白磁の檻と、這い寄る蜘蛛(下)
4.深夜の廃教会、待ち伏せの罠
王都の北西スラム。
冷たい夜霧が立ち込める旧市街の廃教会は、数日前と変わらず静まり返っているように見えた。
しかし、その周囲の暗闇には、気配を完全に殺した異形の集団が潜んでいた。
元老院直属、特殊暗殺執行部隊『鉄の蜘蛛』。
彼らは全身を黒い特殊な夜戦衣で包み、顔面には複数の赤く光る複眼のような魔道具のゴーグルを装着している。手首に仕込まれた鋼鉄のワイヤーと、毒を塗ったククリを操り、これまで数多の国家機密や反逆者を闇に葬ってきた、文字通りの人殺しのスペシャリストたちだ。
「……標的の『亡霊』の潜伏していた場所はここで間違いないな。帳簿を回収し、目撃者は確実に消せ」
隊長と呼ばれる男が、指先で小さく合図を送る。十数人の『鉄の蜘蛛』が、蜘蛛の糸のように滑らかな動きで廃教会の屋根や窓へと散っていく。
帳簿が隠されているであろう崩れた教会内部へ、三人の暗殺者が音もなく着地し、短剣を構えて突入した。
ところが。
「随分遅かったですね。うちのご主人様をお待たせするなど、万死に値しますよ」
冷徹極まる、だが鈴の音のようなこの場には不釣り合いな少女の声。
暗殺者がハッとした瞬間には、闇の中からスカイブルーのリボンが鮮烈に翻っていた。
「なっ――」
声すら上げさせない。シエルの細い指先から放たれた四筋の投擲ナイフが、暗殺者たちの手首と喉を正確無比に貫いた。ガシャン、と激しい音を立てて崩れ落ちる男たち。
「て、敵襲――っ!?」
聖堂の外で警戒していた部隊が一斉に動き出し、窓を破って内部へと乱入する。
だが、彼らが着地した石畳の先には、すでに「網」が張られていた。
「そこから先は、我が主の領域だ。一歩たりとも通さん」
闇を割って進み出たのは、闇夜に紛れるほどの黒髪を揺らしたグレイだった。その顔には、かつての焦燥や狂気はない。ただ、主の「盾」としての静かな覚悟と、17年の地獄で研ぎ澄まされた敵意だけが宿っていた。
グレイは細身の大剣を滑らかに構えると、まるでティールを思わせるような無駄のない、洗練された踏み込みで、近くにいた暗殺者を一刀両断にした。
「ぐぁああ!!」
「なんだこいつらは! 囲め!!さっさと搦め捕れ!」
『鉄の蜘蛛』たちが手首の装置から一斉に鋼鉄のワイヤーを放ち、グレイの四肢を縛り上げようとする。縦横無尽に交差する死の糸。しかし、グレイの背後から、無数の「銀色の閃光」が放たれた。
「くっ、私の糸が……切断された!?」
シエルが袖口から滑らせた魔力を込めた短剣が、空中で敵のワイヤーを完璧に迎撃し、弾き飛ばしていたのだ。淡いブルーと白の混じった純粋な魔力が、ワイヤーを断ち切っても尚威力を落とすことなく壁に突き刺さる。
「この私に、一体誰が魔法を教えてくださったと思っているんです。グレイさん、左です!叩き潰してください!」
「感謝する、シエル――ハァッ!」
シエルが暗器で敵の体勢を崩し、視界を奪い、そこへグレイの美しく鋭い一撃が叩き込まれる。
前衛の強固な盾と、後方からすべてを支配する精密な魔法と暗器。
いつからかグレイもシエルの事を、信頼を込めて呼び捨てで呼ぶようになっていた。
「ふふ、害虫は早く駆除しなくてはなりませんから、ね!」
シエルの太ももに隠された投げナイフが投擲され、窓の外からこちらを狙っていた一人の額に突き刺さり、窓の向こうへと落下していく。
邸宅での小競り合いが嘘のように、二人の連携は、戦場において完璧な「無敵の双璧」として機能していた。
5.死神の風格、圧倒的な蹂躙
「化け物どもめ! 隊長、このままでは全滅します!一旦退いて態勢を――」
残された数人の暗殺者が、恐怖に声を震わせながら後退しようとした、その時だった。
ーーーーーカツン……カツン……
教会の入り口から、冷たく、耳に響くハイヒールの音が響いた。
その硬い音が聖堂に響き渡った瞬間、張り詰めていた戦場の空気が、一瞬で絶対的な死の静寂へと塗りつぶされていく。
夜霧を割って歩み出てくる、銀髪の麗人。フリルの袖口を夜風に揺らし、外套の裏地であるティールブルーを不穏に翻しながら、彼女は巨大な大鎌をゆったりとした姿勢で片手で持っていた。
特級執行官、ティール・エルドラ。
「……元老院の飼い犬が、我が物顔で私の管轄を荒らすなど……勝手な真似はするなと以前も言ったはずだが?」
冷え切った低い声。
前髪の隙間から覗く冷徹な左目が、生存者たちを冷酷に見下ろした。その瞳に射すくめられた暗殺者たちは、まるで蛇に睨まれた蛙のように、指先一つ動かすことができなくなった。圧倒的な、格の違い。これが、王都市民から『死神』と恐れられる、裏社会の頂点の覇気の正体だった。
「ひ、一歩引け! 距離を――」
だが隊長が叫んだ次の瞬間には、すべてが終わっていた。
ティールは、今度はそのハイヒールを鳴らすことすらなく、音もなく床を滑るように間合いを詰めると、大鎌の重量を感じさせない一閃を放った。
まるで月のように。漆黒の長柄が美しい孤を描き、金の装飾が月光を反射する。くるりと持ち替えた鎌で横に薙ぎ払えば、刃の圏内にいたものは血飛沫を上げ、その奥にいた者たちは大鎌から放たれた青白い魔力刃に切り裂かれた。
その間、数秒。残されていた暗殺者たちの武器も、防具も、そして彼らの意識すらも、その圧倒的な武力の前には、紙切れ同然に切り裂かれていた。
ドサドサと、物言わぬ肉塊へと変わって床に転がる『鉄の蜘蛛』たち。
戦場に残されたのは、静かに息を整えるグレイと、ティールの服に血がついていないかを素早くチェックするシエル、そして、大鎌の刃についた血を軽くふるい落としたティールだけだった。
「……流石は、ティール様です。俺など、足元にも及ばない」
グレイが畏敬の念を浮かべて大剣を収める。
「当然です。ティール様の手をこれ以上煩わせたのは、私たちの連携がまだ数秒遅いからですよ、グレイさん」
「手厳しいな、シエル……」
「二人とも、よくやった。お前たちの連携、見ていて実に美しい」
ティールはフッと大人の余裕に満ちた笑みを浮かべ、大鎌を背後へと収めた。そして、床に転がる肉塊の中で、唯一、急所を外されて芋虫のように悶絶している男――『鉄の蜘蛛』の隊長の元へと歩み寄った。
6.冷酷なる尋問、這い寄る真実
「が、はっ……あ、足が……俺の、足が……っ」
両足をシエルのナイフで正確に突き刺され、さらにはティールの鎌で腱を斬られて動けない隊長の胸元を、ティールの高いハイヒールが容赦なく踏みつけた。ギシリ、と肋骨が軋む音が聖堂に響く。
「ぎ、ぐああああっ!!」
「静かにしなさい。お前の悲鳴は、この夜の静寂にそぐわない」
ティールは完璧な姿勢で踏みつけたまま、前髪の隙間から冷徹な視線を落とした。
「質問は一つだ。お前たちに『亡霊の抹殺』と『帳簿の回収』を命じた、元老院の黒幕の名は誰だ? ……答えなければ、お前の残った四肢を、この大鎌で一枚ずつ薄く削ぎ落とすことになるが?」
その低い落ち着いた声には、脅しではなく「純粋な事実」としての死の気配が宿っていた。
隊長は恐怖に歯をガタガタと震わせ、必死に首を振った。
「い、言えるわけがない……! 言えば、俺だけでなく、俺の家族が──」
「そう。お前の家族がどうなろうと、私には興味もない。だが……お前が今ここで、私の日常を乱した不敬の対価は、今すぐお前自身の肉体で支払ってもらう」
ティールが指先を小さく動かすと、傍らに控えていたシエルが、気味の悪い紫色の液体が揺れる小瓶を取り出し、残酷な笑みを浮かべた。
「これは私特製の『自白剤』です。これを使うと、脳の神経が焼け焦げるような激痛の中で、自分の意志とは関係なく、全ての秘密を喋り続けることになりますが……よろしいですか?」
「構わないよ、シエル。手際よくやりなさい」
「ひ、ひぃっ……! ま、待て! 言う! 言うから助けてくれ!!」
シエルの冷酷な笑みに完全に精神を叩き割られた隊長は、血と泥に塗れた顔を歪ませながら、ついにその「名前」を叫んだ。
「……オ、オルセン公爵だ! 元老院の最高幹部、オルセン公爵閣下だ! 17年前、アッシュフォード王国を滅ぼすために連合軍を動かし、城の隠し通路の情報を買い取って騎士団を皆殺しにさせたのは、あの御方だ……! 帳簿を奪い返せと命じたのも、すべてオルセン閣下の指示だ!!」
「オルセン……っ!」
グレイがその名を聞いた瞬間、その表情を激しい怒りで怒張させた。
17年前、アッシュフォードの忠義を利用し、最後に背後から突き刺した元凶。全ての糸を引いていた真の黒幕の名前が、ついに白日の下に晒された瞬間だった。
「……オルセン公爵。あの、いつも元老院の議場で、退屈そうに居眠りをしている老人か」
ティールは踏みつけていた足を静かに引き、その男を一瞥することもなく腕を組み、考える仕草を見せた。
ただ、その顔には、驚きも感傷もない。ただ、自分の愛する平穏な日常を脅かす「真の害虫」の居場所が確定した――そんな冷徹な計算だけが、彼女の脳内を満たしていた。
「ティール様……オルセン公爵となれば、王都の表の権力の頂点です。表立って動けば元老院全体を敵に回すことに……」
シエルが少しだけ懸念を交えた声で進言する。
「関係ない」
ティールは夜霧の向こう、元老院の巨大な議事堂がそびえる王都の中心部を見つめ、余裕に満ちた笑みを浮かべた。
「過去の復讐など、最早私にはどうでも良い事。だが……あの老害は、私の愛すべき者たちとその時間を愚かにも妨害したのは事実。……その不敬の罪、元老院の玉座は愚か、その命ごと支払ってもらわねばならないようだ」
ティールは外套の青緑を翻し、廃教会の出口へと歩き出した。
カツ、カツ、と響くハイヒールの音にやはり迷いなどない。十七年の因縁に終止符を打ち、己の「今」を守り抜くために動く、絶対の王者の足音だった。
「王都の頂点に座る哀れな蜘蛛に、本物の『亡霊』とは誰かを教えに行く必要がある。二人とも、覚悟はいいね?」
「御意に、ティール様」
「害虫の駆除ですね!完璧にナビゲートいたします!」
オルセンを始めとする彼らの知るアッシュフォードの生き残り──『亡霊』は、彼ひとりではないのだから。
しかして、すべての元凶である元老院へと牙を剥く時が来た。
シエルがいて、シルヴァが待ち、グレイの加わった美しい庭園の日常を取り戻すための、華麗なる粛清への行軍が始まる。




