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パンを焼くのに邪魔なので

 アリシアが完全に目覚めた時には一週間が経過していた。


それまでも介助がいらない程度に、つまりほとんど寝て過ごしているけれど、トイレに行ったり水を飲んだり、最低限の日常生活は保てていたが、アリシアという自我が戻ってくるのには一週間を要した。


 それほどオリバーから聞いてしまった、アリシアの人身売買計画は衝撃的だった。


 元々アリシアが令嬢育ちであるために、暴力や犯罪について詳細な知識がないという要因はある。

それにしても、実の親が娘に対して許可するには、あまりにも非道な内容だった。


 オリバーは憲兵に連行された後、我が身可愛さに、ウッド男爵からの指示を、素直に全部話した。


それは勿論この国の抜け道だらけの情報網から、マスコミに伝わり、新聞も雑誌も街角の噂話も全てアリシアを主軸としてゴシップだらけになった。


◇◇◇


 「……あ゛ら、髪の色が違うわ」

久しぶりの声は、喉にひきつれた弱い痛みを与えた。


その時アリシアは鏡を覗いていた。

何の目的だったかは覚えていない。

ここのところはそんなことばかりだった。


顔を洗おうとしたのか、額から胸の辺りまでびしょ濡れだ。


 不意に現実に戻ってきたアリシアは、冷静に今を受け入れていた。


 「……、精神的な回復と、置かれた状況を判断するのに、脳を集中させたってことなのかしら。変な気分ね」


白金の髪から金色の輝きは抜け落ちて、ペンキで塗ったような、まるで教会の石膏像のような白い髪を触りながら、アリシアは口の端で笑った。


 「現状を知っているけど、知らない間に時間が経っているなんて……。まあいいわ。お化けになったような症状については、後でお医者様に訊いてみましょう」


鎖骨が浮いて、水を溜められそうだ。

腕を伸ばして見れば元々細いそれは棒切れのようだった。


「……なんだかみすぼらしいわね」


そう言ってアリシアは、クローゼットを開けて、あの日着用していたワンピースを手に取った。


 レイナルドのブランドの、ひだの間に大きなポケットが付いた、機能的なワンピース。

そこにアリシアは魔法を掛けて、鋏を入れていた。


 いざという時に自分を守れるように。


 ただ、その判断は少々過激すぎたかもしれないと今は思った。

裁判所の時のように、相手がアリシアを殺そうと刃物で襲ってきていれば、アリシアが刃物で応戦しなければならないかもしれない。


やはりあの記憶が鮮明に刻まれすぎて、アリシアはその想定で構えてしまった。


 オリバーの場合は、相手がアリシアをその場で殺そうとしていなかった。

アリシアがあの場で鋏を出せば過剰防衛まっしぐらだ。


 「……本当に、もっと広い視野で物事を考えないと」

アリシアは自分に呆れながら、鏡の前で鋏を持つと、迷いなく後ろ髪を短く切り落とした。


◇◇◇


 「グレイ嬢?!」

お見舞いに来たエドガーが、防衛魔法のかかった杖を取り落として、床から派手にガランガランと音がした。


 「あら、お恥ずかしいですわ。すみません、こんな格好で」

アリシアはにこやかに微笑んだ。


「ああいえ、あなたが眠っているものと勘違いして、僕がノックや挨拶をしなかったせいです。申し訳ありません……。

いえでも、あのその姿は……。

いえとにかく医者を呼んできます、ああいや……」

エドガーはワタワタとその場であちこちを向きながら、どうしようか落ち着かず、そしてアリシアの正面に意を決したように大股でやってきた。


 「これは、決して、胸元付近が濡れているあなたにどうこうしようとか!

あなたの今の判断力を疑っているということでもなく!

ただ許可なく病院で、特に憲兵病院で刃物を持っているのは、あなたにとっても良くない状況を招く可能性があるので、一旦その鋏を僕に預けてくれませんか?」


 アリシアは微笑んだまま鋏を手渡した。

「仰る通りですね、失礼しました。あの日、ワンピースのポケットに入れていたんです。防犯用に」


エドガーは鋏を受け取ると、細く安堵したような息を吐いた。


「オリバーは刃物を持っていたり、明確な殺意がなかったので、鋏を持ち出すのは躊躇しまして、あの日は出番がありませんでした」


 「この鋏は、髪を切るために出したのですか?」

エドガーの眼差しが、心の底からアリシアを心配するもので、つまりアリシアが自死するために鋏を取り出していたなら、少なくともエドガーはそれを嫌だと思ってくれるということだった。


 「そうです。パンを焼くのに邪魔なので」

アリシアは、顎の下ほどまでになった髪を揺らしてニッコリと笑った。


眦の淵にあった涙が落ちないように、瞳を大きく開いて、エドガーを見つめる。


「私はグレイ家を出ます。貴族をやめて一商人に、パン屋の店主になります。それが一番、心穏やかに生きていけると思います」

アリシアは明確に、家族を捨てる発言をした。


「あなたがそう思うなら、私は出来る限りそれをサポートします」

エドガーはそう言って、アリシアに自身の上着を掛けた。

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