16・
セリーヌは、真っ青な空を見ていた。
洗い立ての爽やかな香りのする、真っ白なシーツの隙間から。
数日前までは毎日が息の詰まるような日々だったのに、全てが輝いて見える。
(……これもすべて、陛下のおかげね)
背後から、ピトの声が聞こえてくる。
「番様! わたくしが致しますので、休んでいてくださいませ」
「ふふ、いいのよ。小さい頃は、母にせがんでまで洗濯をやらせてもらっていたの。とても気持ちいいでしょう?」
ピトは、困ったように眉尻を下げながら、「仕方ありませんね」と笑う。
セリーヌはロガンの勧め通り、十年間暮らしたラヴィーニュ侯爵邸を離れ、新たな住まいへ移った――。
◇◇◇
ベルヴェルデの屋敷に連れて行ってもらった夜のこと。
セリーヌは、一度侯爵邸に帰宅した。
家を出るにしても、荷物をまとめなければならないし、何より父の了承が必要だと思ったからだ。
長居する気はなく、ピトに荷造りを頼んでいる合間に父の執務室へ向かった。自らの意志で訪れたのは、初めてかもしれない。
ノックをし、返事を確認して中へ入る。
父は、机に向かい、真剣な面持ちで書類に目を通していた。
「――なんだ」
感情を感じられない、硬く無機質な声だった。
以前は、その声を聞くだけで心が鞭打たれるような痛みを感じていたけれど、慣れもあるだろう。セリーヌもまた、淡々と答える。
「本日は、夕餉の時刻に戻らず申し訳ございませんでした」
「……構わん。バルの王の誘いがあったと聞いている。もし事前に話を聞いていたとしても、そちらに向かうように言っていただろう」
「ご理解いただき感謝いたします」
「用とは、それだけか」
父は、ならばさっさと部屋に戻れと言わんばかりに溜息をつく。
目を指で押さえ、疲労を滲ませていた。
その姿に時の流れを実感し、少し切なくなった。
「……陛下の勧めで、居を移そうかと存じます。場所は、ベルヴェルデの屋敷です」
「――何? 黒豹の巣ではなく屋敷で過ごせと、そう言われたのか?」
父の声に、俄かに怒気が滲む。
その様子が、セリーヌには少し不思議に思えた。けれど、セリーヌ自身に何か粗相があったのではないかと、それを心配しているのだろうと受け流すことにした。
「『バル・グラード』の王城とお呼びくださいませ。輿入れまで、少しでも気兼ねなく過ごせるようにという陛下のご配慮です。使用人に護衛、それに教師も派遣してくださると聞いています」
これは、先程ピトから聞いた情報だ。
その細やかな心遣いに、胸がいっぱいになる。
そして同時に、別れ際に聞いたロガンの言葉が気に掛かる。
政略結婚の相手に過ぎない自分に、こんなにも繊細な心配りをしてくれているのに――セリーヌが伝え方を誤ってしまったせいで、気分を害してしまった。
次に会った時は、どうにかして謝罪を伝えなければと、心に決めている。
(でも……陛下の前に出ると、なぜか胸がドキドキしてしまって……うまく言葉が出てこなくなっちゃうのよね)
ロガンの顔を思い浮かべるだけで、頬がほんのり熱を帯びる。
自分のその変化が、何を意味しているのかセリーヌにはわからない。
誤解をきちんと解けるよう予め言葉を考えておかなければと――そう思っていたら、父の「そうか……」という声が聞こえて来る。
父は立ち上がり、窓の外を眺めながら、こちらに背を向けた。
「……いつ、発つんだ?」
「お許しいただけるのであれば、今夜、発ちます。……お義母様や、他の皆様には追って、書面で感謝の意をお伝えできればと、考えております」
これは、正直逃げだった。
顔を合わせれば、また何を言われるかわからない。
どうせ邸宅から居なくなる身なのだから、少しでも早い方が、彼女達も清々するだろう。窘められるかと思ったが、意外にも、父はコクリと頷いた。
「……そうか」
父は、それ以上何も言わなかった。
その背中を見て、セリーヌは十年前のことを思い出した。
あの日、迎えに来た父の姿を。
だから、少し考えたあと、静かに呟いた。
「……ごめんなさい」
その声を聞き、父は驚いたように振り返った。
珍しく表情が崩れ、僅かに動揺しているのが伝わってくる。
「……なぜ、お前が謝る?」
セリーヌは瞳を閉じ、自分の気持ちをじっくりと考える。
そして、ゆっくりと目を開き、首をゆるりと横に振った。
「……わかりません。でも、お父様が、お母さんの墓石の前で泣いている姿を見た日から……私はなぜかずっと、罪悪感を抱いていました」
母は死の間際、必死に手紙をしたため、それをセリーヌに渡した。
「これを信書管理所の窓口に持っていき、宛先の場所まで送ってもらって」と――。
ベルヴェルデの街から侯爵邸までは、馬車で半日かかる距離だ。
信書管理所を経由すれば、父の手元に届くまで数日はかかっただろう。
母が亡くなったのは、手紙を出した翌日。
それなのに、彼はそのさらに翌日にすぐに姿を現した。
酷く慌てた様子でやって来て、セリーヌが母の死を告げると、絶望の淵に突き落とされたような顔をし、大粒の涙をこぼした。
その姿から、彼がどれほど母を愛していたのかが伝わってきた。
セリーヌにとって、家族は母だけだった。
二人だけの家族。二人だけの世界。
だからこそ、心の奥底で、父親である彼を疎ましく思っていた。
――けれど、泣き崩れるその姿を見た瞬間、急に後悔の念が押し寄せた。
なぜ、一度でも「父に会ってみたい」と母に言えなかったのだろう。
もしそうしていれば、生きているうちに二人は再会できていたのではないか。
『子は鎹』と言うけれど――両親に愛されたいという気持ちだけではなく、両親を愛したいという思いが、どこかにあったのだと思う。
セリーヌは、つい尋ねてしまう。
「……わたくしは、お父様のお力になれたのでしょうか?」
答えを求める問いではなかった。無意識に口からこぼれた言葉だ。
父は、その問いには答えず、再びセリーヌに背を向けた。セリーヌは、最後に礼を告げて去ろうと思ったが、その前に父の声が耳に届いた。
「……『バル・グラード』は、元々財政面では豊かな国だ。王の力は目覚ましく、今後ますます発展するだろう」
「……はい」
「実力主義の国であるため、気を抜くことはできないかもしれない。しかし、出生による差別がない。大きく改革が成された後だ。各領地の領主たちも、柔軟に事を受け止めようと努めていると聞く」
セリーヌは驚きで目を見開く。
父は、セリーヌに向かうことなく、淡々と続ける。
「元より、魔力に頼らぬ国だ。魔力を原動力とする魔道具ではなく、技術の力で生活を便利にしているそうだ。医療に関しても、治癒魔法に頼らず、医術の発展を推し進めていると……魔力のないお前にとっては、ルメローザよりずっと暮らしやすいだろう」
十年間――どうして言葉を尽くさなかったのだろう。
母を失った悲しみを共有できる唯一の人だったのに。
期待しては裏切られ、それでも期待する気持ちは捨てきれなかったのに。
親子の情があるが故に、憎かった。けれど全てを許すためには、傷が多すぎる。
(……時間が、必要なのだわ。きっと、私とお父様には……適切な距離と時間が)
セリーヌは、静かにその場で膝を折り、腰を屈め――この侯爵邸で教わった通りのカーテシーをした。
「……お世話になりました」
部屋を出て、静かに扉を閉める。
もう、月はかなり高く昇り、使用人たちも寝静まり、廊下は暗かった。
込み上げる想いを散らすように、溜息を吐き部屋に向かう。
もう、この家に帰ってくることはないだろう。
そう思うと、随分と感慨深かった。
コツコツと音を鳴らしながら廊下を歩いていると――前から重なるように音が聞こえた。コツ、コツ、と重たい足音が。顔を上げると、そこにはジュリアンがいた。
月に照らされたその姿に、セリーヌはゾクッと足を止める。
ジュリアンは、いつもの貴公子然とした態度で、美しい顔をニコリと微笑ませた。
「やあ……父上の部屋で、何の話をしてきたんだ?」
「……あなたには、関係のないことです」
セリーヌは、ピトの元に急ぎ戻ろうと決意を固め、足を踏み出す。
ジュリアンの横をすり抜けようとしたその時――強い力で手首を掴まれた。
「――邸を出て行くのか?」
ジュリアンは、セリーヌの部屋のある方向からやってきた。
おそらく、夕餉の席にセリーヌがいなかったため、確認のために部屋を訪れたのだろう。ピトが詳細を話すことはないだろうが、メイドたちが部屋の付近を行き来していたことで、何かしらの様子を聞いていたに違いない。
セリーヌは、咄嗟に腕を振り払おうとするが、びくともしない。それどころか、力強く引き寄せられる。
「行くな」
「離して」
「……君を、愛しているんだ」
セリーヌは、目を大きく見開いた。
驚きで固まっている間に、ジュリアンに顎を掴まれる。
唇と唇が重なろうとするその瞬間――渾身の力でジュリアンの頬を叩いた。
バチンという音と共に、ジュリアンの手が離れる。その隙に、セリーヌは彼から素早く距離を取った。一瞬の攻防と高まる感情で、息が荒くなる。
ジュリアンは、呆然と自分の頬を抑えながら、冷たい声で告げた。
「……君は、本来、こんなことをする子じゃない。もう、獣に毒されたのか?」
その言葉に、セリーヌの目の前が真っ赤に染まる。
怒りで体が震えた。
「――……あなたが、私の何を知っているというの? 私は、愛や恋という感情はよくわからない……でも、ただ一つ、はっきりと分かっていることがあるわ。それは、あなたの気持ちは受け入れられないということよ。もう二度と、顔さえ見たくないわ」
ジュリアンは、低い声で脅すように告げる。
「後悔するぞ」
「……いいえ、しないわ。私は、『決して後悔しない』と自分に誓ったの。私は、ロガン・ドライゼンの妻になる。これ以上、指一本触れないで!」
真っ直ぐに寄り添ってくれた、ロガンの言葉に報いたい。
セリーヌは、逃げるようにその場を後にした。
その時のジュリアンの仄暗い眼差しに不安を感じながら、過去を振り払うように邸を後にした。
◇◇◇
それから、ベルヴェルデの屋敷ではとても穏やかな日々が過ぎていた。
ピトが言っていた通り、屋敷のすぐ側に使用人のための建物が建てられ、数名の護衛、メイド、そして教師が遣わされた。
人数が少ないため、和気あいあいと全員で食卓を囲み、親睦を深めている。
個性豊かではあるけれど、獣人とはみんなこんなに気の良い人々ばかりなのだろうかと思うほど、親切で優しかった。
一つ懸念点があるとすれば――ロガンに会えていないこと。
(……でも、私達は夫婦になるのだし、これから時間はたっぷりあるわ。今はお勉強をしっかり頑張って、輿入れした後からでも誠心誠意仕えれば……きっと、わかってもらえるはず)
どの道、帰る場所はない。
王妃教育を頑張ろうと何度目かの決意をして、空になった洗濯カゴを片手に屋敷に戻る。
途中、入り口前にポストがあり、中を検めた。
――すると、一通の手紙が入っていた。
「え……」
差出人は「L」。
セリーヌは、目を輝かせ、ドキドキと胸が高鳴るのを感じながら部屋へ駆け込んだ。手紙を開き、その内容に目を通すと、こう始まっていた――。
『親愛なるCへ
前略 この問いの答えが、お分かりになりますか?』
貴重なお時間を使ってお読みいただき、ありがとうございます。
いいね、ブクマ、ご感想、お待ちしています(,,ᴗ ᴗ,,)
どうか素敵な一日をお過ごしください




