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120センチの彼女  作者: 翼 くるみ
Ⅳ.宮原と花咲
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29.花火

花咲姫子はなさき ひめこ宮原春みやはら しゅんが想いを伝え合った夏の日から、しばらく経ったある日——。


姫子は、彼と会うため、待ち合わせ場所にやってきた。

 暑い夏の日。


 私たちは、互いの想いを確かめ合い、つながり合えた。


 あの日、ひんやりとした教室で、宮原と会った時、彼の目は弱々しく、全てを投げ出したかのような暗い瞳をしていた。だけど、私を支えたとき、彼のなかで、何らか変化があったみたい。


 それまで弱々しかった彼の目は一転し、私の事を愛おしく思うように見詰め、優しく、そして、丁寧に言葉をかけてくれた。


 あのときだけは、私も素直になれたと思う。


 ただ、後から思い出すと、ちょっとだけ恥ずかしくなってしまう。


 そのせいか、こうやって、駅前で宮原を待っている間もソワソワして落ち着かないのだった。


「ちょっと、早過ぎたかな?」


 お盆が過ぎ、夏の暑さは一段落したが、それでも今日は、まだ午前九時過ぎだというのに、気温は三〇度に達しようとしていた。私は、そんな暑さを少しでも和らげるため、駅中のコンビニに入った。


「ふぅ、涼しい」


 思わず、そんな言葉が漏れた。


 店員さんが、私の事をちらっと見たが、私の漏らした言葉なんか聞こえていないようで、私の乗っている黒塗りの車いすへ目を向けた。だが、車いすの客も特別珍しくもないのか、表情を変えることはなく、すぐにレジに並んでいた客へと視線を戻した。


「いらっしゃいませ。324円になります」


 少し不愛想な店員が金額を言うと、客は慌てた様子で、自分のリュックサックのなかをかき回し始めた。


「あれ?財布どこだっけ?」


 どうやらその客は、財布をどこにしまったのか、分からなくなってしまったようで、間抜けな声を発していた。


 あんまりにも客がもたついていたので、店員さんは少し苛立っているようだったが、その客の人相が悪かったせいか、店員さんはその苛立ちを飲み込み、財布が見つかるのを静かに待っていた。


「ああ、あった。すいません。いつもと違うカバンなもので……」


 人相の悪い客は、出来る限り申し訳なさそうな表情を作ってみたが、それがぎこちなく、返って怖さに拍車をかけていた。


「い、いえ……」


 店員さんは、引きつった苦笑いを浮かべ、一歩身を引いた。


 そして、人相の悪い客は、レジを済ませると、出口へ向うため、私の方へと体を向けた。


 そこで、私は唖然とする。


『あ——』


 私と客は目が合い、同時に声を発した。


 それからその客は、片手をあげて、馴れ馴れしく言葉を発した。


「よぉ。花咲。もう来てたのか」


 もたもたしていた人相の悪い客は、宮原だった。


「い、今来たところ。えっと……。まだ、早いって分かっていたけど、お母さん、用事があるみたいだったから。だから、別に楽しみだったとか、そういうのじゃないからね」


 私は別に聞かれてもいないのに、わざわざ説明をした。


 本当は、随分前から駅にいたし、母の用事は、午後からで、午前中は暇をしているようだった。


 そんな白々しい私の嘘に、宮原は苦笑いを浮かべると、今買ったばかりの飲み物を私に渡した。


「なんだよ、それ。まあ、いいけどさ。それから、ほら、これやるよ」

 

 よく冷えたアイスカフェオレだった。


「お前、甘いの、好きだろ?」


 自信たっぷりに宮原は、そう言ったが、私は別に甘い物が好きという訳ではなかったし、嫌いという訳でもなかった。


「一応、貰ってあげる」


 でも、私はアイスカフェオレを受け取ると、小さく頷き、上目遣いで宮原を見た。


「それと、ありがと」


 それを聞いた宮原は、顔をくしゃくしゃにして、嬉しそうに笑った。


「どういたしまして」



 それから私たちは、予定通り映画を見に行った。


 映画の後は、いつもみたいにファミレスではなく、最近できたばかりのカフェでランチをした。


 午後からは、駅前の図書館へ行き、勉強を一緒にした。


 夕方には解散したけど、夜にはメッセージを送り合った。


 私は、きっとこういうのが、青春なんだろう、と思った。そして、私はようやく普通の女の子みたいな生活が出来ると思った。だけど、それが分かると、今度は普通にこだわらなくてもいい気もしてきた。


 私たちは、恋愛とか、交際とか、そういうことに慣れていないせいで、甘い言葉も、深め合う行為も分からない。


 だけど、それでいいと思う。


 宮原のくだらない冗談も、私のアホらしい強がりも、そのままでいいと思う。それが私たちらしくて、普通じゃなくて、いいと思った。


『今度、花火に行こうぜ』


 突然、宮原からそんなメッセージが届いた。


 もう八月も終わりに近づいており、ほとんどの花火大会はすでに終わっている。まだ花火大会があったかな、と思い起こしてみるが、私はそれよりも会場へ行けるかどうかが心配だった。


 いくら地方の花火大会といえども、人は大勢来る。そんな混雑する中、しかも足元の悪い中を、車いすで移動するのは、かなり難しい。


 だけど、宮原はそういうことも全て見越して、私を誘っていた。


『大丈夫。とっておきの場所があるんだ』


 私は、宮原を信じて、花火を見に行くことにした。


 そして、宮原が待ち合わせ場所に指定してきたのは、私たちの学校だった。



 当日、私は、近くのコンビニまで、母に送ってもらうと、「あとは自分で行くから」と言って車を降りた。


 「あんた、ホントに大丈夫なの?」と、母は心配していたが、母と宮原を会わせるのもなんとなく恥ずかしかったし、私は強がって、「大丈夫だから」と言い返した。


 しかし、いくら日が暮れたからといっても夏の夕方には、まだ昼間の熱気が残っており、かなり暑かった。それに、いつもと違う服装だったことも、車いすを漕ぎ難くさせていた。


 そうして、何とか学校の校門に着くと、すでに宮原が待っていた。


 宮原は私を見つけると、「おーい」と言って手を振った。しかし、私としては、もっと違うリアクションを求めていた。


 宮原は気を利かせて、私の元へと駆け寄ると、周囲を見渡してから言った。


「あれ、送ってもらったんじゃないのか?」


 そんなことを聞いて欲しいんじゃない、と私は内心思いながら、不機嫌に言葉を返した。


「近くまで、送ってもらった」

「そうなのか。お前の親に一言、挨拶でも出来たらいいかなって、思ったけど」

「いいよ。そんなの」

「そうか」


 話はそこで、一旦途切れた。


 宮原は私から視線を外し、振り返って学校を見上げようとしたので、私は、わざとらしく咳払いをして、彼の注目を引いた。


 しかし、やはり宮原は鈍感な男だった。


 私の咳払いで、一旦、私を見たものの、首をかしげるだけで、何も言おうとはしなかった。


 私は次第にイライラしてきて、自分でも不機嫌な顔になっているがわかった。そんな私の不機嫌な顔をみて、ようやく宮原が言葉を発した。


「何? 怒ってんの?」


 あんたのせいよ、と言い返してやりたかったが、私は堪えて、怒りを飲み込んだ。


「別に」

「いや、怒ってるだろ」

「怒ってないし」


 私は、ふん、と鼻を鳴らし、宮原から顔を背けた。


 その間に、宮原は私を良く見て、私が怒っている原因を探ろうとした。


 頭のてっぺんから足の先までを、注意深く、三十秒くらい見続けて、彼はようやく、私の怒りの原因を突き止めた。


「ああ、服装のことだろう。初めから、気付いていたさ。つーか、お前、制服以外にも服、持っていたんだな」


 そうじゃないでしょ!バカ!


 その日、私は母に浴衣を着付けてもらっていた。髪もいつものポニーテールではなく、三つ編みを編み込み、後頭部でお団子にしてまとめている。

 

 浴衣なんて、もう何年も来ていなかったし、私は立ち上がれないので、座ったまま浴衣を着るのは、かなり大変だった。それでも母は、文句も言わず、綺麗に着付けてくれた。


 そんな苦労を知らないで、間抜けな事を言う宮原に腹が立った私は、もういい加減に怒りの言葉を返してやろうと思った。


 しかし、それよりも先に宮原は体を屈めると、私と目線を合わせた。そして、目を見詰めたまま、少し照れくさそうに言った。


「それとさ……浴衣、良く似合ってるんじゃねぇの。なんつーか、可愛いと……思う」


 宮原は、そう言うと、すぐに体を起こし、私の背後へと回った。そして、車いすのグリップを掴むと、照れくささを誤魔化すように力強く車いすを押し始めた。


「よっしゃ。行こうぜ!」


 私は頬を赤くし、一言だけ、優しく言い返してやった。


「……バカ」



 宮原のとっておきの場所というのは、学校の屋上だった。


 しかし、さすがに日の暮れたこの時間帯では、学校は施錠されているはず。一体、どうやって、忍び込もうというのだろうかと、私が思っていると、宮原は、私を校舎と管理棟の間の渡り廊下へと連れてきた。そして、全く何も考えていないような表情で管理棟側のドアノブを掴んだ。


 そんなの開くはずがないじゃない、と私は思ったが、宮原は何の疑いもなく、ドアノブを回した。すると、ガチャリという音と共に、管理棟側の扉が開いた。それを見た私が驚いていると、宮原はニヤリと笑って、真相を教えてくれた。


「桃華に鍵を借りたんだよ」


 なるほど、と私は宮原と桃華のずる賢さに感心した。


 生徒会の役員で、しかも副会長でもある桃華なら、職員室から管理棟の鍵を借りてこられるかもしれない。だけど、一晩中持ち出していて、大丈夫なのだろうか、と心配にもなった。


 そんな私の心配をよそに、宮原は私の背後に戻ると、車いすを押して、躊躇なく管理棟へと入って行った。


 管理棟のなかは、案の定真っ暗で、非常口を示す緑色の灯りが、怪しく光っていた。


 でも、不思議と怖さはなかった。


 それよりも、見慣れたはずの学校のいつもとは違う雰囲気が面白く感じたし、いけないことをしているというドキドキ感みたいなものがあって、楽しいとすら思えた。そして、何より、宮原と二人でいられる事が嬉しかった。


 宮原は、そのまま私を乗せた車いすを押し、管理棟の倉庫へと向かった。そこには、一階から屋上まで続く物資運搬用のエレベーターがあり、私は普段の学校生活で、それを利用している。


 物資運搬用のエレベーターは、台車と作業員が入る事を想定されているので、車いすに乗った私と宮原が同時に何とか乗れるだけの空間はあった。ただ、あくまでも物資を上下へ運ぶためのエレベーターであって、箱のなかは暗くて、ワイヤーを引き上げる音なんかも物々しく響いていた。それでも、一人で乗っている時は心細く感じるが、今日は、宮原と一緒にいるので、心細いどころか、この狭さが二人の距離を近づけてくれて、ありがたいとも思えた。


 そうして、私たちは屋上階に上がると、これまたいつもは施錠されているはずの屋外に出られる扉は、いとも簡単に開き、私たちは良く晴れた夏の夜空の下へと出ることが出来た。


 夜空に月はなかった。


 その代り、夜空には、無数の星々が瞬き始めていて、とても綺麗だと思った。そして、少し高い場所ににいるせいか、空が近くに感じられ、手を伸ばせば星々にも届くのではないかと思った。


 しかし、そう思ったのは、どうやら私だけではないようで、隣で口を半開きにしたまま、顔を上げている宮原は空に呟くように言葉を発した。


「手が届きそうだな」

「……うん」


 私は、本当に手が届けばいいのに、と思った。


 その時、星の瞬きとは違う光が、東の空で輝いた。それは、夜空に上がる小さな花の光だった。


「お、始まったか」


 私の横で立っていた宮原は、光の方へ視線を向けると、穏やかな表情で、続け様に光り輝く夜空の花を見続けた。


 私はそんな宮原の横顔に見惚れた。


 相変わらず鋭い目つきで、顔の凹凸も比較的平坦で、目つき以外はこれといった特徴がない顔をしている宮原の横顔。


 だけど、その表情はとても穏やかで、優しい。


 奥の瞳には、夜空に上がる花火の光が反射していて、とても綺麗だと思った。そして、その美しさのなかに彼の力強さを感じ、逞しく生きようとする生命力が私に伝わってきた。


 そんな宮原を見ていると、私は幸せな気分になって、胸が熱くなり、自分も逞しく生きようと思えた。


 私は、彼にもらった勇気を忘れないようにしたいと思うし、大切な思い出として、きちんとしまっておきたいとも思う。


 だけど、そんななか、別の感情も芽生えてくる。


 それは、もっと彼と一緒にいたい、という正直な想い。

 彼がいなくなるのが怖いという正直な気持ち。


 そう思うと、やはり胸は苦しくなる。


 彼に残された時間は残り少ない。それは事実であり、避けようのない真実。

 

 そんな事を考えると、どうしても気持ちが後ろ向きになってしまう。

 

 だけど、宮原はそんな私の心を優しく癒すような微笑みで、私を見た。


「綺麗だろ?」


 私は宮原から視線を外し、彼の指す夜空へと顔を向けた。


 子供の頃に花火は見たことはあったが、宮原と一緒に見る花火は、今まで見た中で一番綺麗だと思った。だから、私は小さく頷いて答えた。


「うん。綺麗」

「まあ、ちょっと小さいけどな」

「ううん。いいの」


 確かに、学校の屋上から見える花火は小さかった。

 音もほとんど聞こえない。


 だけど、私にはそれで十分だった。

 

 小さく輝く花火は、一瞬の煌めきかもしれないが、私の心を動かし、感動を与えてくれた。そして、輝きが消え、再び闇夜に包まれても、心地よい余韻を残してくれた。


 私は、そんな花火を見て、いつの間にか泣いていた。


 そして、これまでの事とこれからの事を思う。


 事故に遭った時、私の人生はもう終わりだと思った。でも、リハビリの森田さんや多くの人たちが救ってくれた。


 そのあと無事に中学に復帰して、卒業することも出来た。だけど、高校に入って、私はまた挫折を味わった。


 自分ではどうすることもできないと思うような巨大な壁。

 

 私は何もできない。

 私には何も許されない。

 私は自由に選択することも許されない。


 そう思っていた。


 だけど、そうではないと、私の横にいる彼が教えてくれた。


 こんな何もできない自分が自由に生きていいのだろうか。

 こんな私が恋をしていいのだろうか。


 そう思っていた時期もあった。


 だけど、彼はすべて受け止め、こんな私を選んでくれた。


 身体が不自由でも、他の人より少し時間がかかっても、生活に不便があっても、そんなの関係なかった。


 私の大好きな彼にとって、私が車いすだろうが、足があろうが、なかろうが、そんなことは関係のない事だった。


 不自由さも不便さもすべて私のもの。

 私の一部。

 私だけの特権なのだ。


 だって、彼氏に車いすを押してもらえる人ってどれだけいる?


 彼氏が膝をついて、抱きしめてくれる人ってそんなにいないでしょ?


 すべて、私だけの権利。

 普通じゃなくていい。

 私たちらしくで、いいんだ。


 私が、そんな想いを大事にしまうように、胸に手を当てていると、宮原が花火を見ながら泣いている私に気が付いた。すると、すっと姿勢を低くし、私の横でしゃがむと目線を合わせた。


「なあ、花咲」


 宮原に名前を呼ばれた私は不愛想でも、不機嫌でもなく、穏やかに答えた。


「なに?」


 すると、宮原も優しく語り掛けるように、言葉を続けた。


「また、花火、見に来ような」

「うん」


 私たちは、叶わないかもしれない約束を交わした。



◆◇◆◇ 



 それからしばらくして、花火は終わり、夏の夜空は元の星明りの空を取り戻した。


「何か飲むか?」

「うん。甘いのね」

「おっけー」


 宮原はしゃがんだ姿勢から、飛び跳ねるように立ち上がると、屋内に入る扉へと軽い足取りで向かった。


 私はその様子をみて、彼が病気を抱えているなんて、嘘のように感じた。そして、こんな幸せな時間が永遠に続くのではないかと錯覚した。


 だけど、そんな幸せな気分は、すぐに崩れ去った。


 宮原が、扉まであと一メートルのところに来た時、彼の身体が急にぐらついた。


 そして、全身が脱力し、そのまま地面に崩れ落ちた。


 私は一瞬何があったのか、理解できなかったが、とりあえずハンドリムを掴み、車いすを宮原の方へと向きを変えた。それから、私は彼の名前を呼んだ。


「宮原……。ねぇ、宮原?」


 しかし、返答はなく、私は異常事態が起きていることを理解した。


 それが分かると、今度は彼の名前を激しく叫んだ。


「宮原!宮原!」


 それでも返答はなかった。


 私は自分の血の気が引いていくのを感じ、頭の中が真っ白になった。


 さっきまで、あんなに元気そうだったのに。

 また花火を見ようと約束したのに。


 私は、ハンドリムを掴んでいた手に力を込め、車いすを急発進させた。


 屋上の路面は、コンクリートで整地されてはいたが、微妙に凹凸が合って、この暗さではその凹凸を視認することは難しく、車いすは大きく揺れた。


 しかし、それでも私は速度を緩めることはせず、宮原の元へと車いすを進ませた。


 と、そのとき——

 

 案の定、私の車いすのキャスター(前輪)は、路面の凹凸に取られてしまい、車いすはバランスを崩した。そして、速度を緩めなかったことも影響し、私を乗せていた車いすは、騒々しい音と共に横転した。


 私は、車いすから投げ出され、容赦なく地面に叩きつけられた。


 私は右肩を強打し、額は擦りむけ、出血した。

 

 たぶん、それだけではない。


 麻痺しているせいで、痛みは感じないが、下敷きになった右足もなんらかの怪我をしているようだった。浴衣の裾にじんわりと血が滲んでいる。


 私は車いす生活になって初めて転倒した。


 私が倒れそうになったときは、いつも誰かが支えてくれた。だから、私は転んだ時の痛みを知らなかった。いや、子供の頃はよく転んだはずだから、正確には忘れていた。


 転ぶって、こんなにも痛いんだ。


 私は初めて(久しぶりに)味わう痛みに表情を歪めた。


 だけど、今はそんな痛みなんかは、どうでもよかった。


 私の一メートル先には、私の大切な人がうつ伏せで倒れている。私は、どうにかして、彼の元へたどり着かなければいけない。


 私のなかでは、痛みなんかよりも彼の元へ行く事が第一優先事項になっていた。


 私は腹ばいになると、上体を腕で支え、なんとか顔を上げた。そして、改めて彼の名前を呼んでみた。


「宮原。ねぇ。宮原ってば!」


 これだけ近づいても宮原は返事をするどころか、ピクリとも動かなかった。


「宮原。宮原。お願い、返事をして!」


 私は彼の名前を呼び続けながら、地面を這って、少しずつ前進を始めた。


 母にせっかく着付けてもらった浴衣はもう着崩れているどころではなかった。


 裾は血が滲んでいるし、腹部はコンクリートの上を這っているので、汚れ、擦り切れ、ボロボロになっていた。それでも私は、前に進むことを止めなかった。


「宮原……宮原……」


 彼の名前を呼ぶ私の声は、徐々に弱々しくなっていった。


 私の大切な人が、自分の目の前でいなくなってしまうのではないかという恐怖にかられた。


 だけど、闇夜の夜空に輝く星あるように、絶望的な状況にもまだ希望はあるはずだと、私は自分に言い聞かせ、地面を這い、前に進み続けた。


「……みや……はら……」


 そして、ようやく私は宮原の傍に辿り着いた。


 私は宮原の傍に辿り着くと、腹ばいのまま、彼の右手を両手でしっかりと掴み、願った。


——お願いします!まだ、もう少しだけ、彼と一緒にいさせて下さい!


 そのとき、夜空に一筋の光が流れた。


 そして、吐息のような微かな声が私の耳に届いた。


「お前、大丈夫かよ……」


 宮原の声だった。


 宮原は、うつ伏せのまま、顔を私の方へ向けると、ボロボロになりながら地面を這ってきた私の身を案じてくれた。


 しかし、私の状態など彼の状況に比べれば、大した事はなかった。


 額の出血は既に止まりかけているし、浴衣なんて今はどうだって良い。


 でも、私は宮原のそんな優しさと、温かな声を聞いて安心した。


「バカ。こっちのセリフよ。急に倒れて、ビックリするじゃない」

「はは、そうだな……」


 そう言って、宮原は微かな声で笑った。私もつられて笑った。


 私たちは、少しだけ笑い合うと、握り合う手に力を込め、自分は大丈夫だと、互いに伝え合った。それから、宮原は小さな声だが、懸命に言葉を続けた。


「悪いな。驚かせて。だけど、今は立てそうにない」

「ううん。いいよ」

「ありがとう。それとさ、飲み物買ってきたら言おうと思っていたことがあるんだけど……聞いてくれるか……?」


 宮原の声は徐々に小さくなり、息遣いが少しずつ細くなっていくのを私は感じた。これ以上、話をするのはきっと辛いんだろうと思ったけど、私は彼の想いを優先して、首を縦に振った。


「もちろん、聞くよ。聞かせて。宮原の話」


 宮原は、私の返事を聞くと、安心したのか、そっと目を閉じた。だけど、まだ意識はあるようで、握り合っている手にはしっかりと力が入っている。それから彼は、細い息を吐いて、静かに話を始めた。


「正直言うと、もうこのまま終わってもいいかなって思った。想いを伝えあって、互いを認め合って、それで、すごく幸せな気分になって……。そんな気分のままなら、もう逝ってしまってもいいかなって、思った」


 私は、か細い声を発する宮原の話を静かに聞き入り、時折相槌を打った。


「……うん」


 宮原はその間に、息継ぎをすると、更に話を続けた。


「でもさ、やっぱりもっと一緒にいたい。お前と、皆と、もっと一緒にいたい。俺、まだ逝きたくねぇよ……」


 私は宮原の泣いている顔を初めて見た。


 宮原の閉じられた目からは、涙が溢れ、それが目尻に溜まると、こめかみ当たりを伝い、地面に落ちた。


 涙は一粒だけではなく、次々と溢れ、流れて、落ちていった。


 そんな宮原の顔を見て、私は声を震わせ、叫んだ。


「私も一緒にいたい!もっと、もっと、一緒にいたい!いろんなところに行きたいし、いろんな思い出をたくさん作りたい!」


 私たちには、わかっていた。


 終わりの時が、少しずつ近づいてきていることを。


 そして、こうなることを。


 それは、想いを伝え合ったときから、分かっていたことだった。だけど、分かっていたとしても、それでも、私は祈り、願う。


 まだ終わりにしないで、と。


 私が、そんな祈りを抱く中、宮原が小さい声ながらも力強い言葉を発した。


「だから、まだ俺は諦めない。まだ終わりにしない」

「……うん」


 私はより一層強く宮原の手を握った。彼も私の手を強く握り返してくれた。


「だから、泣くなよ。まだ……おわり……じゃ……ねぇ……」


 そこで、宮原の意識は途絶えた。


 私の手を握っていた力も次第に弱まり、私がいくら握り返しても反応がなくなった。


「宮原——!!」


 当然、返事もなかった。


 でも、息はあった。

 鼓動も感じる。

 そして、まだ温かい。


 だから、私は諦めなかった。

 彼が諦めないなら、私もまだ終わりにさせないと強く思った。


 そんな思いを抱き、私は宮原から一旦離れると、夏の夜の下、地面を這いずり回った。


——大丈夫。きっと、大丈夫だから。


 そう祈りながら。

宮原君が倒れちゃいました……(゜Д゜;)


それよりも夜の学校って、普段は入れないので、なんかドキドキしますよね。


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