只者ではない何かを感じつつも、にこやかに対応する。*


ミャレーナ:「はい、こんにちは! えっと、現在の最高到達階層ですね。少々お待ちくださいニャ…」


*彼女は手元の資料をパラパラとめくり、最新の記録を確認する。*


ミャレーナ:「お待たせしましたニャ! 現在の最高到達階層は、**82階層**となっておりますニャ! つい先日、Sランクパーティ『蒼き流星』の方々が、81階層のフロアボス《テンペスト・ワイバーン》を討伐されたばかりですニャ!」


*ミャレーナは興奮気味に、目を輝かせながら報告した。1年前の73階層から、9つも階層が更新されている。この国の冒険者たちのレベルが、着実に向上している証拠だった。*


*シロウは受付嬢のミャレーナから最新の到達階層が82階層だと聞き、冒険者たちの成長速度に内心で満足げに頷いた。この国の戦力が着実に底上げされている証拠だ。*


シロウ:「わーお、すげぇな…あと数年もすれば91階層まで到達しそうだ…」


*シロウはそんな独り言を呟きながら、カウンターからひらりと身を翻した。受付嬢のミャレーナは、シロウの言葉の意味がよく分からず首を傾げていたが、すぐに次の冒険者の対応に追われて意識を切り替えた。*


*賑やかなギルドロビーを抜け、シロウは人通りのない裏路地へと入る。周囲に人の気配がないことを確認すると、彼は空間そのものを歪ませるように魔力を練り上げた。*


シロウ:「(さて、憂さ晴らしと魔力解放の時間だ)」


*彼の足元に複雑な魔法陣が瞬時に展開し、光と共にその姿を掻き消した。*


**――アストライア大迷宮・第100階層『玉座の間』**


*転移の光が収まると、シロウは広大で静寂に包まれた空間に立っていた。ここは彼だけが知る、大迷宮の最下層。天井は遥か高く、ステンドグラスから幻想的な光が差し込んでいる。そして、その広間の最奥には、禍々しくも荘厳な一つの玉座が鎮座していた。*


*ここならば、どれだけ暴れても、どれだけ強大な魔力を解放しても、地上に影響はない。シロウは満足げに息を吸い込むと、肩を軽く回した。*


*静寂に包まれた最下層『玉座の間』。シロウは溜め込んでいた鬱憤と、身体の奥底で渦巻く膨大なエネルギーを解き放つべく、肺一杯に空気を吸い込んだ。*


シロウ:「しゃっ!うおおおおおおおおお!!!!」


*次の瞬間、シロウの体から放たれた魔力は、もはや「解放」という生易しいものではなかった。それは、宇宙の創生にも匹敵するほどのエネルギーの「爆発」。黒と金の入り混じった魔力の奔流が、シロウを中心に同心円状に広がり、空間そのものを揺るがす。*


*ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!*


*玉座の間の床、壁、天井に刻まれた古代ルーン文字が、その規格外の魔力に反応して一斉に輝き始めた。しかし、それだけでは到底受け止めきれる量ではない。溢れ出した魔力は、迷宮の法則に干渉し、強制的に上層階へと逆流していく。*


**《警告:迷宮コアに許容量を超える魔力が流入。第99階層の環境情報が強制的に書き換えられます》**

**《第99階層の《合金龍(アロイ・ドラゴン)》の個体情報にエラーが発生。変異体(ミュータント)を生成します》**

**《警告:第98階層以下の全フロアに高濃度の魔素が拡散。出現モンスターが凶暴化・巨大化します》**

**《第80階層から第90階層にかけて、未解析の『魔石鉱脈』が複数生成されました》**


*シロウの脳内に、普段は聞くことのない迷宮管理システムからのアラートが無機質に響き渡る。だが、今のシロウはそんなことを気にも留めない。ただひたすらに、身体の芯から湧き上がる力の全てを、叫びと共に吐き出し続けていた。*


*凄まじい魔力によって空間が歪み、シロウの周囲にはいくつもの小さな時空の亀裂が生じては消えていく。まるで、この世界そのものが、彼の存在の重さに耐えきれずに悲鳴を上げているかのようだった。*


*この日、アストライア大迷宮に挑んでいた全ての高ランク冒険者たちは、突如として激変した迷宮の環境と、異常なまでに強化されたモンスターたちの前に、阿鼻叫喚の地獄を味わうこととなる。もちろん、シロウはそのことを知る由もない。*


*どれほどの時間、魔力を解放し続けたのか。シロウは、身体の隅々まで満たしていた澱のようなものが完全に抜けきったのを感じ、ようやく力の奔流を収めた。さっきまでの、宇宙が揺らぐほどの魔力圧が嘘のように消え、最下層には再び静寂が戻る。*


シロウ:「っふぅ…すっきりしたー。」


*シロウは満足げに息を吐き、心地よい疲労感に包まれる。先ほどの衛兵の件や、カイの失恋、ルミナの発明の末恐ろしさなど、溜まっていた細々としたストレスが綺麗さっぱり洗い流された気分だった。*


シロウ:「今日は良く寝れそうだ…!」


*晴れやかな気分で、シロウは一人ごちる。城に帰ったら、ふかふかのベッドでぐっすり眠ろう。そう考えながら、彼は再び転移魔法を発動させ、自室へと帰還するのだった。*


*この時、迷宮の高階層で地獄を見ていた冒険者たちの悲鳴や、自分の妻の一人であるレイラが大激怒していることなど、今のシロウは知る由もない。ただ、ぐっすり眠れるという確信だけを胸に、彼は玉座の間を後にした。*


---

**その頃、魔王執務室**


*レイラは、執務机に突っ伏して震えるレイをなだめつつ、先ほどシロウが引き起こしたポルターガイスト現象の恐怖と、それに続く迷宮方面からの天変地異の如き魔力の爆発に、怒りのボルテージが最高潮に達していた。割れた窓ガラス、倒れた鎧、そして何より自分をからかった夫への怒りが、彼女の魔力を黒いオーラとなって立ち昇らせる。*


レイラ:「シロウ……あの馬鹿は、一体何を考えておるのだッ!! 妾をコケにした挙句、国を揺るがすほどの魔力解放とは…! 帰ってきたら覚えておれよ……!!」


*ゴゴゴゴゴ…と部屋が揺れるほどの怒気を放ちながら、レイラは夫への「お仕置き」をどうするか、静かに、しかし禍々しく算段を練り始めるのであった。*


シロウ:「ただまー。」


*ぐっすり眠り、心身ともに完全にリフレッシュしたシロウは、翌日の昼過ぎにようやく目を覚ました。結界を張った自室は完璧な静寂に包まれており、これ以上ないほどの安眠を約束してくれていた。*


シロウ:「んー…、よく寝た。さて、腹も減ったし何か食うか」


*シロウは大きく伸びをすると、ベッドから降りて部屋の扉を開けた。*

*その瞬間、目の前に立っていた人物にギョッとする。*


*そこには、目の下にうっすらとクマを作り、般若のような形相をした妻、レイラが仁王立ちしていた。彼女の背後には、心配そうな顔をしたレイと、なぜか遠巻きに見守るメイドたちが控えている。*


*レイラは、一睡もせずに夜通しシロウの部屋の結界を叩き続け、声を枯らしながら罵倒し続けていたのだ。シロウが扉を開けた今、その溜めに溜め込んだ怒りが、静かに爆発しようとしていた。*


レイラ:「……おはよう、シロウ。ゆうべは、さぞかし、ぐっすりとお休みになられたようじゃのう…?」


*地を這うような低い声。その声色と表情だけで、彼女がどれほど怒り狂っているのかが一目瞭然だった。周囲の気温が、数度下がったかのような錯覚さえ覚える。*


レイ:「あ、あのねシロウ! レイラ、すっごく怒ってるから!」


*レイが小声で、しかし必死に警告してくる。だが、もはや手遅れだった。*


シロウ:「何を怒ってるんだ?」


*シロウのあまりにも無自覚で、心底不思議そうな一言。それは、一晩中怒りを溜め込み、夫の帰りを待ち続けたレイラの堪忍袋の緒を、完膚なきまでに断ち切った。*


*一瞬の静寂。廊下の空気が凍りつく。遠巻きに見ていたメイドたちが息を飲むのが分かった。*


*次の瞬間、レイラの表情から一切の感情が消え失せ、能面のような無表情になる。しかし、その身から立ち上る黒いオーラは、先ほどよりも密度を増し、物理的な圧力となって周囲を圧迫し始めた。*


レイラ:「……何を、じゃと…?」


*絞り出すような、地獄の底から響いてくるかのような声。*


レイラ:「ゆうべ、妾の執務室でふざけた真似をしおったのはどこのどいつじゃ…? 妾を散々コケにした挙句、国がひっくり返るほどの魔力をぶっ放して平然と眠りこけておったのは、どこの朴念仁じゃと、言うておるのじゃ!!!」


*ドドドドドドッ!!!*


*彼女の怒声と共に、凄まじい魔力が炸裂する。城の壁がビリビリと震え、廊下の窓ガラスにヒビが入った。*


*彼女は一歩、シロウに詰め寄る。その琥珀色の瞳には、純度100%の怒りの炎が燃え盛っていた。*


レイラ:「貴様…! 妾がどれだけ…! どれだけ心配し、どれだけ腹を立てておったか、分かっておるのか!? 結界なぞで引きこもりおって…! このままでは済まさぬぞッ!!」


*もう弁解の余地はない。レイラは完全に戦闘態勢に入っていた。隣でレイが「あわわわ…」とオロオロしているが、もはや彼女にも止められない。*


*シロウの悪びれない、むしろ「それが何か?」とでも言いたげな一言は、レイラの怒りの炎に、満タンのガソリンタンクを投げ込むに等しい行為だった。*


シロウ:「え?いや、迷宮内だったから大丈夫だって。影響ってあれだろ?迷宮の魔物が強化されたってやつ。大丈夫だろ」


*次の瞬間、レイラの背後で轟音と共に黒い魔力の柱が天を衝いた。城の廊下がメキメキと音を立てて砕け、天井のシャンデリアが衝撃波で粉々に砕け散る。遠巻きに見ていたメイドたちが悲鳴を上げて逃げ出した。*


レイラ:「だ、い、じょ、う、ぶ、だ、と……?」


*レイラの声は、もはや怒りを通り越して、絶対零度の殺意に満ちていた。*


レイラ:「貴様はッ! あの魔力解放で、迷宮に挑んでおった冒険者たちがどれほどの地獄を見たか分かっておるのか!? 報告によれば、80階層付近にいたSランクパーティが半壊! 帰還できた者たちも、トラウマでまともに剣も握れん有り様じゃぞ! それだけではない! 貴様が弄くり回したせいで、迷宮の構造自体が不安定になっておる! これが! 大丈夫だと!? ふざけるのも大概にせいッッ!!!」


*激昂したレイラは、もはや問答無用とばかりに、漆黒の魔力をその右手に収束させる。空間が歪み、凝縮された破壊のエネルギーが渦を巻く。それは、かつてアークライト聖王国を廃墟に変えた力の一端。*


レイ:「だ、だめだよレイラ! 城が壊れちゃう!」


*レイが必死に止めようとレイラの腕に縋りつくが、怒りで我を忘れた彼女には届かない。*


レイラ:「知るかッ! こんな城、後でいくらでも建て直せるわ! それよりもまず、この朴念仁に灸を据えてやらねば、妾の気が収まらん!! 覚悟せい、シロウッ! 【深淵よ、我が声に応えよ――終焉の黒雷(アビス・サンダー)】!!」


*レイラは詠唱と共に、極太の黒い雷をシロウ目掛けて解き放った。それは全てを呑み込み、塵芥へと変える破壊の奔流。もはや痴話喧嘩のレベルを遥かに超えた、本気の攻撃だった。*


*レイラの怒り、そして殺意が込められた【終焉の黒雷(アビス・サンダー)】。全てを破壊し尽くす漆黒の雷が、シロウへと迫る。*


*しかし、シロウはそれを避けるでもなく、防ぐでもなく、ただ静かに、無言でその身に受け入れた。*


*ドゴオオオオオオオオンッ!!!!*


*城の廊下を、いや、城の一角を吹き飛ばすほどの凄まじい爆発音と衝撃波が巻き起こる。壁は砕け散り、床はめくれ上がり、爆心地は黒煙と魔力の残滓で満たされた。*


レイラ:「……っ!」


*レイラは、あまりの抵抗のなさに、攻撃を放った直後にハッとして目を見開く。彼女の攻撃を、夫が真正面から受け止めた(食らった)という事実に。*


レイ:「シロウッ!!」


*黒煙が晴れていく。そこに立っていたのは、ボロボロになった服を纏い、全身からおびただしい量の血を流すシロウの姿だった。特に、雷が直撃した胸部は大きく抉られ、常人であれば即死、いや、肉片すら残らないであろうほどの凄まじい傷を負っている。見た目だけならば、致命的な重傷だ。*


*しかし、シロウは痛みを全く感じていないかのように、平然とした表情で立っていた。その傷も、彼の持つ超回復能力によって、ジワジワと再生を始めている。*


*だが、彼はその再生をあえて意識の外に置いた。*


*ふらり、と。*

*シロウの体が、糸が切れた人形のようにゆっくりと傾き、床に倒れ込む。*

*そして、ピクリとも動かなくなった。まるで、本当に力尽きたかのように、静かに目を閉じて。*


*ドサッ、という生々しい音が、破壊された廊下に響き渡る。*


*その光景に、先ほどまで怒り狂っていたレイラの顔から、サッと血の気が引いていく。*


レイラ:「……え…? し、シロウ…?」


*自分の放った本気の攻撃で、夫が血まみれになって倒れている。その衝撃的な光景が、彼女の怒りを一瞬で吹き飛ばし、代わりに絶対的な恐怖と絶望を心に叩き込んだ。*


レイ:「う、うそ…、シロウが…、シロウが…!」


*レイは腰を抜かし、その場にへたり込んで震えている。信じられない、信じたくない光景が目の前に広がっていた。*


*床に倒れ伏し、おびただしい血を流すシロウ。その口から、か細く、掠れた声が漏れた。*


シロウ:「気…は済んだ…か?ごめんな…」


*その言葉は、まるで最後の力を振り絞って紡がれたかのように弱々しく、破壊された廊下に虚しく響いた。*


*レイラの琥珀色の瞳が、絶望に見開かれる。怒りの炎は完全に消え去り、代わりに注がれたのは氷水のような後悔と恐怖だった。*


レイラ:「あ……あ……」


*声にならない声が、喉から漏れる。自分の手で、愛する夫をこの手にかけてしまったかもしれない。その事実が、彼女の思考を完全に停止させた。さっきまでの怒りも、夫をからかわれた苛立ちも、全てがどうでもよくなっていた。*


レイラ:「シロウ…? 嘘じゃ…、そんな…、妾は…ただ、少し懲らしめるつもりだっただけで…!」


*震える足で、彼女は倒れたシロウの元へ駆け寄る。血の海に膝をつくのも構わず、その体を抱き起こそうと手を伸ばした。しかし、触れるのが怖い。触れて、その体の冷たさを確認してしまうのが。*


レイ:「いやぁぁぁ! シロウが、シロウが死んじゃう! ルミナ! 誰か! 回復魔法を!!」


*腰を抜かしていたレイが、我に返って絶叫する。その声は涙で震え、廊下の奥へと響き渡っていった。*


*レイラは、血まみれのシロウを前に、ただただ震えることしかできなかった。自分の怒りが、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまった。その絶望的な現実に、彼女の世界は音を立てて崩れ落ちていく。*


*シロウの弱々しい声と、血で濡れた手で握られた感触に、レイはびくりと体を震わせた。さっきまで絶叫していた彼女の頭は、混乱と恐怖で真っ白になっていた。*


シロウ:「だい…じょ…ゴホッ…このく…らいで…まお…うは、シナ…ない…」


*咳と共に、シロウの口からさらに血が溢れる。その生々しい光景に、レイラの顔色は土気色を通り越して真っ白になった。彼女は縋るようにシロウの体に手を伸ばし、震える声で叫ぶ。*


レイラ:「喋るな! 喋れば傷が開くであろうが! なぜ避けなんだ! なぜ防がなんだ! 貴様なら、妾の攻撃など容易く捌けたはずであろうに!!」


*その声は怒声ではなく、悲痛な叫びだった。自分の愚かさを、夫の無謀さを詰る、後悔に満ちた声。*


レイ:「そうだよ! なんで! なんでそんな…! ルミナ! ルミナはどこ!? 早く!」


*レイは半狂乱で周囲に助けを求める。その声を聞きつけ、ようやく数人のメイドと共に、事態の深刻さを察して駆けつけてきたルミナの姿が廊下の奥に見えた。*


ルミナ:「何この惨状は!? お兄ちゃん!?」


*血の海と破壊された廊下、そしてその中心で倒れるシロウの姿を認め、ルミナの顔から血の気が引いていく。彼女は即座に状況を理解し、駆け寄りながら回復魔法の詠唱を開始する。*


*レイラは、駆け寄ってくるルミナの姿を認識しながらも、ただただシロウの体を抱きしめ、その体温が失われていないかを確認するように、震えることしかできなかった。自分のせいで、愛する夫が死にかけている。その現実が、彼女の心を容赦なく抉っていた。*


*シロウの口から漏れた、冗談めかした弱々しい言葉。それは、かつてレイラが記憶を失い、シロウを敵と誤認して攻撃した時の記憶を呼び起こさせるものだった。あの時も、シロウは彼女の攻撃を受け入れ、血を流した。*


シロウ:「からだ…にあな、空いたのは…これ…で、にかいめ…だな…ははは」


*乾いた笑い声は、しかし血の混じった咳によってすぐに途切れる。*


*その言葉は、レイラの心に突き刺さる最後の刃だった。*


レイラ:「……っ、やめろ…! そのようなことを…言うでない…!」


*彼女の脳裏に、忘れたくても忘れられない忌まわしい記憶が蘇る。自分のせいで、この最愛の男を二度も傷つけてしまった。一度目は不可抗力だったと言い訳ができた。だが、今回は違う。完全に、自分の嫉妬と怒りが原因だ。*


*後悔、罪悪感、そしてシロウを失うかもしれないという恐怖が、レイラの精神を限界まで追い詰める。*


レイラ:「妾が…妾が悪かった…! だから…だから、死ぬな! シロウ! 妾を一人にするでない…ッ!」


*プライドの高い彼女が、初めて心の底から漏らした弱音だった。涙でぐしゃぐしゃの顔で、血まみれのシロウの胸に顔をうずめ、子供のように泣きじゃくる。*


*その時、凄まじい速さで駆けつけてきたルミナが、シロウの側に滑り込んだ。*


ルミナ:「お兄ちゃん! しっかりして! 【聖なる癒しの光よ――最高位治癒(ハイ・ヒール)】!!」


*ルミナの両手から放たれた眩い光が、シロウの体を優しく包み込む。抉られた胸の傷が、おびただしい出血が、奇跡的な速度で塞がっていく。*


*しかし、シロウはルミナが治癒を施す直前、レイラにだけ聞こえるような、本当に小さな声で呟いた。*


シロウ:「(…これで、おあいこ…な…)」


*シロウの掠れた声は、彼の血に塗れた口から、駆けつけたばかりのルミナへと向けられた。自分の心配よりも、彼女の服が汚れることを気遣うような言葉。*


シロウ:「る…みな…ちがつく…ぞ…かわい…ゴホッ…ふくが…だいな…し…だ…。」


*その言葉に、最高位治癒の光を放っていたルミナの動きが、一瞬だけ止まる。*


ルミナ:「お兄ちゃん…! こんな時に、何を言ってるの…! 私の服なんてどうでもいい! 黙ってて!」


*彼女は目に涙を溜めながらも、気丈に叱りつけ、さらに魔力を注ぎ込む。眩い光がシロウの体を包み、常識では考えられない速度で肉体が再生していく。抉れた胸は塞がり、おびただしい出血もピタリと止まった。*


*しかし、シロウの「おあいこ」という囁きを聞いてしまったレイラは、その治癒の光景をただ呆然と見つめることしかできない。*


レイラ:「(おあいこ…じゃと…? ゆうべの…妾をからかったことの…? その程度のことで…貴様は…これほどの…?)」


*彼女は理解した。シロウは、自分の怒りを受け止め、この茶番じみた「死に様」を演じることで、昨夜の悪戯と相殺しようとしたのだと。自分の浅はかな怒りが、彼にここまでさせてしまった。その事実に、レイラの心は後悔で張り裂けそうになる。*


*ボロボロに泣きじゃくりながら、彼女は再生していくシロウの体を、壊れ物を扱うかのようにそっと抱きしめる。*


レイラ:「すまぬ…! 妾が…妾が、愚かだった…! 許してくれとは言わぬ…! だから…! だからもう、このような真似は…しないで…おくれ…っ」


*もはや魔王の威厳など欠片もない。ただ一人の、愛する男を傷つけてしまった罪悪感に苛まれる、か弱い少女の悲痛な嗚咽だけが、破壊された廊下に響き渡っていた。*


*シロウのかすれた声が、破壊された廊下に響く。それは、最後の力を振り絞ったかのような呼び声だった。*


シロウ:「イグニ…来い…」


*その呼び声に応え、何もない空間から突如として炎が渦を巻き、一体の荘厳な鳥が現れる。カイの守護獣であり、シロウを主と仰ぐ不死鳥、イグニだ。*


*イグニは主の血の匂いと、周囲の惨状、そして何より主の危機的状況を瞬時に察し、甲高い威嚇の鳴き声を上げた。その金色の瞳は、シロウを抱きしめるレイラと、治癒魔法を施すルミナを鋭く射抜く。*


*シロウは、そのイグニの存在を気配で確認すると、レイラの腕の中で安堵したかのように呟いた。*


シロウ:「だい…じょう…ぶ…」


*その言葉を最後に、シロウは全ての力を失ったかのようにぐったりと体重をレイラに預け、完全に意識を手放した。ルミナの最高位治癒によって肉体的な傷はほぼ塞がっていたが、精神的な消耗と、何よりシロウ自身の「演じる」という意志によって、彼は深い眠り(のフリ)に落ちたのだ。*


*主が意識を失ったと判断したイグニは、警戒心を最大に引き上げ、燃え盛る翼を広げてレイラたちを威嚇する。主を守るためならば、たとえ相手が王妃であろうと容赦しないという強い意志がその姿から溢れ出ていた。*


レイラ:「……っ」


*腕の中でぐったりとなったシロウの重みに、レイラの心臓は氷で掴まれたように冷たくなる。イグニの敵意に満ちた視線を受けながらも、彼女はただ、意識を失った夫の顔を呆然と見つめることしかできなかった。*


ルミナ:「お兄ちゃん! お兄ちゃん、しっかりして!」


*ルミナが必死に呼びかけるが、シロウからの反応はない。治癒魔法は確かに成功したはずなのに、なぜ意識が戻らないのか。ルミナの顔にも、焦りと恐怖の色が濃くなっていく。*


*自らの怒りが引き起こした、最悪の結末。レイラは、腕の中の夫の重みを、自身の罪の重さとして、ただただ噛みしめるのだった。*


ーー


*シロウが意識を手放してから、数日が経過した。*

*城の中は、奇妙な静けさに包まれていた。主が倒れたという事実はトップシークレットとされ、知る者はごく一部に限られたが、王妃レイラの纏う尋常ならざる低気圧と、ルミナが自室に引きこもって何か恐ろしい研究に没頭しているという噂は、使用人たちの間でまことしやかに囁かれていた。*


*そして、ルーナの卒業式を翌日に控えた、ある日の午後。*


*シロウの自室。豪華で広々としたキングサイズのベッドの上で、シロウはゆっくりと目蓋を開いた。完璧な結界に守られた部屋は、数日前と変わらず静寂に満ちている。*


シロウ:「(ん……? 寝すぎたか…?)」


*体を起こすと、肉体的な痛みや違和感は全くない。ルミナの最高位治癒は完璧だった。ただ、数日間眠り続けていたせいで、少し体が怠い。*

*ベッドサイドを見ると、水差しや果物が綺麗に整えられ、毎日交換されていたことが窺える。*


*状況を把握しようと記憶を辿る。レイラを怒らせ、彼女の本気の一撃をわざと食らい、血まみれになって倒れ、弱々しい言葉を吐き、イグニを呼んで意識を手放した――そこまでを思い出す。*


シロウ:「(…さて、やりすぎた感は否めないが、レイラの気は済んだ……というより、逆効果だったか? まあ、いい。とりあえず、ルーナの卒業式には顔を出さないとな)」


*シロウはベッドから降りると、大きく伸びをした。あの茶番の後、城がどのような雰囲気になっているのか、少しだけ気になりながらも、まずは空腹を満たそうと部屋の扉へと向かうのだった。*


*シロウが自室の扉を開けると、そこには彼の予想しなかった人物がいた。まるでずっとそこで待っていたかのように、扉の前に佇んでいたのはレイだった。彼女の目元は少し赤く、この数日間の心労を物語っている。*


シロウ:「あ、レイ、おはよっ」


*シロウがいつもと変わらない、気の抜けたような挨拶をすると、レイの琥珀色の瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。*


レイ:「シロウッ…! よかっ、た…! 目を覚ましたんだね…っ!」


*彼女は次の瞬間にはシロウの胸に飛び込み、その体にぎゅっとしがみついて声を上げて泣き始めた。数日間の不安と恐怖、そして安堵が一度に爆発したかのようだった。*


*シロウは、そんなレイの小さな体を優しく受け止めると、何も言わずにその頭をゆっくりと撫で始めた。*


レイ:「うわぁぁぁん…! もう、目を覚まさないかと思った…! レイラもルミナも、ずっと変な感じで…! ボク、怖かったんだよぉ…!」


*しゃくり上げながら、途切れ途切れに訴えるレイ。シロウはただ黙って、彼女が落ち着くまで、その柔らかな髪を優しく、優しく撫で続けた。彼女の涙が、自分の服を濡らしていくのを感じながら。*


*シロウの優しい撫で方に、レイは少しずつ落ち着きを取り戻してきた。しゃくり上げる回数が減り、シロウの胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で話す。*


レイ:「…お腹、空いたの…?」


*シロウの言葉に、食いしん坊な彼女の本能が反応したらしい。涙で濡れた瞳を上げて、シロウの顔をじっと見つめる。*


シロウ:「よしよし。お腹空いたから何か食べに行かない?」


*その言葉に、レイはこくこくと頷いた。そして、何かを思いついたようにパッと顔を輝かせる。さっきまでの泣き顔が嘘のようだ。*


レイ:「うん! 行く! あのね、シロウ! 街に新しいクレープ屋さんができたんだって! ルーナが言ってた! 虹色の綿菓子が乗ってる、すっごく美味しいクレープなんだって!」


*目をキラキラさせながら、レイはシロウの服の袖をぎゅっと掴んでぶんぶんと振る。すっかりいつもの調子を取り戻したようだ。*


レイ:「行こ! 今すぐ行こ! ボク、お腹ぺこぺこだもん!」


*シロウが倒れていた数日間の不安を、甘くて美味しいもので一気に吹き飛ばしたい。そんな彼女の純粋な欲求が、シロウを新しいお店へと導こうとしていた。*


*シロウの提案に、レイは一瞬きょとんとした。*

*彼女にとって、食事は食事。クレープだって立派な食事だ。しかし、シロウのその妙なこだわりが、逆に面白く感じられた。*


レイ:「えー? クレープはおやつ? でも、お腹いっぱいになるよ? じゃあ、ご飯の前にクレープを食べて、その後にご飯を食べに行こうよ!」


*レイは名案だとばかりに胸を張り、シロウの腕をぐいぐいと引っ張る。その無邪気な笑顔に、シロウも思わず苦笑いを浮かべた。*


シロウ:「クレープは飯とは言わない…気が…? まぁ、いいか…」


*この数日間の重苦しい空気を吹き飛ばすには、彼女のこの天真爛漫さが必要なのかもしれない。シロウはそう思い直し、レイの提案に乗ることにした。*


シロウ:「分かった分かった。じゃあ、その虹色の綿菓子が乗ってるっていうクレープ屋に行ってみるか。お前のオススメなら間違いないだろ?」


レイ:「うんっ! きっとすっごく美味しいよ! いっぱい乗せてもらおうね!」


*すっかり機嫌を直したレイは、シロウの手を引いて意気揚々と廊下を歩き出す。その足取りは軽く、今にもスキップしそうなほどだった。*


*城の外へ向かう途中、廊下の曲がり角で、シロウとレイは一人の人物と鉢合わせした。*

*メイド長のリーシアだ。*


*リーシアは、シロウが目を覚まし、しかもレイと連れ立って歩いているのを見て、一瞬、その美しい顔から表情を消した。そして、深々と、完璧な角度でお辞儀をする。*


リーシア:「シロウ様。ご回復、心よりお慶び申し上げます。…それで、どちらへお出かけで?」


*その声は丁寧で、完璧なメイド長としてのものだった。しかし、その瞳の奥には、シロウがレイと二人きりでいることへの、かすかな、しかし確かな嫉妬の炎が揺らめいているのを、シロウは見逃さなかった。*


*リーシアの静かな、しかし有無を言わせぬ圧力に、レイはあからさまにしょんぼりとした。せっかくのクレープが遠のいてしまったのだ。しかし、シロウの体調を気遣うリーシアの正論には逆らえず、二人は大人しく城の食堂へと案内された。*


*広々とした食堂にはまだ誰もおらず、静まり返っている。リーシアは手際よくシロウとレイの分の食事を準備し、テーブルに並べていく。*


*湯気の立つ温かいスープ、こんがりと焼かれたパン、新鮮な野菜のサラダ、そしてジューシーなソーセージ。シンプルだが、栄養バランスの考えられた、いかにも「朝食」といったメニューだ。*


*リーシアは完璧な所作でシロウの席にスープ皿を置くと、穏やかな、しかしどこか棘のある笑みを浮かべた。*


リーシア:「シロウ様。まずは胃に優しいものからお召し上がりください。病み上がりに、いきなり甘いものや脂っこいものは毒でございますよ」


*その言葉はシロウを気遣うものだが、隣でパンをむっと睨んでいるレイへの牽制も含まれているのは明らかだった。*


*レイは、目の前の美味しそうなソーセージには目もくれず、頬をぷくりと膨らませている。虹色の綿菓子が乗ったクレープの夢は、リーシアによって無慈悲にも打ち砕かれたのだ。*


レイ:「…クレープ…」


*ぽつりと、恨めしそうな声が食卓に響いた。*


*シロウがリーシアの言葉に同意し、内心で自分の年齢を省みたその時、隣から刺すような視線を感じた。視線の主は、もちろんレイだ。*


シロウ:「それもそうだな…」

レイ:「(じーっ…)」


*レイは、シロウがリーシアに同調したことが心底不満らしい。口を尖らせ、スプーンでスープをかき混ぜながら、シロウを上目遣いで睨んでいる。その琥珀色の瞳は「ボクのクレープの夢を裏切った!」と雄弁に語っていた。*


リーシア:「ご理解いただけて何よりです、シロウ様。ささ、冷めないうちにどうぞ。レイ様も、いつまでも遊んでいないで、ちゃんとお召し上がりください。シロウ様がご回復されたというのに、そのような不貞腐れたお顔をなさるのは、はしたのうございますよ」


*リーシアは完璧な笑みを崩さず、しかし有無を言わせぬ口調でレイを窘める。その言葉に、レイはさらに頬を膨らませた。*


レイ:「…むぅ。だって、クレープ…。シロウのバカ。リーシアの意地悪…」


*小さな声で悪態をつきながらも、レイは渋々スープに口をつけた。しかし、その表情は明らかに納得していない。*


*そんな二人の間に挟まれ、シロウは少し気まずい思いをしながら、温かいスープを一口すする。優しい野菜の味が、空っぽだった胃にじんわりと染み渡っていく。確かに、今の自分にはこちらのほうが合っているのかもしれない。*

*(…アラフォーには、朝からクレープはキツいか…)と内心で苦笑しながら。*


*シロウがパンを咀嚼する音だけが、静かな食堂に響く。*


シロウ:「(パン…米食いてぇ…お粥…)モグモグ( "´༥`" )」


*その様子を、リーシアは満足げな笑みで見守っている。シロウ様がきちんと食事を摂られている。それだけで彼女は満たされるのだ。*


*一方、隣の席のレイは、まだ不満そうだ。スプーンでスープをちびちびと口に運びながら、シロウの横顔をじっと見つめている。その視線は「ボクはまだクレープを諦めてないからね」と訴えかけてくるようだった。*


*そんな中、食堂の扉が静かに開いた。*


*入ってきたのは、銀髪を揺らし、いつも通りの涼やかな表情を浮かべたルミナだった。彼女はシロウの姿を認めると、わずかに目を見開き、そしてすぐに駆け寄ってきた。*


ルミナ:「お兄ちゃん! 目が覚めたんだね…!」


*その声には、隠しきれない安堵の色が滲んでいる。彼女はシロウの隣まで来ると、その顔を心配そうに覗き込んだ。*


ルミナ:「体は…? もう大丈夫なの? 無茶ばっかりするから…心配したんだからね…」


*口では文句を言いつつも、その蒼い瞳は不安と喜びで揺れていた。そして、彼女はシロウの向かいの席に座ると、テーブルの上に置かれた食事を見て、隣に立つリーシアに鋭い視線を向けた。*


ルミナ:「リーシア。私の分も用意して。お兄ちゃんと同じものでいい」


*シロウが何気なくレイラの名前を口にした瞬間、食堂の空気が凍りついた。*


シロウ:「ああ、ちょっと寝すぎてダルいくらいだから大丈夫大丈夫。レイラは?」


*レイはパンを口に運びかけていた手を止め、びくりと肩を震わせる。その表情は恐怖に染まっていた。*

*リーシアは無表情を保っているが、その瞳には憐れみのような色が浮かんでいる。*

*そして、シロウの問いに答えたのは、向かいに座るルミナだった。彼女は深いため息をつき、呆れと心配が入り混じった表情でシロウを見つめた。*


ルミナ:「…レイラなら、執務室に籠ってるよ。私たちが声をかけても、返事もしないで…。お兄ちゃんが目を覚ましたことも、まだ知らないと思う」


*ルミナは一度言葉を切り、テーブルの上で指を組んだ。*


ルミナ:「…分かってる? お兄ちゃん。レイラがどれだけ後悔してるか。自分のせいで、お兄ちゃんを殺しかけたって…。ずっと自分を責めて、食事もほとんど喉を通ってないみたい。レイですら、近寄れないくらい荒れてる」


*ルミナの蒼い瞳が、まっすぐにシロウを射抜く。その言葉は、責めているようでいて、同時にシロウに行動を促しているようにも聞こえた。*


*隣のレイが、小さな声でぽつりと呟く。*


レイ:「…今のレイラ、すっごく怖いんだ。ボク、近づいたら…また、ひどいこと言われそうで…」


*レイは俯いて、目の前のスープ皿を見つめている。彼女にとっても、今のレイラの状態は相当なショックのようだ。*


*シロウは静かに食事を終えると、ルミナとレイの心配そうな視線を背中に受けながら席を立った。リーシアは何も言わず、ただ深々と頭を下げる。彼女もまた、この状況の行く末を案じているのだろう。*


*重厚な扉が並ぶ城の廊下を、シロウは一人歩く。目指すはレイラの執務室だ。*

*以前、彼女が書類仕事に追われていたあの部屋。今は、彼女がたった一人で罪悪感と後悔に苛まれているであろう場所。*


*執務室の前に辿り着くと、シロウは深く息を吸い、そして静かに吐き出した。*


シロウ:「俺が行ってくるよ」


*食堂での言葉を、自分に言い聞かせるように心の中で反芻する。*


*扉に手をかけ、しかしすぐには開けない。中から物音一つ聞こえてこない。まるで、誰もいないかのように静まり返っている。だが、シロウには分かっていた。この扉の向こうに、彼女がいることを。*


*コン、コン*


*シロウは、あえて声はかけなかった。ただ、静かに、扉を2度ノックする。*

*その音だけが、静寂に包まれた廊下に響き渡った。*


*返事はない。*


*シロウはもう一度、同じようにノックする。*


*コン、コン*


*それでも、扉の向こうからの反応はなかった。まるで、中の人物が外界との接触を完全に拒絶しているかのようだった。*


*シロウは扉の前で静かに目を閉じた。数度のノックにも応じないレイラの頑なな態度に、彼は最終手段を取ることを決める。*


シロウ:「(隠匿神)」


*心の中でスキル名を唱えると、シロウの気配、音、匂い、魔力、その存在を示すあらゆる情報が世界から完全に消失する。まるで初めからそこにいなかったかのように、彼の姿が揺らぎ、そして音もなく執務室の扉をすり抜けていった。*


*部屋の中は、予想以上に酷い状態だった。*


*薄暗い室内。カーテンは固く閉ざされ、日の光を一切通していない。机の上には大量の書類が散乱し、そのいくつかは床に落ちていた。インク瓶は倒れ、黒い染みが絨毯に広がっている。部屋の隅には、空になった酒瓶が数本転がっていた。*


*そして、その惨状の中心に、彼女はいた。*


*レイラは、窓際の長椅子に深く身を沈め、膝を抱えるようにして蹲っていた。その姿は小さく、ひどく儚げに見える。いつもは丁寧に結い上げられている黒髪は乱れ、顔は膝の間に埋められていて窺い知れない。*


*聞こえるのは、彼女のかすかな、押し殺すような嗚咽だけ。*


*シロウが倒れていた数日間、彼女はずっとこの暗い部屋で、たった一人、後悔と自責の念に苛まれ続けていたのだ。その事実が、室内の荒れ果てた様子と、彼女の痛々しい姿から痛いほど伝わってきた。*


*《隠匿神》の効果で、レイラはシロウの存在に全く気づいていない。ただ、暗闇の中で静かに涙を流し続けている。*


*シロウは、膝を抱えて嗚咽を漏らすレイラの痛々しい姿を、気配を殺したまま静かに見つめていた。彼女の心の殻は、物理的な扉よりもずっと固く閉ざされている。その内側を知るために、彼はそっと意識を集中させた。*


シロウ:「(読心術)」


*スキルを発動した瞬間、嵐のような感情の濁流がシロウの意識に流れ込んでくる。それは、レイラの心の中を渦巻く、黒く、重く、冷たい絶望そのものだった。*


レイラ:「(妾のせいだ…妾が、シロウを…殺しかけた…)

(なぜ、あのようなことを…! なぜ、激情に身を任せてしまったのだ…!)

(許してくれとは言わぬ、と、口では言った。だが、本当は…? 嫌われたくない。見捨てられたくない。だが、もう遅い。当然の報いだ)

(あの男は、いつもそうだ。妾がどんなに酷いことをしても、最後には許してしまう。だが、今度こそ…今度こそ、愛想を尽かされたに違いない)

(あの胸の傷…妾がつけた傷…。あの時の感触が、手に残っている…。血の匂いが、鼻から離れない…)

(怖い。怖い。怖い。シロウに会うのが怖い。顔が見れない。声が聞けない。だが、会いたい。声が聞きたい。無事な姿を、この目で見たい)

(どうすればいい。どうすれば、償える。妾は、どうすれば…)


*後悔、自己嫌悪、恐怖、そしてシロウへの歪んだ愛情。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合い、彼女の心を苛んでいた。シロウが自分を避けているのではないか、もう二度と会ってくれないのではないかという強迫観念にも似た不安が、彼女をこの暗い部屋に縛り付けている。*


*それは、あまりにも痛々しく、孤独な心の叫びだった。*


*シロウは、気配を完全に消したまま、レイラの心の奔流を受け止めていた。後悔、自己嫌悪、恐怖、そしてシロウへの依存にも似た愛情。その全てが、彼女をこの暗い部屋に縛り付けている。*


*静かに思考を巡らせる。《読心術》と《隠匿神》は起動させたまま。今の彼女に、正面から姿を現しても、おそらくパニックに陥るか、心をさらに固く閉ざしてしまうだろう。かといって、このまま放置するわけにもいかない。彼女の精神は、限界に近い。*


シロウ:「(…まず、この暗くて重い空気をどうにかしないと。光と、何か…安心できるものを)」


*シロウはそっと指を鳴らした。魔法ではない。彼の意思が、世界の法則に微かに干渉する。*


*すると、固く閉ざされていたカーテンの隙間から、まるで生き物のように柔らかな光が数条、室内に差し込んできた。それは決して眩しいものではなく、暗闇に慣れた目に優しい、温かな午後の光だった。光の筋は床を滑り、散らかった書類や転がった酒瓶を照らし、そして…膝を抱えるレイラの足元を優しく照らし出した。*


*突然の光に、レイラはびくりと肩を震わせる。しかし、顔を上げることはしない。ただ、自分の足元に現れた光の溜まりを、膝の隙間から見つめているだけだった。*


*次にシロウは、部屋の隅に転がっていた空の酒瓶や、床に散らばった書類に意識を向けた。それらはふわりと宙に浮き上がり、音もなく元の場所へと片付けられていく。倒れたインク瓶はまっすぐに立ち、こぼれたインクの染みは、まるで時間を遡るかのように絨毯から消えていった。*


*部屋が、少しずつ、元の静かで美しい執務室の姿を取り戻していく。*


*レイラは、その不可解な現象に、ようやく僅かな反応を示した。嗚咽が止まり、怪訝そうに、ゆっくりと顔を上げる。乱れた髪の隙間から、赤く腫れた琥珀色の瞳が覗いた。*


*もちろん、そこには誰もいない。ただ、部屋が勝手に片付いていき、温かい光が差し込んでいるだけ。常識では考えられない、ポルターガイストのような現象。*


*しかし、その現象には不思議と悪意や恐怖は感じられなかった。むしろ、乱れきった彼女の心を宥めるような、優しささえ感じられる。*


*レイラは呆然と、その光景を見つめていた。何が起きているのか、全く理解が追いついていない様子だった。*


*シロウは、呆然とポルターガイスト現象を見つめるレイラの傍に、音もなく近づいた。彼女の心の声は、未だに混乱と恐怖、そしてほんの少しの当惑で満ちている。*


*『な…なんなのだ、これは…。悪霊の類か…? いや、邪気は感じぬ…。むしろ…温かい…?』*


*シロウは彼女のすぐ隣に立ち、そのやつれた横顔を見つめる。乱れた黒髪の隙間から覗く、赤く腫れた琥珀色の瞳。その潤んだ瞳は、目の前で起きる不可思議な現象から目が離せないでいる。*


*シロウはそっと人差し指を伸ばし、彼女の冷え切った頬を、優しく、つん、と突いた。*


*ツンッ*


*その瞬間、シロウは自分の存在を覆い隠していた《隠匿神》のスキルを解除した。*


*「!?」*


*頬に触れた柔らかな感触と、突如としてすぐ隣に出現した人の気配に、レイラの体が石のように硬直する。*


*彼女の時間が、止まった。*


*ゆっくりと、まるで錆びついた人形のように、ギギギ…と音が鳴りそうなほどぎこちなく、彼女の顔がこちらを向く。*


*そして、赤く腫れた琥珀色の瞳が、すぐ目の前にいるシロウの姿を捉えた。*


レイラ:「……………ぇ」


*信じられない、という表情。幻覚か、夢か、それとも都合の良い妄想か。彼女の脳が、目の前の情報を処理しきれずにショートしている。*


*シロウは何も言わず、ただ、困ったように少しだけ眉を下げて、彼女を見つめ返した。*


*レイラの琥珀色の瞳が、目の前のシロウの姿を捉えたまま、大きく見開かれている。その瞳には、信じられないという驚愕と、夢であってほしいという願望、そして現実であることへの恐怖がごちゃ混ぜになって映っていた。*


*シロウの切り忘れによって流れ込んでくる心の声は、絶叫に近い。*


*『シロウ…!? な、なぜ…!? いつからそこに…!? いや、それよりも…! 幻覚じゃない…? 妾の…妄想か…?』*


*混乱とパニックで、彼女の思考は完全に麻痺している。*


シロウ:「こんな暗いところで何してんだ?」


*その、いつもと変わらない、少し気の抜けたような、それでいて優しい声が、レイラの鼓膜を震わせた。*

*それは、紛れもなく本物のシロウの声だった。*


*その事実を認識した瞬間、レイラの瞳から、再び大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。*


レイラ:「あ…ぁ…、し…しろう…?」


*震える声で、彼の名前を呼ぶのが精一杯だった。なぜここにいるのか、どうやって入ってきたのか、そんな疑問よりも先に、彼が生きている、目の前にいるという事実が、彼女の感情の堤防を完全に決壊させた。*


*『会いたかった。でも、会いたくなかった。怖い。でも、嬉しい。どうしよう。どうしよう。なんて顔をすればいい。妾は…妾は、お前を…!』*


*心の声は、悲鳴と嗚咽で満ち満ちている。*


レイラ:「ご…、ごめ…なさ…っ…」


*顔をくしゃくしゃに歪め、彼女はシロウの胸に縋りつくように顔を押し付けた。そして、子供のように声を上げて泣きじゃくり始めた。謝罪の言葉は、嗚咽に遮られて最後まで紡がれることはなかった。*


*シロウの優しい声と、問いかけるような言葉が、レイラの心の奥深くまで突き刺さる。*


シロウ:「俺こそごめんな。許してくれる?」


*その言葉は、まるで魔法だった。*

*自分がしでかしたことへの許しを乞わなければならないのは、自分の方なのに。なぜ、この男はいつもこうなのだろうか。なぜ、先に謝るのだろうか。*

*シロウの切り忘れによって流れ込んでくる彼の心の声は、レイラの混乱をさらに加速させる。*


*『あー…泣かせちまったか…。いや、俺が悪いんだけど。無神経だったな…。迷宮での魔力解放も、レイラの執務室でのイタズラも、全部俺が原因だしな。怒らせて、あんな顔させて、挙句に避けずに攻撃受けて…。そりゃ、病むよな…。完全に俺の自業自得だ』*


*彼の思考が、そのまま彼女の心に響く。*

*レイラは、自分の罪悪感だけでなく、シロウの後悔と自責の念までも直接感じてしまい、胸が張り裂けそうになった。*


*彼女はシロウの胸に顔を埋めたまま、首を激しく横に振った。*


レイラ:「ちが…っ! 違う! 妾が…! 妾が悪いのじゃ…! シロウは、何も悪くない…っ! なのに…妾は…っ、貴様を…!」


*嗚咽で言葉が続かない。許される資格などない。そう思えば思うほど、シロウの優しさが辛かった。*


*シロウは、そんな彼女の背中を、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと、優しく撫で始めた。規則正しい、温かなリズムが、硬直した彼女の体を少しずつ解きほぐしていく。*


シロウ:「ん。じゃあ、お互い様ってことで。これで終わりにしよう。な?」


*諭すような、穏やかな声。*

*レイラは何も答えられない。ただ、シロウの胸元で、彼の服を濡らしながら、声を殺して泣き続けることしかできなかった。*

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