エドガーの意地
アリシアは、自分を支えているエドガーを見上げた。
彼の呼吸も荒い。
引き寄せられた体勢のせいで聞こえてくる心音はアリシアと同じくドクドクと早い。
エドガーは、レイナルドを生物学的に男性に数えても、この場にいる男性陣の中で、一番体格が細かった。
普段の多忙な仕事を見ても、肉体を鍛えることに割く時間はないように思われた。
たまに院長室前の廊下で、部屋に辿り着けずに寝ており、看護師の誰かが「また先生が落ちてるわ」と言いながら布団を掛けていた。
だが、それでもアリシアを離そうとしなかった。
いざという時に弱いというエドガーが、決して身体的に強くはないにも関わらず、それでも自分が前に出て救ってくれたことにアリシアは言葉では足りない感謝を抱いた。
「……シルバー子爵様」
「グレイ嬢、怪我は?」
「ありません……」
そう答えた瞬間、急に全身から力が抜けた。
「おっと!大丈夫ですか!?」
「すみません、力が上手く入らなくて」
怖かった。
今の状況から、自身に訪れた脅威を身体が遅れて理解したようだった。
本当に、死ぬところだった。
今までアリシアは、頭で戦ってきた。
だが今のは違う。
どれだけ頭が回っても。
刃物一本で、人は死ぬ。
アリシアの指先が震え、立たねばならないのに脚はむしろどんどん力が抜けていくようで、喉が見えない何かで塞がれたように、取り繕う声が出なかった。
それに気づいたエドガーが、少しだけ声を柔らかくする。
「もう大丈夫です」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
また他に人に迷惑を掛けて情けない。
けれど安心してしまった。誰かがこうして腕に抱いてアリシアを助けてくれたということに。
「グレイ嬢」
先ほどの片目の男が近づいてきた。
「改めて初めまして。自分はダンと申します。元盗賊です」
そして上着の裏側のバッチを見せる。それは教会が支給している、回収人の証明だった。
「えっ」
ミアが変な声を出した。ミアは恐らく教会の詳しい中身について知らないのだろう。
大々的に金貸し業のことを庶民にまで言う必要はないから、教会はそうした説明を公にしていない。
関係する貴族たちだけが理解している仕組みだった。
商人上がりのミアが知らなくても当然だ。
ダンはミアの反応を見て続ける。
「今は枢機卿猊下の世話になってましてね。牢番や、更生した連中と連携して、回収の他に、こういう仕事をしております」
「こういう仕事って何ですか!?」
ミアが恐れ知らずに聞くと、
「悪党の尻尾掴みですな」
とにやり、と笑った。妙に愛嬌のある男だった。
レイナルドが興味深そうに目を細める。
「あら、猊下って本当に面白い人材抱えてるのね」
「ありがたいことです。俺みたいな前科者にも飯食わせてくれる」
ダンは肩をすくめた。
「今回も、牢番の一人から情報が入りましてね。ウッド男爵側が、裁判後に口封じを企ててるって」
ダンの小さな声に空気が変わる。
ウッド男爵。
その名が出た瞬間、周囲の温度が一段下がった気がした。
アリシアは唇を引き結んだ。
分かっていた。だが実感する。
やはりまだまだ覚悟が足らない。
力が足らない。知識も伝手も、単純な体力すら足らない。
自分たちは今、本当に巨大なものを敵に回しているのだ。
ミアが不安そうにアリシアを見る。
「アリシア様……、アリシア様大丈夫ですか」
アリシアは微笑もうとした。
いつものように。何度も何度も気が遠くなるほど訓練だった淑女の笑みで、大丈夫だと。
でも、うまく笑えなかった。
身体が、まだ震えている。
襲われるというのはこんなにも身体の自由が効かなくなるのか。
その時だった。
ふわり、と肩に上着が掛けられた。
エドガーのものだった。
「ちょっと失礼……」
エドガーはそのままアリシアを背負った。
「場所を移しましょう、適した場所はありますか?」
「ええ、どうぞ我々の馬車があります」
見れば、いつの間にか近くに複数の馬車と、教会の服装をした人々がいた。
「有難うございます……」
アリシアにとっては見慣れた安全の記号である、教会の服装を見たからだろうか、複数人の前では良い体面を繕うように鞭を打って指導された成果だろうか、やっと声が出てきた。
ミアがアリシアの声音を聞いて、明るく言う。
「あ、教会の馬車って凄く格好良いですね!それに広い!私アリシア様の隣で良いですか!?」
その一言に、皆少しだけ笑った。
強張っていた空気が、ほんの少し緩む。
アリシアは上着を握りしめた。
「ミア、有難う……」
温かい。何かが胸の奥まで染み入っていく。
ミアが美味しい美味しいと食べてくれるパンにバターが染み込んでいく様子が頭に浮かんだ。
◇◇◇
エドガーがアリシアを下ろして、脚が立たないので抱え直して馬車の座席に乗せた。
「申し訳ありません」
顔から火が出るように恥ずかしい一方で、罪悪感はアリシアの身体よりも圧倒的に大きくなっていた。
「……どうして」
気づけば、声が漏れていた。
「どうして子爵様は、他人にそこまで優しく出来るのでしょうか」
エドガーはアリシアの正面に乗り込みながら、きょとんとした。
「そこまで?」
エドガーは少し考えてから、穏やかに言った。
「グレイ嬢」
「はい」
「頼られるのって、そんなに嫌なことじゃないですよ。とても俗っぽいですが、むしろ、頼られれば嬉しいですよ。頼られる男って格好良いじゃないですか。困っている女性に頼ってもらえる男でいたいですね、僕は」
その声は、冗談混じりのようでいてとても静かだった。
だから余計に、胸に響いた。
教会の職員に呼ばれて話しに行ったエドガーの背中を見るアリシアの顔を覗き、ミアとレイナルドが、にやぁ……と笑う。
ドアを閉めようとしていたダンまでが「おや?」という顔をした。
アリシアは急激に顔が熱くなるのを感じた。
「……ミア」
「はい」
「今、変な顔をしているわよ」
「恋の気配を感じ取った顔です」
「こ!ち違います!」
「まだ恋の始まりかもしれない、くらいですか?」
「ミアってば!」
「はいはい」
レイナルドがくすくす笑う。
「ふふ。今日は良いパンがよく作れそうだわね」
「今日はピザパーティーなんです!」
「あら、良いわね!たっぷり話しながら食べられるわ」
アリシアは顔を覆った。
けれど、その指の隙間から見えた世界は、以前よりずっと温かく見えた。




