優雅なる騎士の育て方(上)
1.教官シエルの容赦なきことこの上なく
「――グレイさん、歩き出しの歩幅が大きすぎます! 賊でも追いかけるつもりですか!?」
張り詰めた声が、陽だまりの庭園に響き渡った。
声の主はシエル。淡い亜麻色の髪をきっちりと今日は編み込みのハーフアップにまとめ、お気に入りのスカイブルーのリボンをキリリと揺らした彼女は、今、手にした薄い教鞭でテーブルをパシッと叩いていた。
その雨上がりの青空のような瞳には、いつもの健気な甘さは微塵もなく、鬼教官さながらの冷徹な光が宿っている。
「いや、しかしシエル嬢。これでもかなり歩幅を狭めて、足音を殺しているつもりなのだが……」
数歩歩いたところでピタリと固まっていたグレイは、冷や汗を流しながら額を拭った。
しかし、その顔立ちも数日が経ち、シエルの「ティール様のお傍に立つ者が身だしなみも整えられないなんてありえません。髭は断固拒否です」という言葉により徹底的に磨き上げられた滑らかな肌に変わっていた。健康的に焼けた肌。濁りきっていた青い瞳は、徐々にその色を取り戻しつつあり、サファイヤのごとき深い青を湛えていた。それに相まって体躯こそ引き締まり、一見すると見事なものだが、どうにもその一挙手一投足に「歴戦の戦士」の風貌が滲み出てしまう。
「それがダメなのです。あなたのそれは『敵に気づかれないための暗殺者の歩行』です! ティール様が求めていらっしゃるのは、お茶会の静寂を乱さない『洗練された給仕の歩行』、あるいは『気品ある守護者の佇まい』です! 殺気を滲ませてどうするのですか」
「歩き方一つでそこまで言われるとは……騎士学校よりもはるかに別の意味で手厳しいぞ……」
グレイは困り果てたように、頬を掻いた。
十七年間の放浪生活において、彼の歩行は常に「生き残るため」の手段でしかなかった。いかに気配を消すか、いかに次の瞬間に大剣を抜ける重心を保つか。それが、この優雅な庭園においては「ガサツで不調和なもの」として、十六歳の少女に木っ端微塵に全否定されている。
「ほら、休む暇などありませんよ。次はお茶の淹れ方です。その、白磁のポットを……あっ!ちょっと待って! 力を入れすぎです! ポットが悲鳴を上げています!」
「す、すまん……どうしても、柄を握ると剣を握る癖が抜けないな……」
「大剣の柄と一緒にしないでくださいよ!? ティール様が愛していらっしゃるこの白磁のティーセットは、この王都でも一級品のセットなのですから」
フンス、と鼻を鳴らして腰に手を当てるシエル。
彼女がここまでグレイに対してスパルタなのは、単にいじめているわけではない。グレイが「ティール様の過去の臣下」として、今のティール様の側に立つことを許された以上、その男が不調和な姿のままでいることは、主の名誉に関わる――という、シエルなりの絶対的な忠誠心(と、ちょっぴりの嫉妬)の裏返しだった。
「いいですか、グレイさん。あなたがかつて近衛の見習いだったなんて、今のティール様の前では何の意味もありません。今のティール様の『専属』であるこの私を納得させるくらい、完璧にエレガントな騎士になってもらわねば困るのです!」
「はは……言うじゃないか、シエル嬢。だが、お前の言う通りだ。今の俺は、ティール様のお茶会の席に並ぶには、あまりに薄汚れていて不釣り合いだ」
グレイは自嘲気味に微笑んだが、その瞳からは、数日前までの狂気は完全に消え去っていた。シエルの容赦のない言葉を、彼は「主の隣に立つための試練」として、真っ直ぐに受け止めていた。
2.特等席からの視線
二人のバチバチとした、しかしどこか微笑ましいやり取りを、少し離れた特等席から静かに見つめているティール。
彼女は白のレースが敷かれたテーブルの横にあるソファーに深く腰掛け、長い銀髪の前髪の隙間から、心地よさそうに目を細めていた。
フリルの袖口を揺らしながら、シエルが先ほど完璧な手際で淹れていったダージリンの紅茶を口に運ぶ。足を組み替えた際にカツリ、とハイヒールが微かな音を立てるが、その音すら、この庭園の静寂の一部として溶け込んでいた。
「……ふっ、賑やかなことだ」
ティールは小さく呟いた。
ただ贅沢に流れるお茶の時間と、二人の小競り合いを「鑑賞」している。
「あ、ティール様! お騒がせして申し訳ありません!」
シエルがティールの視線に気づいた瞬間、鬼教官の顔から一転、尻尾を振る子犬のように顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「グレイさんの作法があまりにも酷いもので、私が一から叩き直して差し上げているのです。ティール様の美しい世界に、あのような無骨な男がそのまま居座るなど、万死に値しますから!」
「シエル嬢、万死は言い過ぎではないか……?」
後ろから、慣れない衣服の襟元を気にしながら、グレイが不器用な足取りでついてくる。
その姿を見て、ティールはフッと微笑んだ。
「構わないよ、シエル。お前のスパルタ指導は、見ていて実に面白い退屈しのぎになる」
「ティール様がそうおっしゃるなら……! ほら、グレイさん、ティール様がお許しをくださったのですから、もっと背筋を伸ばして、感謝の礼を!」
バシン、と背中を叩かれたグレイが小さく呻き声をあげる。
「き、騎士としての礼は一応できるが、それでいいのか……?」
三十三歳の歴戦の男が、十六歳の少女に急かされ、二十七歳の王者の前でカチコチになって一礼する。その歪な、けれどあの夜の続きがここに新しく形を変えて存在しているような光景に、ティールの胸の奥は、その手のカップに注がれた温かい紅茶のようにほんのりと満たされていく。
「グレイ。あまり根を詰めすぎて、暴走するようなことの無いように。私のお茶会には、怒りも悔恨も必要ない。ただ、静かな時間があれば良いのだから」
ティールが前髪の隙間から、大人の余裕に満ちた優しい右目をグレイに向けた。
「……御意に、ティール様。このグレイ、必ずやあなた様の隣に立つに相応しい『盾』となってみせます」
グレイは静かに、しかし十七年前の少年騎士のような純粋な忠誠を込めて応じた。
シエル教官によるマナー特訓は、まだまだ始まったばかり。
けれど、かつて灰の中で絶望していた亡霊は、確実に、この美しいお茶会の香りの一部へと仕立て上げられようとしていた。
3.王の庭園の守護獣
「グレイさん!姿勢を戻すタイミングがコンマ数秒早いです! 相手の気配が完全に消えるまで、守護の姿勢を崩してはなりません!」
「くっ……。シエル嬢の言う通りだな。どうにも、長年の単独行の癖で、自分が攻めに転じる間合いばかりを意識してしまう」
シエルの容赦ない青い焼入れの入った短剣と、グレイの大剣がぶつかり合う金属音が響く中、グレイが再び背筋を正した。マナー教室の次は、守護騎士としての誰かを守る戦い方を、シエルはグレイに指導していた。
かつて近衛騎士見習いとして学んだことはあったが、もはやそれも昔の話。それよりも長い年月で身に染み付いた放浪者としての攻撃的な戦い方がグレイからは抜けなかった。
これからは一人で戦うわけではない。共闘し、なおかつ守るべき対象が出来た戦い方は、今までのそれとは全く異なるのだ。
そんな二人のピリついた、しかしどこか微笑ましい掛け合いの最中。
ーーーーカツン、……
ティールの高いハイヒールが、いつもの特等席のソファーから、一音のみ落として床へと降ろされた。
それとほぼ同時に、庭園の生垣の奥から、静かな足音が近づいてくる。
現れたのは、白い超大型犬シルヴァだった。
「あぁ、おいで、シルヴァ」
ティールが低く落ち着いたトーンの声で、フリルの袖口を優しく揺らして片手を出す。それは許可が降りた瞬間だった。
シルヴァは、静かに、しかし嬉しそうに巨体を揺らしてティールの元へと歩み寄り、彼女の膝の上に、大きな顎を「すんっ」と優しく乗せたのだ。
シエルと同じシエルブルーの瞳を潤ませ、じっと上目遣いで、ティールの前髪の隙間から覗く右目を見つめる。
そこには「撫でてほしい」という、ささやかで、けれどこの上なく純粋な甘えの眼差しが宿っていた。
「……良い子だ」
その瞳を見つめた瞬間、特級執行官としてのティールの冷徹な仮面が、無自覚なほど綺麗に剥がれ落ちた。
かつて雨の裏路地で出会ったばかりの小さな子犬だった頃を思い出すかのように、ティールはいつものように壊れ物を扱うような優しい手つきで細い指先を伸ばした。
フリルの袖口が犬の白い毛並みに触れ、耳の後ろを愛おしそうに、ゆっくりと撫でていく。
その瞬間、ティールの右目に宿ったのは、執行官のそれではない。儚い命に対する、蕩けるような慈愛の光だった。
「……ふふ、可愛いな。お前は本当に、いつも私を癒やしてくれる」
ティールは心底幸せそうに、犬のモフモフの頭に自身の銀髪を寄せて小さく呟いた。完全に犬に敗北している王者の姿が、そこにはあった。
「ティール様、その……お洋服に白い毛がついてしまいますが――」
訓練を終えて衣服をキレイに整えたグレイが、あまりのティールのギャップに驚きつつも、騎士としての気遣いから一言述べて一歩前に出ようとした。
その時。
「動くな、グレイ」
ティールは犬の耳の後ろを撫でる手を止めず、冷たい目線だけをグレイに向けた。
「……この子は今、私との大切な時間を過ごしている。それを邪魔する者は、たとえお前であっても万死に値する」
「ばんっ……はいっ……! 申し訳ありません!」
グレイはあまりの覇気にその場に直立不動になった。
先ほどまで「万死」と言っていたシエルが、今は胸の前で両手を組み、うっとりとした表情でティールとシルヴァを見つめている。彼女の叱責の仕方と口癖は間違いなくティール譲りのものだと、グレイは肩を竦めて苦笑した。
「 獣にすらその絶対の王者の気品を認めさせ、かつ、その無垢な甘えを慈しまれるお姿……まさに、この庭園の真の主ですね」
「ふっ……大げさな子だ、シエル。だが、お前が市場の孤児たちから買い取ったあの林檎で作ったタルトの匂いに、この子も惹かれたのかもしれないな。……お前たちも、そろそろ休憩したらどうだ。さぁ、そこに掛けなさい」
ティールはフリルの袖を揺らし、ソファーの背もたれに体を預けながら、今度はグレイとシエルに、包容力に満ちた柔らかな笑みを向けた。




