26.中二の夏(1)
水樹勉と金剛内桃華が、宮原春に訴えかけているとき、花咲姫子は、中学二年の夏の事を思い出していた。
なんで、今、こんなことを思い出してしまうんだろう。
中二の夏——。
私は交通事故に遭った。
その日、どこへ向かおうとしていたのか、忘れたけど、信号が青になり、私は、横断歩道を渡り始めた。
白い線の所だけで渡れたら、今日は良い日なる——なんて、子供染みた事を考えながら、渡っていると、急に肩を掴まれ、引き止められた。そのせいで、私の足は、白い線からはみ出してしまった。
私は振り返って、邪魔された腹いせに、引き留めた人を睨みつけた。
私を引き留めたのは、吊り目の同い年くらいの男の子だった。
男の子は、人と話す事に慣れていないのか、私の睨みに圧倒されたのか、何も言わず、おどおどしていたので、私は彼の手を振り払って、再び歩き始めた。
それでも男の子は必死に声を振り絞り、「あ、あの——!」と叫んだが、私は無視して歩き続けた。
そのとき、私はバイクの暴力的な排気音が近づいていることに気が付いた。しかし、もう遅かった。
地を揺らすような排気音が響き、耳鳴りのようなブレーキ音が鳴った後、私の身体は宙を舞い、意識が飛んだ。
私は信号を無視したバイクにはねられ、背中を強打。胸椎を骨折し、胸髄(脊髄の胸の高さにあたる部分)を損傷した。
その日を境に、胸から下は、私の意思に従わなくなった。
感覚もない。
体幹の筋肉も働かいないので、支えがないと座っている事も出来ない。そもそも、寝返りや起き上がりも自力では困難だった。
私は絶望した。
もう一生自分の足で、地面を踏みしめることは出来ないだろう。
もう私は歩けない。
もう普通の生活は出来ないんだ。
そんな絶望的な人生なら、死んだ方がマシだと思った。
三階の私の病室から飛び降りて、打ち所が悪ければ死ねるだろう。
だけど、それも叶わない。
ベッドから転がり落ちて、窓際まで這って行ったとしても、人の胸元の高さにある窓枠を私はよじ登ることが出来ない。
私は、自分の意思で命を絶つことも許されないのだ。
そんな絶望的な中、リハビリが始まった。
私の担当は、理学療法士の宮田さんという若い男の人と、作業療法士の森田さんというちょっと年のいった女の人だった。
宮田さんは、私にいつも優しかった。
麻痺した私の足を丁寧に動かしてくれて、いつも励ましてくれる。
私に手を添え、動きを誘導しながら、寝返りや起き上がりの方法を教えてくれた。そして、支えなしで座れたときには、自分の事のように喜び、私を褒めてくれた。おかげで、私の出来る事はどんどん増えていった。
森田さんは、少し不愛想な人だった。
別に怒鳴ったり、厳しい言葉を浴びせたりする事はないんだけど、森田さんは無表情というか、無口というか、感情があまり読めない人だった。
それに、森田さんは、宮田さんのように手を差し伸べる事はあまりせず、私が着替えの練習で手こずっても、トイレの練習で時間がかかっても、彼女は静かに見ているだけだった。それでも、不思議と圧迫感は感じなかった。
ある日、私は宮田さんに尋ねてみた。
「森田さんって、独身なんですか?」
宮田さんは、少し困った顔をして答えた。
「うーん。どうだろうねぇ・・・・・・」
「きっと、そうですよ。顔は整っていますけど、なんか無口だし、愛想もないですからね」
私は、本人がいないからといって、失礼なことを軽々しく言った。すると、宮田さんはかぶりを振って、優しく言い返した。
「そうでもないよ。僕らには厳しいけど、患者さんにはとても優しいんだよ」
「そうですか?今のところ、私は、その優しさをあまり感じないんですけど」
宮田さんは、少し笑って続けた。
「ははは。そっか。でも、あの人の目をよーく見てごらん。そうしたら、彼女の優しさが分かると思うよ」
「目ですか・・・・・・?」
その日の午後。
私は森田さんのリハビリの時、宮田さんに言われたように、「目」に注目してみることにした。
「作業療法の時間です」
森田さんは、きっちり時間通りに私の病室へやってきた。
森田さんのリハビリは、主に普段の生活の動作練習を行うので、訓練室ではなく、こうやって病室で行う事もよくあった。
森田さんは、ベッドで腰掛けていた私に近づくと、身体を屈めた。
「今日は、昨日の続きです。靴下を履いてみましょうか」
「・・・・・・はい」
私は返事も曖昧に答える程、森田さんの目に集中した。
少しだけつり上がった目じり。
その奥の瞳は、確かに綺麗ではあったが、宮田さんが言う程の優しさは感じなかった。ただの綺麗な女性、といった印象だった。しかし、やはりというか、結構近くにいても、圧迫感は感じない。
「花咲さん、どうしたのですか?」
私があまりにも目を見続けていたので、森田さんが不思議に思い、尋ねてきた。そこで、私は彼女の瞳に見惚れていた事に気付き、慌てて離れようとした。
「あ、いや、なんでもないです!」
しかし、勢い余って、上体は安定した位置では、止まらず、そのまま後方へと傾いていった。
しまった!
このままでは、後ろに倒れてしまう!
私はそう思って、思わず目を強く瞑った——が、上体は少し後ろに傾いただけで、私が倒れる事はなかった。
「あれ・・・・・・?」
私は不思議に思い、そっと目を開けてみた。
すると、私の前で屈んでいた森田さんは、いつの間にか、自分の右手を私の背中へと回し、軽々と支えていた。
「あ、すいません」
私は上体を少し後ろに傾かせたまま、森田さんを見詰めて謝った。
しかし、森田さんは、私の謝罪を受けても、表情を変えることなく、文章を棒読みするように言葉を返した。
「いえ。それより、大丈夫ですか?」
「は、はい。大丈夫です」
森田さんと私は、背中と腕を通して接触していた。しかし、相変わらず不快な感じはしないし、結構距離は近いのだが、圧迫感や威圧感もなかった。むしろ、支えられているせいか、安心感が私に満ちていた。
理学療法士の宮田さんは、すごく優しいのだけど、これほど距離が近くなると、さすがに少なからず圧迫感を感じる。男女や体格の違いもあるだろうけど、たぶんそれだけではないと思う。
そこで、私はもう一度、森田さんの目に注目してみた。
やっぱり顔立ちは整っていて、瞳も綺麗だが、特別感はない。むしろ、表情や口調は、相変わらず、素っ気なくて、無感情な印象がする。
じゃあ、一体彼女の何が、私に安心感を与えてくれるんだろう。
「森田さん」
私はいつの間にか、口を開き、彼女の名前を呼んでいた。
「はい。なんでしょうか」
森田さんは、眉一つ動かすことなく、私の姿勢をそっと整えると、屈んだ姿勢のまま、私を見上げた。
「人と接するとき、何か気を付けていることって、あるんですか?」
「それは、どういう意味かしら?」
相変わらず、抑揚のない口調の森田さんだったが、口元が少しだけ動いた。それを見た私は、彼女の癇に障ったのではないかと思い、慌てて弁解した。
「あ、いや。別に深い意味はないんです。皆、森田さんって優しい人だって、言っていたので・・・・・・。あ、あの。私も森田さんって、優しい人だと思っていますよ。その秘訣を知りたいというか、なんというか」
私の苦しい言い訳に、森田さんは怒るわけでも、呆れるわけでもなく、無表情のまま、言葉を返した。
「そういうことですか。あまり、人には言いたくないのですが、敷いて言えば、『目線』ですかね」
「目線?」
私は首を傾げ、自分の前で屈んでいる綺麗な女性を見返した。
「そうです。私は、目の高さに、気を遣っています」
そのとき、私は、森田さんの目の高さが、自分よりも低い位置にあることに気が付いた。
いや。今だけではなく、さっき咄嗟に私を支えた時も、森田さんの目の高さは私よりも低かった。それどころか、初めて会った時から、森田さんの目の高さは、私の目線を超えた事はない。座っている時はもちろん、寝ている時も足元側から声をかけてくれ、私が彼女を見上げたことは一度もなかった。
そして、森田さんは抑揚のない口調で、更に言葉を続けた。
「私は、昔から無感情女だとか、ロボット女だとか、言われてきました。自分自身でも自分が不愛想であることは、自覚しています。だから、何か一つだけは、きちんとしようと、心掛けているのです」
自分をロボット女と言った森田さんの曇った顔は、人間らしい暗い感情が現れたように見えた。だから、私は声を張って、それを否定した。
「そんな事ないです!森田さんは、すごく綺麗だし、なんか安心できるというか、とっても温かい人だと思います。それに、えっと・・・・・・森田さんは、綺麗な人です」
思わず出た私の言葉たちは、少しばかり意味不明だった。
だけど、森田さんは呆れる事はなく、強く言い返す事もなく、目じりを下げ、口角を少しだけ上げ、口元に手を当てると、小さく微笑んだ。
「ふふ。ありがとう。花咲さん」
森田さんの初めて見る微笑んだ顔は、とても綺麗で、とても人間らしかった。
それ以来、私は森田さんと仲良くなった。元々、仲が悪かったわけではないけど、森田さんと一緒に居る事がとても楽しみになって、リハビリも苦痛に感じる事はなかった。
そうして、私は数か月間の入院生活を経て、概ね車いすにて身の回りの事は自分で出来るようになった。
ベッドから起き上がったり、一人で座ったり、車いすに乗り移って、漕いだり出来るようになった。いや、日常生活というのは、それだけではない。食事を摂ったり、衣服の着替えをしたり、トイレへ行ったり、勉強をしたり、お出かけしたり・・・・・・、私は普通の人より時間はかかるし、不都合は感じるが、私のなかでは、それらが普通に出来るようになった。
そして、中三の春には、学校に戻った。
中学校の校舎は、数年前に建て直されたばかりで、幸いバリアフリーの環境が整っていた。そのおかげで、学校生活はそれほど大きな問題は生じなかった。そして、私は、今までの遅れを取り戻すように勉強に励み、高校へと進学したのだった。
しかし、高校に入学して、私はすぐに壁にぶち当たった。いや、初めから分かっていたことではあったが、「普通」にこだわっていた私は、それくらいなら何とかなると、甘く考えていたのだ。
進学した高校は「校舎」と「管理棟」の二つからなっており、管理棟の方は、比較的新しい建物で、図書室や理科室、音楽室などの特別教室が入っていた。しかし、普通教室のある校舎の方は、かなり年季の入った建物で、一体いつ建てられたのだろうか、と思う程だった。
教室の床板は、深いこげ茶色をした古木で、踏めば軋む音がするし、窓やドアを開けるときには、少し力がいる。それに、ガラスは風が吹く度、ガタガタと音が鳴った。
それでも、白塗りの壁とのコントラストは綺麗で、こういう古風な建物が好きな人は多くいると思うし、私も趣があると思った。
だけど、車いすで校舎内を移動するのは、かなり不便だった。
まず古い階段しかないので、上下階の行き来が困難だった。教室に入るには、ちょっとした段差があって、毎回キャスター(前輪)を上げて乗り越えるのが面倒だった。
また、私の使える広めのトイレは、管理棟にしかなく、他の女子たちのように気軽にお手洗いへは行けなかった。
それに、中学からの友達は良いが、初めて出会う人たちからは、過剰に気を遣われたり、哀れむような視線を受けたりすることが、しばしばあった。
しまいには、入学してからしばらく経つと、担任の先生から転校を進められた。
「花咲。あんまり無理しない方がいいじゃないか。お前が通いやすい学校は、いくらでもあると思うぞ」
その言葉を受けて、私はようやく気付いた。
——やっぱり、私には普通なんて無理なんだ。
自由に学校へ通えないし、人に迷惑をかけてばかりで、何も出来ない。リハビリを受けて、なんでも出来るようになった気でいたが、それは大きな勘違いで、周りの大人たちが、私のために環境を整え、気を遣ってくれていただけだ。
そして、先生に転校を勧められた次の日、私は学校を休んだ。
その次の日からは、再び学校へ行ったが、あまり体調が優れない日が続いた。学校へ行っても、教室には行かず、すぐに保健室へ行くこともよくあった。
そして、私は悩んだ。
やっぱり学校を変えるべきなんだろうか。この学校でやりたいことは特にないし、ただ何となく自分の学力と学校の雰囲気だけで選んだだけだし・・・・・・。
私は、そんな弱気な思いを抱いて登校すると、その日も教室へは行かず、すぐに一階の保健室へと向かった。
そして、そこで、私は彼と出会った。
脊髄損傷には、完全麻痺と不完全麻痺があります。
その名の通り、完全麻痺は、損傷した部位より下位は完全に働きません。不完全麻痺は、一部働きがみられます。
ちなみに、姫子は、完全麻痺の設定です。




