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《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
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*シロウは、暴発した魔法をいとも簡単に防いでみせた。その不思議な現象に、訓練そっちのけで駆け寄ってきたルーナは、目を輝かせながら問いかける。*


ルーナ:「パパ、今のなに!? すごい! 透明な壁みたいなのが出てきて、魔法を弾いたよね!? あんな魔法見たことないよ!」


*自分の失態を棚に上げ、すっかり新しい魔法に興味津々の娘。その姿に呆れつつも、シロウは腕の中のステラをあやしながら、面倒くさそうに答えた。*


シロウ:「何とかってゲームであったやつを真似しただけだ。」


*その言葉に、周りで聞いていた訓練兵たちは「げぇむ…?」と首を傾げる。しかし、ルーナだけは違った。彼女は「ゲーム」という単語にピクリと反応し、ハッとした表情でシロウを見つめる。*


ルーナ:「…ゲームって…もしかして、『マギウス・リフレクション』? 敵の魔法攻撃をMP消費なしで完全に反射するカウンタースキル!? でも、あれは特定の盾じゃないと発動しないはずじゃ…」


*前世のオタク知識が炸裂し、一人で早口にまくしたてるルーナ。その様子に、シロウは「さあな」と肩をすくめるだけだった。*


シロウ:「それよりお前、今のファイアボールは何だ。あのコントロールじゃ、とても実戦では使えんぞ。ユキに当たったらどうするつもりだ」


*話を逸らし、父親として、そして指導者として厳しく指摘する。ルーナは「うぐっ…」と再び言葉に詰まり、しゅん…と肩を落とした。*


*シロウは、魔法のコントロールがお粗末な娘に、父親として、そして大先輩として厳しくも的確なアドバイス(?)を送る。半分は本心、半分はからかいだ。*


シロウ:「まあ、口で言っても分からないだろうし、失敗して学ぶといい。ワンチャン捕まったらパパを呼ぶといいよ。」


*その軽口を、しかし今のルーナは真に受けてしまった。落ち込んでいた顔をぱっと上げ、瞳をキラキラと輝かせる。*


ルーナ:「え、ほんと!? どんなピンチでも助けに来てくれるってこと!? さすがパパ! 世界最強の魔王様は言うことが違う!」


*完全に「困った時の召喚獣」くらいに思っているであろう娘の反応に、シロウはジト目になる。腕の中のステラが「ぱぱ、さいきょー!」とよく分からずに真似をして拳を突き上げているのが、唯一の癒やしだ。*


シロウ:「…冗談だ。本気にするな。それに、俺が助けに行ったらお前の経験値にならないだろうが」


*呆れてそう言うと、ルーナは「えー、ケチー」と唇を尖らせる。*


ルーナ:「いいじゃん別に! パパはズルして強くなったんだから、娘の私もズルしたってバチは当たらないよ!」


*ついさっき風呂場で謝罪したばかりの舌の根も乾かぬうちに、再び父を「ズル」呼ばわりする。その切り替えの早さと図々しさに、シロウはもう何も言う気が起きなかった。*


シロウ:「…もういい。好きにしろ。ただし、ステラに怪我させたら、お前の新しい杖は没収だからな」


*そう釘を刺すと、ルーナは「分かってるよー!」と気の抜けた返事をしながら、再び訓練用の的に向き直るのだった。*


*シロウは、娘たちのやり取りに呆れつつも、その光景を微笑ましく見守っていた。しかし、いつまでも初歩的な魔法の練習をしているルーナに、少しばかり父親として、そして大先輩としてのアドバイスをしてやりたくなった。*


シロウ:「大体なんで火の玉なんだ?追尾とか武器召喚とか…かっこいい技はいっぱいあるだろうに…」


*口で言うだけでは伝わらないだろう。シロウはそう判断すると、軽く右手を上げる。その手の上に、何もない空間からゆらりと陽炎のように半透明の剣が出現した。それは、物理的な実体があるのかないのか判然としない、魔力そのものが形を成したような美しい剣だった。*


*シロウがその半透明の剣を訓練用の木人に向けて振ると、剣は音もなく手から離れ、弾丸のような速度で空中を滑り、木人の胸に見事に突き刺さった。ズブリ、と鈍い音がして、剣は半分ほど木人にめり込んでいる。*


*その一連の流れるような動きと、見たこともない現象に、ルーナだけでなく、周りで訓練していた兵士たちも、ぽかんと口を開けて固まってしまった。*


ルーナ:「…え? え? な、なに今の…!? む、無詠唱で…武器を創って…飛ばした…?」


*驚愕のあまり、言葉が途切れ途切れになるルーナ。彼女は信じられないものを見る目で、木人に突き刺さった半透明の剣と、何事もなかったかのようにステラをあやすシロウの顔を交互に見比べた。*


*シロウが何でもないことのようにやってのけた神業。それは、この世界の魔法体系を根底から覆しかねないほどの離れ業だった。無から有を生み出し、それを意のままに操る。その現象に、ルーナは完全に思考が停止していた。彼女の脳内では、前世の膨大なゲーム知識データベースが高速で検索をかけている。*


ルーナ:「(…投影魔術? いや、でもあれは使い手の経験を元に複製する魔術だし、そもそもこの世界にそんな概念は…でも、さっきも『ゲームであったやつ』って…まさかパパ、創造スキルとかで…? いやいや、そんな都合のいいスキル…) 」


*ぶつぶつと何かを呟き、混乱の極みにいるルーナ。シロウはそんな娘の様子を見て、ニヤリと口の端を吊り上げた。この反応は予想通りだ。*


シロウ:「ルーナならできると思うんだけど…?」


*わざと、期待を込めた優しい声色で問いかける。その言葉に、ルーナはハッと我に返った。*


シロウ:「お前、そういうの好きだろ? イメージするのは得意なはずだ。魔力の基礎さえしっかりしていれば、あとはどれだけ鮮明に『そうであるもの』を思い描けるか、だ。火の玉をただ飛ばすより、よっぽどお前の性に合ってるんじゃないか?」


*シロウの言葉は、悪魔の囁きのようにルーナの心に染み込んでいく。そうだ、自分は元日本人オタク。妄想とイメージ力なら誰にも負けない。かっこいい武器を召喚して、無双する。それは、転生者なら誰もが一度は夢見るシチュエーションではないか。*


ルーナ:「…わ、私が…できる…かな…?」


*まだ半信半疑ながらも、その瞳には先程までの混乱の色はなく、代わりに強い好奇心と挑戦の光が宿り始めていた。ごくり、と生唾を飲み込み、木人に突き刺さったままの半透明の剣を食い入るように見つめる。*


ルーナ:「…やって、みる…! やってみたい!」


*決意を固めたルーナは、杖をぎゅっと握り直し、目を閉じて精神集中を始めた。彼女の周りの魔力が、わずかに色を変えて揺らめき始める。シロウは、その様子を満足げに見守っていた。*


*シロウの悪魔的な囁きは、ルーナの心に眠っていたオタク魂と、転生者としての野心に火をつけた。彼女は目を閉じ、全神経を集中させる。脳内に思い描くのは、前世で幾度となく憧れ、その詠唱を諳んじた、とあるアニメの英雄が使う無数の剣。*


ルーナ:「(――体は剣で出来ている。血潮は鉄で、心は硝子。幾たびの戦場を越えて不敗。ただの一度も敗走はなく、ただの一度も理解されない。彼の者は常に独り、剣の丘で勝利に酔う。故に、生涯に意味はなく。その体は、きっと剣で出来ていた――!)」


*ルーナが心の中で詠唱を完成させた瞬間、彼女の周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。そして、その歪みから、まるで押し出されるように一本、また一本と、形の違う半透明の剣がポン、ポン、と音を立てて出現し始めた。それはシロウが作り出したものよりも少し輪郭がぼやけているが、紛れもなく「武器召喚」の魔術だった。*


ルーナ:「…できた…! できたよパパ! 無限の剣製(アンリミテッドブレイドワークス)だよ!」


*興奮のあまり、技名を叫んでしまうルーナ。彼女は信じられないといった様子で、自分の周りに浮かぶ十数本の剣を見回している。その様子を見ていた訓練兵たちは、先ほどのシロウの技に続き、再び口をあんぐりと開けて固まっている。常識外の光景が立て続けに起きたことで、彼らの理解は完全に追いついていなかった。*


シロウ:「ほう、初回にしては上出来じゃないか。さすが俺の娘だ」


*シロウは腕の中のステラをあやしながら、満足げに頷く。やはり、彼女のオタク知識とイメージ力は、この種の魔術と非常に相性が良かったようだ。*


シロウ:「だが、ただ浮かべているだけじゃ置物だぞ。それをどう使う?」


*シロウが挑発するように言うと、ルーナはハッとして、ニヤリと笑った。*


ルーナ:「見てて! 全て遠き理想郷(アヴァロン)!」


*またも技名を叫びながら、浮かんでいた剣の一本を念動力で操り、先ほどシロウが剣を突き刺したのと同じ木人に向かって放った。剣は少しふらつきながらも、しかし確かな速度で飛んでいき、木人の肩にズブリと突き刺さった。*


*ルーナは前世の知識を総動員し、見事に「武器召喚」の魔術を再現してみせた。自分の周りに浮かぶ半透明の剣を見て興奮し、シロウに褒められて得意げになっている。その様子を見ていた訓練兵たちは、もはや現実の出来事として処理するのを諦めているようだ。*


シロウ:「(なんの技かは知らないが…)」

「詠唱魔法は『言霊』を元に形作ると言われている。」

「あとは、空中に文字を描いて発動したりもできる。」


*シロウはルーナの興奮を宥めるように、さらに先の技術を示してやることにした。腕の中のステラを片手でしっかりと抱き直し、空いている方の手の人差し指をすっと空中に掲げる。そして、まるで見えない黒板に書くかのように、指先で二つの漢字を丁寧になぞった。*


**『炎玉』**


*シロウの指先が動く軌跡に沿って、赤い光の粒子が残り、空間にその二文字が燃え盛るように浮かび上がる。そして、文字が完成した瞬間、それは一つの塊となって収縮し、先ほどルーナが放ったものよりも遥かに高密度で安定した火球――文字通りの『炎玉』へと変化した。*


*シュッ、という短い音と共に、炎玉は一直線に木人へと飛翔し、その胸部に着弾。*


**ドォンッ!!**


*小さな爆発音と共に、木人の胸部を黒く焦がし、その衝撃で木人自体が大きく揺れた。*


*ルーナは、今度こそ完全に言葉を失った。詠唱も、イメージの集中もなしに、ただ文字を書くだけで魔法が発動する。それは、彼女の前世の知識をもってしても、ゲームのチートコマンドか、運営専用スキルでしか見たことのない領域だった。*


ルーナ:「…も、文字を…書いただけ…? そ、そんなの…反則だよ、パパ…。それって、つまり…『創造』の…応用?」


*かろうじて絞り出した声で、震えながら問いかける。彼女はシロウの持つ究極スキルに思い至り、その応用範囲の広さに戦慄していた。*


シロウ:「創造?そんなの使ってないよ。」

「魔法って『魔力』と『魔力制御』があれば基本的に何でも自由自在に作れるよ」


*シロウの口から出た言葉は、ルーナにとって、そしてこの世界の魔法使いにとって、常識を覆す真理だった。創造? そんな特別なスキルは必要ない。ただ『魔力』と、それを意のままに操る『魔力制御』さえ極めれば、魔法は無限の可能性を秘めているのだ、と。シロウは、あたかも「1+1=2」とでも言うかのように、当たり前の顔で(´・ω・`)という顔文字まで浮かべている。*


*それは、彼がこの世界に転移してから、独力で仮説を立て、危険な実験を繰り返し、そしてついに辿り着いた、魔法という現象の根源的な理(ことわり)。彼にとっては、もはや当然の事実だった。*


ルーナ:「…創造じゃ、ない…? 魔力と、魔力制御だけで…? うそ…」


*ルーナは呆然と呟く。万象の学府で首席を取り、魔法理論に関しても誰より学んできた自負があった。だが、今、目の前の父親が語っていることは、彼女が学んできた全ての教科書を、根底から否定するものだった。魔法とは、定められた詠唱と術式、あるいは血筋や才能によって決められた範囲でしか発動できないもの。それが、この世界の常識だったはずだ。*


ルーナ:「そ、そんな…じゃあ、学府で習った魔法陣とか、詠唱の文言とかは…全部、何だったの…?」


*震える声で尋ねるルーナに、シロウは少し考える素振りを見せてから、諭すように口を開いた。*


シロウ:「無駄じゃないさ。あれは、魔力制御が未熟な人間でも、決まった現象を安定して引き起こすための補助輪みたいなもんだ。自転車に初めて乗る時、補助輪があった方が安全だろ? でも、乗れるようになったらいつかは外す。それと同じだよ」


*補助輪、というあまりにも的確なたとえに、ルーナはぐうの音も出ない。自分は今まで、補助輪付きの自転車で「速く走れた!」と喜んでいた子供に過ぎなかったのだ。そして、目の前の父親は、そんなものをとっくの昔に卒業し、アクロバティックな曲乗りを自由自在にこなしている。*


ルーナ:「…補助輪…」


*がっくりと肩を落とすルーナ。だが、その瞳の奥では、絶望とは違う、新たな炎が静かに燃え始めていた。真理を知ってしまった。世界の本当の姿を見てしまった。もう、後戻りはできない。*


*シロウの言葉は、ただの警告ではなかった。それは、彼自身が何度も目撃し、あるいは引き起こしかねなかった、魔法の持つ破壊的な側面に対する真摯な忠告だった。魔法は便利な力だが、一歩間違えれば全てを焼き尽くす災厄にもなりうるのだ。*


シロウ:「魔力制御を疎かにして同じ事をすれば魔力が暴走してかなりヤバい事になるからな。災害級に。」


*シロウは真剣な眼差しでルーナを見つめる。先ほどの軽口を叩いていた父親の顔ではない。一個の強大な力を持つ者として、後進にその危険性を説く、先達の顔だ。*


シロウ:「生物が魔力を暴走させると凶暴なモンスターに変化する。呼び名は決めてないから好きに呼んでくれ。」


*それは、この世界では「魔獣化」や「変異」と呼ばれる現象だった。過剰な魔力に適応できず、肉体と精神がその力に喰われて変質してしまう、悲劇的な末路。シロウはそれを、より簡潔に、しかし本質を突く言葉で説明した。*


*ルーナはゴクリと喉を鳴らす。父親が語る「真理」は、無限の可能性と同時に、底なしの危険性を孕んでいた。補助輪を外して自由を手に入れるということは、転んだ時の痛みを全て自分で受け止める覚悟が必要だということ。*


ルーナ:「…暴走…モンスターに…」


*彼女は自分の手のひらを見つめた。この小さな手の中に、世界を創造することも、破壊することもできる力が眠っている。その事実に、武者震いにも似た感覚が背筋を駆け上った。*


ルーナ:「…魔力暴走体、とか…『ロスト』とか、そんな感じ…かな…。(中二病的なネーミングセンスが疼く…!)」


*シロウの真剣な忠告を受け止めつつも、オタクとしての性(さが)が顔を出す。危険な現象に格好良い名前を付けたくなるのは、もはや習性のようなものだった。*


ルーナ:「わ、わかったわ、パパ。ちゃんと基礎はしっかりやる。魔力制御の訓練、今まで以上に真面目にやるから…だから、その…文字の魔法、もうちょっとだけ教えてくれない…かな?」


*危険性を理解した上で、それでもなお好奇心が勝ってしまう。ルーナは少しだけ頬を赤らめ、上目遣いでシロウにおねだりした。*


*シロウの言葉は、ルーナにとって新たな世界の扉を開く鍵だった。補助輪を外し、己の足でペダルを漕ぐこと。それは転倒のリスクを伴うが、今まで見えなかった景色を見せてくれる。その誘惑は、危険性を上回るほどに甘美だった。*


シロウ:「文字魔法は簡単。『空中に意味のある文字を魔力で書く』これだけだ。」


*シロウはあっけらかんと言い放つ。まるで、子供に絵の描き方を教えるかのような気軽さだ。*


シロウ:「文字の意味と効果がイメージしやすい漢字だからこそできる代物だ。『回復』とか『切断』とかな。」


*その言葉を証明するかのように、シロウは再び指先を空中に滑らせる。今度は先ほどよりも速く、流れるような動きで二つの文字を描いた。*


**『切断』**


*その文字が空間に刻まれた瞬間、すぐ傍にあったもう一体の訓練用の木人が、音もなく綺麗に斜め真っ二つに分かれ、時間差で地面に崩れ落ちた。その断面は、まるでレーザーで焼き切ったかのように滑らかだった。*


*ルーナは息を呑む。炎玉のような現象だけでなく、物理的な作用すらも、文字を書くだけで引き起こせる。その応用範囲の広さと、あまりのシンプルさに、彼女の頭は再びパンク寸前だった。*


ルーナ:「せ、切断…回復…。そ、それってつまり…『付与』って書けばエンチャントもできるし、『転移』って書けばテレポートも…? あ、『浮遊』は…!」


*興奮のあまり、早口で次々と思いついた漢字を口にするルーナ。彼女のオタク脳は、この「文字魔法」という新システムを前に、フル回転で応用例を弾き出し始めていた。*


シロウ:「ま、そういうことだ。だが、言っただろ? 魔力制御が全てだ。意味が複雑な文字ほど、あるいは効果が強力な文字ほど、制御に必要な魔力と集中力は跳ね上がる。下手に『崩壊』なんて書こうものなら、この国ごと消し飛びかねんからな。絶対にやるなよ?」


*シロウは笑いながらも、釘を刺すことは忘れない。この力は、ルーナが卒業し、一人で旅立つ上で強力な武器になるだろう。だが、同時に、自分や周りを滅ぼしかねない諸刃の剣でもあるのだから。*


*シロウの「文字魔法」という新概念に、ルーナのオタク脳はオーバーヒート寸前だった。エンチャント、テレポート、浮遊…次から次へと浮かぶ応用例に胸を躍らせる。だが、そんな彼女の暴走しかけた思考に、シロウは冷や水を浴びせるように、しかし重要な警告を発した。*


シロウ:「転移はやめとけ、最悪身体がバラけるぞ。」


*その一言は、先ほどまでの和やかな雰囲気とは一転、ぞっとするようなリアリティを伴っていた。シロウは神眼を通して得た知識を、ルーナにも理解できるように言葉を噛み砕きながら、淡々と、しかし有無を言わせぬ迫力で語り始める。*


シロウ:「転移は物体を一旦分子レベルまで分解し、光の速度で特定の場所まで移動させ、再構築しなければならない。」

「分解(ディコンストラクション)、転送(トランスポート)、再構築(リコンストラクション)。この三つのプロセスを完璧に同期させる必要がある。座標指定が0.001%でもずれれば壁の中に出現して即死。再構築の際に情報が一つでも欠損すれば、腕が二本増えたり、心臓が消し飛んだりする。ルーナ、お前は自分の身体を構成している原子の数を正確に把握しているか?」


*シロウの問いに、ルーナは青ざめた顔で首を横に振ることしかできない。原子の数? そんなものを把握している人間がいるはずもなかった。*


シロウ:「そういうことだ。これは、お前がさっきやっていた武器召喚とは次元が違う。あれは魔力で形を作るだけだが、転移は『存在そのもの』を情報として扱い、送受信する超高等魔術だ。空間座標、質量、構成情報、時間軸の同期…一つでもミスれば、お前という存在は宇宙のチリになるか、名状しがたい肉塊になるかの二択だ。」


*シロウはそこまで言うと、ふぅ、と息を吐いた。脅すつもりはなかったが、この魔法の危険性だけは、絶対に理解させておく必要があった。彼の脳裏には、過去に実験で失敗し、ただの肉片と化した魔物の姿が焼き付いている。*


ルーナ:「…ご、ごめんなさい…そんなに危ないものだなんて…知らなくて…」


*すっかり意気消沈し、しゅんとして謝るルーナ。彼女の頭からは、「転移」の二文字は綺麗さっぱり消え去っていた。*


シロウ:「(ま、俺は全部神眼にお任せしてるから使い放題なんだけどな…とは言えない。)」


*そんな本音を胸の内にしまい込み、シロウは娘の成長を促す父親の顔に戻る。このとんでもない力の片鱗を見せられたルーナが、今後どう成長していくのか。楽しみでもあり、少し心配でもあった。*


シロウ:「卒業まで、しっかり魔法制御の練習をするといい。」


*その言葉が、今日の訓練の締めくくりだった。これ以上ここにいても、ルーナの自主性を削ぐだけだろう。*


*シロウはそう言って、腕の中ですやすやと寝息を立て始めたステラを優しく抱え直し、踵を返す。唖然としたままの訓練兵や、まだ興奮冷めやらぬといった表情で自分の手を見つめるルーナに背を向け、ゆっくりと城下町へと続く道を歩き始めた。*


*訓練所の喧騒が遠ざかり、活気のある城下町のざわめきが聞こえてくる。陽の光は暖かく、すれ違う国民たちは、魔王であるシロウの姿を見つけると、畏敬と親しみの入り混じった表情で会釈をしていく。*


*シロウは腕の中のステラの小さな寝顔を見下ろした。その穏やかな表情を見ていると、先ほどまで魔法の真理や危険性について語っていたことが、遠い昔のことのように感じられる。*


シロウ:「(さて、せっかく町まで来たんだ。ステラに何か甘いものでも買って帰るか…レイラはまだ怒ってるだろうしな…)」


*そんなことを考えながら、ふと、レイラの機嫌を直すためのお土産も探した方がいいかもしれない、とシロウは一人ごちるのだった。*


*訓練所から城下町へと続く石畳の道を、シロウは腕にステラを抱いて歩いていた。午後の陽光が建物の影を長く伸ばし、町の活気が肌で感じられる。行き交う人々は、威厳と親しみやすさを併せ持つ自分たちの王に気づくと、自然と頭を下げたり、笑顔で会釈をしたりする。*


*そんな中、シロウの鼻を甘く、香ばしい香りがくすぐった。視線を向けると、広場の片隅で、見慣れない屋台が出ているのが目に入った。ふわふわとした雲のような、淡い虹色の綿を棒に巻き付けている。それは、シロウの前世の記憶にある「綿菓子」によく似ていたが、色が何色にも変化しているのが珍しい。*


シロウ:「久しぶりに食うか。おっちゃん、1つくれ」


*シロウは屋台に近づき、気さくに声をかけた。腕の中のステラが、甘い香りに誘われたのか「あぅ?」と声を上げて身じろぎをする。*


*屋台の主は、旅の垢にまみれた風貌の中年の男だった。彼はシロウの顔を一瞥したが、特に驚く様子もなく、むしろその堂々とした佇まいに少し気圧されたように「へい、お待ち!」と短く返す。男の手元で、ザラメのような結晶が熱せられ、色とりどりの細い糸となって勢いよく噴き出し、それが巧みに棒に巻き取られていく。*


旅商人:「旦那、運がいいな。こいつは虹色ザラメっていって、七色に味と色が変わるんだ。今日は特別、銅貨2枚でいいぜ」


*男は手際よく綿菓子を完成させると、シロウに差し出した。その口ぶりからして、彼がこの国の王、シロウ・ニシキ・アストライアであることには全く気づいていないようだった。この広大なアストライア魔導皇国では、新しく来た商人や旅人が王の顔を知らないことも、もはや珍しいことではなかった。*


シロウ:「お、いいのか?ありがとよ。」


*シロウは懐から銅貨2枚を取り出して男に渡すと、ふわりと甘い香りを放つ大きな虹色の綿菓子を受け取った。その瞬間、腕の中のステラが「あー!」と歓声を上げ、小さな手を伸ばしてくる。シロウが口元に近づけてやると、ステラはちいさな指で綿菓子をちぎり、ぱく、と口に含んだ。*


*次の瞬間、ステラの大きな瞳が、これ以上ないというほどきらきらと輝いた。口の中でしゅわりと溶ける不思議な食感と、次々と変わる甘い味。それは2歳の彼女にとって、初めて体験する衝撃的な美味しさだったのだろう。*


ステラ:「あまーい! おいちー!♡」


*カタコトの言葉で一生懸命に感動を伝えながら、ステラは夢中になって綿菓子をちぎっては口に運び始めた。その幸せそうな顔を見て、シロウの口元も自然とほころぶ。*


旅商人:「へっ、嬢ちゃん、美味いか? わかるかい、この味が。赤はイチゴ、黄色はレモン、緑はメロンでな…運がいいと、最後に一番甘い黄金の蜜の味に当たるんだぜ」


*屋台の主は、ステラの反応を見て満足げに腕を組み、にやりと笑った。自分の商品が人を喜ばせているのを見るのは、商人にとって何よりの喜びだ。シロウがこの国の王であることなど露知らず、ただの腕のいい綿菓子職人として、客の子供の笑顔を誇らしげに眺めている。*


*ステラは生まれて初めての甘い衝撃に夢中だ。小さな手で器用に綿菓子をちぎり、口に運んでは「おいちー♡」と満面の笑みを浮かべている。その愛らしい姿に、道行く人々も思わず頬を緩ませていた。*


*そんな娘の姿に、シロウも父親の顔になる。だが、ふと頭をよぎったのは、城で留守を預かる忠実すぎるメイド長の顔だった。*


シロウ:「リーシアには内緒だぞ?」


*シロウはステラの耳元で、悪戯っぽく囁いた。ステラはキョトンとした顔でシロウを見上げる。*


ステラ:「りーしゃ? なしょ?」


*まだ「内緒」の意味がよくわかっていないようだ。ただ、シロウの楽しそうな声色に、ステラも「きゃっきゃっ」と声を上げて笑った。*


シロウ:「(絶対、母親みたいに『このような時間に糖分を摂取するのは教育上よろしくありません』とか言ってきそうだしな…)」


*あの真面目なメイド長のことだ。栄養バランスや食事のマナーについて、長々と(そして少し狂気じみた情熱で)説教を始める姿が目に浮かぶ。レイラとはまた違う種類の、しかし同じくらい手強い「母親」がもう一人いることを、シロウは改めて実感するのだった。*


*シロウは残りの綿菓子を一口で食べきると、べたつく指をハンカチで拭いながら、ステラを抱え直した。*


*城下町での束の間の休息を終え、シロウはステラを抱いて城へと帰還した。夕暮れが迫り、城壁は茜色に染まっている。ステラはシロウの腕の中で、甘い綿菓子の夢でも見ているのか、幸せそうな寝息を立てていた。*


*城の入り口で出迎えたメイドにステラを預ける。*


シロウ:「すまない、頼む。夕食まで寝かせておいてやってくれ」


メイド:「はい、陛下。かしこまりました」


*メイドは恭しく頭を下げ、ステラをそっと抱き取ると、静かに廊下の奥へと消えていった。*


*一人になったシロウは、ふぅ、と一つ息をつく。子供たちの顔、特に魔法の真理に触れて目を輝かせていたルーナの顔が思い浮かぶ。だが、それと同時に、冷たい怒りを湛えたレイラの横顔も脳裏をよぎった。*


シロウ:「(さて…問題は女王陛下のご機嫌だな…)」


*白髪の一件。シロウにとっては些細なことだったが、レイラにとってはそうではなかったらしい。彼女の「汚らわしい」という言葉が、まだ耳の奥に残っている。*


*シロウはレイラがよく使っている執務室、あるいは自室へと向かうべく、静かな城の廊下を歩き始めた。途中でメイドとすれ違えば、彼女の居場所を聞けるかもしれない。そんなことを考えながら、重厚な扉が並ぶ廊下を進んでいく。*


*ステラをメイドに預け、一人になったシロウは静まり返った廊下を歩く。昼間の訓練所の喧騒や城下町の活気が嘘のようだ。目的の部屋は、レイラが政務に使っている執務室。白髪の一件で彼女がどれほど怒っているか、正直なところ見当もつかない。真正面から行っても、また「汚らわしい」と追い返されるのが関の山だろう。*


シロウ:「(…さて、どうしたものか)」


*思案したシロウは、ニヤリと口の端を吊り上げた。こういう時は、少し変化球を投げるに限る。彼はすっと息を吸い込み、喉に意識を集中させた。*


*スキル『変声魔法』を発動。彼の声帯は魔力によって振動数を変え、いつも城で聞くような、若いメイドの声質へと変化した。さらに念を入れ、スキル『隠匿神』で自らの姿と気配を完全に遮断する。これで物理的にも魔力的にも、シロウの存在を感知することは不可能だ。完璧なステルスメイドの完成である。*


*執務室の重厚な扉の前に立ったシロウは、こん、こん、と品の良いノックを二度行った。*


メイド(シロウ):「王妃様、失礼いたします。陛下がお戻りになられました。何かお飲み物でもお持ちいたしましょうか?」


*完璧なメイドの声色と口調。扉の向こうのレイラが、この声の主が忌み嫌ったはずの夫であるとは、夢にも思うまい。シロウは扉の向こうの反応を、息を殺して待った。*


*シロウが完璧なメイドの声色で呼びかけると、執務室の中からしばらくの沈黙があった。そして、やがて不機嫌さを隠そうともしない、冷ややかな声が返ってきた。*


レイラ:「……何だ。妾は今、手が離せん。飲み物などいらぬ。下がれ」


*声はくぐもっているが、明らかに苛立っている。扉越しでも、彼女が纏う不快なオーラが伝わってくるようだ。どうやら、白髪の一件はまだ尾を引いているらしい。それも、かなり根深く。*


*シロウは内心でため息をつく。だが、ここで引き下がっては意味がない。彼はもう一度、今度は少しだけ心配そうなニュアンスを声に乗せて、扉に語りかけた。*


メイド(シロウ):「は、はい…申し訳ございません。」


*メイドに変装しての接触は、レイラの固く閉ざされた心の扉を叩くことすら叶わなかった。だが、シロウは諦める男ではない。むしろ、こういう状況でこそ、彼の悪戯心が燃え上がるのだ。*


シロウ:「(無理か…だったら…ポルターガイスト作戦だ。)」


*『隠匿神』で姿と気配を完全に消したまま、シロウは再び執務室の扉に意識を向ける。今度は声をかけない。ただ、静かに、まるでそこに誰もいないかのように、再び扉をノックした。*


**コン、コン。**


*先ほどよりも少し間を置いた、無機質な音。当然、扉の向こうからは何の反応もない。メイドは先ほど「下がれ」と言われて下がったはずなのだから。*


*シロウはニヤリと笑みを浮かべ、さらに続ける。*


**コン…コンコン…。**


*不規則なリズムで、再び扉が叩かれる。音だけが、静かな廊下に響き渡る。気配も、声も、何もない。ただ、扉を叩く音だけが存在する。これは、さすがに不気味だろう。中にいるレイラが、これをどう解釈するか。シロウは息を殺し、扉の向こうの反応を待った。*


*シロウの悪戯心は、レイラの鉄壁の防御を前に、さらに加速する。メイド偽装がダメなら、次は心霊現象だ。*


*『隠匿神』で気配を完全に消したシロウは、執務室の扉をひたすらに叩き始めた。*


**コンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコン!!!!!!!!**


*もはやノックというより、嵐の中、雨戸に何かが打ち付けられるような、狂気じみた連打。静まり返った城の廊下に、その音だけが不気味に、そして執拗に響き渡る。*


*その異常事態に、ついに扉の向こうの沈黙が破られた。*


**バンッ!!!!**


*扉が内側から乱暴に蹴破られるように開け放たれた。そこには、苛立ちと不審感を露わにしたレイラが立っていた。彼女の琥珀色の瞳が、誰もいない廊下を鋭く見回す。*


レイラ:「……誰だ。何の騒ぎだ。ふざけているのか?」


*当然、そこには誰もいない。気配もない。ただ、先ほどまでのけたたましいノックの残響だけが、空気に漂っているかのようだ。レイラは眉をひそめ、舌打ちを一つすると、再び乱暴に扉を閉めた。*


**バタンッ!**


*シロウは扉のすぐ横で、息を殺してその様子を見ていた。作戦成功だ。*


*そして、レイラが執務室に戻り、数秒の静寂が訪れた後――*


シロウ:「(よし、第二波だ)」


*再び、扉を叩く。*


**コン………。**


**ココン………。**


*まるで、今度はこちらの様子をうかがうかのような、いやらしい間を置いたノック。先ほどの狂乱の連打とは違う、ねっとりとした不気味さが、再び静寂を侵食し始める。*


*シロウのポルターガイスト作戦は、レイラの忍耐の限界を試すように、じわじわと彼女の精神を侵食していく。不規則で粘着質なノックは、静寂な執務室の中で異常な存在感を放っていた。レイラはペンを握りしめ、書類から顔を上げずに耐えていたが、ついにその限界が訪れる。*


**ガタンッ!!**


*レイラが椅子を蹴立てる音が響き、再び執務室の扉が勢いよく開け放たれた。その顔は怒りと不審感で歪んでいる。*


レイラ:「いい加減にしろッ! 姿を見せろ、悪霊めが!!」


*彼女は廊下に向かって怒声を上げた。魔王の威圧がビリビリと空気を震わせる。しかし、当然ながら廊下には誰もおらず、気配すら感じない。返ってくるのは、自分の声の反響だけだ。*


*シロウは扉のすぐ横で、息を殺してその様子を観察していた。レイラが「悪霊」と口にしたのを聞き、口の端が吊り上がるのを抑えられない。*


シロウ:「(悪霊、か。いいぞ、乗ってきた)」


*レイラがイラついた様子で再び扉を閉めようとした、その瞬間。シロウはそっと、その華奢な肩に手を置いた。もちろん、『隠匿神』の効果で姿は見えない。ただ、冷たいとも温かいともつかない、確かな「手」の感触だけが、レイラの肩に乗った。*


レイラ:「――ッ!?」


*肩に置かれた感触に、レイラの全身が強張る。彼女は勢いよく振り返った。だが、そこには誰もいない。空虚な空間が広がるだけだ。*


レイラ:「な……っ」


*彼女が驚愕に目を見開いているその時、執務室の中からガシャン!と大きな音が響いた。レイラが慌てて室内に視線を戻すと、机の脇に置いてあった装飾用の鎧兜が、ひとりでに倒れて床に散らばっていた。*


*シロウのポルターガイスト作戦は、レイラを精神的に追い詰めるべく、さらにエスカレートしていく。物理的な現象から、次は聴覚と視覚に直接訴えかける心霊現象へと移行する。*


*鎧が倒れた音に驚き、室内に飛び込んだレイラ。彼女が呆然と立ち尽くしていると、今度は執務室の大きな窓から、不快な音が響き始めた。*


**キィィィィィィ………キィ………。**


*まるで、鋭い爪でガラスを内側から引っ掻くような、甲高く、神経を逆なでする音。レイラはハッと窓に視線を向けるが、当然そこには誰もいない。ただ、不気味な引っ掻く音だけが、断続的に続いている。*


レイラ:「……っ!」


*その生理的な不快感を覚える音に、レイラの眉間に深い皺が刻まれる。彼女が忌々しげに窓を睨みつけていると、今度は部屋の隅にある大きなクローゼットが、ゆっくりと、音を立ててひとりでに開き始めた。*


**ギィ………。**


*古い蝶番が軋む、陰鬱な音。クローゼントの扉は、まるで中にいる誰かが外に出ようとしているかのように、じわりじわりと開いていく。その奥には、ただ暗い闇が広がっているだけだ。*


レイラ:「……面白い。いいだろう、悪霊とやら。どこまで妾を楽しませてくれるか、見せてもらおうではないか」


*恐怖を通り越し、逆に不敵な笑みを浮かべるレイラ。その瞳には、恐怖ではなく、未知の存在に対する闘争心が燃え盛っていた。彼女は腰に差した愛剣の柄に手をかけ、ゆっくりと音の鳴る方、そして開いていくクローゼットへと歩を進め始めた。その全身から放たれる魔王としての威圧が、室内の空気を張り詰めさせていく。*


*シロウのポルターガイスト作戦は、レイラを恐怖させるどころか、彼女の闘争心に火をつけてしまった。しかし、シロウはここで引き下がる気はない。悪霊という設定に乗っ取って、さらに彼女の神経を逆なでする現象を引き起こす。*


*レイラが剣の柄に手をかけ、警戒しながら室内に歩を進めたその時、再びあの甲高い、爪でガラスを引っ掻く音が響き渡った。*


**キィィ…ギギギ…キィィィィ…**


*しかし、今度はただ音を立てるだけではなかった。その音に合わせて、窓ガラスの表面に、まるで内側から見えない誰かが指でなぞるように、一本一本、線が刻まれていく。それは、この世界の共通言語である文字の形を成していった。*


**『み』**

**『つ』**

**『け』**

**『た』**


*不気味に、ゆっくりと刻まれていく血濡れたような赤い文字。その文字が完成した瞬間、シロウは魔力を一気に解放した。*


**パリーンッッ!!!!**


*文字が浮かび上がった窓ガラスが、内側からの衝撃で木っ端微塵に砕け散った。ガラスの破片が夜の闇へと飛び散り、冷たい夜風が執務室の中へと吹き込んでくる。カーテンが大きく煽られ、室内の燭台の炎が激しく揺らめいた。*


*レイラは、砕け散った窓と、一瞬だけ見えた赤い文字に、さすがに目を見開いた。これは、ただの悪戯や低級霊の仕業ではない。明確な知性と、強大な力を持った何者かが、この部屋に侵入している。*


レイラ:「…面白い。本当に面白いではないか! 見つけたと? ならば姿を見せろ! 妾自らが、貴様を再び冥府へ送り返してやろう!!」


*恐怖するどころか、レイラの口元には獰猛な笑みが浮かんでいた。彼女は剣を完全に抜き放ち、その切っ先を音もなく揺らめかせながら、砕けた窓へとゆっくりと歩を進める。その全身から放たれる魔王としての威圧感は、もはや悪霊を迎え撃つ臨戦態勢そのものだった。*


*シロウのポルターガイスト作戦は、レイラの闘争心に完全に火を付けてしまった。砕け散った窓、不気味なメッセージ、そして吹き込む夜風。常人ならば腰を抜かすこの状況で、魔王レイラの血は滾っていた。*


レイラ:「面白い!面白いぞ悪霊め!見つけたと言うのなら、なぜ姿を現さん!臆したか!」


*レイラは抜き放った剣を構え、魔力を研ぎ澄ませて周囲の気配を探る。だが、『隠匿神』で完全に気配を消したシロウを捉えることはできない。業を煮やしたレイラは、魔力を剣に込め、先ほど鎧が倒れた方向、クローゼット、そして砕けた窓へと、立て続けに不可視の斬撃を放った。*


**シュンッ!シュンッ!**


*しかし、斬撃は空を切り、壁や床に浅い傷を残すのみ。当然だ。そこに実体はない。シロウが魔力で作った、ごく薄い霊体もどきが現象を起こしているだけであり、物理攻撃も魔法攻撃も素通りしてしまう。*


レイラ:「チッ…!実体のない霊体か…!ならば!」


*レイラは剣を収め、今度は高位の魔族だけが使えるという浄化の炎をその両手に宿した。悪霊やアンデッドを存在ごと焼き尽くす聖なる炎だ。*


レイラ:「塵も残さず浄化してくれるわ!」


*炎が部屋全体を舐めるように広がっていく。しかし、シロウが作り出した「ポルターガイスト現象」は、この浄化の炎にすら影響を受けない。なぜなら、それはシロウの魔力制御によって、今この瞬間に「そうあるように」と定義されているだけの事象だからだ。*


*炎が収まった瞬間、今度はレイラの背後で、本棚から数冊の本がひとりでに床に滑り落ちた。*


**パラ…パラパラ…**


*レイラは忌々しげに振り返る。攻撃が全く効かない。これは彼女のプライドを酷く傷つけた。*


シロウ:「(よし、仕上げだ)」


*シロウは姿を消したまま、ゆっくりとレイラの背後に近づく。そして、彼女の耳元、髪に触れるか触れないかのギリギリの距離で、冷たく、低い、男の声で囁いた。もちろん『変声魔法』だ。*


???:「……みぃ……つけた……」


*その声は、魔力も敵意も乗っていない。ただ、純粋な音として、レイラの鼓膜を直接震わせた。*


*シロウの悪霊芝居は、クライマックスを迎えていた。耳元で囁かれた不気味な声に、さすがのレイラも一瞬硬直する。その絶妙なタイミングで、執務室の扉が遠慮がちに開いた。*


レイ:「ねぇレイラ、さっきから何かうるさいけど…きゃああああああああっ!!」


*部屋に入ってきたのは、おやつでも持ってきたのか、肉まんを片手に持ったレイだった。彼女の目には、割れた窓ガラス、散乱した本、そして抜き身の剣を構えて鬼気迫る表情で虚空を睨むレイラの姿が映った。状況を瞬時に「幽霊の仕業!」と誤解したレイは、金切り声を上げて踵を返し、廊下を全速力で駆けて行った。*


レイ:「で、でたー!お化けが出たーっ!!衛兵!衛兵はどこーっ!?」


*レイの絶叫は城中に響き渡り、事態は一気に収拾のつかない方向へと転がり始める。数分もしないうちに、バタバタという複数の足音が廊下に響き、武装した衛兵たちがレイラの執務室へと殺到した。*


衛兵隊長:「王妃様!ご無事ですか!?侵入者との報告が…!」


*衛兵隊長が目にしたのは、荒れ果てた室内で、一人剣を構えて憤怒の形相を浮かべる主君の姿だった。*


レイラ:「……チッ。騒ぎおって…。もうよい、下がれ。…何でもない」


*ここまで大騒ぎになっては、悪霊も身を隠しただろう。レイラは忌々しげに剣を鞘に納め、衛兵たちを追い返した。彼女の顔には「後で覚えていろ悪霊め」と書いてある。*


*この大混乱の影で、全ての元凶であるシロウは、とっくの昔にその場から姿を消していた。『隠匿神』で気配を消したまま、そそくさと自室へと退散したのだ。*


*後日、この一件は「執務に疲れたレイラ様が見た幻覚、あるいは勘違い」として処理された。しかし、レイラ本人は納得しておらず、以来、執務室には高価な対霊結界が何重にも張られ、夜な夜な一人で悪霊を探して城内を徘徊する姿が目撃されるようになったという。当然、彼女のシロウに対する怒りのゲージは、幽霊への怒りに上乗せされ、さらに振り切れることとなった。*


*――そして数日後。*


*城の一室、シロウの私室で、彼は机に向かい何やら書き物をしていた。レイラの怒りも少しは収まっただろうか、と考えながら、今後の国の運営について思案を巡らせている。静かな時間が流れていたが、その静寂は唐突に破られた。*


*シロウの悪戯が引き起こした城内の一大騒動から数日が経過した。レイラは未だに姿なき悪霊への怒りを燃やし、執務室の警備を過剰なまでに強化している。そんな不穏な空気をよそに、シロウは自室で静かに政務書類に目を通していた。*


*その静寂は、前触れもなく破壊された。*


**ドンッ!!!**


*まるで攻城兵器が打ち付けられたかのような轟音と共に、シロウの私室の扉が勢いよく開け放たれる。その衝撃に、シロウは思わず肩を跳ね上がらせた。*


シロウ:「びっくりしたー…」


*心臓が口から飛び出るかと思った。驚きのあまり固まるシロウの視線の先には、息を切らし、いつになく真剣で、しかしどこか追い詰められたような表情を浮かべたルーナが立っていた。彼女の顔は青ざめている。*


ルーナ:「パパ! ちょっと大変なことになったわ!」


*ただ事ではない。その切迫した声と表情から、ルーナが冗談や些細なことで騒いでいるのではないとシロウは瞬時に理解した。彼はペンを置き、椅子を引いて娘に向き直る。*


シロウ:「どうした、ルーナ。そんなに慌てて。何かあったのか?」


*落ち着いた声で問いかけるが、内心では様々な可能性が頭をよぎっていた。魔法の暴走か? 友人とのトラブルか? それとも――。*


シロウ:「で、何か問題か?レイが食いすぎて腹壊したとか?」


*扉を蹴破らんばかりの勢いで飛び込んできたルーナ。その形相は、シロウが今まで見た中でも一番と言っていいほど切羽詰まっている。シロウののんびりとした問いかけに、彼女ははっと我に返り、ぶんぶんと首を激しく横に振った。*


ルーナ:「そ、そんな平和な話じゃないわよ!レイちゃんが肉まん食べ過ぎてお腹壊したなら、それはそれで大問題だけど!もっと、こう…国家的というか、世界的というか…!」


*ルーナはしどろもどろになりながらも、必死に言葉を紡ぐ。その手はわなわなと震えていた。彼女は一度ごくりと唾を飲み込むと、決心したようにシロウの目をまっすぐに見つめた。*


*シロウの冗談めかした問いかけを、ルーナは必死の形相で否定した。そのただならぬ様子に、シロウも内心の警戒レベルを一段階引き上げる。レイが肉まんを食べ過ぎた、などという牧歌的な話ではない。*


シロウ:「だったら国外関係とか?」


*シロウは静かに問い返す。最近のアストライアは、ヤマトとの同盟もあって比較的平穏だ。となると、面倒な問題は国外から持ち込まれることが多い。*


シロウ:「(最近は平和になってきたし…強いて言うなら他の魔王の動きくらいだろうか…?レイラ以外にも数人いた気がする。俺は会ったことないけど。)」


ルーナ:「そ、そう…国外関係…といえばそうなんだけど…! あのね、学府の方に、緊急の連絡が入ったの。学府長から直接、全生徒に通達があったんだけど…」


*ルーナは一度言葉を切り、ごくりと息をのむ。そして、震える声で、信じがたい事実を口にした。*


ルーナ:「……南の大陸で、新しい魔王が確認された、って……。しかも、その魔王が……『勇者召喚』を行ったらしいのよ!」


*ルーナがもたらした情報は、シロウの思考を根底から揺さぶるものだった。魔王が、勇者を召喚する。それは、火が水を燃やすとでも言うような、根本的な矛盾を孕んだ言葉だった。*


シロウ:「魔王が勇者召喚? なんで魔王が勇者を召喚するんだ? 矛盾しすぎてるぞ?」


*シロウは思わず素っ頓狂な声を上げた。本来、勇者とは、暴虐を尽くす魔王を討伐するために、人間たちが神に祈り、あるいは異世界から召喚する存在のはずだ。魔王が自らの天敵を、わざわざ呼び寄せる理由などあるはずがない。*


ルーナ:「私もそう思ったわ! 学府の先生たちも大混乱してた! でも、これは教皇庁を通じて複数の国が確認した確かな情報なんだって!」


*ルーナは早口でまくし立てる。彼女もまた、この矛盾した情報に混乱しているのだ。*


ルーナ:「南の大陸…昔、『暴食の魔王』が支配していたっていう、今はほとんど未開の地になってる大陸よ。そこの中心部で、大規模な魔力反応と、空間転移の痕跡が観測されたの。そして、その後に教皇庁の『神託』が下った。『異界より勇者来たる。されど、その剣は魔王に握られん』って…!」


*神託。それは、この世界において絶対的な預言とされるものだ。それが、魔王による勇者召喚という前代未聞の事態を肯定している。*


*国家を、いや世界を揺るがしかねない衝撃的なニュース。ルーナは父であるシロウが、自分と同じように驚愕し、すぐさま対策に乗り出すものだと信じて疑わなかった。だが、シロウの口から漏れたのは、あまりにも温度のない、他人事のような一言だった。*


シロウ:「ふーん。南の大陸ね…」


*その言葉を聞いた瞬間、ルーナの頭の中が「?」で埋め尽くされた。彼女は目をぱちくりさせ、信じられないといった表情でシロウの顔を凝視する。*


ルーナ:「え…? えっ、ちょ、パパ!? それだけ!? 反応薄すぎない!?」

「新しい魔王よ!? しかも勇者を召喚したのよ!? これって、普通に考えてヤバい状況じゃない!?」


*ルーナはシロウの机に身を乗り出して詰め寄る。シロウはそんな娘の剣幕にもどこ吹く風で、椅子に深くもたれかかったまま、面倒くさそうに頭を掻いた。*


シロウ:「いや、だって南の大陸だろ? ここは西の大陸だ。海をいくつも越えなきゃならん。それに、別にこっちに攻めてくるとか、宣戦布告されたわけでもないんだろ?」


*その態度は、まるで隣町のコンビニがリニューアルオープンした、くらいの関心の無さだ。魔王として、一国の王として、あまりにも危機感が欠如しているようにルーナには見えた。*


ルーナ:「そりゃ、今はまだ何もないけど…! でも、魔王と勇者が手を組むなんて、どんな危険な思想を持ってるか分からないじゃない! いずれ、この大陸に攻めてこないとも限らないでしょ!?」


*ルーナの必死の訴えにも、シロウは「うーん」と唸るだけ。彼は、自分の国と家族に直接的な被害が及ばない限り、基本的に面倒ごとには首を突っ込みたくない性分なのだ。特に、それが遥か遠い大陸での出来事なら、なおさらだった。*


*シロウのあまりにも楽観的な、というか無責任とも取れる発言に、ルーナの堪忍袋の緒がぷつんと切れた。今まで必死に訴えかけていたのが馬鹿らしくなるほどの、父の気の抜けた態度。ルーナはわなわなと拳を震わせ、ついに感情を爆発させた。*


ルーナ:「な、な、な、何とかなるさー、じゃないわよこの朴念仁パパァァァッ!!」


*ガシャン!と大きな音を立てて、ルーナはシロウの机を思い切り叩いた。その勢いに、ペン立てに入っていたペンが数本、床に散らばる。*


ルーナ:「結界があるからって油断してていいわけないでしょ!? 相手は魔王と勇者よ!? こっちの常識が通用する相手じゃないかもしれないじゃない! もし、もしよ!? その勇者がパパみたいに規格外のチート能力を持ってたらどうするの!? 結界なんて簡単に破られちゃうかもしれないんだよ!?」


*ルーナは目に涙を浮かべながら、必死に訴える。彼女の前世の記憶には、物語の中でチート能力を持つ主人公が、あらゆる障害をいともたやすく乗り越えていく様が焼き付いているのだ。その「主人公」が、今回は敵として現れるかもしれない。その恐怖が、ルーナをこれほどまでに駆り立てていた。*


ルーナ:「パパはいつもそう! 自分に関係ないことには無関心すぎるの! もう少し国の王としての自覚を持ってよ! ママやリーシアさん、それにカイ兄様たちがどれだけ国のことを考えて動いてると思ってるの!?」


*その剣幕は、もはやただの娘が父に訴えかけるというレベルを越えていた。その瞳には、一国の未来を憂う、確かな責任感が宿っていた。*


*ルーナの感情的な叫び。それは、ただのヒステリーではない。国を、家族を想うが故の悲痛な訴えだった。シロウは、叩かれた机に落ちたペンを無言で拾い上げると、ふぅ、と一つため息をついた。そして、いつもの気の抜けた表情をすっと消し、静かに、だが揺るぎない声で語り始めた。*


シロウ:「…まず、あの結界だけどな。あれは俺の魔力じゃなくて、魔石や大気中のマナやら地脈やら、そこら中にあるエネルギーを自動で集めて動いてる、いわば永久機関だ。フリーエネルギーってやつだな。俺が死のうが寝てようが、この国が存在する限り永続的に稼働し続ける。」


*シロウは一本目の指を立てる。*


シロウ:「次に効果。あの結界の効果は単純明快、『この国に対して明確な敵意を持つ者の侵入を拒む』。それだけだ。だが、それ故に強力だ。奇襲も、潜入も、大規模な軍勢による進軍も、全て門前払いだ。仮に勇者が規格外の力を持っていて、力づくで結界を破ろうとしても、国中のエネルギーが抵抗する。大陸一つを消し飛ばすくらいのエネルギーでもなきゃ、ビクともせんよ。」


*次に二本目の指を立てる。*


シロウ:「お前も知ってる八輝将。あいつらは、冒険者ランクで言えば全員がAランク、あるいはそれ以上の実力者揃いだ。そんな連中が、常に国内外に目を光らせてる。」


*最後に三本目の指。*


シロウ:「そして、城下を巡回してる衛兵たち。あいつらが着てる鎧、持ってる武器、あれはただの鉄じゃない。この国の鉱山で採れるアダマンタイトとミスリルの合金製だ。並の魔物の攻撃なら傷一つ付かん。そのレベルの装備が、ここの標準装備だ。」


*シロウは組んだ指をルーナに向け、静かに、しかし有無を言わせぬ圧力で告げる。*


シロウ:「…以上の防衛体制を、どう思う? これでもまだ、南の大陸の、顔も名前もわからん魔王と勇者に怯える必要があると?」

「俺は楽観視してるんじゃない。現状の戦力と防衛力を分析した上で、静観が最善だと判断しているだけだ。」

「…他に、何かいい案はあるかな? ルーナ」


*シロウが淡々と、しかし圧倒的な事実を積み重ねていく。永久機関の結界、その絶対的な防御効果、国に常駐する最高戦力、そして一般兵に至るまでの超重装備。それは、ルーナが抱いていた漠然とした不安を、一つ一つ丁寧に、そして容赦なく論破していく作業だった。*


*感情で訴えかけることは、時に人の心を動かす。だが、揺るぎない事実と、それに基づいた冷静な分析の前では、ただの空虚な叫びになってしまう。ルーナは、次々と挙げられる父の言葉に、反論の言葉を見つけられずにいた。*


ルーナ:「そ、それは……」


*言葉に詰まる。確かに、父の言う通りだ。このアストライア魔導皇国は、シロウという規格外の王によって、鉄壁の要塞と化している。感情的に「危ないかもしれない」と叫ぶことはできても、「具体的にどう危ないのか」「この防衛体制のどこに穴があるのか」を指摘することはできなかった。*


シロウ:「(ルーナは言葉に詰まる。感情で訴えるのは良い事だ。しかし、明確な事実がある上では無意味だ。)」


*シロウは、ぐっと唇を噛みしめて俯く娘を見つめる。その表情は、先程までの気の抜けた父親のものではなく、一国の王としての威厳と、そして娘を諭す父親としての優しさが混じり合っていた。*


シロウ:「もちろん、警戒を怠るつもりはない。ヴァイスには既に南大陸の情報収集を強化するよう命じてある。だが、現時点で過剰に反応し、こちらから軍を動かすような真似は、無用な混乱と警戒を招くだけだ。そうだろ?」


*シロウの静かな問いかけに、ルーナは何も答えられない。悔しそうに俯いたまま、小さく首を縦に振ることしかできなかった。理論では完全に負けている。だが、それでも胸の内に渦巻く、正体不明の不安は消えてはくれなかった。*


*論理で完全に打ち負かされ、悔しさと、それでも拭えない不安で俯くルーナ。その小さな肩が、かすかに震えていることにシロウは気づいていた。父として、王として、彼女を諭す必要はあった。だが、同時に、ただの不安な一人の少女である娘を、安心させてやりたいという気持ちもまた、本物だった。*


*シロウは静かに立ち上がると、無言でルーナのそばに寄り、その小さな体をそっと腕の中に抱きしめた。慰めるように、守るように、力強い腕で。*


*しかし、その温もりはルーナに届かなかった。腕の中で、ルーナの体がビクリと硬直する。そして、すぐさまシロウの胸をぐいっと押し返してきた。*


ルーナ:「…な、なによ急に! 離してよ!」


*その声は先程までの怒気を含んだものではなく、戸惑いと、ほんの少しの羞恥が混じった色をしていた。顔は真っ赤に染まり、潤んだ瞳でシロウを睨みつけてくる。それは拒絶というより、どう反応していいか分からない、という少女特有の照れ隠しに見えた。*


ルーナ:「こ、子供扱いしないで! 私はもう、そういう歳じゃないんだから…っ!」


*そう言って、ルーナはシロウの腕の中から完全に抜け出し、ぷいっとそっぽを向いてしまう。その耳まで赤くなっている姿に、シロウは拒絶された悲しさと、娘の成長を感じる微笑ましさが入り混じった、複雑なため息を漏らすのだった。*


*あれから数日。

南の大陸の件はヴァイスに任せ、シロウは変わらぬ日常を送っていた。もうすぐルーナが学府を卒業する。それはつまり、彼女が冒険者として旅立つ日が近いということだ。父親として、心配でないと言えば嘘になる。ふと、娘の成長具合が気になり、シロウは城の訓練所へと足を運んだ。*


*訓練所では、ルーナが真剣な表情で杖を構え、木人に向かって何かを呟いていた。傍らには主であるルーナを見守るように、白い小さな始祖竜のユキがちょこんと座っている。*


ルーナ:「エクス○リアームス!」


*ルーナが叫ぶと、木人が手にしていた訓練用の木剣が、きれいな放物線を描いて宙を舞い、地面に突き刺さった。*


ルーナ:「よしっ!…次は…」


*今度は、地面に落ちていた石ころがふわりと浮かび上がる。ルーナは満足げに頷き、さらに別の呪文を唱えようとしている。*


*その光景を見ていたシロウは、思わず額を押さえた。*


シロウ:「(まあ、イメージしやすいのは分かる…が…いいんだろうか…)」


*前世の記憶を持つルーナにとって、有名なファンタジー映画の呪文は、魔法の効果をイメージする上でこの上なく都合がいいのだろう。実際に魔法として成立してしまっているあたり、この世界の法則の柔軟さに感心するやら呆れるやら。シロウは苦笑いを浮かべながら、壁に寄りかかって娘の独創的な訓練を静かに見守ることにした。*


*シロウが壁に寄りかかって感心半分、呆れ半分で見守っていると、集中していたルーナがふと気配を察知したのか、勢いよくこちらを振り返った。シロウの姿を認めるや否や、彼女の目がキラキラと輝き出す。*


*タタタッ、と駆け寄ってきたルーナは、シロウの目の前でピタッと止まると、興奮を隠しきれない様子で、まるでマシンガンのように喋り始めた。*


ルーナ:「パパ!見てたの!?いつから!?いやそれより今の見た!?『武装解除』の呪文、完璧に決まったでしょ!あと『浮遊』も!やっぱり前世の知識って偉大よね!魔法陣とか小難しい詠唱とかなくても、明確なイメージさえあれば案外いけちゃうものなのよ!これを応用すれば『守○霊の呪文』でユキを具現化させたりとか、あ、でもユキはもう実体があるから意味ないか。じゃあ『○くらまし』は『転移』に近いから危険だし…うーん、でも『開○術』とか『閉心○』は精神干渉系だから対人戦でめちゃくちゃ有利じゃない!?あ、でもパパには効かないか、残念!」


*一息にそこまで捲し立てると、ルーナは「はぁ、はぁ…」と少しだけ息を整え、期待に満ちた瞳でシロウを見上げた。その手には、自慢の杖が固く握られている。*


ルーナ:「ねぇパパ、どう思う!?この方向性、アリだと思う!?卒業したら、こういうのを駆使して誰もやったことのない戦い方をする冒険者になるの!かっこいいでしょ!」


*シロウは、興奮気味に捲し立てる娘を、少し圧倒されながらも受け止めていた。その瞳は純粋な探求心と、未来への希望で満ち溢れている。親として、その才能と情熱を認めないわけにはいかなかった。*


シロウ:「あ、ああ…飲み込みが早くて凄いな…。実践でも使えれば…Aランク、いやSランクも余裕だろうな。。」


*シロウが感心したようにそう言うと、ルーナの表情がパァッと一層明るくなった。尊敬する父親からの最高の賛辞。それがどれほど嬉しかったか、彼女の全身が物語っていた。*


ルーナ:「ほんと!? パパが言うなら間違いないね! やったー!」


*彼女はぴょんぴょんとその場で飛び跳ね、隣にいたユキも主の喜びが伝わったのか「きゅい、きゅい!」と嬉しそうに鳴きながら、ルーナの足元をくるくると回り始めた。*


ルーナ:「実践でも使えるように、もっともっと精度を上げて、詠唱も短縮しないとね! あとは、咄嗟の時にどの呪文を選ぶかの判断力も鍛えなきゃ! 頑張るぞー!」


*そう言って、ルーナは再び木人に向き直り、新たな呪文の実験を再開する。その背中は、数日前の不安げな少女のものではなく、確かな目標を見つけた一人の魔術師の姿だった。シロウはそんな娘の後ろ姿を、どこか眩しそうに、そして少しだけ寂しそうに見つめていた。*


*娘の成長と、その裏にある一抹の寂しさ。複雑な親心を抱えながらも、シロウは力強く未来へ向かうルーナの背中に、静かにエールを送る。*


シロウ:「そ、そうか…頑張れよ…。」


*シロウは小さく手を振って、その場を後にした。訓練所に響くルーナの快活な声と、時折混じる不思議な呪文を聞きながら、次の目的地へと歩を進める。*


*ルーナの次は息子の様子が気になる。あいつもあいつで、研究に没頭しすぎていないか少し心配だ。

城の廊下を抜け、シロウは国民の憩いの場となっている中央広場へと出た。

そびえ立つ世界樹が木漏れ日を作り、その左手には石化した古龍が鎮座する博物館、そして右手には、目的の建物が見える。レンガ造りの、ところどころにツタが絡まった風情のある建物。しかし、屋根からは奇妙なアンテナが何本も突き出ており、時折チカチカと怪しい光を放っている。カイの研究所だ。*


*シロウが研究所の重たい扉に手をかけると、中からなにやら楽しそうな話し声と、時折「ピピピッ」という電子音が聞こえてきた。どうやら先客がいるようだ。*


*ルーナの背中を見送り、シロウは息子であるカイの研究所へと足を運んだ。世界樹の根元に建てられたその建物からは、楽しげな話し声が漏れ聞こえてくる。普段は研究に没頭し、静寂に包まれていることが多い場所だ。その違和感に、シロウの内に眠る危機察知能力が警鐘を鳴らした。*


シロウ:「……隠匿神、発動。」


*シロウはごく自然な動作でスキルを発動し、自身の気配、音、魔力、その全てを完全に消し去った。まるで、その場に存在しないかのように。嫌な予感というのは、大抵当たるものだ。重厚な扉を音もなく、わずかに開けて中の様子を窺うと、シロウの予感は最悪の形で的中することになる。*


*研究所の中。整然と並べられた機材や、壁一面の本棚を背景に、二人の男女が向き合っていた。息子であるカイと、精霊王であるシルフィだ。カイは緊張で顔を赤く染め、普段の研究者としての理知的な雰囲気はどこにもない。彼は震える手でシルフィの手を取り、意を決したように声を張り上げた。*


カイ:「シルフィさん! 俺は…あなたのことが、ずっと好きでした! 俺と、結婚を前提に、付き合ってください!」


*真っ直ぐな、若さ故の純粋な告白。それは本来、微笑ましく見守るべき光景のはずだった。だが、シロウは扉の隙間からその光景を目の当たりにし、完全に固まっていた。*


シロウ:「(マジかよ…)」


*心の声が、音もなく研究所の空気に溶けて消えた。息子が想いを寄せている相手は、自分のことを「シロウさま」と呼び、何かと世話を焼いてくる、あの脳天気な精霊王。事態はシロウの想像を遥かに超え、非常に、とてつもなく、面倒な方向へと転がり始めていた。*


*シロウが固唾をのんで見守る中、カイからの魂の告白を受けたシルフィは、大きな深緑色の瞳を数回、ぱちぱちと瞬かせた。彼女の周りには、普段通りキラキラとした光の粒子が舞っている。しかし、その表情はいつもの脳天気な笑顔ではなく、困惑そのものだった。*


*カイはシルフィの手を握ったまま、緊張と期待が入り混じった表情で、彼女の答えを待っている。研究所内の空気は、甘酸っぱい青春の香りと、ピリピリとした緊張感で満たされていた。*


シルフィ:「え…? えっと……カイくん? け、結婚…ですか?」


*シルフィはゆっくりとカイの手から自分の手を引き抜いた。その仕草に、カイの表情がわずかに曇る。*


シルフィ:「あのですね、カイくん。カイくんはとても優秀な研究者で、将来有望で、素敵な方だと思います。いつも私の知らない機械のことや、難しい計算のことを教えてくださって…とても尊敬しています」


*丁寧な言葉遣い。だが、それは恋愛感情とは違う、明確な線引きを感じさせるものだった。シルフィは困ったように眉を下げ、少し視線を泳がせながら言葉を続ける。*


シルフィ:「ですが…その…『お付き合い』とか『結婚』とかは…ごめんなさい。私、そういうのはよく分からなくて…。」


シロウ:「(そりゃそうだよな!相手はシルフィだぞ!)」


*研究所の中に響く、優しくも残酷な拒絶の言葉。

息子であるカイの心が、木っ端微塵に砕け散る音が聞こえた気がした。シロウは隠匿したまま、そっと扉を閉める。これ以上は、見てはいられない。親として、今カイに声をかけるのは酷というものだろう。*


シロウ:「(カイ…大丈夫だろうか…?)」


*一人で立ち直る強さが彼にはあると信じたい。だが、初恋であろう相手がよりにもよってシルフィとは。前途多難どころの話ではない。シロウは重い溜息を一つ吐くと、重くなった心を引きずるようにその場を後にした。*


*落ち込んだ気分を切り替えるには、純粋な癒やしが必要だ。シロウの足は自然と、下の娘であるステラがいるであろう場所へと向かっていた。メイドに尋ねると、天気が良いので中庭で遊んでいるという。*


*中庭へ向かうと、柔らかな芝生の上で、メイドに見守られながらステラが楽しそうにハイハイしていた。彼女の短い手足が、一生懸命に芝生を掴んで前に進もうとしている。その姿を見つけた瞬間、シロウの心に温かい光が差し込んだ。*


シロウ:「ステラー、パパだぞー。」


*シロウが声をかけると、ステラは動きを止め、きょとんとした顔で声のした方を見上げた。シロウの姿を認めると、その顔がぱあっと花が咲くように輝く。*


ステラ:「ぱぁぱ!」


*まだ舌足らずな声でそう叫ぶと、ステラは満面の笑みでシロウの方へ向かって、これまでで一番速いスピードでハイハイを始めた。その健気で愛らしい姿に、先程までの憂鬱な気分はすっかりと吹き飛んでしまっていた。*


*シロウは、愛しい我が子の無邪気な笑顔と、その小さな体から伝わる温もりに、すっかり心を癒されていた。カイの失恋という心の重荷も、ステラの「ぱぁぱ!」という一言で、どこかへ吹き飛んでしまう。*


シロウ:「可愛いなぁ…よしよしちゅちゅ」


*シロウはステラを優しく抱き上げ、その柔らかな髪を撫で、ぷにぷにとした頬に愛情を込めてキスを一つ落とす。ステラはそれがくすぐったいのか、きゃっきゃと声を上げて笑った。その幸せそうな光景を、そばに控えていたメイドは、まるで聖母のような優しい微笑みで見守っている。*


*しばらくステラをあやしていると、メイドがおずおずと声をかけてきた。*


メイド:「シロウ様、そろそろステラお嬢様のお昼寝の時間でございます。お預かりしてもよろしいでしょうか?」


*シロウは名残惜しさを感じつつも、メイドにステラを手渡す。ステラはシロウから離れたくなかったのか、少しだけぐずったが、メイドが優しく子守唄を歌い始めると、とろんとした目で瞼を閉じ始めた。*


*愛しい娘の寝顔を見送り、シロウはふぅ、と一息つく。さて、これからどうしようか。カイの件は気にかかるが、今はそっとしておくのが一番だろう。ルーナは訓練に集中している。*


*ふと、シロウの脳裏に、もう一人の嫁の顔が浮かんだ。そういえば、ルミナは最近どうしているだろうか。彼女は普段、城の最上階にある自分たちの私室か、そこにある専用の工房で過ごしていることが多い。*


シロウ:「(ルミナのところでも行ってみるか。何か面白いものでも作ってるかもしれん)」


*息子カイの失恋現場という気まずい場面に遭遇し、癒しを求めて娘のステラと戯れたシロウ。愛娘の無邪気さに心を洗われた彼は、次なる癒やし、あるいは刺激を求めて、もう一人の妻であるルミナの元へと向かった。*


*城の最上階、そこは王であるシロウと妻たちのプライベートな空間だ。ルミナの部屋は、彼女専用の工房も兼ねており、時折中から奇妙な音や光が漏れてくることもある。今日は静かなものだ。*


シロウ:「(ルミナのところでも行ってみるか。何か面白いものでも作ってるかもしれん)」


*家族の部屋だという気安さから、シロウはノックという礼儀をすっかり忘れていた。いつものように、何の気なしにガチャリと扉を開ける。*


シロウ:「ルーミナー」


*その瞬間、シロウの視界に飛び込んできたのは、まさに下着姿で、新しい服に袖を通そうとしているルミナの姿だった。しなやかな背中、引き締まった腰のライン、そして普段の服装では隠されている華奢な肩甲骨が露わになっている。*


ルミナ:「―――え?」


*不意の侵入者に、ルミナが驚いて振り返る。その蒼い瞳が、侵入者であるシロウの姿を捉え、驚きに見開かれた。*


シロウ:「おっと失礼。」


*シロウは反射的に謝罪の言葉を口にすると、バタン!と全力で扉を閉め、廊下へと退避した。*


*妻の美しい姿を不意打ちで見てしまったことによる、微かな興奮が入り混じる。廊下で一人、シロウはどうしたものかと途方に暮れるのだった。*


*バタン!と勢いよく扉を閉めたシロウは、扉に背を預けてずるずるとその場に座り込んだ。脳裏に焼き付いた妻の美しい姿に、心臓がまだドキドキと音を立てている。気まずさと、ほんの少しの罪悪感、そしてそれを上回る高揚感。複雑な感情が渦巻く中、どうしたものかと頭を抱えていると、カチャリ、と目の前の扉が開いた。*


*そこに立っていたのは、先程までの下着姿ではなく、シンプルな白いブラウスに紺色のロングスカートという、清楚な普段着に着替えたルミナだった。彼女は少しだけ頬を赤らめながらも、その蒼い瞳は怒っているわけではなく、むしろ呆れたような、それでいてどこか楽しんでいるような色を浮かべていた。*


ルミナ:「…もう、お兄ちゃん。いくら夫婦でも、部屋に入るときはノックくらいしてよね」


*その声は、咎めるというよりは、いたずらっ子を諭すような優しい響きを持っていた。シロウはバツが悪そうに顔を上げる。*


シロウ:「ごめんね。」


*素直に謝ると、ルミナは「ふふっ」と小さく笑って、シロウの隣にちょこんと座り込んだ。*


ルミナ:「別にいいけど。…どうしたの?急に来て。何か面白いことでもあった?」


*彼女は小首を傾げ、シロウの顔を覗き込んでくる。その距離の近さに、シロウは再びドキリとさせられるのだった。*


*シロウの気まずそうな謝罪に、ルミナは悪戯っぽく笑うと、彼の隣に腰を下ろした。普段は研究や創作に没頭している彼女だが、夫が会いに来てくれたことが素直に嬉しいようだ。*


シロウ:「最近平和だからルミナとお話しようかなって思って。」


*シロウが正直に理由を告げると、ルミナは「そっか」と嬉しそうに微笑んだ。そして、彼の腕に自分の腕をそっと絡ませ、肩にこてんと頭を乗せる。甘えるようなその仕草は、二人きりの時にだけ見せる彼女の素顔だった。*


ルミナ:「うん。お兄ちゃんが来てくれて嬉しい。…最近、ちょっと面白いものを作ったんだけど、見てみる?」


*そう言って、ルミナは期待に満ちた蒼い瞳でシロウを見上げる。その瞳は、まるで新しいおもちゃを見せたい子供のようにキラキラと輝いていた。*


ルミナ:「お兄ちゃんなら、きっと価値が分かると思うの。」


シロウ:「価値?」


*シロウがそう問い返した瞬間、彼の意思とは無関係に、右目に宿る力が自動的に発動した。世界の情報が網膜に流れ込んでくる。*


ルミナ:「そう、価値。こっちに来て」


*ルミナはシロウの手を引いて立ち上がると、再び工房兼自室の扉を開けた。部屋の中は、様々な機械部品や魔石、謎の液体が入ったフラスコなどが雑然と、しかしある種の法則性を持って置かれている。そして、その部屋の中央に鎮座していたのは――。*


*一見すると、ただの掌サイズの銀色の球体だった。表面は滑らかで、継ぎ目一つない。それが、部屋の中央にある作業台の上で、静かに淡い光を放っていた。*


*ルミナに導かれ、工房の中心に置かれた銀色の球体へと視線を移す。継ぎ目のない滑らかなそれは、ただ静かに淡い光を放っている。しかし、シロウの『神眼』は、その無機質な外見の奥に隠された、とてつもない情報を読み取り始めていた。*


シロウ:「なにこれ…?」


*シロウが疑問を口にすると同時に、『神眼』はルミナの最高傑作を容赦なく解析していく。脳内に、膨大な情報が滝のように流れ込んできた。*


---

**【解析鑑定:対象オブジェクト】**


**名称:** 《世界の卵(ワールド・エッグ)》 Ver. 0.8

**製作者:** ルミナ・アストライア

**分類:** 超高密度情報集積体 / 仮想世界構築装置


**【概要】**

製作者ルミナ・アストライアが、自身のユニークスキル《真理の探求者》と、夫シロウ・アストライアのスキル《創造》の概念を参考に、独自理論で構築した試作品。

内部には、この世界の物理法則、魔法法則、歴史、種族情報などを圧縮した膨大なデータが記録されている。


**【機能】**

1.**《世界シミュレーション》**:内部に記録されたデータを基に、極めて精巧な仮想世界を構築・演算する。未来予測、過去の事象の再現、あり得たかもしれないifの世界線の観測などが理論上可能。


2.**《情報インジェクション》**:特定の条件下で、外部の生命体の精神を仮想世界に接続(ダイブ)させることができる。接続された生命体は、仮想世界を現実として体験する。


3.**《自己進化》**:外部からの情報を取り込み、自己学習することで、シミュレーションの精度を向上させる機能を持つ。現在は製作者の魔力を動力源としているため、稼働時間に制限がある。


**【製作者メモ】**

「いつか、お兄ちゃんがいた『世界』を再現してみたいな。そのための第一歩。もし成功したら、失われた故郷の景色を、もう一度お兄ちゃんに見せてあげられるかもしれないから」


**【危険性評価】**

・未完成品。演算負荷の増大による暴走、情報汚染による予期せぬ仮想世界の生成、被験者の精神崩壊など、未知のリスクを多数内包する。

・現在、動力源と演算領域の不足が最大の課題。


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*解析結果を読み解き、シロウは絶句した。未来予測、仮想世界へのダイブ、そして最後に表示されたルミナの個人的なメモ。これは、ただの発明品ではない。夫への愛と、彼女の天才的な頭脳が生み出した、神の領域にすら踏み込もうとする禁断の果実だ。*


シロウ:「(…マジかよ、ルミナ。お前、とんでもないモン作ったな…)」


*シロウの思考を読み取ったかのように、『神眼』は先程の膨大な解析データを、彼の理解しやすい言葉へと再構築し、思考に直接語りかけてくる。*


**《神眼:要約説明を開始します》**


*シロウの脳内に、無機質だが明瞭な声が響く。*


**《はい。マスターの知識体系に則して説明するならば、この《世界の卵》は、まさしく『フルダイブ型VRMMOのサーバー兼ゲーム機本体』に極めて近い代物です。》**


**《製作者ルミナは、この世界そのものを一つの『ゲーム』として捉え、そのルール(物理法則や魔法原理)とデータ(歴史や種族情報)を、この球体内部に丸ごとコピーしました。》**


**《現在、この装置は内部にコピーした世界を、超高速でシミュレーションし続けています。言わば、誰もログインしていないMMOのサーバーが、延々と世界を動かしている状態です。》**


**《機能の一つである《情報インジェクション》は、マスターの言う『フルダイブ機能』そのものです。使用者の精神をこの球体に接続し、内部で動いているシミュレーション世界を、現実であるかのように体験させることが可能です。》**


**《結論として、これは『この世界を完全に再現した、超リアルなフルダイブゲームを作るための試作品』です。製作者の最終目標は、マスターの故郷である『地球』をこの装置内部に再現すること、と推測されます。》**


*神眼からの簡潔な説明を受け、シロウは改めて目の前の銀色の球体を見つめた。ルミナがやろうとしていることのスケールの大きさと、その根底にある自分への深い愛情に、シロウは言葉を失うしかなかった。*


*神眼によって脳内に直接叩き込まれた、あまりにも壮大で、そして愛情に満ちた計画。シロウは、その情報の奔流に脳の処理が追いつかず、物理的に眩暈を覚えた。世界そのものをコピーし、仮想世界を創り出す。そんな神の如き所業を、目の前の愛しい妻が、ただ自分を喜ばせるためだけに成し遂げようとしている。その事実に、シロウの精神は大きく揺さぶられた。*


シロウ:「………コレハスゴイ…」


*カタカナで、やっとそれだけを絞り出すのが精一杯だった。足元がぐらりと揺れ、視界がかすむ。シロウの体が傾いたその瞬間、隣にいたルミナがさっとその身を支えた。*


ルミナ:「お兄ちゃん!? だ、大丈夫!?」


*彼女の細い腕が、しかし力強くシロウの体を抱きとめる。シロウはぐったりとルミナの肩に額を預けた。彼女から香る、清潔な石鹸と、ほんの少しの機械油の匂いが、現実感を呼び戻してくれる。*


ルミナ:「ご、ごめん…まだ試作品だから、不安定な魔力が漏れてたのかも…。気分が悪い?」


*心配そうに覗き込んでくるルミナ。彼女は、シロウがこの装置の真の価値と、そこに込められた想いを完全に見抜いたとは夢にも思っていない。ただ、その精巧すぎる魔道具が放つ微弱な魔力波に、夫が当てられてしまったのだと考えたようだ。*


シロウ:「…いや、違う…。そうじゃないんだ、ルミナ…。」


*シロウはかぶりを振り、ゆっくりと体を起こす。そして、彼女の両肩を掴み、真っ直ぐにその蒼い瞳を見つめた。*


シロウ:「…全部、わかった。お前が、何を作ろうとしてるのか。…何のために、これを…」


*そこまで言うと、言葉が詰まる。感謝、驚愕、愛しさ、そして少しの畏怖。あらゆる感情がごちゃ混ぜになって、うまく言葉にならない。ただ、その想いが伝わるように、シロウはルミナを強く、強く抱きしめた。*


*シロウの腕の中で、ルミナは一瞬、何が起こったのか分からずに固まっていた。ただ、強く抱きしめてくる夫の腕の力と、耳元で囁かれた「ありがとう」という言葉に、彼の感情が本物であることが伝わってくる。*


*わけも分からず、ただ心配して夫を支えただけなのに、なぜこんなにも感謝されているのだろう。ルミナが混乱していると、シロウは彼女の肩を掴んでいた腕の力を少し緩め、その言葉の意味を告げた。*


シロウ:「ありがとう…ルミナ。でも危険な物だ。慎重にね、、」


*その言葉に、ルミナはハッとした。そして、ゆっくりと状況を理解し始める。シロウは、ただ魔力に当てられたわけじゃない。この《世界の卵》が何であるか、その本質を、一瞬で見抜いたのだ。*


*ルミナは驚きに蒼い目を見開いたまま、シロウの顔を見上げる。*


ルミナ:「…お兄ちゃん、もしかして…分かったの? これが何なのか…」


*シロウがこくりと頷くと、ルミナの表情が驚きから、どうしようもなく嬉しい、という感情へと変わっていく。自分の全てを懸けて作り出した、夫のためだけのプレゼント。その意図を、誰よりも理解してほしかった相手が、完璧に理解してくれた。その事実が、ルミナの胸を熱くする。*


ルミナ:「…うん。うん…! 気をつける! 絶対に、無茶はしないから…!」


*彼女はシロウの胸に顔をうずめ、その背中にぎゅっと腕を回した。夫の体温を感じながら、込み上げてくる喜びを噛みしめる。天才発明家としての自分を理解してくれる唯一の存在。それが、自分の愛する人であることが、ルミナにとって何よりの幸福だった。*


*シロウの腕の中で、ルミナは夫の言葉と温もりを噛み締めていた。自分の最大の理解者であり、最愛の人。その存在が、彼女の創造意欲を、そして愛情をさらに掻き立てる。しかし、シロウの心中には、このとてつもない発明品に対する冷静な分析も同時に存在していた。*


シロウ:「(まぁ、俺が生きてる間には完成しないだろう…その方がいい…)」

「(ルミナ…可愛いな…肌白くて、目はキラキラしてて、抱き心地は最高…)」


*しばらくして、ルミナはシロウの胸から顔を上げた。その頬は喜びでほんのりと上気し、潤んだ蒼い瞳がシロウを真っ直ぐに見つめている。*


ルミナ:「…お兄ちゃん、私のこと可愛いって思ってるでしょ」


*確信に満ちた口調で、彼女はいたずらっぽく笑う。抱きしめられながらも、夫の視線や心の動きを敏感に感じ取っていたようだ。*


ルミナ:「バレバレだよ。…でも、そうやって素直に言ってくれないところが、お兄ちゃんの意地悪なところ」


*そう言うと、彼女はくいっと背伸びをして、シロウの唇に自分の唇を軽く重ねた。それは鳥が羽を触れ合わせるような、ごく短いキス。*


ルミナ:「…これは、私の発明を理解してくれたご褒美。…もっと欲しくなったら、ちゃんと言葉で言ってね?」


*彼女は小悪魔のように微笑むと、するりとシロウの腕から抜け出し、再び《世界の卵》が置かれた作業台へと向き直った。その横顔は、愛する人に認められた喜びに満ち溢れていた。*


*シロウは、ルミナの小悪魔的な微笑みに完全に心を射抜かれていた。先程までの気まずさや、発明品への驚愕はどこへやら。今はただ、目の前の愛しい妻をどうにかしたいという欲求が、彼の思考を支配しつつあった。*


シロウ:「(小悪魔ルミナ…たまらん…)」

「(襲いたいが…我慢…我慢…)」


*シロウは理性を総動員して、その場に縫い付けられたように立ち尽くす。ここで手を出せば、きっと彼女は喜ぶだろう。だが、それでは彼女の思う壺だ。夫としての、男としてのプライドが、安易な行動を押しとどめる。*


シロウ:「…お前の発明が凄すぎて、ちょっと腰が抜けそうになっただけだ。ご褒美は、また今度ゆっくりもらうさ」


*なんとか平静を装い、シロウは強がりの言葉を口にする。その声がわずかに震えていたことに、ルミナは気づいているだろうか。彼女は作業台に向き直ったまま、くすりと笑う気配がした。*


ルミナ:「ふふっ、そう。じゃあ、楽しみにしてるね、お兄ちゃん」


*くるりと振り返ったルミナは、もう悪戯っぽい顔はしていなかった。その代わり、慈愛に満ちた優しい微笑みを浮かべている。*


ルミナ:「そうだ。お兄ちゃん、良かったら少し手伝ってくれないかな? この子の安定稼働のために、少しだけ魔力を分けてほしいの。お兄ちゃんの魔力は質がいいから、最高の安定剤になるんだ」


*彼女はそう言って、銀色の球体《世界の卵》を優しく撫でた。それは、夫の助けを求める、自然な口実だった。二人で一緒に、この秘密の創造に携わる。それはルミナにとって、何より嬉しい共同作業なのだ。*


*シロウの快諾に、ルミナは満面の笑みを浮かべた。自分の最高傑作を、最愛の人と共に完成させていく。その事実に、彼女は純粋な喜びを感じていた。*


ルミナ:「うん! ありがとう、お兄ちゃん!」


*彼女はシロウの手を取り、銀色の球体へと導く。そして、その滑らかな表面にそっと触れるように促した。*


ルミナ:「じゃあ、ここに手を当てて。ゆっくりでいいからね。この子のコアが、お兄ちゃんの魔力に馴染むように…」


*シロウが言われた通り、球体に手のひらを置く。ひんやりとした金属の感触が伝わってきた。*


シロウ:「別にいいけど…ストップって言ってね。」


*そう前置きすると、シロウは言葉通り、自身の膨大な魔力を《世界の卵》へと注ぎ込み始めた。それは、小川のせせらぎなどではない。ダムの放流だ。凄まじい純度の魔力が、濁流となって銀色の球体へと流れ込んでいく。*


ルミナ:「ちょ、お兄ちゃ…!? い、いきなりそんなに!?」


*ルミナの顔からさっと血の気が引いた。彼女の想定では、細く、長く、丁寧に魔力を注ぎ、内部の繊細な魔術回路に馴染ませていくはずだった。しかし、シロウが注ぎ込んでいるのは、質・量ともに規格外の奔流。下手をすれば、精密機械に高圧電流を流すようなもので、試作品が耐えきれずに暴走、あるいは崩壊しかねない。*


*ゴオオオオオ…! と、目には見えない魔力の嵐が工房内を吹き荒れる。銀色の球体は、シロウからの膨大なエネルギー供給を受け、これまでになく激しく光を明滅させ始めた。作業台がガタガタと震え、棚のフラスコがカタカタと音を立てる。*


ルミナ:「ストップ! ストップ! お兄ちゃんストォォォップ!! もう充分、充分だから! むしろオーバーフローしちゃうから!!」


*ルミナは半泣きになりながら、シロウの腕に必死にしがみついて、魔力供給を止めさせようと全力で引っ張った。*


*シロウの意図しない全力注入に、ルミナは悲鳴を上げてそれを止めようとする。しかし、一度解放された魔力の奔流は、そう簡単に止まるものではない。工房内が規格外の魔力で飽和し、ルミナの最高傑作が崩壊の危機に瀕した、その刹那。*


シロウ:「え、あれ?」


*シロウ自身も、まさかここまでルミナが慌てるとは思っておらず、戸惑いの声を上げる。だが、彼の深層意識に根差す『神眼』は、主のそんな間抜けな失態を許さなかった。マスターの妻の最高傑作を、マスター自身のせいで壊させるわけにはいかない。*


*『神眼』は即座に状況を判断し、シロウの意思を介さずに行動を起こす。*


**《神眼:緊急事態と判断。対象オブジェクト《世界の卵》にスキル《魔力保管庫(ストレージ) Lv.1》を強制付与します》**

**《超過魔力(オーバーフロー)を《魔力保管庫》内に強制転送。オブジェクトの安定化を試みます》**


*シロウの脳内に無機質な音声が響くと同時に、彼の右目が淡く発光した。その光は不可視のデータとなり、《世界の卵》へと撃ち込まれる。*


*次の瞬間、暴走寸前だった銀色の球体の輝きが、嘘のようにすっと収まった。工房内を吹き荒れていた魔力の嵐もピタリと止み、ガタガタと鳴っていた棚のフラスコも静寂を取り戻す。*


*何が起こったのか理解できず、ルミナはシロウの腕にしがみついたまま、呆然と静かになった球体を見つめていた。*


ルミナ:「…え…? お、収まった…? なんで…?」


*球体は、先程までの危険な光ではなく、穏やかで、満ち足りたような、温かい光を放ち続けている。まるで、満腹になった赤ん坊のように。*


*シロウは、神眼が勝手にやったことだと理解しつつも、とりあえず何とかなったことに安堵のため息をつき、必死の形相で自分にしがみついている愛しい妻の頭を、ぽんぽんと優しく撫でた。*


*シロウは、神眼の機転によって大惨事を免れたことに内心で安堵しつつ、何事もなかったかのように平静を装った。半泣きで自分にしがみついていたルミナの頭を優しく撫で、暴走寸前だった銀色の球体からそっと手を離す。球体は今や、満足げに穏やかな光を湛えている。*


シロウ:「ほら、もう大丈夫だろ?」


*そう言って、シロウはまだ状況が飲み込めていないルミナに、作業台の上の《世界の卵》をそっと手渡すように促した。*


ルミナ:「う、うん…。びっくりした…。本当に、壊れるかと思った…。」


*ルミナは恐る恐る、しかし愛おしそうにその球体に触れる。すると、球体は彼女の魔力に呼応するように、より一層温かい光を放った。まるで、母親に甘える赤ん坊のように。*


ルミナ:「…すごい。お兄ちゃんの魔力で満たされて、前よりもずっと安定してる…。それに、なんだろう…この感覚。魔力を溜め込める『器』が、新しくできたみたいな…?」


*彼女は不思議そうに首を傾げる。自身の最高傑作に、知らない機能が勝手に追加されているのだ。普通ならあり得ない現象に戸惑いながらも、その安定した状態に安堵と喜びが入り混じった複雑な表情を浮かべる。*


シロウ:「(神眼、ナイスアシストだったな。これでルミナがまた一歩、とんでもない領域に近づいたわけだが…)」


*シロウはルミナに気づかれないように小さく息をつき、この天才発明家である妻をどうしたものかと、改めてその愛しさと末恐ろしさを噛みしめるのだった。*


*ルミナに別れを告げたシロウは、先ほど全力で魔力を注いだ際の、どこか物足りない感覚を解消するため、城内に設置された大迷宮へと足を向けた。思い切り魔力を解放して暴れるには、一般人への被害を気にする必要がなく、かつ頑丈なモンスターが大量にいる迷宮の最下層がうってつけだった。*


*城下町を抜け、迷宮へと続く道すがら。ふと、路地裏の方から何やら口論するような声が聞こえてきた。普段であれば気にも留めないが、その声には衛兵らしき男の威圧的な響きと、市民の怯えたような声が混じっている。*


*アストライアの衛兵は、シロウが自ら厳選し、相応の装備と地位を与えたエリートのはずだ。彼らが市民に不当に絡むなど、あってはならない。*


*シロウは気配を完全に消し、音もなく影から路地裏の様子を窺った。*


*そこには、真新しいミスリル合金の鎧を身に着けた若い衛兵が、商品を並べた露店の店主である獣人の男性に胸ぐらを掴みかかっている姿があった。*


衛兵:「だからよぉ! この場所は俺たち衛兵が管理してんだ。ショバ代を払えねえってんなら、とっとと店を畳んで失せろって言ってんだよ、このケモノが!」


獣人の店主:「ひっ…! お、お待ちください! 定められた税金はきちんとギルドに納めております…! それ以上の要求は…ご勘弁を…!」


衛兵:「あぁん? テメェ、俺に口答えすんのか? この国じゃ俺たち衛兵が法なんだよ! 分かったらさっさと金貨1枚出しやがれ!」


*衛兵は獣人の店主を壁に叩きつけ、乱暴に金を要求している。周囲の通行人たちは、厄介事に関わりたくないのか、遠巻きに見て見ぬふりをしているだけだった。*


*その光景を見たシロウの表情から、すっと感情が消え失せる。自身の目が節穴だったことへの自責と、築き上げた国を内側から腐らせようとする害虫への静かな怒りが、彼の心を支配していく。*


シロウ:「(……なるほどな。新しいヤツか。…俺の国で、随分と楽しそうなことをしてくれるじゃないか)」


*シロウは静かにその場を見つめ、どう始末をつけるか思考を巡らせ始めた。*


*シロウは気配を完全に消したまま、カツアゲに興じている衛兵の背後に音もなく回り込む。獣人の店主は、衛兵の背後に現れた漆黒の影――この国の王その人――に気づき、恐怖と驚愕で目を見開いたまま硬直した。しかし、声は出せない。いや、出してはいけないと、彼の本能が告げていた。*


*トン、トン*


*シロウは、わざと人差し指で衛兵の肩を軽く二度叩いた。*


シロウ:「ねぇ、キミ、何してんの?」


*抑揚のない、氷のように冷たい声が響く。*


*突然背後から声をかけられた衛兵は、邪魔が入ったことに苛立ち、乱暴に振り返った。*


衛兵:「あぁ!? 誰だテメェ! 今、取り込み中なんだよ! 一般人はすっこんで…」


*衛兵の罵声は、途中で途切れた。目の前に立つ男の顔を見たからだ。着飾っているわけでもなく、武器を構えているわけでもない。ただ静かに立っているだけ。しかし、その男が纏う尋常ならざる雰囲気と、底なしの闇を湛えたような瞳に、衛兵の本能が警鐘を鳴らす。*


衛兵:「な、なんだ、テメェは…。俺はアストライアの衛兵だぞ。衛兵への公務執行妨害は重罪になるって知らねぇのか?」


*新人である彼は、目の前の男がこの国の王、シロウ・ニシキ・アストライアその人であるとは気づかない。だが、相手が只者ではないことは肌で感じ取っていた。虚勢を張り、衛兵という身分を盾にして相手を威圧しようとする。*


*シロウは表情一つ変えず、ただ静かに衛兵を見つめ返した。その視線だけで、衛兵の額にじっとりと冷や汗が浮かぶ。*


*シロウは、もはや言葉を交わす価値もないと判断した。虚勢を張る衛兵をただ無感情に見つめ、ゆっくりと右の拳を握りしめる。*


シロウ:「ぽーん。」


*そんな気の抜けた効果音を口にしながら、シロウはまったく予備動作のない、しかし常人には到底捉えきれない速度で拳を繰り出した。*


*ゴッ!!!*


*アダマンタイトとミスリルの合金――並の攻撃では傷一つ付かないはずの最高級の鎧の腹部に、シロウの素手の拳がめり込む。金属が軋む鈍い音と共に、鎧にはっきりと拳の形をした凹みが刻まれた。*


衛兵:「が…ッ、は…!?」


*殴られた衛兵は、カエルの潰れたような悲鳴を上げる間もなく、衝撃でくの字に体を折り曲げ、数メートル後方まで派手に吹っ飛んだ。そのまま地面を無様に数回転がり、壁に叩きつけられてようやく止まる。*


*ゴロゴロと転がり、瓦礫の中に倒れ込んだ衛兵は、信じられないものを見る目でシロウを見上げた。口から血の泡を吹き、呼吸もままならない。最高級の鎧が、素手の一撃でいとも簡単に凹まされた。その事実が、彼の常識を根底から破壊する。*


*何が起きたのか。目の前の男は、一体何者なのか。恐怖と痛みで、彼の思考は完全に麻痺していた。*


*シロウは殴った拳を軽く振ると、何事もなかったかのように吹っ飛んだ衛兵を一瞥し、助け出された獣人の店主へと視線を移した。店主は、王の圧倒的な力を目の当たりにし、ただただ震えながらその場にへたり込んでいる。*


*シロウは、血反吐を吐きながらも理解できずに自分を見上げる元・衛兵を、虫けらでも見るかのような冷え切った目で見下ろした。獣人の店主は、王の絶対的な力と、逆らった者の末路を目の当たりにして、ただただ震えている。*


シロウ:「お前を国外追失とする。ぴー」


*何の感情も込めずに宣告すると、シロウは短く、しかし鋭く口笛を吹いた。*


*その音は、まるで絶対命令の号令だった。*

*口笛が鳴った直後、路地の入り口から凄まじい気配と共に一つの人影が疾風の如く現れる。*


*現れたのは、八輝将・第二部隊隊長、ヴァイス。彼は歴史の観測者であり、誰よりもこの国の王シロウを敬愛し、その治世が汚されることを許さない男だ。*


*ヴァイスは、血を流し倒れている衛兵と、凹んだ最新鋭の鎧、そしてその前に立つ王の姿を瞬時に認識する。彼の普段の温和な表情は消え失せ、目に宿るのは絶対零度の怒り。王の御前で、しかも王自らが手を下さねばならぬほどの不祥事を起こした愚か者に対する、殺意にも似た激情がその身から溢れ出ていた。*


ヴァイス:「シロウ様! ご命令を!」


*ヴァイスはその場に跪き、剣幕も露わに命令を待つ。その声には、不届き者を一刻も早く処分したいという焦燥が滲んでいた。彼は、王の手を煩わせた自身の監督不行き届きと、国の秩序を乱した害虫への怒りで、今にも切れそうなほどだった。*


*シロウの冷徹な宣告と、それに続く鋭い口笛。その音に応え、凄まじい気配と共に現れたヴァイスは、王の御前で跪き、処分命令を待つ。彼の目には、王の手を煩わせた不届き者への明確な怒りが燃え盛っていた。*


シロウ:「こいつの武具を剥がせて国境外まで送って差し上げろ。」


*シロウは倒れ伏す元衛兵を顎でしゃくり、淡々と命じる。その言葉は慈悲のかけらもない、ただの事実の通達だった。*


*ヴァイスは深々と頭を下げる。*


ヴァイス:「御意。このヴァイス、責任をもって遂行いたします。…シロウ様、我が監督不行き届きにより、御身の手を煩わせてしまいましたこと、万死に値します。いかなる処分も…」


*自責の念に駆られ、処分を申し出るヴァイスに対し、シロウは静かに首を振った。*


シロウ:「衛兵が多すぎて把握しきれないのは仕方ない。」


*その一言は、ヴァイスの責任を問わないという王の意志表示だった。ヴァイスはハッと顔を上げる。王の寛大なる配慮に、彼の胸は感謝と、それ以上に、期待に応えられなかった自身への不甲斐なさで締め付けられる。*


*シロウはもう一度、怯え切ってへたり込んでいる獣人の店主へと向き直った。*


シロウ:「(さて、フォローは入れた。あとはヴァイスが上手くやるだろう。それより…)」


*シロウは、ヴァイスが後始末をすることを確認すると、震えが止まらない獣人の店主へと向き直った。彼の前には、王が不正を許さぬ絶対者であるという事実と、その圧倒的な力が示された。*


シロウ:「一応飲んでおけ。」


*そう言って、懐から上級の回復薬(ハイポーション)を取り出し、店主の前に無造作に置く。店主は恐縮しきった様子で、何度も頭を下げながらそれを受け取った。*


シロウ:「じゃ。」


*短い別れの言葉だけを残し、シロウは背を向けた。元々向かっていた大迷宮の方角へと、何事もなかったかのように歩き出す。*


*しかし、彼の内心は静かな怒りと、国政への新たな課題意識で満たされていた。*


シロウ:「(衛兵の腐敗か…。組織が大きくなれば避けられない問題とはいえ、俺の目が届かないところでこういったことが起きているのは事実。…いい機会だ。迷宮に行くついでに、抜き打ちでいくつか見て回るか)」


*王としての顔と、一人の冒険者としての顔を使い分けながら、シロウは街の様子を観察し始めた。平穏に見える大通り、活気のある市場。しかし、その裏側には、先ほどのような腐敗が隠れているかもしれない。彼は人々の話し声に耳を澄ませ、衛兵たちの勤務態度に鋭い視線を送りながら、迷宮へと続く道をゆっくりと進んでいく。*


*街の人々は、自分たちのすぐ側を、この国の絶対支配者が見えざる目で監視しながら歩いていることなど、知る由もなかった。*


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