10
エナ・ルイ国の王城は藍色の星空の下で静けさを保っている。
白壁の美しい壮麗な城の中、奥まった場所にあるその部屋は女主人に相応しい上品な華やかさに満ちていた。
その部屋のテラスに人影が一つ。
黒髪の美しいその人は、手すりにもたれて、城の庭かその先にある城下街を見つめていた。
そこに羽音が聞こえた。
数枚の羽根を散らして彼女の傍らに降り立ったのは、胸元に白い毛のある鴉だった。
この鳥には夜の闇も何の障害にもならないらしく、ぎょろりとした瞳は迷わず白い夜着を身にまとう女性に焦点を当てた。
「久しぶりだね、悪魔の娘」
しわがれた声が鴉の嘴の端から漏れる。
そして鳥は、げっげっげっと邪悪に笑った。
悪魔の娘と呼ばれた女性は穏やかな表情で鴉に微笑みかける。
「久しぶりね、ギーリ」
名を呼ばれた鴉はその翼を大きく広げた。
「おっとっと。忘れないでくれていたとは嬉しいね。
だったら私もお前を『悪魔の娘』と呼ばない方がいいだろう、……お妃様?」
様子を窺う様な物言いに、夜着の女性、マロウは小さな笑いを零した。
「ギーリったら、からかわないで」
そう言って伸ばした手は、鴉の羽根を優しく撫でる。
魔物である鴉を前にして、マロウは臆す事とも怯える事とも無縁だと言わんばかりの態度だ。
「そうしていると、お前の『悪魔の性』が死んだとは思えないな」
唐突に、第三者の声がテラスに響いた。
警戒する様に瞳を細める鴉とは対照的に、マロウは落ち着き払って振り返った。
王妃の部屋とテラスの境に立っていたのは、かつて王子であったシュバイツだった。
その姿を認めた鴉は大げさに喜ばしそうな声をあげる。
「おやあ、賢君と名高きシュバイツ王ではあらせられませんか!
この下賤の鴉が王妃様に話しかけた事をお怒りか?
おお、それは心よりお詫び申し上げます!」
言葉自体は謝罪のそれだが、口調は明らかにからかいを含んでいた。
だがシュバイツとて、この鴉がそういうものだという事はよく知っている。
だから彼は肩を竦めて、こう返すに止めた。
「射抜くぞ、鴉」
その手にはもちろん弓など無い。
それでもかつてのやり取りを思い出させるその台詞に、ギーリは大げさに怯えてみせた。
「おお怖い。
すっかり太ってしまったギーリめは食べられてしまいます!」
両の羽根で頭を覆う鴉の仕草に、マロウはころころと笑った。
「貴方達は何年たっても変わらないわね」
ぎひひひひ、と笑いながら鴉は数歩、マロウから離れた。
その隙間を埋める様にシュバイツが歩み寄る。
妻とした、かつての『悪魔の娘』の顎にそっと指をかける。
「お前も何も変わらない。あの、『悪魔の森』に居た頃と」
姿こそ大人びて、少女とは呼べなくなったが、彼女の人を喰った様な物言いは変わらないし、魔を魔とも思っていないようだった。
もちろん、城内の他者の目があればその奇異な特性は隠匿される。
シュバイツは時折、その綺麗な外面だけがあの水晶の矢の効果だったのでは無いかと思えるのだ。
すると、マロウは嬉しそうに微笑んだ。
ばさりと鴉が空に羽根を広げ、闇に溶け込む様に羽ばたいた。
今は王妃と呼ばれるマロウは、夫の指先に手を添えると、唇を開く。
「いいえ。あの時、貴方の放った矢によって、確かに私の『悪魔の性』は射抜かれたわ」
艶めいたその容貌に浮かぶのは、何処か暗さを含む愉悦。
「でもね、……全てがお伽噺のようにはいかないのよ」
そして、赤紫の瞳が妖しく煌めいた。
これにて「悪魔の娘と弓引く王子」は完結となります。
童話風に「めでたしめでたし」で済まそうと思ったのに、そうはさせてくれない『悪魔の娘』のお話でした。
最後までお付き合い頂き有り難う御座いました。