32.冬の病院(3)
冬——。
宮原春は夢を見ていた。
なんだか長い夢を見ていた気分だ。
僕は、終業のチャイムが鳴ると、机に伏せていた顔を上げた。
「あの、次は体育ですよ」
前の席の女子が、なぜか敬語で僕に教えてくれた。
だけど、今日は体調があまり良くない。
本当は体育に参加したいが、どうやら無理そうだ。
見学するのもいいけど、自分の青白い顔をあまりクラスメイトには見せたくないし、やっぱり、保健室で休んでいよう。
僕は自分の病気の事をクラスメイトには、まだ内緒にしている。だから、僕は隠れるように教室を出て、保健室へ向かった。
「また来たの?まあ、いいけど」
保健師の先生は、呆れた顔をしながらも、いつものようにベッドのカーテンを開けてくれた。
「じゃあ、休んでいなさい。先生には私から言っておくから」
保健師の先生は、カーテンを閉めてくれると、保健室を出ていった。
それからしばらくして、保健室のドアを開ける音がした。先生が戻ってくるにはまだ早い。
そう思っていると、足音の代わりに、ぎゅ、ぎゅ、とタイヤの擦れるような音が聞こえてきた。
「なんだ。いないのか……」
幼い印象の少女の声だった。
僕はベッドから身体を起こし、カーテンの隙間からその人物を確認してみた。しかし、不注意にもポケットからはみ出していた携帯端末を落としてしまい、その物音で、少女は僕の存在に気が付いた。
僕は恐る恐るカーテンを開けると、少女の前に姿を現した。
「僕……じゃなくて、俺は宮原。別に驚かせるつもりはなかったんだ」
少女は名乗る僕を警戒心に満ちた目で見つめてきた。しかし、その目は、威圧的ながらも、とても綺麗だった。
そして、不安に満ちていた。
落ち着きなく揺らめき、きっと人には言えないような大きな悩みを抱えている。そんな弱々しい目を僕は知っている。
ホント、嫌という程に。
朝、歯磨きをしているとき、顔を洗っているとき、鏡の中の僕は彼女と同じ弱々しい目をしている。
だから僕には分かる。
彼女が抱いている悩みは、彼女が乗っている車いすや痩せ細った足が関係している事が。
そんな彼女に僕は自分自身を重ねた。
病気や障害のせいで、人生を、自由を、諦めるなんて、悔し過ぎる。
だから僕は言った。
——病気や障害を諦める理由にしたくないんだ。
それは自分自身に向けた言葉であり、彼女への誓いの言葉だった。
しかし、時が経ち、命の終わりが見えてくると、その誓いは徐々に薄れていき、僕の心の灯は小さくなっていった。
だけど、そんな僕を水樹や桃華、そして花咲が支え、救ってくれた。
だから僕は、再び誓った。
残された時間が少なくても、残せるものは多くある。
悲しい事や辛い事があるように、楽しい事や嬉しい事だってある。
そういう思い出をたくさん作り、残したい。僕が生きた証を皆に残したい。
僕がそう願うと、足元に広がっていた古木の床板は消え、代わりに暗闇の世界が広がった。僕はそのなかに沈んだ。
深い暗闇の世界。
何も見えない。
何も聞こえない。
だけど、不思議と不安はない。
それは、誰かの気配がするから。
姿は見えないし、声も聞こえない。
だけど、それが誰なのか、僕には分かる。
甘い香りが届き、目を瞑ると、瞼の裏にその人の姿が浮かび上がってくる。
明るい色の髪を後頭部で一つに纏めにして、彼女が動く度、それは煌びやかに輝く。
黒い金属フレームに真っ赤なタイヤは、いかにも人工的だが、彼女が操れば、軽やか、かつ、しなやかに動く。
僕は、そんな彼女の気配を感じつつ、このまま暗闇の世界に身を任せるのもいいだろうと思った。
しかし——
僕はそうしない。
なぜなら、彼女に誓ったからだ。
僕は最期まで足掻き続けてやる。
僕はまだ生きる事を諦めた訳じゃない。僅かでも希望があるのであれば、それを信じ続ける。叶わないかもしれないけど、願い続ける。
そう彼女に言ったから。
僕の心はもう弱くない。いや、弱いけど、それを支えてくれる人たちがいる。僕の帰りを待ってくれている人がいる。
僕は、僕の大切な人、僕を支えてくれている人達の事を想い、ゆっくりと目を開けた。
すると、真っ暗闇だと思っていた世界に、無数の小さな光が浮かんでいる事に気付いた。
あれは星だ。
直感的にそう思った。
僕は暗闇の世界に沈んでいたのではなかった。小さな星々が瞬く穏やかで、幻想的な夜空に浮かんでいたのだ。
僕は、どれだけの時間を、この星空の世界で過ごしていただろうか。
きっと、彼女は待ちくたびれているだろう。
きっと、「遅い。バカ」って、怒られるだろう。
いつまでも待たせるわけにもいかないし、そろそろ行かなくちゃいけないな。
僕は、天を仰ぐと、星空を駆け昇るように、天高く舞い上がった。
——待たせて、ごめん。
もう少しだけ、お付き合いお願いします。




