優雅なる騎士の育て方(下)
4.休日、白銀の行軍
シエルによるグレイへのスパルタマナー講座が始まってから二週間。
かつて復讐の狂戦士だったグレイは、その持って生まれた綺麗な顔立ちに相応しい、洗練された所作を少しずつ身に付けつつあった。
そんなある日の午前。王都の中央大市場は、今日も多くの人々で活気に満ちあふれていた。
ーーーーカツ、カツ、カツ……
いつものように、喧騒を割る凛としたハイヒールの音が響く。
中央を歩くのは、特級執行官ティール・エルドラ。その長身から放たれる圧倒的な王者の風格に、市場の商人たちは自然と道をあけていく。
だが、今日の彼女の「行軍」は、いつもよりさらに壮観だった。
ティールの右側には、淡い亜麻色の髪をなびかせ、スカイブルーのリボンを揺らしたシエルが、いつでも主のために動けるよう隙なく控えている。
そして左側には、藍色の衣服を美しく着こなし、顔を少し緊張気味に引き締めたグレイが、細身の大剣を背負って静かに並び歩いていた。
さらに彼らの足元には、狼のような威厳と、白銀の超大型犬(魔獣)――シルヴァが、一切吠えることもなく、ティールのハイヒールの歩幅に合わせて優雅に歩を進めている。
「おい、見ろよ……特級執行官だぜ……」
「あの男は誰だ? 新しい幹部か?」
「それびのあの白いバケモノみたいにデカい犬……恐ろしい威圧感だ……」
周囲の人間たちが恐怖と羨望の混じった視線でヒソヒソと囁き合う。彼らにとっては、裏社会の最高権力者が、お抱えの精鋭と恐るべき守護獣を引き連れて、何らかの冷酷な粛清任務に向かっているようにしか見えなかった。
だが、当のティールの目的は、至って平和なものだった。
「シエル。今日のお茶会に合わせるハーブだが……いつもの店で、新しい葉が入荷しているはずだ」
「はい、ティール様! すでに手配は済んでおります。それと、シルヴァの大好きな特製の味付け無しのお肉のパイも、あそこの専門店で焼き上がっている頃合いです」
緊張感など何も無い、楽しげな声色で会話を交わす二人。
そう、今日の彼女らにとっては、これはただの「お茶会の買い出し」に過ぎない。しかし、その圧倒的な絵面の強さが周囲に勝手な誤解を生んでいたのだ。
グレイは整えられた衣服の襟元を少し気にしながら、隣を歩く白銀の巨躯を見下ろした。
「それにしても、シルヴァは本当にお利口だな。これだけの雑踏にあっても、ティール様の影を踏むことすらしない」
シルヴァはグレイの言葉に、声は出さずに「フス……」と鼻を鳴らし、上目遣いで「新入り、遅れないように」と言いたげな視線を送る。
「フン、当然です。シルヴァはあなたと違って、ティール様の完璧な世界を脅かしたりしませんから」
「シエル嬢、まだ根に持っているのか……」
グレイが顔を苦笑いに歪ませた、その時だった。
5.最大の危機
「う、うあぁぁぁーーーんっ!!」
市場の路地裏から、大音量の泣き声が響き渡った。
買い物の足を止め、ティールが前髪の隙間から視線を向けると、そこにはひっくり返った木箱の陰で、泥だらけになって泣きじゃくる四〜五歳ほどの小さな女の子がいた。どうやら母親とはぐれて迷子になり、挙句に派手に転んでしまったらしい。
周囲の大人たちは、ティールがいる事で目立ちたくないのか、関わり合いを恐れるように遠巻きに見ているだけだった。
「迷子ですか。騒々しいですね。ティール様、私が警備兵を呼んで、すぐにあの子供をこの場から排除させましょう」
子供の相手はどちらかと言うと得意ではないシエルが、不快そうに眉をひそめて言う。ティール様のお茶会の買い出しという神聖な時間を、不調和な泣き声で汚す存在は、シエルにとっては等しく排除対象だった。それにしてもやはり、以前ティールの思った通り、シエルは時々誰よりも物騒である。
「……待ちなさい、シエル」
ティールの低い声が、シエルの動きを止めた。
シエルとグレイが驚いて主の顔を見ると、ティールは直立不動のまま、前髪の下の左目でじっとその少女をみつめていた。
(……ちいさいな)
ティール・エルドラの心臓が、珍しく少し締め付けられるような痛みを覚えた。
国を失い、最強の執行官として上り詰めた彼女にとって、守らなければ一瞬で壊れてしまいそうな幼子や動物をはじめとした「儚い命」は、最大の弱点であった。十七年前のあの夜、町中で泣き喚き倒れていた幼い命達を横目に、ティールが何も思わなかったはずがない。
目の前で泥まみれになり、その小さな体で必死に泣いて訴えている幼児に彼女はその面影を見たのだ。幼い少女の無力さを前に、十人以上の重装歩兵をコンマ数秒で全滅させた死神の思考が、完全にフリーズする。
「ティール様……?」
沈黙したティールに向かって、グレイが不思議そうに声をかける。
やがてティールは完璧な姿勢を崩さないまま、カツ、カツ、とハイヒールを鳴らして、泣き叫ぶ子供の前へと歩み寄った。
周囲の商人たちからは「おい、あの執行官が、泣き声に怒って子供を粛清する気だぞ……」という最悪の誤解が市場に走る。
ティールは子供の前に音もなく佇むと、ゆっくりと、フリルの袖口から細く綺麗な指先を伸ばした。長いジャケットの裾が地に着くのも厭わない姿に、周囲は固唾を飲んで見守った。
普段であれば、仕事にしても、プライベートにしても躊躇なく優雅に動くその白い指が、どう扱っていいか分からず、空中で小さく震えている。
(……あぁ、壊してしまいそうだ)
完全に余裕を失い、放っておくわけにもいかない葛藤から前髪の隙間から気まずそうに一瞬目を泳がせるティール。
しかし、幼い子供に裏社会の王者の覇気など通用するはずもなく、目の前に現れた黒ずくめの背の高い銀髪の不審な大人の迫力に、女の子はさらに恐怖した。
「ひ、わあぁぁーーん! お、おおかみおんなぁぁーーーっ!?」
「何だと……っ!?」
ティールはガーンという文字が浮かびそうなほどに珍しく衝撃を受け、手元のフリルの袖を震わせた。最強の王者が、幼児の一言によって精神的に致命傷を負った瞬間だった。
6.三人と一匹の迷子救出作戦
「ティール様をおおかみ女呼ばわりするとは……万死! 万死に値しますっ!!」
シエルがスカイブルーの瞳を激しい怒りで血走らせ、袖口から投擲ナイフを抜きかけた。
「待て待てシエル嬢! 相手はどう見てもまだ四、五歳だ! 落ち着け!」
顔を真っ青にしたグレイが、慌ててシエルの細い腕を掴んで制止する。
「離してくださいグレイさん! ティール様が、あのティール様があんなに傷ついたお顔をされていらっしゃるのですよ!? 今すぐあの無礼な幼児の口を塞がねば――」
「だから荒事はやめろと言っている! ティール様、ここは俺にお任せを!」
グレイは衣服を整え、かつて王国で子供たちの扱いにも慣れていた近衛見習いの記憶を呼び覚まし、子供の前に膝をついた。
「ん゛んっ……お嬢ちゃん、怖くないよ。この綺麗な人は、君を助けにきたんだ。ほら、涙を拭いて――」
そう言って精一杯の優しい笑みを浮かべた。が。
「うわぁぁぁーーん! きつねおとこーーーっ!!」
「きつね……っ!?」
グレイもまた、なぜかそのどちらかといえば整っているであろう顔に精神的刃を突き刺されてガックリと膝をついた。
全滅である。裏社会を震撼させる特級執行官の陣営が、迷子一人を前にして完全に崩壊していた。
その時、ずっと静観していた白銀の超大型犬――シルヴァが、静かに動き出した。
シルヴァは、ティールとグレイの無様な様子に呆れるように「ふぅ……」とため息を漏らすと、静かな足取りで子供の前に歩み寄った。
そして、泣きじゃくる女の子の泥だらけの頬を、大きな温かい舌でぺろっ……と優しく舐めたのだ。
「あ……」
女の子が泣き止んだ。
目の前にいるのは、狼のようだけど、もの凄くモフモフで暖かくて、優しい目をしている大きな白い犬。シルヴァは、ティールにしか見せないはずの「ささやかな甘え」の要領で、女の子の手のひらに、大きな顎を「すんっ……」と乗せた。
「わぁ...! もふもふ……! おおきなわんわん……!」
女の子の瞳が、パッと輝いた。
シルヴァがその巨体を丸めて、女の子を安心させるように寄り添うと、女の子はシルヴァのモフモフの毛並みに抱きつき、キャッキャと笑い始めた。
「や、やりますね。シルヴァ……!」
シエルが思わぬシルヴァの行動に感嘆の声を漏らす。
ティールはと言うと、シルヴァのモフモフに埋もれて笑顔を見せるちいさい子供の姿を、前髪の隙間からじっと見つめていた。その瞳には、先ほどまでの動揺は消え失せ、蕩けるような慈愛が滲み出ていた。
(……微笑ましいな)
そんな王者の心の声が、変わらず凛と立っている主の姿から漏れ出ていることに、シエルとグレイは何となく気づいていた。
「ティール様。……どうやら、母親がこちらに向かって走ってくる気配がします」
グレイが打ちのめされて落ち込んでいた顔を引き締め、周囲の警戒を怠らない騎士の目で告げた。騒がしさの戻った町中の路地の向こうから、「メイちゃん! どこなのー!?」と叫ぶ母親の姿が見える。
「……行こう、シエル、グレイ。シルヴァ、お前も離れなさい。……私たちの仕事は、ここまでだ」
ティールは低い、いつもの落ち着いたトープボイスを取り戻し、衣服の裾を優妙に翻した。
シルヴァは女の子の頬をもう一度舐めると、静かにティールのハイヒールの隣へと戻り、再び「執行官の守護獣」の顔に戻った。
「あ、待って! おおかみおんなのおねえちゃん! わんわん!」
後ろから女の子が手を振る声を背中で聞きながら、ティールは決して振り返らず、完璧な姿勢のまま颯爽と歩き去っていく。
しかし、その銀髪に隠された耳の先が、ほんの少しだけ赤くなっているのを、一歩後ろを歩くシエルは見逃さなかった。
「ティール様、あのわけの分からない呼び名は訂正しなくてもいいのですか……!?」
「何のことだ、シエル。私はただ、市場の秩序を守っただけだ。……それより、早く帰ろう……それと、今日のお茶会には、あの子供が食べるような、甘いお菓子を少し多めに用意してくれ」
「へ??……は、はいっ! 喜んで、ティール様」
どこか少し不服な様子のシエルが小走りにティールのあとへ続く。
衣服を整えたグレイは、斜め前を歩くティールの、格好良くて、けれど不器用で儚い命に弱いその背中を見つめ、十七年前のあの夜とは違う、確かな「温かい今」に、穏やかな顔で静かに微笑んだ。
お茶会の席に並ぶ三人と一匹の絆は、騒がしいトラブルを経て、より一層深く、愛おしく結ばれていくのであった。




