第55話(最終回) 私たちの「ひとしずく」
「声優」と言うお仕事の存在を知らなかった女子高生が声優を目指して奮闘する、笑いあり涙ありの……いえ、ほとんど笑いだらけの楽しい青春ストーリーです。
声優の井上喜久子さんが実名で登場しますが、ご本人と所属事務所のアネモネさんには快く承諾をいただきました! ありがとうございます!!
第1話と第2話を井上さんに朗読していただきましたが、第16話と17話も朗読していただきました!
朗読を聞くには下のURLをコピペして飛んでください!
謎の対談も、聞いていただけると幸いです(笑)
https://x.gd/9kgir
更新情報はXで!「@dinagiga」「@seitsuku」
都立武蔵原高校の春休みは、季節外れの強い日差しと共に始まった。
校庭からは野球部の乾いた打球音と、この時期には珍しい汗ばむような陽気に、どこか浮き足立った空気が混じり合って聞こえてくる。しかし、一歩校舎に足を踏み入れれば、そこには静まり返った廊下が伸びていた。教室にも生徒たちの姿はほとんどない。
だが、アニ研の部室だけは別世界だった。
「雫、エアコンの温度上げすぎだっちゅーの! 部屋がサウナになっちゃうじゃん!」
「だって、凛ちゃんの設定じゃ寒すぎるよぉ!」
この部屋では、もはや日常茶飯事となった「エアコン戦争」の雄叫びだ。まだ春だというのに、連日夏のような暑さが続いている。雫はカーディガンを羽織って身を縮め、凛はハンディファンを回しながら対抗していた。
「はいはい、戦争はそこまで。春休み早々、エネルギーを無駄遣いしないの」
部長の姫奈がパンパンと手を叩き、二人の間に割って入った。
その横では、結芽が胸ポケットのぬいぐるみの口角を、指でぐいっと「ニヤリ」の形に押し上げていた。
「わたしにいいアイデアがある」
「結芽ちゃん、ホント!?」
「結芽! 早く聞かせて!」
二人が食い気味に詰め寄ると、結芽は至極淡々と、しかし決定的な解決策を提示した。
「雫はもっと着て、凛はもっと脱げばいい」
「結芽、いつもそればっかりだっちゅーの!」
二人のため息が重なる。
そんなエアコン戦争に、英樹が割って入った。
「僕が適当に温度設定上げたり下げたりするから、それで戦争は終結、ということで」
それを聞いた結芽が、今度は両手をバタバタと上げ下げし始めた。
「赤上げて、白下げて」
「それ、テレビで見たことある!」
「旗揚げゲーム、だっけ?」
雫と凛が口論をやめ、楽しげな笑顔を結芽に向けた。
「そして両腕を交差して」
首をかしげる雫。
「ん? なんか知ってるのと違うような……」
麗華が、不思議なものを見るような視線を結芽に向けた。
「もしかして、手旗信号……ですか?」
「そう」
「だとすると、意味は――『ア・ホ』になりますわね」
「結芽ちゃん!」
ぷんぷんと怒る二人に対し、結芽は再びニヤリと笑い、一転して真剣な声で告げた。
「戦争はいけない。……和解のしるしに、これ」
差し出されたのは、部室の冷蔵庫でキンキンに冷やされていた塩飴だった。
それを受け取った雫と凛の顔に、ようやくいつもの柔らかな笑顔が戻る。
「さて、それじゃあ……そろそろ『未来の話』をしましょうか」
姫奈の言葉に、部員たちは吸い寄せられるように円卓を囲んだ。
「目標だった創造祭も終わって、今日はこれまでの反省会と、これからの目標を決めたいと思います」
姫奈がホワイトボードに「創造祭・総括」と書き込む。
創造祭には、他校には見られない独自のシステムがある。全生徒と全教師、そして父兄など訪れた者全員が良かったと思う発表に投票するのだ。そしてそれを生徒会がまとめ、後日各賞が発表される。
毎年トップの座を争っているのは放送部と演劇部だ。今年の創造祭では、そんなツートップに刺激を受けた雫たちアニ研内声優部が、チャレンジャーとしてステージに立った。
その結果は――ベストテン圏外。
一位は放送部、二位は演劇部。
圧倒的な壁だった。
発表の日、放送部の安田部長と演劇部の青島部長が、互いの健闘を称えて握手を交わす姿は、雫たちの目にとても眩しく映った。
「悔しくないって言ったら嘘になるけど……でも、得たものは大きかったよね、きっと」
雫は、あの日ステージから見えた景色を思い出していた。
驚いたのは、雫の記憶の彼方にあった「ハチドリのひとしずく」を読み聞かせてくれた人たちが、朗読劇の観覧に来ていたことだ。それはアニ研部誌の記録に残っていた旧声優部の面々である。彼女たちが、読み聞かせのボランティアで雫の幼稚園を訪れていなかったら、その心の奥深くに“声”への憧れは生まれなかったかもしれない。
そして創造祭の日に起こった、誰もが予想していなかった嬉しい出来事は、声優・井上喜久子との再会である。井上は事務所の代表であり実の姉の関口と共に、創造祭の見学に来ていたのだ。
雫が声優という仕事を知るきっかけとなったのは、井上の朗読である。
あの日、昼の校内放送で井上の声を聞いていなかったら、雫が声優部にまでたどり着くことはなかったであろう。雫にとって、そして声優部の皆にとって、大恩人とも言えるのが井上喜久子なのだ。
「高校の学園祭なんて久しぶり! 17歳だけど。おいおい」
「放送部と演劇部、それに声優部のみんなを見に来たのよ」
関口によると、ダイヤの原石を見つけたら、事務所にスカウトする気満々でやってきたらしい。誰がスカウトされたのかは、また別の話である。
彼女たちが、自分たちの声を、演技を、確かに聴いてくれた。その事実は、ベストテン圏外という結果以上に、雫たちの心に深く、熱い思いを打ち込んでいた。
「高千穂さん、何か意見はある?」
姫奈に振られ、凛が勢いよく手を挙げた。
「はいはいはーい! 反省なんか、ありませーん!」
その潔い言葉に、部室内に笑いが漏れる。凛らしい。けれど、その瞳の奥には今まで以上に燃える闘志が光っていた。
「それで、次の目標は?」
姫奈が問いかけると、凛は隣に座る雫と視線を合わせた。
言葉にしなくても分かっている。二人は力強く頷き合い、声を揃えて叫んだ。
「来年の創造祭で、絶対優勝だーっ!」
分かっていたとばかりに、その場にいた全員が手を振り上げた。
「おーっ!」
部室が揺れるほどの声。そして笑顔。
それは、ここにいる皆の気持ちが同じことの証明だった。
それからの会議は、具体的な作戦会議へと変わった。
やるべきことは山積みだ。
「まずは基礎体力の向上ですわね。腹式呼吸と滑舌。毎日の『あえいうえおあお』でも足りないくらいですわ」
「麗華、やる気満々だね! それと、アクセント辞典がボロボロになるまで読み込まなきゃだね!」
麗華が小脇に抱えた大きな本に目を向ける凛。
「これはアクセント辞典ではありません。ボロボロにはさせませんわ」
雫が不思議そうに本に目をやる。
「でも麗華ちゃん、その本には何でも書いてあるんでしょ?」
「まぁ、確かにアクセントも載っていますわ」
「じゃあやっぱりそれをボロボロになるまで!」
そんな騒動を横目に、英樹が手帳にペンを走らせる。
「作品研究も必要だよな。朗読劇だけじゃなく、舞台も観に行くべきだ。旧声優部の先輩たちがやっていたみたいに、商店街のアナウンスやボランティアの読み聞かせも……自分たちの声を、もっと『誰かのため』に使う経験を積みたいかも」
わいわいとそんなことを語り合う皆の姿に、雫の胸は期待でパンパンに膨らんでいた。
かつて、物語の中のハチドリは「私は、私にできることをしているだけ」と言った。
自分たちが発する一言一言は、今はまだ小さな「ひとしずく」に過ぎないかもしれない。けれど、その雫が集まれば、いつか大きな流れになり、誰かの心を動かす力になる。
その時結芽が、スッと人差し指を立てた。
「さて、ここで問題です」
「結芽、このタイミングでまたクイズ!?」
凛が苦笑する。
「創造祭の優勝。……その『次』の目標は何でしょう?」
一瞬、部室に沈黙が流れた。
優勝は通過点に過ぎない。
創造祭という祭りが終わった後、その先にある、自分たちの本当の行き先。
凛が雫を見つめる。
姫奈が、英樹が、麗華が、期待を込めた眼差しを雫に送る。
雫は、窓の外に広がる雲一つない春の空を見上げた。
夏を思わせるほど高く、境界線のない自由な空。そこへ、自分の声を響かせる未来。
雫は大きく息を吸い込み、迷いのない声で答えた。
「――声優になる。……プロの、表現者になる!」
結芽の口角が、ぬいぐるみと一緒に、ふわりと上がった。
「正解」
その瞬間、部室の空気は最高潮に達した。
笑い声と、拍手と、未来への希望。
エアコンの温度設定なんて、もうどうでもよくなっていた。
自分たちの体温が、この部屋を一番いい温度に変えていたから。
「よーし、そうと決まれば練習じゃー! 雫、まずは発声練習から!」
「うん、凛ちゃん!」
窓から吹き込んだ風が、部誌のページをパラパラとめくっていく。
そこには、過去から受け継がれた想いと、これから書き込まれる真っ白な未来が共存していた。
武蔵原高校アニ研内声優部。
彼女たちの物語は、この春、本当の幕を開ける。
(完)
ついに今回、最終回を迎えました。
ですが……雫たちの物語はまだまだ続きます!
そして次回は、ちょっと楽しいスピンオフをお届けしますのでお楽しみに!




