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120センチの彼女  作者: 翼 くるみ
Ⅳ.宮原と花咲
28/35

28.諦めない

過去を回想していた花咲姫子はなさき ひめこが呟いた言葉。

それを聞いた宮原春みやはら しゅんは——。

 夏休みの教室は、とても静かで、少しだけひんやりとしていた。


 そんな教室に僕と水樹、桃華、そして花咲が集まっている。


 もちろん、四人が集まったのは、僕の本意ではない。水樹と桃華のお節介により、花咲にも声をかけて、四人を集合させたのだ。


 そして、そこで僕は、水樹と桃華の説得を受けていた。


 僕の病気の事を花咲に告げ、自分の想いも伝えるべきだと二人は言う。だが、僕は、そんなつもりは毛頭ない。さすがの鈍い僕でも、花咲の想いはなんとなくわかっているし、だからこそ、告げるべきではないと思っている。だって、そんなことをしたって、ただ辛くなるだけだから。


 だから僕は、二人の説得に応じる事はなく、黙り続けた。


 僕のだんまりを受けて、水樹と桃華は、なんと言葉を繋げればいいのか、分からなくなってきたのか、二人もしまいには黙ってしまった。


 そんな重たい空気のなか、不意に幼く愛らしいが、少しだけ刺のある声が教室に響いた。


「……病気や障害を諦める理由にしたくない」


 ポツリと呟いた花咲を、僕を含めた三人が同時に見た。


 三人に見られた花咲は、少し慌てた様子で、一言だけ言い返した。


「あ、ごめん。ちょっと思い出しただけ。なんでもないの」


 そして、それ以上の言葉を続けようとはせず、彼女は俯いて、再び黙り込んだ。


 そのせいで、夏の教室にはまた沈黙が落ち、元々ひんやりとしていた室温が更に下がったような気がした。


 しかし、僕も花咲が呟いた言葉によって、思い出したことがあった。


 あの言葉を言ったのは、僕自身だということ。

 そして、それは、僕が初めて、花咲と会った日だったこと。


 その日の僕は、朝から少し体調が悪くて、保健室で寝ていた。そんななか現れたのが、花咲だった。


 車いすに乗っていた彼女は、威圧的で、正直性格のきつい子だな、と僕は思った。しかし、言葉を発していないときの彼女は、とても穏やかで、明るい色のポニーテールの髪なんかは艶やかに煌めき、漆黒の瞳は吸い込ませそうなほど綺麗だった。


 僕は、そんな彼女にしばらく見惚れてしまったが、途中から彼女の表情には、影が落ち、暗い表情となった。その様子を見た僕は、彼女が何か大きな悩みを抱えているのだと悟った。


 そして、それは、障害を負ったことにより、生じた悩みだと僕は直感的に思った。


 そういう僕自身も似たような悩みを抱えていたからだ。


 僕は、最期まで「普通」でありたいとこだわりを以て、どうにか今の高校に入学した。しかし、入学初日から体調を崩し気味で、なかなか教室へ行けない日が続いた。そのせいで、やっぱり、僕には普通の高校へ通うなんて、無理だったんじゃないかと思ってしまっていた。


 そんなときに、彼女の悩んでいる姿を見て、僕は彼女と自分の境遇と重ねてしまった。そして、障害や病気によって、自由が奪われてしまうのが、とても悔しい事だと思った。そんな思いで発したのが、さっきの言葉だった。


 僕は、その言葉を発した時、誓ったのだ。

 僕も病気があっても諦めないと。


 そのおかげか、それから一年ほどは体調の良い日が続いた。部活にも励むことが出来るようになった。友人も少なからず出来た。僕は、まさに普通の男子高校生だった。


 しかし、そんなに世の中は上手くいかない。


 二年生になって、僕は再び体調を崩し始めた。学校を休む日もあれば、夏休みには病院に入院してしまうこともあった。そうして、体調を崩す毎に、僕の諦めないという思いは、徐々に小さく、弱々しくなっていった。


 やっぱり僕には無理だ。


 いつしか僕の思いは微かな残り香だけになって、タイムリミットが見えてくると、そんな言葉も忘れてしまっていた。

 


「そんなことも言ったな」


 僕は教室に広がっていた沈黙を破り、一言だけ呟いた。


 教室にいた三人は僕を見たが、僕は俯いたままで、誰とも目を合わせなかった。


 僕の萎えてしまった心は、もう強さを取り戻せない。今更、僕は諦めない、と強い意志を示す事も出来ない。ただ、自分の運命を受け入れるだけだ。


 そう思うと、全てがどうでもいいと思えてきた。


 必死に病気の事を花咲に隠していたことも、自分自身が抱いている想いも、感情ももうどうでもいい。


 だから、僕は再び口を開き、三人に告げた。


「あと半年。それまでにドナーが見つからなかったら、僕はいなくなる」


 そう告げる僕の口調は、まるで他人事のようで、一切の感情がこもっていなかった。


 その様子に水樹は、「しゅん……」とかすかな声で僕の名を呼び、桃華は口元に手を当て、「そんな……」と小さく悲痛な言葉を漏らした。そして、花咲は、膝上で拳を強く握りしめているだけで、声を発することなく、黙って僕の話を聞いた。


「五年待った。だけど、ドナーは見つからなかった。あと十年待っても見つからないかもしれない。世の中っていうのは、そういうもんなんだ。全てが上手く行くとは限らない。俺は近いうちにいなくなる人間だ。そんな奴にもう構う必要はない。俺はもういないものとして、考えてもらっていい。そっちの方が、幾らか気が楽だろう」


 僕は自分を蔑むような言葉を言って、自分の人生を諦めた。


 もう終わりなんだ。

 もう何も考える必要はない。

 悩みも苦しみも、辛い思いも全て消え去るんだ。


 そう思ってはみたが、僕の胸は締め付けられているような苦しさを伝えてきた。


 なんで、まだ苦しみを感じるのだろう。

 僕はもう無感情な人間になったはずだ。

 もう何も考えたくないんだ。


 僕は苦しさを訴えてくる自分の胸に手を当て、静まるように胸中で唱えた。しかし、そう願えば願う程、苦しさが大きく、はっきしてきた。


 僕がそんな苦しみと格闘していると、再び静まりそうになった室内に、今度は力強い声が響いた。


「なんで、そんなのこと言うんですか!そんなの悲し過ぎます!」


 桃華の叫びだった。


 だけど、桃華は一度そう叫んだだけで、続けて言葉は発せなかった。


 代わりに、彼女は両手を強く握り込むと、視線を落とし、頭を下げた。そのせいで、左右に結ばれた髪が彼女の顔を隠し、その表情は見えなくなった。だけど、彼女の顔が見えなくても、震える小さな肩や僅かに漏れる鼻をすする音が、彼女の心境を表していた。


 僕の胸は更に強く締め付けられ、もう桃華を見ることは出来なくなった。


 そして、頭を垂れている桃華の横にいた水樹は、彼女にそっと手を差し伸べ、優しく言葉をかけた。


「桃華。僕らにはもう言えることはないよ……」


 水樹は、静かに首を振った後、僕の方へと視線を送った。だけど、僕はそんな水樹ですら直視することは出来ず、ちらっと彼を見ただけで、すぐに視線を反らした。


 少しだけ見えた水樹の表情は、無念に満ちている気がした。


 僕はそんな彼の顔をみて、更に胸が苦しくなった。もう僕の胸はつぶれそうなくらい締め付けられていて、それは、僕が選ぼうとしている選択が、自分の真意ではないと、身体が訴えているようだった。


 そして、少し間が空き、桃華の「ごめんなさい」という震えた声が聞こえてきた後、水樹は、僕と花咲に「ごめん、僕らはちょっと席を外すよ」という言葉を残し、教室を出ていった。


 僕は教室を出ていく水樹も桃華も見ないで、ただ、二人が鳴らす床板の虚しい軋み音だけを聞いていた。


 二人の足音が次第に遠ざかっていくと、教室の中心部で呆然と立ち尽くす僕と、僕に向かい合う様な位置で車いすに座っている花咲だけが残された。


 二人の間に言葉はなかった。

 目も合わせない。


 二人とも俯いたままで、僕は自分の足先を、花咲はスカートで隠れている自分の膝を見ていた。


 重い沈黙が続く教室には、二人の小さな息遣いが響き、蝉の鳴き声が遠くから届いた。そして、相変わらず、室内はひんやりとしていて、夏の炎天下の外とはまるで世界が違っていた。


 どれくらい僕らは、そのまま静かな空間にいただろうか。きっと、五分、いや一分くらいだろうか。


 だけど、その僅かな時間が、僕にとっては永遠と思える程長く感じられ、辛かった。きっと、これは僕への罰だと思った。


 もうこれ以上、ここにいても仕方がない。

 花咲とは、交わす言葉はないし、話す必要もない。


 もういこう。


 僕はそう思い、ようやく沈黙を破って、口を開いた。


「俺、帰るわ。花咲は?」


 しかし、花咲は俯いたまま、言葉を返さなかった。代わりに、カフェオレ色の髪を揺らして、首を横に振った。


「そうか。じゃあな」


 僕は花咲の返答を見届けると、彼女に背を向けて、教室から出て行こうと思った。しかし、僕が背を向け、足を踏み出そうとした瞬間、花咲の声が響いた。


「待って!」


 しっかりとした口調ではあったが、いつもの刺々しさはなかった。


 僕は振り返り、再び花咲の方を向いた。しかし、花咲は依然として俯いたままで、ハンドリムは握っていたが、それを転がして進めようとする力は、今はないようだった。


 そんな彼女の胸の内が、僕に伝わってきた——ような気がした。


 なんで、病気の事を黙っていたの?

 なんで、そんな顔をしているの?

 あの日の誓いはなんだったの?


 嘘つき。


「なんだよ」


 僕は絞り出すように、声を出した。


 だが、また花咲は言葉を返さなかった。それどころか、今度は、首も振る事もなく、ただ黙っているだけだった。


 私の思いは伝わっているでしょ?

 あんたのせいで、私は辛い思いをしているのよ。

 わかってんの?


 僕は、そんな風に彼女が訴えていると思った。


 だけど、実際は違っていた。


 彼女は僕の事を責める事はなく、僕を優しさで包み、勇気づけようとしてくれていたのだった。だけど、不器用な彼女は、それをどうやって伝えればいいのか、わからないだけで、僕は、その事を後になって知った。


「何もないなら、もう行くぞ」


 僕は黙り続ける花咲に再び背を向けた。


 しかし、今度は、僕が足を踏み出しても花咲の声は聞こえなかった。代わりに虚しく軋む音が聞こえてきた。それは、床板の軋み音ではなく、僕の心が軋んだ音だと思った。


 一歩踏み出す毎に、何かが僕の手から何かが零れ落ちていくような気がした。それが何なのか分からないが、とても大事なもののような気がした。それでも僕は、歩みを止めることなく、教室の出口へと向かった。


 そして、僕が教室の出口の敷居を跨ごうとしたとき、ようやく花咲の声が聞こえてきた。


「待って!宮原」


 僕は、花咲の声が自分の耳に届くと、すぐに立ち止まった。


 僕はどこかで、花咲が引き留めてくれるのを待っていた。だから、出口まではゆっくりと時間をかけて歩いたし、いつでも動きを止められるように身構えていた。


 しかし、僕は足を止めただけで、振り返りはしなかった。


 花咲が引き留めてくれるのを待っていたくせに、僕は彼女を見なかった。


 それでも花咲は、懸命に言葉を続けた。


「あのね、私——」


 花咲の声に合わせて、机や椅子に何かがぶつかる音がした。きっと、花咲は車いすを漕いで、僕に近づこうとしているのだろう。


 しかし、それでも僕は振り返らなかった。そのくせ、足を踏み出し、立ち去る勇気もなかった。


 自分でも僕は一体何がしたいのか、分からなくなりそうだった。


 そんな時、一際大きな音が響いた。


 僕は、机が倒れた音だろうと思い、少し顔を上げた。そして、それと同時に、花咲も倒れたのではないかという、不安にも駆られた。


 もう自分の想いも人生も諦めて、皆との繋がりを絶とうとしていたはずなのに、僕の身体は自然と動いていた。


 僕は、身体の向きを反転させると、音源の方へと視線を向けた。


 案の定、机は倒れていて、その周囲の椅子や机も元の位置からは、ずれていた。恐らく、花咲が車いすをぶつけなからも進んだせいだろう。そして、当人の花咲はというと、きちんと車いすに収まっていた。


 僕は、その様子をみて、ほっと肩を撫でおろした。


 しかし、冷静さを欠いている花咲は、自分の進行方向に机が倒れているのにも関わらず、更に車いすを進め出した。


「私、あんたのこと——」


 花咲は僕の方だけを見ていた。


 彼女には、周りが見えていないようで、車いすの黒色の塗料は一部剥げている所があったし、ハンドリムを回している腕にも机や椅子にぶつけたのか、赤く腫れているとことがあった。しかし、彼女はそんな事を気にする様子はなく、必死に僕の元へと向かってくる。少しでも近くにいようとする彼女の意思を僕は感じた。


 しかし、彼女の意思は、倒れていた机によって、阻まれてしまう。


 僕の方だけを見ていた花咲は、倒れていた机に気付く事無く、正面から衝突した。そのせいで、車いすは急に足止めを食らい、その勢いは彼女自身にも伝わって、上体が大きく前のめりになった。


「花咲——!」


 僕は軋む床板を蹴って、最短距離で花咲のもとへと駆け寄った。


 僕も机がぶつかっても、椅子が倒れても構わなかった。ぶつかった衝撃で、腿や脛が痛んだが、それよりも倒れそうになっている花咲を支えなければという思いが優先された。そして、間一髪のところで、僕は花咲の両肩を掴み、彼女を支えた。


「だいじょう——」


 僕は自然と花咲に言葉をかけようとした。しかし、肩を掴んだ瞬間に、彼女の甘い香りが僕の嗅覚を刺激し、僕の両手には、彼女の肩の華奢な感触が伝わってきた。


 そして、僕は再び思った。


 あれ、この感じ……。

 前にも同じような事があったような……。


 そうか。あの日の放課後に感じた感覚と同じだ。


 いや、それよりも前から僕はこの感覚を知っている。



◆◇◆◇



 子供の頃、僕は子犬を拾ってきた。


 ぼろ雑巾のように薄汚れていて、すっかり衰弱しきった子犬だった。


 僕はまず子犬を風呂に入れた。


 嫌がる子犬だったが、抵抗する気力はないようで、子供の僕でも容易に洗うことが出来た。風呂に入った子犬は、すっかり綺麗になり、品種は分からないが、その毛は真っ白だったことがわかった。


 それから、食事を与えた。


 しかし、子犬は怯えて、食事を食べようとはしなかった。それでも食事を出し続けると、人が離れた時だけ食べるようになった。そのうちに、僕から与えられたものならば食べるようになった。


 名前はルーシーと名付けた。テレビアニメでやっていた人気キャラクターの名前からとっただけの安易な理由だった。


 ルーシーはみるみるうちに元気になっていった。


 ルーシーの世話はすっかり僕の仕事になった。めんどくさがりの僕だったが、ルーシーの世話は進んでした。


 そんなある日、ルーシーを散歩に連れて行ったとき、僕らは大型の野良犬に襲われた。


 怯える僕に対し、ルーシーは果敢にも立ち向かっていった。しかし、自分の倍以上も大きな大型犬に、小さなルーシーが勝てるはずもなく、ルーシーの真っ白な毛は、真っ赤に染まった。


 僕は再びぼろ雑巾のように地面に倒れたルーシーをそっと、両手で抱き上げた。


 僕の手にはルーシーの微かな息遣いと途切れそうな鼓動が伝わってきた。そして、何より、ルーシーは弱々しくて華奢だった。


 僕は、再び睨みを利かせる大型犬に怯え、ルーシーを地面に戻すと、その場から逃げるように立ち去った。



◆◇◆◇



 小六のとき、僕の病気が発覚した。


 その病状や進行具合を検査し、把握するため、しばらく入院することになった。


 僕の病気は、直ちにどうにかなってしまうことはなさそうだったが、治らないかもしれないという事がショックで僕は悲観した。


 そして、病室を抜け出しては、よく屋上へと向かった。


 別に死にたいわけではなかったが、屋上から街を見下ろしていると、「ここから飛び降りれば楽になるのかな」なんて、考えてしまう時もあった。だが、屋上を囲うフェンスは、僕の背丈では乗り越える事は困難で、そんな考えはすぐに消えてしまった。


 入院して三日目。

 僕は屋上で、一人の少女とであった。


 名前はナツキ。


 ナツキは、いつも薄ピンクのニット帽をかぶり、ベッドのシーツよりも真っ白な顔をしていた。目は大きいというより、顔が痩せこけていて、飛び出しそうなくらいに強調されていた。


 見るからに僕より重症そうなナツキは、一度も学校へ通ったことがないと言う。


 何度か自宅へは退院したことはあるそうだが、学校へ通うだけの力は彼女にはなかったそうだ。


 それでも、ナツキは明るかった。病気を知って、悲観する僕とは違い、彼女は自分の病に臆することなく強く生きていた。


 僕はそんな彼女に会うために、毎日屋上へ通った。ナツキも毎日、決まった時間に屋上へ来てくれた。だけど、ナツキの体力では、一回に会えるのは、せいぜい三十分が限界で、それでも僕はその三十分を楽しみにしていた。きっとナツキも楽しみにしてくれていたと思う。


「こんにちは。春君」


 僕は、いつもナツキよりも先に屋上に行き、ベンチの端っこに座って、彼女を待っている。そして、彼女は遅れてやってくると、反対側の端っこに座って、すぐに質問攻めを始める。


「ねえ、学校ってどんなところ?」

「先生は厳しいの?」

「どんな勉強をしているの?」

「クラスメイトは何人いるの?」

「休み時間は何して遊ぶの?」

「運動会ってどんなことするの?」


 などなど、その質問はほとんどが学校に関することだった。


 僕は、その質問に一つずつ答えてやる。時々、分からない事は、適当に誤魔化すが、ナツキにはすぐに嘘がばれてしまう。実は、彼女はエスパーなんじゃないかと思ったが、あるとき、僕の嘘を見抜く秘密を教えてくれた。どうやら僕は嘘をつくとき、鼻を掻くらしい。


 そして、その日は話に夢中になり過ぎて、三十分の制限時間を五分だけ超えてしまった。


「あ、いけない!そろそろ戻らなきゃ」


 ナツキが慌てて話を切り上げると、僕らはベンチから立ち上がった。しかし、急に立ち上がったせいか、いつもよりも長く話をしていたせいか、彼女は眩暈に襲われ、ふらついた。


 きっと支えなくても倒れなかっただろうが、ナツキがちょうど僕の方へとふらついたので、僕は彼女の両肩を掴んで支えた。


 ナツキの体格は、僕よりも一回りも二回りも小さく見えたので、彼女の細く軽い感じはある程度、予想していた。


 しかし、僕の手を介して伝わる彼女の感触は、その予想を上回るほど華奢で、弱々しかった。


 僕はその事がショックで、すぐに彼女から手を離した。


「あ、ありがとう。春君」


 不意に僕に支えられたナツキは頬を赤らめた。


 しかし、その日を境に、ナツキは屋上へ来る事はなかった。



◆◇◆◇



 中二のとき、僕は再び手を離した。


 地面を揺るがすような、暴力的な排気音が左の方から聞こえてくる。しかし、僕の前を歩いている少女は、イヤホンをしているせいか、それに気付いていないようだった。


 信号は、歩行者が青。


 このまま進んでも、バイクは止まってくれるだろう——と、思っていたが、なんだか様子がおかしい。


 バイクは信号を見落としているのか、少女に気付いていないのか、減速する様子はなく、むしろ激しい排気音を更に加速させた。


 このままでは、ひかれてしまう。


 そう感じた僕は、横断歩道を渡り始めた少女の肩を慌てて掴んだ。


 少女は振り返り、僕を見た。


 振り向き様に揺らめく少女のポニーテールの髪は、甘いカフェオレ色で、陽の光を吸収し、煌びやかに輝いていた。瞳も自らで光を放っているように美しく、僕の知っているどんな宝石よりも綺麗だと思った。そして、ほんのりと甘い香りが漂ってきた。


 僕はその一瞬で、彼女に見惚れた。


 しかし、少女はその可愛い顔に反するように、穏やかな表情はしていなかった。少女は、まるで不審人物を見るように僕を睨みつけ、急に止められた事による憤りを表していた。そして、一言だけ声を発した。


「何?」


 幼くも可愛いらしい声だったが、少女は鋭く尖ったような口調で、僕を刺した。


 そのせいで、僕は言葉を発することが出来なくなり、少女も僕の返事を待たずにして、掴まれていた肩から僕の手を振りほどくと、ふん、と鼻を鳴らし、再び歩き始めた。


 しかし、排気音は激しくなるばかりで、バイクが接近している事を示していた。

 

 僕は焦った。

 どうにか、少女を止めなければ、バイクにひかれてしまう。


 「あ、あの——!」


 なんとか絞り出した僕の声は、裏返ってしまい、なんとも情けない声になった。そんな声でもきっと、少女にも届いただろうが、彼女は、再び振り返る事も立ち止まる事もせず、横断歩道を渡り続けた。


 そして、バイクが少女の存在に気付き、異様に高いブレーキ音を鳴らすと、少女の方もバイクの存在に気が付いた。


 少女は、恐怖で足を止め、バイクは少女を避けようと、急ハンドルを切った。


 バイクは横転したが、勢いづいたバイクは、止まる事はなく、少女を避ける事も出来ず、そのまま吸い寄せらせるように少女へと向かっていった。


 それから、一呼吸もしないうちに、鈍い音が辺りに響いた。


 少女の身体は、宙を舞った後、激しく地面に叩きつけられ、誰かが悲鳴を上げた。


 そして、すぐに周りの大人たちが駆け寄ってきて、救急車を呼んだ。


 僕は、その様子をただ呆然と眺めている事しかできず、そのあと、少女はどうなったのか、僕は知らない。



◆◇◆◇



 それらの日々を思い出し、僕は思うのだ。


 僕の掴んだものたちは、皆、華奢で弱々しい。

 そして、僕が離したせいで……。


 それは、僕の自惚れかもしれない。

 僕が離していようが、離していまいが、結果は同じになっていたかもしれない。


 それでも、僕の手から離れて、零れ落ちていったものたちは、僕を責めるのだ。


 お前のせいだ

 お前は何もできない。

 お前の望みは何も叶わない。

 だから、お前は病気に選ばれた。


 そう。僕は病気に選れ、もうすぐいなくなる人間だ。


 僕は最期まで普通でありたいと願い、普通の高校へ入学した。それは、まだドナー提供という僅かな望みがまだあったからだ。だけど、その望みはもう叶わない。もう残された時間は僅かしかない。そんな短い時間で、僕に何が出来ると言うのだ。


 僕はもう駄目なんだ。

 僕はもうすぐ終わる。


 僕が、どんなに前向きに考えようとしても、前に進もうとしても過去が足かせとなって、いつまでも僕にしがみついてくる。


 運命には逆らうな。


 手から零れ落ちたものは、もう二度と取り戻すことは出来ない。


 それでもまた掴もうとするのか。


 そんな自分自身の問いかけに、僕は悩むことなく、答えてやる。


 いいや。僕にはもう無理だ。


 僕が手を離したせいで、大切なものが消えていった。そして、僕には、痛みと悲しみだけが残った。


 だから、もう僕が誰かを掴む事はない。


 花咲と繋がりたいと思い、手を伸ばした。だけど、その手で彼女を掴んではいけない。だって、僕はいなくなるから。彼女に、痛みと悲しみだけを残すだけになるから。そんなこと、僕には出来ない。少しでも悲しみや痛みを与えず、静かに去っていく。それが僕に残された最期の役目であり、使命なんだ。


 ああ、身体が海の底に沈んでいくようだ。

 深く暗い海の底へと、身体が沈んでいく。


 抗っても、もがいても、そこから抜け出す事はできないと僕には分かる。


 このまま、息も出来ず、静かに最期を待つ。


 ああ、そうか。僕は誰かを支えようとして、手を伸ばしたんじゃない。僕は彼らを救うおうとして、肩を掴んだんじゃない。


 僕は彼らにしがみついていたんだ。


 自分が悲しみの海に沈んでいかないように。

 自分が溺れないように。


 結局、僕は自分のために、手を伸ばし、彼らを掴んだ。そして、彼らに見放され、僕は悲しみに溺れた。


 僕には浮力は生じず、光の届かない底なしの海へと、ゆっくり沈んでいく。



 しかし、そんな暗闇の海の底に、誰かの声が響いた。


——春君が受け取ったのは、本当に悲しみだけ?


 誰だい?


 僕はそっと目を開けた。


 すると、真っ暗闇のなかに柔らかな光が差し、その光のなかから少女と子犬が浮かび上がった。


 少女は、薄ピンクのニット帽を被り、ガーゼ生地のパジャマを着ている。その横の子犬は真っ白な毛に全身が覆われており、小さな尻尾を振っていた。


——春君に残ったのは本当に痛みだけ?


 再び声が響き、少女は僕の左の手を掴んだ。


 小さな手。

 だけど、柔らかくて暖かい。


 すると、僕のなかにいくつかの記憶が蘇ってきた。


 ルーシーが嬉しそうに尻尾を振って、僕を見ている。


 僕が手に持っていたボールを投げてやると、ルーシーは飛ぶようにボールを追いかけて行き、ボールを咥えて、また僕のところまで戻ってくる。僕は元気になったその姿を見て嬉しくなり、思わす笑みがこぼれた。


 ナツキはいつものように遅れて屋上に現れた。


 そして、僕の横に腰を下ろすと、すぐに質問攻めを始める。僕がその質問一つ一つに丁寧に答えてやると、彼女は無邪気な笑顔を僕に向けた。その笑顔を見て僕もつられて笑った。だけど、ちょっと照れくさいので、顔を背けてこっそり笑った。


 そんな彼女らから、残された僕は何を受け取ったのだろうか。


 悲しみ?

 痛み?

 虚しさ?

 苦しさ?


 いや、違う。そうじゃない。


 目を瞑ると、蘇ってくるのは、ルーシーやナツキの楽しそうな顔、嬉しそうな声。


 僕に残ったのは、痛みや悲しみではない。


 思い出だ。


 そして、その思い出のなかでは、ルーシーもナツキも、色褪せる事はなく、いつまでも楽しそうに、嬉しそうに、笑い続けている。それを思い出す度、僕も嬉しくなって、思わず笑みがこぼれるのだ。


 だったら、僕が、僕の大切な人たちに残せるものはなんだろうか。


 彼女らが僕に残してくれたように、僕も大切な人たちに思い出を残せるだろうか。


 何でもない日常にこそ幸せを感じるように、何でもないときに僕を思い出し、笑ってくれるだろうか。


 僕は、僕の大切な人を想い、より一層目を強く瞑ると、僕の空いていた右手を誰かがそっと握った。


 ナツキよりは、大きな手だが、それでも僕の手より一回りは小さい。


 繊細なようで、力強い。


 僕は、その手を愛おしく思い、優しく力を込め、そっと握り返した。そして、僕はゆっくりと目を開けて、僕の手を握っている人物を確認する。


 ポニーテールのカフェオレ色の髪をした少女。


 しかし、その少女は、僕の幻想ではない。


 実体化している少女は、黒い金属フレームに、赤いタイヤの車いすに収まっていて、僕は彼女の両肩を掴んでいた。


 そして、少女は僕を見詰めて、儚い唇をそっと動かした。


「ありがとう」


 僕の目の前には、僕が大切に想っている人がいる。


 可愛い顔をしているが、いつも不機嫌で、とっても不器用。正直、素直じゃないけど、彼女も僕の事を想っていてくれる。


 そんな彼女のために、去り行く運命の僕は何が残せるだろうか。


 痛み?

 苦しみ?


 いいや、違う。


 楽しい時間。

 嬉しい時間。


 それらを共に過ごし、いつまでも褪せない思い出として、彼女の胸に刻むのだ。


 もう諦めていた僕の人生を、残りの時間を、彼女のために使おう。


 それが僕の役目であり、使命なのだ。


 だったら、僕が今、すべきことは一つしかない。


 僕は、花咲の両肩を掴んだまま、そっと姿勢を整えると、目の前の机を直してから、彼女の前で両膝をついた。そして、真正面から彼女を見詰める。彼女もまた、僕を見詰め返した。


 僕らは無言のまま、しばらく見詰め合った。


 しばしの沈黙。

 だけど、空気は重たくない。


 その沈黙の間に、互いの瞳の奥に抱いている想いを確かめ合うのだ。


 僕らは、まだ離れていない。


 繋がりそうだった想いは、何度も引き裂かれそうになったが、まだ大丈夫。


 僕らはきっと繋がり合える。


 僕は確信をもって、ゆっくりと口を開いた。


「花咲——」


 花咲は、僕の言葉の一つ一つを胸に刻むように、胸に手を当て、しっかりと聞き入った。


「僕は——」


 だから、僕も一つ一つ丁寧に、想いを込めて、言葉を発した。


「君が好きだ」


 花咲は、その言葉を聞いた瞬間、黒真珠のような瞳を煌めかせ、一粒の涙を零した。そして、その涙は赤く染まる頬を伝うと、彼女の麻痺した脚へと零れ落ちた。


 それから、花咲は優しく微笑み、言葉を返した。


「私も」


 僕は、花咲の素直な想いを感じた。


 ようやく繋がった僕らの想い。

 その嬉しさで、僕の胸が熱くなる。


 そして、僕は込み上げてくる感情を堪える事もせず、一筋の涙として流した。


 両膝を床につけていた僕は改めて、花咲の両肩を掴み、彼女をそっと抱き寄せた。


 花咲も僕の背中へと手を回し、優しく力を込めてくる。


 僕は、花咲の甘い香りをすぐ傍で感じ、初めて抱く彼女の感触に心を震わせた。


 花咲の体つきは、予想以上に華奢だった。しかし、弱々しくはない。それよりも感じるのは、温かくて、柔らかい感触。彼女の鼓動。


 生きているという実感を強く、僕に与えてくれる。


 それを感じた僕に、ある思いが浮かんできた。


 僕は、人生を諦め、最期を受け入れようと思っていた。しかし、花咲と抱き合い、彼女の存在をしっかりと感じると、僕はまだ諦めたくないと思った。


 少しでも長く、彼女といたい。


 彼女を残して去っていく事が確実になったとしても、僕は最期まであがいてやる。

 

 僕はまだ諦めない。



ついに宮原君が、姫子に告白。


そして、また文字数が一万越え……(-_-;)

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