14.ちゃんと言う
宮原春は、花咲姫子とホテルへと戻るため、地下鉄を待っていた。
春は姫子とのやり取りを介して、自分の気持ちに気付き始める。しかし——
僕の胸は、依然として心地よく高鳴っていた。
この感情を、僕の知っている言葉で表現するならば、「嬉しい」に近い。だけど、それだけではない。心は踊るというより、穏やかで、安心するというか、僕の居場所はここなんだろうなって思う。
そして、僕がふざけて冗談を言えば、彼女は可愛く怒り、僕が心配すると、強がって気丈に振舞う。
そんなに強がらなくてもいいよ、と言ってあげたいけど、彼女の心はそれを許さないだろう。
自分の事は、自分でする。
そうやって彼女は強く生きてきた。
だから、車いすを押そうかと提案した時も、怒って断られるだろうな、と思った。しかし、返ってきた答えは意外なものだった。
「やっぱり、疲れたから押しなさいよ」
相変わらず素直じゃないな、と思ったけど、それが花咲らしさであり、不器用な彼女なりに僕を頼ろうとしてくれたのだ。
彼女が初めて、僕を頼ってくれた事は、とても嬉しかったし、僕はもっと彼女の支えになるような存在になりたいと思った。
彼女に雨が降りかかる時には、傘を差し、乾いたときには水を注ぐ。僕はそんな存在になりたい。
だけど、僕自身、そんなに強い人間でもない。いつか僕が弱ってしまう時だってあるだろう。そんなときは、きっと彼女が支えてくれるんだろうな。
そうやって、不完全な二人だからこそ、支え合って生きていく。
そんな彼女を見ていると、僕は、ずっと一緒にいたいと、心から思った。
そして、そのとき僕は、自分が抱いている感情の正体を理解した。
だけど、僕にはそれを口にする事はできない。
だって僕には時間がないから。
「・・・・・・ごめん」
地下鉄を待っている時、いつの間にか僕はそんな言葉を口から溢していた。
僕の前で車いすに座っている花咲は、慌てて振り返り僕を見上げた。
「え、何?何のこと?体重の事?別に怒ってない——いや、怒ってるけど、その時間差は何なの?」
「あ、いや。その事もあるけど、この前っていうか、随分前だけど、ファミレスの時の事とか」
自分でも言葉が漏れていた事に気付き、僕は慌てて取り繕った。
すると、ファミレスの件は、花咲も気にしていたようで、急に真面目な顔になった。
「いいわよ。別に。私も急に帰っちゃったし。悪かったなって、思っているから」
「そうか。ありがとう」
「別にお礼を言われる事なんてしてないわよ」
「そうだな」
僕は頷き、微笑んだ。しかし、その顔が少し引きつっていた事に気付き、僕は花咲に見られないように顔を背けた。
しかし、花咲は、僕が不自然に目を反らせたことに気付くと、車いすの向きを少しだけ変えて、僕の顔を覗き込もうとした。
「どうし——」
そんな花咲の言葉を遮るように、甲高い金属音とモーター音を響かせながら、電車がホーム内に滑り込んできた。そして、速度を徐々に緩め、ホームドアに合わせて停車した。
ホームドアが開くと、多くの乗客が降車し、それに入れ替わるようにまた多くの乗客たちが乗り込んでいった。
僕らは、乗客たちの乗降車が落ち着いてから、乗り込み、車内の出口付近の隅に寄った。
電車が動き出すと、花咲は僕を案ずるかのように心配そうな顔を向けてきた。
だから、僕は、今度は引きつらないように注意しつつ、元気そうな笑顔を向き返した。
「明日さ。自由行動、大阪だったよな」
「え、うん。そうだけど。まあ、皆、テーマパークに行くみたいだけどね」
「花咲も?」
僕の質問に、花咲は少し身構えた。
「そうだけど」
僕は身構える花咲を力強く見つめ、はっきりとした口調で言った。
「じゃあ、一緒に回らないか。二人で」
自分でもなんでそんなことを口走ったのか分からない。きっと気丈に振舞おうとするあまり、そんなことを言ってしまったのだろう。
しかし、僕よりももっと理解が追いついていないのは、花咲の方だった。彼女は一瞬、何を言われたのか、分からなかったようで、しばらく唖然としていた。
そして、間を開けて、徐々に理解が追いついてくると、花咲は顔を赤らめ、照れを隠すかのように僕から目線を外した。それから、もじもじとスカートの裾を不用意に触り始めると、小さな声で尋ねてきた。
「・・・・・・水樹君はどうするの?」
言葉を発すると同時に、花咲は僕を見上げた。
上目遣いで、僕を見詰める花咲の顔には、いつもの刺々しさはなかった。
代わりに、車内の人工的な明るさでも輝く大きな漆黒の瞳は、繊細に揺らめき、美しく、言葉を発するたびに微かに動く唇が儚かった。
そんな花咲を見て、僕は思わずときめいた胸を押さえた。そして、無意識に言葉を返した。
「水樹なら大丈夫。俺がちゃんと言っておくから」
ちゃんと、とはどういう意味だろうか。
自分で言っておきながらも、そんな疑問を抱いてしまった。
今、僕が抱いている感情をそのまま、水樹に伝えるのか?
俺は、花咲の事が——。
まさか。その先の言葉を僕が口にできるはずがない。
明日の修学旅行三日目は、午前は団体行動を強いられるが、午後から夕方までは各班での自由行動となる。その時間、ほとんどの班は、テーマパークへ行くらしく、そういう僕もその予定だった。
もちろん、同じ班員の水樹も共に行く予定になっているのだが、僕が花咲と二人で回ることになれば、また彼を一人にしてしまう。そうなれば、水樹に少なからず迷惑がかかってしまうのではないか。
では、花咲に対し、「二人で」というところを撤回して、「みんなで」に訂正してもらえばいい。その方が自然だし、水樹だけでなく、花咲の班のメンバーにも迷惑はかからない。
僕はそう結論付け、訂正の言葉を発しようとした。しかし、それよりも先に、花咲が僕から目線を外し、スカートを整えながら言葉を発した。
「あんたがそうしたいんなら、別にいいけど・・・・・・」
相変わらず、素直じゃない花咲だったが、彼女を見ていると、僕と同じ感情を抱いているのではないかと思った。
恥ずかしくも嬉しそうに赤らめる頬。
高揚する気持ちを落ち着かせるために不用意にスカートを触る仕草。
そして、明るい色の髪を揺らめかせながら、何度も愛おしく潤んだ瞳を僕に向けてくる。
加速した鼓動が、胸を強く打ち、体温を上げていく。
頭の中は相手の事で一杯になり、他の事は何も考えられなくなる。
互いに支え合えるそんな関係になりたい。
これからの人生も共に歩み続けていきたい。
二人でずっと。
そんな至福の感情だ。
もし、それを花咲も抱いているのなら、僕はなんて幸せで、なんと残酷な男なのだろうか。
しかし、僕に残された時間が人より少なくても、いずれ終わりが来ると分かっていても、今、繋がりそうなこの想いを、止める事は出来ない。
それはエゴなのだろうか。
その答えは考えても分からない。
確かなのは、彼女を離したくないという強い想い。そんな想いから、僕は、再び無意識のうちに答えを返していた。
「ありがとう。じゃあ、二人で、な」
今度は、引きつらないようにとか、花咲を安心させようとか、そんな事を考えなくても、自然と笑えた。くしゃくしゃな顔だったかもしれないけど、僕から自然と笑みがこぼれた。
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ホテルまで戻った僕たちは、それぞれの部屋に戻った。
昼食は、途中のコンビニで買ったパンやおにぎりで済ませ、僕は夕方になるまで水樹の帰りを待った。
その間、水樹になんて言えばいいのか、あれこれと言葉を考えた。だけど、どんな言葉を言えば、上手く伝わるのか、分からず、考え疲れた僕は、いつの間にか窓際の椅子に腰かけたまま眠っていた。
そして、目が覚めたのは、西の空に夕陽が沈んでいこうとしている時だった。
僕は椅子の背もたれから体を起こすと、携帯端末で時間を確認した。
「午後四時五〇分か・・・・・・」
僕は、携帯端末をポケットに押し込むと、両手で顔を覆い、大きくため息を吐いた。
結局、水樹に「ちゃんと」言うための言葉を考えられなかった。もう間もなく、水樹が部屋に戻ってくるだろう。もう考えている時間はないので、ぶっつけ本番で思いついた言葉をそのまま言うしかない。しかし、そんなもので「ちゃんと」言えるだろうか。
僕はそんな不安を抱きつつ、部屋のドアへと視線を向けた。
それから数秒の間が空くと、ちょうどドアをノックする音が聞こえてきた。
コンコンコン。
軽やかにドアが鳴ると、続いて聞き慣れた爽やかな声が響いてきた。
「春。戻ったよ。開けてくれるかい」
しかし、普段の声と比べると、トーンが低い。少し疲れているのだろうか。
「今、開ける」
僕は、少し緊張しながらも返事をすると、椅子から立ち上がり、部屋のドアの前まで移動した。
そして、鍵を開けると、ドアノブを掴み、重々しいドアを押し開けた。
ドアの向こうには、いつも通りの爽やかな微笑みを張り付けた水樹が立っていた。
「ただいま。体調は大丈夫かい?」
先程は疲れた声音だと思ったが、改めて水樹を目の前にすると、そんな様子はなく、花咲の友人たちと京都の観光を楽しめた様子だった。
僕は、そんな水樹の様子に少しほっとして、心配をかけたことを謝罪するつもりで言葉を返した。
「ああ、大丈夫。悪かった。ありがとう。水樹の方は、どうだった?」
「僕の方も・・・・・・まあ、楽しめたよ」
水樹は少し歯切れの悪い返事をすると、苦笑いを浮かべ、部屋の中に入ってきた。
やはり何かあったのか、或いは、あまり楽しめなかったのか、僕は表情が微妙に変化する水樹を部屋の中へと通すと、その後を追って奥へと進み、先程までうたた寝をしていた窓際の椅子に腰かけた。
水樹は、小振りなリュックサックと共に自分のベッドの上に腰を下ろすと、控えめなため息を何度か漏らした。
水樹のため息に気付いた僕は、どうしたのか、尋ねようと水樹の方へ顔を向けた。
しかし、水樹は、僕の視線に気付くと、慌てていつもの爽やかな表情を作った。
それは、まるで何も聞いてくれるな、と言っているみたいだった。
だから、僕は、聞こうにも聞けず、喉元まで上がってきた言葉を再び飲み込むと、視線を落とした。
そして、二人の間にしばしの沈黙が降りる。
今まで、僕らの間に沈黙が生じることはあっても、今のような重たい空気になる事はなかった。
頭の良い水樹は、いつも僕の顔色を伺ってくれるので、険悪な雰囲気になることもなければ、飛び切り話が盛り上がる事もなかった。
いつも平穏な空気が、僕と水樹の間には流れていた。
冷めている、と言われてしまえば、それまでだが、互いに無理に干渉し合わないちょうど良い距離感で、居心地は悪くなかった。
そんな沈黙の中、
ギシ。
不意にベッドの軋む音が響いた。
水樹が片手をベッドについて寄り掛かったようだ。
僕は、思わず顔を上げて、水樹を見た。すると、同じタイミングで水樹も僕を見た。僕らは目が合い、互いに何か言葉を発しなければと思って、同時に口を開いた。しかし、どちらも声になる事はなく、再び口を閉じた。
なんだか。いつもと違う。
それは恐らく水樹も感じているのだろう。彼は珍しく、目が泳いでいる。
しかし、それでも僕は、「水樹にちゃんと言う」という花咲との約束を遂行しなければならない。
僕はそんな思いで、異様な空気感に戸惑いつつも、再び口を開いた。
「あのさ——」
しかし、それと同時に、
「春——!」
僕の声をかき消すような水樹の力強い声が響いた。その声は、普段、穏やかな水樹からは、想像できないような荒々しさがあった。
僕は思わず、話そうとしていた言葉を飲み込み、聞き返した。
「な、なに?」
すると、水樹は、落ち着かない様子で、話を続けようとした。
「春に聞いて欲しいことがあるんだ。僕は——」
しかし、水樹はそこまで言いかけて、口を閉じた。それから、綺麗に刈り揃えられた短髪の頭を何度か掻き、フチなし眼鏡を外すと、そのまま数秒間、眼鏡を見つめ続けた。
彼が何を言おうとしているのか、僕には分からないが、なんとなく聞きたくないと思った。
そんな僕の思いを悟ることもなく、水樹は、何か腹を決めたように一度だけ頷くと、顔を上げた。
「俺は——」
水樹が、自分の事を「俺」と呼ぶのは、これで二回目だ。
一回目は僕が部活を辞めるときだった。彼は、僕が部活を辞めると言い出した時、その理由に怒り、いつもの冷静さを欠いて自分の事を「俺」と言っていた。
そして、水樹が自分の事を「俺」と呼ぶときは、決まって感情的になり、本音を言う。
「俺は、花咲の事が好きなんだ」
なんとなくだが、予想はしていた。
水樹がその言葉を言う事を。
根拠なんてないが、最近の二人を見ていると、思い当たる節がいくつかあった。
まず、花咲が誤って僕に手紙を出したあの日の放課後、渡り廊下で水樹と花咲を見つけた時、水樹は僕の存在を厄介そうに見ていた。
それは、二人の時間を邪魔されたくなかったからだろう。
そして、ここ数日は、僕と花咲が気まずい中、水樹はこれまでとは打って変わって、積極的に花咲に話しかけていた。
また、今日、僕と分かれた後の水樹の浮かれた様子は、花咲に会えると期待していたのだろう。まあ、残念ながら、それは叶なかったが。
いずれにせよ、水樹は花咲の事が好きで、僕はそれを応援できない。
だけど、今の僕に、水樹のように自分の素直な気持ちを口に出来るだろうか。
やっと繋がりそうだった想いを必死に引き留めようとする一方で、この先に待っている終焉の予感が僕を臆病にさせる。
「そ、そうなんだ。花咲の事が・・・・・・へぇー」
僕は苦笑いを浮かべつつ、そんな言葉をどうにか絞り出した。
他にもっと言うべきことがあるだろうに、臆病になった僕は、それ以上の言葉を口に出来なかった。
そんな僕を気にする様子もなく、水樹が力強い言葉を続けた。
「明日の自由行動のとき、花咲さんに言うよ。僕の気持ち。すべてを」
そう宣言する水樹の顔には、何の迷いもなく、清々しくて、勇ましかった。
僕も何か言い返そうと思い、大きく息を吸い込むのだが、声にすることは出来ず、重たいため息となって吐き出されだけだった。
僕は、ちゃんと言えなかった。
☆くるみのつぶやき☆
うーん。水樹君に先を越されちゃいましたね。
こういうのって、言ったもん勝ちみたいなところありますよね?
そして、宮原君、自身の問題が少しずつ見え始めてきました。




