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仄白き灰の足音(下)

5.灰に燻る熱、王者の静寂


崩れた教会の冷たい大理石に両膝をついたまま、グレイはただ呆然と床を見つめていた。

手放した大剣の冷たい金属光沢が、祭壇の蝋燭の炎を反射して鈍く歪んでいる。


「俺の……十七年は、一体何だったのでしょう……」


掠れた声が、グレイの喉から漏れ出た。


最も若く盛んであるべき時期を放浪生活に捨て去り、彼の肉体は度重なる私的制裁と、逃亡生活の果てに満身創痍だった。

衣服の隙間から覗く肌には、王都の裏切り者どもを屠るたびに刻まれた無数の傷跡がある。


国を失ったあの日、十六歳の少年騎士見習いだった彼は、ただ「無力だった自分」への怒りだけを燃料に、この地獄のような放浪を続けてきたのだ。


すべては、生きて再会するはずの「エルドラ殿下」のため。その一点のためだけに。この怒りは、そう簡単に折れるものではないのだ。


「殿下……あなたがそのように強く、美しくあられることは、我が忠義の救い。ですが、なぜ……なぜ、アッシュフォードの無念を、そのお力で晴らそうとはなさらないのですか!」


グレイは血を吐くような悲痛な面持ちで顔を上げた。その目には、未だ過去の亡霊が灯した、怨恨という名の昏い炎が燻っている。


「裏切り者どもは、この王都の富を貪り、のうのうと生きています! あなたが『神の瞳』の力を完全に制御し、それほどまでに圧倒的な『王者』となられたのであれば、今すぐアッシュフォードの旗を掲げ、彼らに正当な報いを与えるべきだと......!そう思いここまで来たのです!」


激昂するグレイの言葉を、ティールは高いハイヒールを僅かに鳴らすことで、静かに、しかし冷酷に遮った。


「くだらない」


低い声がグレイの言葉を一蹴する。そこには一切の妥協を許さない絶対的な重みがあった。

ティールはフリルの袖口を優しく揺らしながら、ゆっくりと、跪くグレイへと歩み寄る。彼女の身から放たれる威圧感に、歴戦の戦士であるはずのグレイが、本能的に息を呑んで体を硬直させた。


「グレイ。お前は十七年もの間、ただ終わった過去に名前をつけて、それを拝んでいただけに過ぎない。あの日、文字通り灰になった国は、私たちたった二人の生き残りが一体どれだけの血を流そうとも戻りはしないのだ。その程度の理も、理解できないのか?」


ティールは前髪の隙間から、凍てつくような、しかしどこか憐れむような瞳をグレイに向けた。



「私は今の生活を愛している。自らの力で勝ち取った特級執行官という地位も、この街の静寂も、すべてが私の『今』だ。お前が勝手に持ち込む過去の重荷など、私の平穏を邪魔する不躾な羽虫と何が違う」


「俺の忠義が、アッシュフォードの誇りが……あなたにとっては、その程度のものでしかないというのですか!!」


グレイは歯を食いしばり、激昂して床を拳で叩きつけた。悔し涙が、彼の目元に刻まれた深い皺を伝って落ちていく。

彼の人生のすべてが、ずっと焦がれ追い続けてきたたった一人の元王女によって、一瞬にして否定されようとしていた。




6.二つの崇拝、解かれる呪縛


「いい加減にしなさい、この往生際の悪いオッサン」


ティールの背後から、氷のように冷たい声が響いた。シエルが、自身のスカイブルーのリボンを夜風に揺らしながら、グレイを一瞥した。その雨上がりの青空のような瞳には、当然、自分が生まれる頃には既になかったかつての王国への敬意など1ミリもなく、ただ「主の静寂を乱す不届き者」への徹底した敵意だけが宿っている。


「あなた、ティール様がどれほどの努力をなさって、今の『ティール・エルドラ』になられたか、何も知らない癖に偉そうに語らないで」


「何だと……?」


グレイが鋭い視線をシエルに向ける。しかし、シエルは一歩も引かなかった。彼女は、ティールが自分を拾ってくれた九歳のあの日のこと、そしてティールがこの街で圧倒的な地位を築き上げるまでの、血の滲むような七年の軌跡を誰よりも近くで見てきたのだ。


「ティール様は、あなたみたいに過去の恨みに狂って、誰かのせいにしながら生きてきたわけじゃない。ご自分の武器一本で、ご自分の品性と強さだけで、この街の頂点を勝ち取ったの。過去を言い訳にして暴れているだけのあなたとは、そもそも格が違うのよ」


シエルの容赦のない言葉が、グレイの胸を深く抉った。

シエルにとって、ティールは過去の亡国の姫などではない。今この瞬間も、自分に「シエル」という名前をくれ、ティータイムとともに自分たちの平穏を守ってくれる、唯一の主なのだ。


「……シエル、そこまでにしなさい」


ティールは低くクスクスと笑い、大鎌を背へと収めた。その動作には一切の殺気がなく、ただ「話し合いは終わった」と告げるような静けさに満ちていた。

ティールは跪くグレイの前に歩みを進めると、細く綺麗な指先をフリルの袖から伸ばし、彼の胸元――コートの内に隠されていた、あの「青緑色」の擦り切れた布地へと触れた。


「……」


「グレイ。お前が十七年間、私の影を追って血を流し続けてくれたこと、その忠義の熱さだけは、認めないわけではない」


ティールの声が、驚くほど柔らかく、そして温かさを帯びた。


彼女は、グレイが話している間ずっと泥まみれの手で固く握りしめていた、十七年前に彼に渡した「アッシュフォード王家の紋章が施された金のブローチ」をそっと包み込むように触れる。


「だが、お前が本当に守りたかったアッシュフォードの誇りは、裏切り者の首を獲ることでしか満たされないのか? ……お前は生きている。十七年の地獄を生き延びて、今、私の前に立っている。それだけで、アッシュフォードの血は、誇りは、ここに繋がっているのではないか?」


「あ……」


グレイはハッと息を呑んだ。

ティールの前髪の隙間から覗く右目は、かつての幼い王女のそれではなく、すべてを見透かし、すべてを許す、王の器そのものだった。

復讐に狂い、己の命すら投げ打とうとしていたグレイの心の中で、ずっと燃え盛っていた怨恨の炎が、ティールの圧倒的な慈愛と静寂によって、すうっと静かに凪いでいく。


「お前は、もう十分に戦った、グレイ。過去の亡霊として灰にまみれて死ぬのはやめなさい。……あの日、私が隠し通路の前でお前に告げた言葉を忘れたのか?」



ーーーーー今を生きろ。



ティールの低い声が、グレイの凍りついた時間を、本当の意味で溶かしていく。


グレイは、ボロボロになった大剣の柄から完全に手を離した。彼の肩から、十七年分の重荷が、崩れ落ちるように消えていく。


「……ああ。俺は……俺はただ、もう一度、あなたにお仕えしたかっただけなのかもしれない……」


グレイは床に深く頭を垂れた。今度の涙は、怨恨の涙ではなく、救済の涙だった。

かつての少年騎士は、今や自らの力で新たな人生をつかみ取り、執行官となったティールの前で、心からの服従を誓ったのだった。




7.新しい風、お茶会の余韻


それから、数日後の午後。


王都の美しい庭園には、いつも通りの、しかし、少しだけ賑やかな空気が流れていた。


白のレースが敷かれたテーブルの上には、シエルが丁寧に淹れた、スモーキーで深みのあるアッサムの紅茶。そして、市場の孤児たちから買い取った新鮮な林檎をふんだんに使った、見事なタルトが並んでいる。


「グレイさん、ソーサーにカップを置く音が大きいですよ! ティール様の静寂を邪魔しないでください」


「す、すまない……。俺の生きてきた場所には、このような洒落た環境などなかったものでな。どうにも分からん……」


グレイは、仕立て直された綺麗な藍色の衣服を身に纏い、慣れない手つきで小さなフォークをまじまじと見つめていた。その目元には、数日前までの血走った狂気は消え失せ、年相応の、どこか不器用な「苦労人」としての穏やかな陰影が宿っている。


結局、彼は、あの夜ティールに保護される形で共に帰ってきた。当初の任務である『灰の亡霊』の処分は済んだと元老院に報告し、特級執行官としての権利を惜しみなく使い情報操作をしまくった結果の身元の保護である。


「言い訳は結構です! ティール様の前でお茶を嗜むなら、最低限の作法を身につけてもらわねば困ります!」


むくれる十六歳の少女シエルと、やれやれと頭を掻く三十三歳のグレイ。

ティールという絶対的な中心を挟んで、年の離れた二人がバチバチと小競り合いを繰り広げる光景は、静かだった庭園に、新しく心地よい風を吹き込んでいた。


「ふっ……、賑やかなことだ。シエル、そう怒ってやるな。グレイがこの新たな場所に馴染むには、もう少し時間がかかるだろう」


特等席のソファーに深く腰掛けたティールは、フリルの袖口を揺らしながら、上品にカップを傾けた。

前髪の隙間から覗く彼女の瞳は、二人を見つめながら、この上なく穏やかに細められている。


国は灰になった。過去は戻らない。


しかし、自らの力で守り抜いたこの「平穏なお茶会」の席に、かつての亡霊が一人、救われて腰を下ろしている。


「まぁ、お茶は、ある意味世界をも救えるのですからね!」


シエルが誇らしげに胸を張り、グレイもまた、静かに紅茶を口にして「……美味いな」と、十七年ぶりの本当の笑みを浮かべた。


「ああ、その通りだ」


ティールはいつもの落ち着いた声で応じ、窓の外の突き抜けるような青空を見上げた。


最高に不器用で、最高に愛おしい臣下たちを従えたティール・エルドラ。

彼女の紡ぐ新たな日常の調べが、お茶の香りと共に、どこまでも優雅に響き渡っていた。


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