泥沼のスミス男爵家
「あのバカ娘が!」
スミス男爵家では、食堂の古い壁紙にコーヒーが新しい模様を描き、カーペットにカップが割れて花が咲いたように鎮座していた。
爵位に相応しい家をと、古い屋敷を買い取ってリフォームしたため、そのままの部分と改装した部分で時代が別れているような、上手く馴染ませているようで馴染んでいないあたりが、住んでいる者の質とそっくりな家だった。
ミアの母親もミアの弟も慣れすぎてそのまま食事を続けている。食事は至ってシンプルな家庭料理で、平民時代と同じくミアの母が作っていた。
客が来る時だけ料理人を呼べば良いというスミス男爵の考えは効率的ではあった。
爵位を買い取ったことで、良くも悪くも目立ち、それを逆に利用して、パーティーでは堂々と、露骨すぎて潔いほど営業を掛けた。
それによって更に会社を大きくした。
勿論小規模だった頃同様に家族総出で働いていた。
「爵位を買ったからと言って夫人の働き方を変える必要はない」と、スミス男爵自身もそうだからと言って、ミアの母も働かせ続けていた。
大きくなった会社の業務は増えた。従業員も最低限は増えたが、それでもケチな男爵がゆとりある人員配置にしている筈がなく、むしろ新人の教育に手間を取られた。
新興貴族であり最底辺の男爵夫人として、誘われればパーティーや茶会にも参加しなければならない。
むしろスミス男爵は自身と同じように積極的にそういった催しで営業をするように夫人に言いつけていた。
実際には男爵の強引で目立ちたがりな営業を笑われるばかりで、夫人には耐えがたい時間だった。
そもそも夫人は営業などしたことがないし、誰からも営業を教わることすらなかった。
スミス男爵は感覚で話す人間であり、もし夫人に営業手法を伝えようと思ったところで伝わらなかっただろう。
だが現実の男爵は、夫人が自身と同じように、強引で周りを巻き込んで自分のペースに引き込むようなトークが出来ないことを怒鳴りつけるだけだった。
夫人は茶会やパーティーでむしろ失敗を繰り返した。付け焼き刃で覚えたマナーもダンスも付け焼き刃並みの出来だったからだ。
そんな付け焼き刃でも時間は取られる。
ミアの弟はミアと違って跡取りとして貴族学校に行かされていた。
この男爵位は一代限りの筈だが、男爵はどうにかしてミアの弟も貴族にしようと考えていた。
貧乏貴族の令嬢に戸籍上は婿入りし、実質はミアの弟が継続的な爵位持ちとして、このスミス商会
を継いでくれる等が理想だった。
それが孤児から上り詰めた男爵の願いだった。
急に貴族学校に入れられ、ミアの弟も夫人と同じように肩身の狭い思いをしていた。
その反動で家で反抗的になった際の受け皿もスミス夫人の役割だった。
夫人は限界に達した。
ゆっくりベッドで寝たのはいつが最後だろうか。
スミス男爵の指示でミアが高位貴族の家に行くと聞いた夜も、夫人は辞めたいと言うパートの引き止めに悩んでいて、なおざりに行ってらっしゃいと言った記憶しかなかった。
ミアが出掛ける用事が社交パーティーなのか他のことなのか、内容は覚えていなかった。
ミアが痩身の割に豊満な胸を強調するようなフリルの付いたワンピースを着ていて、下品だとは感じた。
だが貴族の流行は平民の夫人の感覚とはかなり違うことが多かったし、ミアも夫人も自由に服を買うことなど出来ないから、男爵の指示で着ているのなら何も言わないに限るとその場で思考から抹消した。
ミアが翌日の昼になっても帰宅せず、男爵に管理不足だと頬を殴られた時、夫人は涙も出なかった。
圧倒的な睡眠、休息の不足。過度なストレス。過度な労働。
日頃から同じ女性なのに、ミアが寄り添ってくれないと夫人は不満に感じていた。
ミアは溌剌として誰でもすぐ仲良くなれる。それでいて強かな面もあった。つまり夫人とは逆であり、夫人は娘にコンプレックスを刺激されて、鬱陶しく感じていた。
ミアが若く高い声で不満を訴えると、常に疲労でぼうっとした頭はただただ不快だと感じた。
「ミア、ママ疲れてるの。家のためだって分かるでしょう?お父さんの言うことをよく聞いて。これ以上お父さんを怒らせないで、お父さんが怒ると大変なんだから」
ミアは何かが辛いと言っていたが、父親の仕事を家族総出で手伝うのは平民では当たり前で、仕事がきついのも当たり前だった。
ミアが何か泣くたびに、またかとしか思わなかった。
「お願いだからすぐ泣かないで、泣くとうるさいってお父さんが怒るから。ママも頭に響くし、ねえママ頭痛いのよ」
どうして分かってくれないのと、よくミアは言っていた。
「そんなの私が言いたいわ……」
夫人が唐突にポツリと呟いた。
「あ!?何だって!?堂々と大きな声で家といつも言ってるだろう!だから舐められるんだ!貴族の夫人たちからも!娘からも!見ろこの記事を!
我が家がミアを売った事実はないと発表したばかりなのに!女王陛下がミアを庇ったんだぞ!どうしてくれる!面目丸潰れだ!全部お前が躾をしないせいで!」
スミス男爵はいつも通り勝手に怒鳴った。
ミアだけが逃げた。母親である自分がこんなに苦労しているのに、一人だけ自由になった。
狡い、狡い狡い狡い!
夫人は怨みと怒りでぐちゃぐちゃになった。
真夜中、ミアと自身の部屋をひっくり返し、貴族の社交に必要だと最低限用意された金目に物を、片っ端から換金用に魔道具に入れた。
「価値のあるものは全部持ち出してやる!困れば良い!私のおかげでどれだけ楽できたと思ってるの!?旦那もミアも……!!」
旦那が大事にしている価値があるもの。跡取りだ。
自分が立ち上げ大きくしてきた店を、自分の血筋が継いで行き、可能な限り自分が取り仕切るようにすること。孤児であったスミス男爵の承認欲求を満たす舞台装置。
次の日、スミス夫人とミアの弟は失踪した。
「どいつもこいつも儂を馬鹿にしおって!!!」
スミス男爵の叫びは、一人には広すぎる屋敷にこだましたが、誰にも拾われることがなかった。




