パン屋の準備を進めましょう
その知らせが届いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
アリシアはミアと向かい合い、試作したパンの値段について話していた。
「やっぱり、もう少し安くしたいわね」
「でもアリシア様。この材料でそれ以上下げたら、ほとんど利益が出ませんよ」
「最初から大儲けするつもりはないもの。価格の低さでリピーターを作って、固定ファンの口コミでまず知名度を上げたいわ」
「そう言って慈善事業みたいになるのが一番怖いんです。価格の低さで付いたお客は値上げ後には付いてきませんよ?お店は続かなきゃ意味がないんですから」
ミアにぴしゃりと言われ、アリシアは口を閉じた。
一般消費者向けの小売業ではミアの方が知見があることも多い。特に最近は立場が逆転することが増えている。
それが、家の爵位を超えて仲間扱いされているようで、アリシアの口元は注意されていながらムニムニと弛んでくる。
「アリシア様、ニヤニヤして何を考えてるんですか?」
「いや……、その、友だちみたいだなって……」
「今更何を言っているんですか!」
「そ、そうよね!」
アリシアが年相応の、或いはそれより幼い少女のように目を輝かせ、頬を桜色にして叫ぶように言った。
前のめりなアリシアの様子にミアが笑い、思わず二人で笑いあった、その時だった。
扉が激しく叩かれた。
「アリシ、アリスちゃん!」
どうもクリニックの方にはアリシアやミアに会いたいという記者や「色々面倒な人」が連日訪れているらしく、偽名は有効に使えているらしい。
「いいのいいの!こういうのあしらうのは、経験積んでる私たちに任せといて!」
そう言って師長たちは、アリシアたちの仕事を寮でできるものに限定させてくれている。
お陰で空き時間にはパン屋についての相談も出来ている。
非常に有難い環境だ。
「どうしたの?」
「あの脱獄能無し……いや、その……」
入ってきた看護師は、ひどく困惑していた。そして差し出されたのは、一通の封筒だった。
何の変哲もない、安物の封筒。
差出人の名前はない。
けれど、アリシアは、そのミミズがダンスをするような文字を見た瞬間に表情を変えた。
「……嘘でしょう」
「アリシア様?」
ミアが覗き込む。
アリシアは答えなかった。
見間違えるはずがない。何年も見てきた文字だった。
自分が代わりに書類を作り、その最後に署名だけをさせてきた。
あの男の字だ。
「オリバーよ」
ミアの顔から笑みが消えた。
「……え?」
「これを書いたのは、オリバーだわ」
部屋の空気が変わった。
脱獄してから、消息は分からなくなっていた。当然、捜索は続いている。新聞や雑誌もここぞとばかりに騒いでいる。
そのオリバーから、突然手紙が届いた。
「開けない方がいいんじゃ……」
「毒でも塗ってあると思う?」
「この状況なら笑えませんよ!」
「大丈夫よ。あの男がそんな凝ったことを思いつくとは思えないもの」
「アリシア様、あの脱獄能無し野郎への信頼が斜め上方向にすごいですね……」
それでも念のため布越しに封筒を開き、中の紙を取り出す。
そこには、短い文章が書かれていた。
『アリシアへ。
今お前のせいで俺がどれだけ酷い目に会ってるか分かるだろう。
俺は騙されてた。
ウッド男爵に利用されてただけだ。
お前ならそれを照明できるはずだ。
なんとかしてくれ。
俺たちは婚約者だったんだから、そもそもお前が女のくせに男の俺を立てずにしゃしゃり出て、こうしょうをメチャクチャにしたのが悪いんだ隣国が怒ってる。
そもそもお前がウンタラカンタラ……』
バシン!と手紙を閉じたアリシアの横で、ミアがピッと飛び上がった。
「ごめんなさいミア!誤字脱字の多さと文章力と反省の無さについ!」
「そんなに酷いんですか?」
ミアが横から覗き込むと、渋柿を食べたように顔を歪めた。
続きを読み進めるアリシアの顔は石像のように固まっていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「……すごいですね」
やがてミアが呟いた。
「ええ」
「牢屋に入れられて、裁判でも散々だったのに。ここまで何も変わっていないとは思いませんでした」
「私もよ」
アリシアはぐったりと食堂の椅子の背にもたれた。
怒りより先に、呆れが来た。
あれだけのことがあって、反省するどころか、最後には元婚約者だからという理由で、未だにアリシアが何とかしてくれると思っている。
「どうするんですか?」
「何もしないわ」
アリシアは即答した。
「憲兵に任せましょう」
ミアが少し驚いた顔をした。
「……本当に、それだけですか?」
「それだけよ」
アリシアは手紙を机へ置いた。
以前のアリシアなら、もしかすると、少しは考えたかもしれない。
どうすればブラウン家やグレイ家や領地への被害を最小限にできるのか。
自分が話を聞けば、余計なことをしないのではないか。そんな風に。
いや結局、また自分が何とかしようとしたかもしれない。
自分が今まで知略で上手く行っていたという過信から、奴を牢屋に戻してやると息巻いていた可能性はある。
ただ、この一連の出来事でアリシアは悟った。自分には力がない。今まではただ運良く上手く行っていたのだ。
自分よりもっと狡猾で、手段を問わずに謀略を巡らせる人がいる。
経験に裏打ちされた暴力には、本で読んだ程度の多少の防衛魔法では、太刀打ちできない。
勿論、暴力に対して防衛せずに諦めるつもりはないが、幼い正義感で動くことで、周りに迷惑を掛けることだけは避けたかった。
今のアリシアには大切にしたい人が多いのだ。
「もう、私の手を離れすぎているわ」
その言葉を口にすると、不思議なくらい胸が軽くなった。
ミアがゆっくり笑った。
「じゃあ憲兵の詰め所から帰ったらパンの値段の続きですね!」
「ええ。あのスットコドッコイのせいで私たちの予定を変えるなんて癪だわ」




