仄白き灰の足音(上)
1.王都を揺らす『亡霊』の剣
中央大市場での穏やかな買い物から、さらに半月が流れた。
王都の季節は秋の深まりとともに冷え込みを増し、街路樹から落ちた枯れ葉が、夜の冷たい風に舞って石畳を転がっていく。
その夜、王都の治安を揺るがす大事件が、中央流通路を預かる大商会の本部で起きていた。
「うわああっ!?」
悲鳴とともに、頑丈なオーク材の扉が派手に吹き飛んだ。
壊れた扉と共に室内に乱入してきたのは、一人の男だった。
ざっくばらんに切られた黒い髪は砂埃にまみれ、青い瞳は濁りきっており、体躯は引き締まっているが、まとう空気はひどく荒んでいる。
男は藍色と黒を基調とした無骨な外套を羽織り、その下には、酷く擦り切れた青緑色の古い布地を呪いのように執念深く握りしめていた。
あの日、十六歳だった元・見習い騎士、グレイである。
「貴様ァ何者だ!! 誰か、誰かおらんか――」
怯え惑う男の言葉を、グレイは細身の大剣を一閃させることで遮った。
かつて十六歳の頃、アッシュフォード王国の滅亡の夜には何もできなかった少年は、十七年という地獄の放浪を経て、騎士道とは程遠い我流の剣技を宿す狂戦士へと変貌を遂げていた。
「静かにしろ。……俺は無抵抗な者を無意味に殺しにきたわけではない」
グレイの目元には、深い陰影と、取り返しのつかない過去への執念が宿っていた。髪を乱暴に払い、彼は床に腰を抜かしたまま居るこの商会の会長である男のすぐ横を、大剣の先端で冷酷に突き刺した。床に突き刺さった刃の輝きが、男の頬に反射してギラギラと殺意を放っている。
「答えろ。十七年前、アッシュフォード王国を裏切り、連合軍に城の隠し通路の情報を売り払ったのは……お前たちの商会だな?」
「な、何を……っ!、そんな昔のことを、今さら――」
「俺にとっては、昨日のことのように鮮明な夜だ」
グレイの低い声には、煮えたぎるような怒りと、決して消えない悔恨が混ざり合っていた。
彼はここ数ヶ月、王都の裏社会に潜むかつての亡国の仇敵を、単身で次々と襲撃し、私的制裁を繰り返していた。彼の目的はただ一つ。国を滅ぼした者たちをすべて血祭りにあげ、未だ世界のどこかで生きているはずの、あの気高い少女――エルドラ姫殿下に捧げるための「不動の王座」を用意すること。
「姫殿下は、この街のどこかにいらっしゃるはずだ。俺は確信している。……お前たちの汚い存在で、姫殿下の歩まれる道を汚してはならない」
「ひ! 誰か――」
大剣が冷酷な弧を描き、裏切り者の悲鳴は夜の静寂へと消えていった。
グレイは返り血を浴びた外套を翻し、アッシュフォードの紋章の刻まれた青緑色のケープをコートの内に隠しながら、再び闇へと消え去る。
ーーーーこれで五件目。
彼が起こす容赦のない復讐劇は、裏社会のパワーバランスを激しく揺るがし、やがて王都の治安維持を司る「最高権力者」の元へと、最悪の形で届くことになる。
2.ひび割れる平穏
翌日の午後。
いつものように美しい庭園には、紅茶の芳醇な香りが漂っていた。
しかし、そのお茶会の空気は、これまでにないほど冷たく張り詰めていた。
「……また、あの男ですか」
シエルが、白磁のカップをテーブルに置く手にかすかな怒りを滲ませた。彼女のシエルブルーの瞳は、今や激しい敵意で細められている。その細い指先は怒りでプルプルと震えていた。
「今度は、中央流通路の大商会『ヴァルベルク』の本部が襲撃されました。首領を含め、幹部数人が殺害され、現場には、かつてのアッシュフォード王国の紋章を刻み模した、血塗られたナイフが残されていたそうです」
シエルは手元の報告書を握りしめ、言葉を続けた。
「王都の元老院、および治安維持部隊からは、特級執行官であるティール様へ、正式な『即時排除命令』が下されました。これ以上の私的制裁と治安の悪化は、流通を預かる我が組織の信用にも関わると……」
シエルにとって、この状況は我慢の限界だった。
ティールが勝ち取り、自分に与えてくれたこの「穏やかで美しいお茶会」の日常。それを、過去の終わった因縁を持ち込んでかき乱そうとする男の存在は、排除すべき最悪の「害虫」でしかなかった。
「ティール様......! どうか私に命令を。あの『灰の亡霊』とかいう厨二病くさい名の男、私が今夜裏路地で首を刎ねてまいります。ティール様の静寂を、これ以上あの男に汚させはしません!」
シエルがティールの前に跪き、懇願するように見上げた。
しかし、特等席のソファーに深く腰掛けたティール・エルドラは、動じなかった。
彼女は背筋を完璧に伸ばしたまま、フリルの袖口から細い指先を伸ばし、静かに紅茶を口に運ぶ。
足元で静かに伏せているシルヴァの青い瞳が、シエルとティールをちらりと交互に見遣り「フン……」とどこかため息のような息を吐いた。
ティールの下ろされた銀髪の前髪の隙間から、冷徹な右目が窓の外の曇り空を見つめている。
「シエル……少しばかり、お前の焦りがお茶の味を濁らせている」
「あ……。も、申し訳ありません、ティール様……!」
シエルはハッとして頭を垂れた。ティールの低い、落ち着いたトープのような声は、それだけでシエルの荒んだ心を鎮める絶対的な影響力を持っていた。
ティールはゆっくりとカップをソーサーに戻すと、カツリ、と微かな音が響く。
「その亡霊の名はおそらくグレイ・ライノルドだろう……三十三歳になったか。あの夜、十六歳だった少年が、十七年たった今も尚、まだ私の影を追っているとはね」
ティールは自嘲気味に、ふっと小さく微笑んだ。
彼女にとって、アッシュフォード王国が滅びた過去は「すでに終わった、価値のない幻」だ。復讐にも再興にも、1ミリの興味もない事は変わらない事実。だからこそ、グレイが勝手に自分のために復讐を繰り返し、街の治安を乱している状況は、滑稽であり、同時に「ひどく不躾な身勝手」に映っていた。
「ティール様は……あの男を、ご存知なのですか?」
シエルが、少しの嫉妬と不安を交えた声で問いかける。
「昔の話だ。私がまだ、何もできずに守られるだけだった、無力な『姫殿下』と呼ばれていた頃の、ただの古い知り合いだよ……あの夜、彼には忘れろと、そう確かに伝えたはずだがね……」
すぅ、と目を閉じてからしばらくの時間がたったのち、ティールは立ち上がった。
優雅なお茶会の女王から、街の治安の絶対的な統治者――特級執行官としての「死神の風格」が、彼女の長身から放たれた。彼女はよく磨かれた大理石の床を歩くと、窓から空を赤く染める夕日を眺めた。
赤い空。
かつてのアッシュフォードの夜の星空すら染め上げた、あの炎ごとき空に一瞬、口を固く結んだ。
「治安維持の問題となれば、執行官として動かざるを得ない。それに、これ以上あの男を放っておけば、我が物顔でこの庭園にまで泥足で踏み込んできかねないからな」
ティールは腕を軽く組みゆったりとした姿勢で言うと、前髪の隙間から、冷酷な光を宿した目をシエルに向けた。
「シエル。今夜の案内を……過去の亡霊に、現実という名の本当の『死』を教えにいこう」
「はい……! ティール様、御心のままに」
シエルは深く頭を垂れ、そのシエルブルーの瞳に、残酷な悦びの光を灯した。
ついに、過去と現在が交錯する。ティール・エルドラという絶対的な王者が、自らの過去を完全に断ち切るための、静かな、しかし容赦のない行軍が始まろうとしていた。
3.網の目を手繰る狂犬
深夜、王都の北西に位置する旧市街。
ここは入り組んだ路地と傾いた古い建物がひしめく、文字通りのスラム街であり、大商会を崩壊に追い込んだグレイが潜伏するにはうってつけの「死んだ」街だった。
冷たい夜霧が立ち込める中、カツ、カツ、と一定のテンポを保ったまま、しかし奇妙なほど周囲の闇に溶け込む足音が響く。
ティール・エルドラは、フリルの袖口を夜風に揺らしながら、路地の中心を堂々と歩いていた。
その立ち姿は、スラムの饐えた臭気の中でも神々しいほどの気品を放っている。素性を隠すために黒い長い外装を纏っているものの、その奥から覗く裾の裏地のティールブルーが、街灯の鈍い光を浴びて、かつてアッシュフォード王国の象徴だった色彩を冷ややかに主張していた。
「ティール様、この先の廃教会です。……治安維持部隊の網にかからず、かつ復讐の標的の動向を監視できる場所となると、あそこしかありません」
物陰から音もなく滑り出てきたシエルが囁いた。
彼女の目は、いつものお茶会での健気な甘えを見せず、獲物を追い詰めた猟犬そのものの鋭さを見せている。衣服の下に仕込まれた幾十の暗器が、主の命を今か今かと待ち望んでいた。
「よくやった、シエル。相変わらずお前の手際は美しいな。……さて、十七年ぶりの再会がこのような湿気た場所になるとは、彼も不運だ」
ティールは低い、落ち着いたトーンの声で言った。
その声に怒りや感傷は一切ない。ただ、自分の愛する平穏を脅かす不躾な存在を、職務として淡々と処理しにきた「あくまでも仕事」という心情が、その目に宿っている。
彼女は片手に持った巨大な大鎌の柄を軽く指先で叩き、教会の重い鉄扉の前へと歩みを進めた。
4.過去の亡霊との邂逅
ギィ……と、錆びついた鉄扉が重い悲鳴を上げて開く。
教会の内部は、崩れた聖堂の隙間から差し込む月光と、一本の蝋燭の炎だけが照らす、寒々しい空間だった。
その祭壇の前に、男が座っていた。
使い込まれた細身の大剣を膝に置き、目を閉じていたグレイが、扉の音とともに弾かれたように目を開く。その肉体は、連戦による疲労と焦燥で張り詰めていたが、乱入者の姿を視界に捉えた瞬間、彼の時間は完全に停止した。
銀髪の麗人。
男性的な直線と女性的な曲線が融合した黒の衣装。そして、外套の裾から覗く、あの見紛うはずもないアッシュフォードの青緑。
「……あ」
グレイの喉から、掠れた声が漏れ出た。
十七年間、ただ一瞬の悔恨も忘れることなく、泥水をすすりながら追い続けた、人生のすべて。
「エル、ドラ……エルドラ、姫殿下……っ!?」
グレイは大剣を床に放り出すようにして立ち上がり、よろめきながら彼女の元へと駆け寄ろうとした。その目には、狂執に塗れた復讐者の光ではなく、あの日、灰の街で主を失った十六歳の少年騎士見習いの、純粋な涙が滲んでいた。
「本当に......本当に姫殿下なのですか...! やはり生きておいでだった...!殿下! 俺はこの日のために――」
グレイがその場に崩れ落ちるように跪き、ティールに向けて頭を垂れようとした、その時。
「――止まれ、グレイ」
冷血極まる、低く落ち着いた声が、教会の聖堂に響き渡った。
グレイがハッとして顔を上げると、ティールは彼に駆け寄ることも、懐かしむこともせず、ただ冷たい目で彼を真っ直ぐに見下ろしていた。フリルの袖口から伸びる白い指に握られた大きな大鎌の刃が、月光を反射してグレイの首元に冷たい直線を落とす。
「で、殿下……?」
「その名で私を呼ぶな、と言ったはずだ。私はもう、お前の古い記憶の中にしかいない、小さくて無力な子供ではない。今の私の名はティール・エルドラ。この街の治安を預かる、特級執行官だ」
ティールは前髪の隙間から、凍てつくような視線をグレイに注いだ。
十七年という歳月は、少女をあまりにも圧倒的な、他者を寄せ付けない「王者」へと変貌させていた。苦労の陰りを帯びたグレイと、権力者としての余裕を完璧に纏ったティール。
かつての、幼い姫と彼女を守る見習い騎士という関係は、彼女の底知れぬ才覚の前に、完全に変化していた。
「執行官、ですと……? 殿下、何をおっしゃるのですか! あなたはアッシュフォードの正統なる王位継承者だ! あなたがジルニアの裏社会の王として君臨しているなら、俺が今すぐその剣となり、国を滅ぼした裏切り者どもをすべて血祭りにあげて御前に――」
激昂し、己の執念を訴えかけるグレイ。しかし、その言葉は、ティールの傍らから放たれた鋭い一言によって遮られる。
「見苦しいですよ、オッサン」
シエルが、スカイブルーの瞳を氷のように冷たく尖らせ、グレイの前に立ちはだかった。袖口から滑り出させた細剣の先端を、容赦なくグレイの鼻先に突き付ける。
「ティール様は、終わった過去にも、あなたのような古臭い亡霊にも興味はありません。ティール様が愛していらっしゃるのは、今の穏やかなお茶会の時間です。それを汚すというのなら……例えティール様の古い知り合いだろうと、私がここで肉塊に変えて差し上げます」
「何だと、この小娘……っ! お前に俺と...!殿下とアッシュフォードの何がわかるッ!!」
グレイが怒りに目を血走らせ、大剣の柄に手を伸ばそうとする。
十代の少女シエルと、三十代の男グレイ。ティールという絶対的な軸を挟んで、過去と現在が、最悪の形で火花を散らした。
が。
「そこまでにしなさい、二人とも」
ティールは小さく、しかし逆らうことを許さない威厳を込めて大鎌の石突で床を叩いた。
ガツン、と響いたその一音だけで、シエルは即座に細剣を引き、借りてきた猫のように大人しくティールの背後へと戻る。グレイもまた、その圧倒的な王者の威圧感に気圧され、思わず息を呑んで動きを止めた。
「グレイ。お前が勝手に復讐を果たすのはお前の自由だ。だが、私の管轄である流通路を荒らし、街の治安を乱すことは、私への不敬に他ならない。……これ以上騒ぎを起こすなら、お前がアッシュフォードに捧げようとしているその首、私が今ここで、この大鎌で貰い受けるが?」
薄い唇を綺麗に持ち上げ、微笑むティール。
彼女は本気だった。
その笑みはどこまでも美しく、そして、抗えないほどの死の気配を孕んでいた。グレイはガタガタと体を震わせ、目の前の「ティール・エルドラ」を見つめた。
(ああ……殿下は、すでにその手で得た新たな人生を歩まれている。そもそも復讐などというちっぽけな段階を、とうに『超越』されているのか……)
自分の十七年間の狂執が、彼女の圧倒的なカリスマの前では、あまりにも子供じみた我が儘に過ぎなかったことを、グレイは本能で理解させられていた。大剣を握る彼の力から、静かに、しかし確実に力が抜けていく。
「……エルドラ殿下。……いえ、ティール様。俺は……」
崩れ落ちるグレイ。
過去の亡霊が、現在の絶対王者の前で、ついに本当の意味で膝を折った瞬間だった。




