20.欲しかったもの(2)
金剛内桃華は、同級生で、生徒会長の神楽勇士に、ピンチを救ってもらった。
しかし、なぜか神楽は、その場にいなかった宮原春の事を探し始めた。
「春先輩なら、今、ゴミ捨てに行っているよぉ。もう少しで戻ってくるとは思うけどね」
私が春先輩の向かった先である堤防を見上げながら言うと、神楽君も同じ方角をみて、眩しさからか目を細めた。そして、小さく言葉を漏らす。
「そうか・・・・・。だから、か・・・・・・いや、ちょうどいいのかな・・・・・・」
微かに聞こえてきた神楽君の言葉だが、その意味することは私には分からなかった。だから、私は何のことを言っているのか、聞こうと思ったが、それよりも先に神楽君が私の方へと体を向き直した。そして、強い眼差しで私を見詰めてきた。
「桃華ちゃん!」
いつもの甘い声ではなく、力強く放たれた神楽君の声に、私はびっくりして、思わず身体が緊張した。しかし、更に驚くべきことが続けて起こった。
神楽君は両手を大きく広げたかと思うと、私の目前へ近づき、急に抱きついてきたのだ。
私は、一体何が起こっているのか、理解できなかった。
「桃華ちゃん!」
再び、力強い神楽君の声が響いた。
あれほど私の可愛いアピールに、なびく事がなかった神楽君が、急に私を求めるように名前を叫び、強く抱きしめてきた。
そこで、ようやく遅れていた私の思考が追いつき、神楽君がなんで私に抱きついてきたのか、その理由を考えてみた。
恐怖で怯えていた私を安心させるため?
単純に私のことを求めているの?
それとも、ただの女好き?
最も有力なのは、一番目に考えついた答えだと思って、私はそっと声に出してみた。
「ねぇ。神楽君?私、もう大丈夫だよ・・・・・・?」
しかし、神楽君の返事はなかった。それどころか、私を押し倒す勢いで、身を寄せてきた。
「ねぇ、ちょ、ちょっと・・・・・・重たいよ。神楽君」
私の声は、まるで神楽君に届いていないようで、彼は更に体重をかけてきた。そして、私は短い悲鳴を上げ、後ろへと倒れた。
「きゃぁっ!」
芝生のベッドは、思っていたよりも固く、倒れた勢いでお尻と背中が痛かった。更に体操着の繊維の隙間からは、芝生が入り込み、チクチクとした刺激が伝わってきた。
私は、そんな痛みや刺激よりも、この状況を理解しようと懸命に考えた。
だけど、分からない。
なんで神楽君がこんなことをするのか。
あの童顔で、頭が良くて、皆から信用されている神楽君がどうして?
私を強く締め付ける神楽君の腕は、あの色白の細い腕からは想像できない程の力があり、私は身動き一つとれなかった。そんな状況で、私は、何とか動かせる口を慎重に動かし、もう一度神楽君の名前を呼んでみた。
「か、神楽君?」
すると、ようやく私の声が神楽君に届いたらしく、強く締め付けていた腕を緩め、そっと上体を起こした。そして、困った顔をして私を見下ろした。
「桃華ちゃん。驚かせて、ごめんね。だけど、君があまりにも僕を誘惑するから。君があまりにも魅力的過ぎるから。だから、こんなことになったんだよ。さっきも言ったと思うけど、君は『僕の』桃華ちゃんなんだからね。その意味がわかっている?」
しかし、私には、神楽君の言っている事が理解できなかった。
神楽君って、可愛くて、優しくて、誰からも支持されている皆のリーダーだ。そんな彼が、自分の私欲のためだけに、こんなことをするはずがない。これは何かの間違いなんだ。きっとそうだ。
「ねぇ、神楽君?何を言っているの?よく分かんないよ」
しかし、私の神楽君を擁護しようとする考えは、すぐに打ち砕かれた。
神楽君は私の腹の上に馬乗りになると、乱暴に私の両手を押さえつけてきた。そして、今まで見た事のない冷たい目で私の事を見下してきた。
「桃華ちゃん。僕が君を生徒会に入れた理由が分かるかい?それは、人集めのためでも、マスコットキャラになってもらうためでもないよ。君を僕の傍に置くためだよ。だから、ただの書記や庶務ではなく、僕の一番近くに居られるよう、副会長にしたんだよ。その意味が分かっているのかい?」
神楽君もさっきの三人組と同じだった。
自分の欲望のためだけに、人を恐怖に陥れる。
周囲に媚を売っていれば、いずれこうなるかもしれないと、私は頭の片隅で分かっていた。だけど、やめられなかった。男たちにちやほやされ、女どもを見下す。そうして、私は優越感に浸り、心を保ってきたのだ。
しかし、いざその場面に出くわすと、後悔と恐怖しかない。
私が蒔いた種なのだから、その恐怖と後悔を受け止めるべきだと思うが、そう簡単に割り切れるものでもなかった。
だって、怖いもん。
怖くて逃げだしたいもん。
だけど、私の身体は金縛りにあったみたいに動かない。それは、神楽君が私を押さえつけているせいだけではない。私の身体が恐怖で固まってしまっているのだ。
やっと助かったと思ったのに。どうしてこんなことになるのかな。しかも、あの神楽君がこんな事をするなんて。なんで?
怖い。怖いよ。助けてよ。
自分でも都合の良い事を考えているのは、わかっている。でも、私はこの恐怖に耐えられなかった。
だから、私はいつの間にか、神楽君に押さえつけられ、虐げられそうになる恐怖から、強く目を瞑っていた。もう声は出ない。さっきと同様に、恐怖が私の喉を塞いでしまっている。しかも今度は息苦しさまで感じた。
私が、恐怖に支配され表情を歪めていると、優しい口調ながら、どこか不気味な神楽君の声が聞こえてきた。
「桃華ちゃんって、そんな表情もするんだ。いいね、その顔・・・・・・。でも、ダメだよ。ちゃんと僕を見なきゃ。ねぇ、だから目を開けてよ」
しかし、私は目を開けられなかった。
抵抗する事も出来ない。
声も出ない。
ただ、怯えながら誰かに助けてもらうのを待っているだけ。
目を強く閉じられた私の視界は、真っ暗だった。しかし、そんな暗闇の世界に一人の男子生徒が浮かんできた。
鋭い目つきに優しい瞳。カッコ良くないし、バカなくせに、私には振り向かず、違う方向を見ている。それなのに、私を気遣って、心配してくれる。
それが私の近しい存在であり、私の存在を認めようとしてくれる唯一の人。
春先輩・・・・・・。
きっと、春先輩が私を助けに来てくれる。
だって、大丈夫って言ってたんだもん。
私がそんな都合のいい事を胸中で抱いた瞬間、私の両手と腹部にかかっていたの重みがすっと消えた。それと同時に、激しい怒声が聞こえてきた。
「神楽ぁ!!」
仰向けになっている私のすぐ横で、人が倒れるような鈍い音がした。そして、目を閉じていても、瞼を通して、遮られていたものが取り除かれ、明るくなった空を感じることができた。
「お前、何のつもりだ!」
再び力強い怒声が響いた。
その声が誰なのか、私にはすぐに分かった。だけど、私の知っているその人は、これほどまでに大きな声を出す事はない。私は、その人の怒った声を初めて聞いた。
そして、私は、その人の声を聞き、少しだけ和らいだ恐怖に逆らって、現状を確認するために、きつく瞑っていた重い瞼をそっと持ち上げた。
まず、初めに私の視界に飛び込んできたのは、普段の鋭い目つきを更にきつく吊り上げて怒った顔をしている春先輩だった。その背景には明るい青空が見える。
次に顔を右側に向けると、私と同様に芝生の上で、仰向けになっている神楽君がいた。その表情には感情がなく、いつもの童顔でありながらも、とても冷たい顔をしていた。
「桃華。大丈夫か」
春先輩は、怒りが静まらない様子だったが、返事をしない神楽君を放っておいて、身体を屈めると、私に手を差し伸べてきた。
「・・・・・・春先輩」
私はなんとか声を絞り出し、小さく頷くと、春先輩の手を取った。そして、春先輩も私の手をしっかりと握り返すと、すっと引き上げ、起こしてくれた。
それから春先輩は、神楽君に鋭い視線を戻すと、今度は声量を抑えて、低い声で神楽君を呼んだ。
「神楽。さっきのは一体なんのつもりだったんだ?」
すると、神楽君は仰向けのまま、両手で自分の顔を覆い、小さく肩を揺らした。初めは、自分の過ちに気付き、その後悔の念から泣き出してしまったのかと思ったけど、それが笑っているのだと、少し間が開いてから分かった。
「くっくっくっくっく・・・・・・」
神楽君は喉の奥から、そんな籠った笑い声を漏らした。
それから神楽君は、そのまましばらく笑い続けたかと思うと、急にピタリと動きを止めた。そして、顔を覆っていた両手を開くと、上体を起こし、芝生の上に胡坐をかいて、春先輩を見上げた。
「宮原先輩。戻ってくるの、早くないですか?」
声だけを聞いていれば、普段の神楽君と変わりなさそうだったが、その風貌は普段とは異なり、地面に倒れていたせいで、髪は乱れ、瞳の大きな目からは、氷のような冷たさを感じた。
一方の春先輩は、静かに燃える怒りを瞳に宿し、神楽君を見下ろすと、滴りそうになる額の汗を拭ってから答えた。
「なんとなく嫌な予感がしてな。まあ、急いで戻ってきて正解だったよ。まさか、お前が桃華に手を出すとは思っていなかったが」
しかし、神楽君は目の色を変えることなく、柔らかくも不気味に微笑み、ゆっくりと立ち上がった。
「いやだなぁ。僕は、桃華ちゃんを助けたんですよ。三人組の気持ち悪い連中から。だって、僕の許可もなしに、僕の桃華ちゃんに勝手に触ったんですよ。全く、油断も隙も無い連中ですよ」
当然のように私を「自分のもの」だと言い張る神楽君は、春先輩から視線を外すと、冷たい目で私を見てきた。神楽君に見詰められた私は、先程の恐怖が脳裏に蘇り、背中が粟立った。さらに、普段から私をそんな風に見ていたのかと思うと、更に寒気は強くなって、私は小刻みに震え、両腕をさすった。
春先輩は、一歩前に出ると、そんな私を自分の後ろに隠すように立ち、力強い声を放って、再び神楽君の視線を自分に向けさせた。
「そうかい。俺が目を離した隙に、そんな奴らが来たとはな。護衛としての責務を果たせなくて悪かったな。だけど、お前もそいつらと同じだ。彼女を恐怖に陥れ、『僕の』なんて、気持ち悪いぞ!」
案の定、神楽君は春先輩に冷たい視線を戻したが、何がおかしかったのか、再び、籠った笑い声を漏らし始めた。
「くっくっくっく・・・・・・。宮原先輩。何か勘違いしていませんか?あなたをこの場に来させたのは、桃華ちゃんの護衛をさせるためじゃないですよ」
「何?」
身構える春先輩を、威圧するかのように神楽君は、いつもの甘い声ではなく、悪役のような低い声で言葉を続けた。
「あなたは、邪魔だったんです。いつも桃華ちゃんにまとわりついて。だから、今日、ここで、僕の桃華ちゃんに近づけないようにしてあげますよ」
すると、神楽君は口元に両手を当てて「おーい!」と声を上げた。動作だけを見れば、可愛いのだが、ぼさぼさの髪に冷めた目をしている今の神楽君の言動一つ一つは、私にとって恐怖でしかなかった。そのせいか、いつの間にか私は、春先輩の体操着の裾を掴んでいた。
神楽君の呼びかけが広場に響くと、堤防の上に三人の人影が現れた。そして、芝生広場を見下ろすそのシルエットに私は見覚えがあった。
さっきのデブとノッポとチビの三人組だ。
私は、その三人組が誰なのか分かると、わななく口から小さく声な漏らし、より一層春先輩の体操着を強く掴んで身を寄せた。
「なんで・・・・・・?」
恐怖に怯える私には、神楽君とあの三人組がグルだったということをすぐには理解できなかった。しかし、いつもは鈍感なはずの春先輩には、すぐに状況を飲み込めたようで、奴らを強く睨みつけると、私を守るように、手を広げた。そして、私にだけ聞こえる小さな声を発した。
「大丈夫」
小さな声ではあったが、優しく発せられたその声は、私に安心感を与えてくれた。
その声かけのおかげで、身体の震えは収まり、私は春先輩の後ろ姿を見詰めて、感謝を込めて小さく頷いた。
その間に、神楽君は三人組を手招きで呼び寄せると、彼らが辿り着くのを待たず、私と春先輩に歩み寄ってきた。
「僕は知っていますよ。宮原先輩。普段は、怖い顔していますけど、本当は喧嘩とか得意じゃないんでしょう?まあ、僕も得意じゃないですから、今回は、四人で相手させてもらいますが、本当はこういう手荒なことは、好きじゃないんですよ。でも、今は桃華ちゃんのためですから、仕方がありません。それと四対一ってのも、性に合わないですが、それも今は致し方ないですね。僕の桃華ちゃんのためですから」
春先輩は、淡々と喋る神楽君から目を離す事なく、姿勢を低くして、いつでも動き出せる体勢をとった。そして、春先輩は緊張を誤魔化すかのように、小さく笑うと、神楽君に言葉を投げ返した。
「何言ってんだよ。神楽。俺の本当の力を知らないだろう。見た目通り、とっても強いんだぞ」
しかし、春先輩の額から流れる冷や汗や少し震えた声が、それがハッタリであると物語っていた。
そのせいで、神楽君は怖気づくどころか、歩みを速めると、再び不気味な笑い声を発して、飛び掛かってきた。
「くっくっく・・・・・・。宮原先輩。嘘が下手過ぎですよ」
神楽君は右拳を胸の前で構えると、地面を蹴り、勢いをつけ、その拳を春先輩に目掛けて突き出した。しかし、神楽君も喧嘩慣れしていないせいか、その動きはぎこちなく、さすがの春先輩でも容易にかわす事が出来た。
「おっと。神楽も動きが悪そうだな」
「これからですよ。宮原先輩」
攻撃をかわされた神楽君だったが、それを気にする様子はなく、ニヤニヤと笑みを浮かべた。そうしているうちに、例の三人組が私たちの近くまで辿り着き、いやらしい目で私の事を見てきた。
まずは、デブが息を荒げて言葉を発した。
「んっふぅ。桃華ちゃん、お待たせ。今、怖い先輩から助けてあげるよぉ」
次は、ノッポが粘っこく口を開いた。
「その男を排除したら、今度は僕と手を繋ごうね。神楽とは、そういう約束をしてるから、大丈夫だよ」
最後にチビが不気味に笑った。
「ぐふふ。桃華ちゃん、笑ってよ。僕らに可愛い顔を見せてよ」
すかさず春先輩は、手を広げ、奴らから遠ざけるように、私を一歩後ろに下がらせると、自分は前に出
た。
「お前ら、どうかしているぞ。彼女を怖がらせて、何がしたいんだ」
春先輩は、気持ちの悪い三人組と神楽君と対峙し、震えそうになる自分の足を何度か強く叩きつけると、気持ちを奮い立たせた。
そんな様子を見た神楽君は、少し微笑みながらも冷たい視線を春先輩へ送り、自分たちの優位性を確認するかのように、言葉を発した。
「宮原先輩。今なら、僕らは手を出しませんよ。あなたが、桃華ちゃんに今後一切、絶対に、一生、いや、来世も近づかないと約束してくれるのであればですが」
しかし、春先輩は、そんな神楽君の言葉に臆することなく、姿勢を低く構え、力強く言い返した。
「それは、こっちのセリフだ。今なら見逃してやるから、痛い目に遭いたくなければ、さっさと逃げるんだな」
その言葉を聞いた神楽君から笑みが消え、声のトーンも一段と低くなり、抑揚がなくなった。
「全く、あなたって人は。そうやって、僕の邪魔をする。いくら温厚な僕でも、もう許せません」
そして、神楽君は三人組に、目線で合図を送ると、彼らは一様に頷き、両手を広げながら、春先輩を囲み、じりじりと近寄ってきた。
春先輩は、彼らがどんな手を使ってくるのか、予想しようと、懸命に目を開き、動きに注目した。
睨み合う春先輩と三人組。互いに緊張し、空気が張り詰めていく。誰も声を発する者はなく、近くの木の葉がさらさらと揺らめく音が響いた。
そして、その音が止んだ時、一番初めに動いたのは三人組のデブだった。
「おおおおおぉぉぉ!!」
デブは気迫のこもった雄叫びを上げ、不細工な形相で、春先輩に猛進してきた。しかし、その動きは鈍く、春先輩は私をかばいながらもデブの突進をヒラリとかわすと、攻撃をかわされたデブはその勢いを緩めることが出来ず、太い足を縺れさせて、地面に顔から突っ込んだ。
「何やってんだよ。次は、僕が相手だ!」
次に攻撃を仕掛けたのは、ノッポだった。
「いやああぁぁぁ!!」
ノッポは声を裏返させながら、右拳を構えて、春先輩目掛けて突撃してきた。ノッポの動きはデブに比べると機敏だったが、普段から人に拳を向けることに慣れていないせいか、殴りかかる瞬間、動きが鈍くなった。恐らく、人を殴る事を躊躇したのだろう。
そのおかげで、春先輩はまたもノッポの攻撃をヒラリとかわすと、今度は、つま先を上げて、ノッポの足を引っ掛けた。ノッポは、懸命に倒れないように、ステップを踏もうとするが、それも叶わず、結局転倒し、デブの横でうつ伏せとなった。
もしかして、春先輩、本当に強いのかも。
私は、春先輩にことごとく倒された二人を見て、そんな錯覚を起こしてしまいそうになった。しかし、はやり数で劣る春先輩は分が悪く、ノッポの攻撃から間髪入れず、繰り出された俊敏なチビの攻撃は、避けきれなかった。
チビは素早く春先輩の背後に回り込むと、抱きつくように腕を回し、しっかりと抑え込んだ。
「よっしゃ、捕まえたぞ!」
「おい、離せ!」
「うるさい。絶対に離すもんか!」
拘束から逃れようとする春先輩と、それを阻止しようとするチビ。二人は前後左右にふらつきながら、もみ合った。
始めのうちは、互いの力は拮抗しているように見えたが、春先輩の方が体格は良く、徐々に拘束するチビの腕から力が抜けていくのが分かった。あと少しで、春先輩が逃れられそうになると、それまで黙って見ていた神楽君がようやく動き出した。そして、事態は一変する。
「宮原先輩。悪いですけど、僕は、容赦しませんよ」
神楽君は抑揚のない口調で、そう言いながらゆっくり歩み寄ると、もみ合う春先輩とチビの前に立った。そして、重心を落とし、腰を低く構えると、左足に体重を載せ、ふわりと右足を持ち上げた。それから、その足を素早く蹴り上げ、拘束されている春先輩の大腿部に激しく打ち込んだ。
鈍い打撃音が辺りに響いた。
私は、ドラマや映画などで、人が殴られたり、蹴られたりする場面を見たことはあったが、実際に人が蹴られる場面は初めて見た。そして、その衝撃波のような音は、痛々しく、思わず顔を背けてしまいそうになるほどに不快だった。
蹴られた当人である春先輩は、強い痛みで表情を歪ませるとチビの拘束から放たれ、ガクリと地面に膝をついた。どうやら、春先輩の背後にいたチビにも神楽君の蹴りが当たっていたらしく、彼も腿を抑えながら、数歩後退りをすると、地面に尻餅をついた。
「痛-い!!痛い、痛い、痛い!」
チビの情けなく、甲高い異音のような声が広場に響き、それが止むと神楽君は、チビの事なんか気にもかけず、春先輩だけを見下した。
「動画サイトで、蹴り方を予習してきたんですけどね。やっぱり全然だめでした。本当は、お腹を蹴りたかったんですが」
そんな事を淡々と言う神楽君は、暴力を振るう事への一切の躊躇いも罪悪感もないようだった。彼にとっては、人を殴るのも、蹴るのも、ただの作業、仕事でしかないのだ。それは、生徒会の仕事を熟すのと同じ感覚。
あの幼く、可愛い顔で、非情な事をやってしまう神楽君は、つくづく怖い人なんだと、私は思った。そう思うと、いつの間にか、私の掌にはじっとりと汗が滲んでおり、再び蘇ってきた恐怖で、声も足も出なくなっていた。
「やってくれるじゃねぇか」
しかし、そんな恐怖や暴力には負けないと、春先輩は、蹴られた左大腿部を抑えつつ、顔を上げ、神楽君を睨み返して、戦意が失われていない事を示した。
それを見た神楽君は、ほんの僅かだけ眉を動かし、冷めた表情を春先輩へ向け続けた。
「僕は、あなたの事が嫌いではありません。しかし、僕の桃華ちゃんを守るために、僕は容赦しません。あなたの心が折れるまで、僕は何度でも力を以て、あなたを打ち砕きます」
神楽君は、そう言い終えると、春先輩から視線を外し、まだ痛みで泣きそうになりながら、地面に座り込んでいるチビへ視線を移した。そして、声には出さなかったが、神楽君の目は「早く立て」と、命令しているようだった。
神楽君の無言の指示を感じ取ったチビは、苦痛の表情を浮かべつつも、慌てて立ち上がり、再び春先輩の背後に立った。そして、黒ぶちのメガネを整えてから、飛び掛かるタイミングを見計らうように、両手を前に構えた。
その様子を横目でとらえていた春先輩は、チビが飛び掛かってくる前に、立ち上がり、姿勢を整えようとした。しかし、蹴られた部位が痛むのか、中腰まで身体を上げた際に、膝がガクリと折れてしまった。それでも春先輩は、痛みを堪え、再び脚に力を入れ、力強く立ち上がると、堂々とした立ち姿で、背後のチビと前方の神楽君を交互に見た。
再び彼らの間に沈黙が流れた。
こんな時、普段の私であれば、春先輩に「頑張って!」などといった励ましの言葉を可愛くかけられるだろうが、恐怖に襲われている今の私には、そんな余裕どころか、一言も声を発することが出来なかった。さらに、脚は棒のように固まっており、一ミリも動かすことが出来ない。
ただ、ただ、春先輩の無事を祈るだけ。
しかし、私の祈りは、またしても春先輩には届かなかった。
彼らの沈黙を破ったのは、神楽君でも、チビでも、春先輩でもなかった。一番初めに、春先輩へ猛進して顔面から地面に突っ込んでいったデブだった。
いつの間にか立ち上がっていたデブは、鼻血を垂らしながら、再び春先輩目掛けて、闘牛の如く突進していった。
「ぬおぉぉぉ!覚悟しろよぉ!」
地響きのようなデブの唸り声は、広場全体に響き渡るほどの大声で、脚が棒のようになっていた私も、思わず一歩後ろに下がった。
しかし、やはりデブの動きは鈍かった。
デブの捨て身の攻撃は、またしても春先輩にあっさりとかわされてしまい、攻撃をかわされたデブは、案の定、動きの鈍い足を縺れさせて、再び顔面から芝生へと突っ込んだ。
「ふごっ!」
デブは、短い悲鳴が漏らし、そのままうつ伏せになって動きを止めた。
しかし、デブの捨て身の攻撃は、チビにチャンスを与えた。
デブの攻撃を後ろにステップを踏んで避けた春先輩だったが、結果的に背後にいたチビとの間合いを狭めてしまう形となった。更に、まだ痛む脚のせいで、ステップを踏んだ後に、身体がふらつき、一瞬の隙が出来てしまった。
その一瞬を見逃さなかったチビは、地面を蹴り出し、春先輩へと飛び掛かった。そして、再び腕を回し、春先輩に抱きつくと、死に物狂いで動きを封じ込めようとした。そこまで、彼を必死にさせる動機は何なのか、私にはよく分からないが、神楽君が次の攻撃を繰り出すための条件は整った。
「くっ、離せ!」
「離すもんか。絶対に!」
春先輩は、神楽君の手加減のない攻撃を恐れ、何とかチビの腕から逃れようと、懸命にもがいた。しかし、死に物狂いのチビの拘束は、先程よりも強固で、そう容易く抜け出す事は出来なかった。
「よくやったよ。ありがとう」
神楽君はチビに感謝を述べたものの、その表情からは一切、感謝の気持ちは感じられなかった。ただ春先輩だけを見詰め、その心を打ち砕く事しか考えていないように見えた。
そして、神楽君は二人に近づくために、ゆっくりと歩み始める。
春先輩とチビが、激しく動いていたせいで、いつの間にか地面に落ちてしまっていたチビの黒ぶちメガネを、神楽君はなんの迷いもなく、その動線上にあるがために、踏みつけた。
当然メガネは折れ曲がり、レンズが割れてしまったが、神楽君はそれを気にする様子もなく、歩み続け、春先輩を再び蹴りの間合いに捕らえた。
「次は、腿を狙います」
神楽君は非情にも先程、蹴り込んだ左腿を再び狙うと言う。それは、暴力による痛みと恐怖を春先輩に与え、その心を挫くためだろう。合理的なところが、頭の回転の速い神楽君らしい。
そして、神楽君は腰を落とすと、再び下段蹴りの構えに入った。その様子を見た春先輩は、もう逃れられないと思ったのか、チビの拘束から逃れる事を諦め、神楽君の攻撃を少しでも和らげるために、狙われている左腿に力を込めた。
ゆらりと、神楽君の身体が揺らめき、軸となる左足へ荷重が加わると、自由になった右足が地面から離れた。そして、神楽君は狙いを定め、春先輩へと右足での蹴りを放った。しかし、その軌道は、先程とは異なった。さらに言えば、左側への身体の傾きも大きくなっており、明らかに宣言した左腿を狙っていない。その狙いは、恐らく無防備になっている腹部。
その事に私よりも早く気付いていた春先輩だったが、何の迷いもなく放たれる神楽君の蹴りは、拘束されている春先輩に回避行動や防御姿勢をとらせる猶予を与えず、容赦なく腹部へと打ち込まれた。
神楽君の右足が、春先輩の腹部にめり込んだ瞬間、先程の打撃音とは、また別の鈍く、籠ったような不快な音が響いた。思わず耳を塞ぎたくなるようなその音は、聞いただけで、吐き気がした。
「ぐっ——!」
短く漏れる春先輩の声がなんとも痛々しく、私は目を背けた。
どうしよう。このままだと、春先輩が——。
私がその先の言葉を考える間もなく、神楽君の感情のない声が聞こえてきた。
「すいません。騙すような真似をしてしまって。だけど、僕は効率を重視しますので、なるべく早くあなたの心を圧し折るためなのです。こんな野蛮な事は、さっさと終わらせましょうよ」
やはり神楽君にとって、春先輩——いや、人を傷つけるという行為は、ただの手段にすぎないのだ。私利私欲のためならば、他人を傷つけても、他人を蹴落としても、構わない。それで自分の求めるものが手に入り、自分の心が満たされるのであれば、他人なんて、どうでもいいのだ。
って、あれ・・・・・・?
その考え方って、私と似ている・・・・・・?
私の場合、自分の優位性を保つため、自分の心を満たすため、ただそれだけのために、他人を陥れ、見下す。私は、物理的な暴力は振るわないが、その自分勝手な思考は、神楽君と同じかもしれない。
私と神楽君が同じ。
ううん。違う。
私の場合は、相手が悔しがったり、惨めな思いをしたりする姿を見る事が目的で、そんな姿を見て、私は自分が優れていて、立場が上なのだと感じて、いい気になる。その点では、目的のために暴力を振るう神楽君よりもたちが悪いかもしれない。
そして、こんな事になってしまったのは、そんな生き方をしてきた自分のせいだ。
男に媚を売って、女どもを見下す。
自分のために、周りを不幸にする。
そうやって自分の立場を保ち、自我を保ってきた、その報いがこれだ。
よりにもよって、そんな私に唯一、優しく接しようとしてくれていた春先輩を巻き込んでしまった。春先輩は何も悪くないのに、不幸にしてしまった。
春先輩。ごめんなさい・・・・・・。
私が胸中で、春先輩を巻き込んでしまった事を悔い、謝った。爪が食い込むほど強く拳を握り込み、何度も謝った。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい・・・・・・。
しかし、その思いは、春先輩にも神楽君にも届くはずはなく、非情にも、再び、不快な打撃音が私の耳に届いてきた。
先程の腹部を蹴られたときと同様の吐き気がしそうな音。
そして、それに続く、人が地面に倒れるような音。
恐らく、私が目を背けている間に、再び春先輩が殴られたか、蹴られたのだろう。正直、春先輩が痛めつけられ、無様に地面に伏せている姿はもう見たくない。だけど、私のせいで、こんな事になってしまった。私はその様子をしっかりと目に焼き付け、今日の事を悔いながら、神楽君に虐げられて生きていくしかない。それが私に課せられた罰であり、償いなのだ。
私は、ゆっくりと不快な音がした方へと目を向け、重たい瞼をしっかりと持ち上げた。しかし、私の視界に飛び込んできたのは、想像していた場面とは少し異なっていた。
相変わらず、冷たい表情をしている神楽君だったが、唇を噛み締め、苛立っている様子だ。そして、春先輩を背後から拘束していたチビは、その拘束を解き、春先輩から少し離れた所に立って、苛立つ神楽君を見て、怯えている。
春先輩はと言うと、腹部を二度も蹴られた事で、地面に倒れ、もう動けなくなっているのかと思ったが、すでに片膝をついて起き上がろうとしていた。そして、力強い眼光で神楽君を睨みつけ、まだ心が折れていない事を示している。いや、それどころか、更に強い戦意を放ち、暴力には屈しないと、宣言しているように見えた。
それから春先輩は、ゆっくりと立ち上がると、再び私に背を向けて立ち、神楽君たちの前に立ちはだかった。
「神楽。お前たちが、どれだけ俺を痛みつけようとも、俺の心は折れない。それに人の想いっていうのは、そんなやり方じゃ、動かせやしない。人を恐怖で虐げるだけじゃ、何も手に入らない」
春先輩の堂々たる発言を受け、神楽君は舌打ちをした。
「何が言いたいんですか。桃華ちゃんは、僕の事が好きで、僕も彼女の事を愛していて、それでいいじゃないですか。恐怖だろうか、暴力だろうが、そんなものはただの過程でしかない。最終的には、僕の言う事だけを聞き、僕だけを見て、僕だけに可愛く微笑む。それでいいんですよ」
珍しく声を荒げた神楽君だったが、春先輩はそれに臆することも、怒りを表すこともなかった。ただ、哀れむように、悲しげに一言だけ返した。
「可哀相な奴だな」
その言葉を聞いた神楽君は、更に声を荒げた。
「どこが可哀相なんですか!僕のどこが!こんなにも立派で、優秀な僕が可哀相なものか!」
幼い顔を怒りで歪ませた神楽君を見て、私も彼が哀れだと思った。それと同時に、鏡で自分の姿を見ているような気分にもなり、自分自身も哀れだと思った。
春先輩の言う通りだ。
人を陥れて、蹴落として手に入れたつもりになって、優越感に浸って、心を満たそうとする。だけど、手にしたものは、いつの間にか指の間から零れ落ち、満たされていた心は、すぐに乾いてしまう。
それは、私の手が小さいからとか、私の心に穴が開いているからとかじゃない。そもそも何も手に出来ていなかったし、心は満たされていなかったのだ。
手に入れたつもりになっていただけ、心が満たされたつもりになっていただけ、それはすべて見せかけだけの偽りだったのだ。本質はいつもどこか別の場所にある。
あーあ。もう、どうでもいい。
自分を着飾って、偽って、嘘で固めて、そんな自分はもうどうでもいい。
可愛いとか、可愛くないとか、自分が上で、相手が下だとか、そんなのも今は、どうでもいい。
せめて、こんな私を守ろうとしてくれている春先輩だけでも助けたい。もう傷ついてほしくない。
きっと春先輩の心は折れないだろうけど、それでも暴力によって、肉体的な痛みは感じるはずで、それはきっと耐え難い苦痛に違いない。
あの蹴られたときの吐き気がする不快な音を聞いていれば分かる。春先輩には、もうそんな辛い思いをさせたくないし、そんな思いをさせてしまった自分が許せない。
だから、私は、自分の出来る事をしよう。
私は、目を閉じた。
視界が暗闇で包まれる。でも、空から降り注いでいる眩い日差しは、瞼を介しても感じられる。
暗闇のなかにもある光。
恐怖のなかにも見出せる光があるはず。
私は、そっと目を開いた。
【くるみのつぶやき】
まずは、文字数が多くなってしまい、すいません。
ここのくだりは、もう一部だけ続きます。
それと、ここはこの作品、唯一のアクション(?)シーンです('ω')




