王者の日常と、死神の爪痕(下)
4.孤児たちの市場と王者の矜持
中央倉庫群での『黒い牙』の一件から数日。
王都の裏社会は、再び静まり返っていた。
たった一晩、それもコンマ数秒の交錯で五十人の武装集団を文字通り無力化した「ノクターンの死神」の噂は、抑止力という名の実効支配となって街の隅々にまで行き渡っていた。
そんな緊迫した夜の顔とは裏腹に、午前の陽光が降り注ぐ中央大市場は、活気と人間の生活の音に満ちあふれている。
喧騒のただ中に、場違いなほど洗練された硬質なヒールの音が規則正しく刻まれる。行き交う商人や買い物客たちが、本能的にその足音の主のために道をあけた。
ティール・エルドラは、中央大市場の雑踏を堂々と歩いていた。
昼の光の下で見る彼女の衣装は、やはり独特の……強烈な存在感を放っている。一般的な貴族の女性と大きく異なり、直線のシャープなラインが際立つ黒のジャケットに、タイトなスラックス。その首元や袖口から覗く贅沢な純白のフリルと、彼女が歩みを重ねるたびに外套の裾の裏地から深みのある青緑が鮮烈に翻る。
もはや彼女の纏う色といえばこの色、と言うほどほかの服装のティールを見たことがなかった周囲の人々は、一目で彼女を認知しそして静かに後ずさるのだ。
「おい、あれって……特級執行官の……」
「しっ、余計なことを言うな。目を付けられたら一瞬で首が飛ぶぞ」
男たちの低い囁きが周囲から聞こえてくる。
彼らはティールの美貌に目を奪われつつも、その背後に透けて見える底知れぬ武力と、一切の隙がない気迫に圧されて文字通り後ずさりしていく。
「ティール様。どうも物騒なことを抜かす不届き者がいるようですが……」
一歩後ろを歩くシエルが、淡い亜麻色の髪を揺らしながら、その瞳で周囲を軽く睨みつけた。彼女の細い指先は、いつでも袖口の暗器を抜けるよう、無意識に衣服の裏へと添えられている
「放っておきなさい、シエル。他者が私をどう定義しようと、私には関係のないことだ。彼らが勝手に怯え、勝手に道をあけるなら、それはそれで歩きやすくて都合が良い」
(何よりシエル。お前の方が時折物騒だがね)
ティールはいつも通り、低く落ち着いた声を響かせた。冷徹に突き放すようなニュアンスではない。ただ、自分の価値を他人の視線に委ねていない、絶対的な自己への信頼からくる「揺るぎなさ」が、その声には満ちていた。
彼女が市場へ足を運んだ理由は、執行官としての視察でもなければ、裏社会の小競り合いの調停でもない。ただの、プライベートな買い物なのだから、何よりも面倒事は起こしたくないという気持ちもあった。
「さて、シエル。今日のお茶会に合わせる果物だが……あそこの店が良いな」
ティールが切長の美しい瞳を向けたのは、市場の片隅にある、お世辞にも立派とは言えない小さな果物露店だった。
そこを営んでいたのは、身寄りをなくした数人の孤児の子供たちだった。
5.小さな手と、差し伸べられたフリルの手元
「い、いらっしゃいませ…っ! 執行官様……!」
露店の中心にいた十歳ほどの少年が、ティールの姿を見るなり、挨拶と同時にガタガタと膝を震わせた。
彼の前にある古びた木箱には、少し形は不揃いだが、瑞々しく実った新鮮な苺や林檎が並んでいる。少年たちは、王都の裏の支配者であるティールが自分たちの小汚い店に立ち寄ったことに、完全に恐怖していた。何か無礼を働けば、その巨大な鎌で一瞬にしてすべてを刈り取られるのではないかと、小さな肩を寄せ合っている。……まぁそれは根も葉もないうわさ話に過ぎないのだが、広まった噂をどうにかするのは凄まじい時間と労力を要する。つまり、そんな事に費やす体力も暇も、ティールにはないのだ。
ティールは高いハイヒールを鳴らし、木箱の前に音もなく佇んだ。
彼女は凛とした完璧な姿勢のまま、フリルの袖口から細く綺麗な指先を伸ばし、一つの林檎を軽く持ち上げると少し目を細めてまじまじと観察した。
「……良い色だ。手入れを怠っていない証拠だな」
女性にしては落ち着いたトーンの声。少年は一瞬、耳を疑ったように顔を上げた。
「あ、の……。でも、形が悪くて、大通りの大きな店には置いてもらえなくて……」
少年は、必死に言葉を紡いだ。
ティールの前髪に隠された右目から、底知れぬ威圧感を感じ取りながらも、彼女の左目に宿る、大人の余裕に満ちた静かな光に、不思議と引き込まれていたからだ。
「見た目など、味の前には些事だ。シエル、この林檎と苺をすべて購入しなさい。今日の午後のお茶会に、これらを使ったタルトを用意してほしい」
「はいっ! 仰せのままに、ティール様!」
シエルは笑顔で返事をすると、小銭入れから必要以上の銀貨を取り出して、少年の泥まみれの手のひらに載せた。
「え、あ……多すぎます! こんなに貰えません!」
慌てる少年を、ティールはフリルの袖口をはためかせながら、優しく一瞥した。
「取っておきなさい。それは同情や施しではない。お前たちが流した汗と、その林檎の質に対する、正当な『対価』だ」
「っ……! あ、ありがとうございます! 最高の林檎を、もっともっと育てて並べます!」
少年たちは、先ほどまでの恐怖を完全に忘れ、目を輝かせてティールを見上げた。
弱者を無意味に踏みにじるようなことはせず、自らの足で立ち上がろうとする者には、冷徹ながらも確かな誇りを与える。その精神的な「美徳」こそが、女性であるシエルのみならず、市場の人間たちを、そしてこの孤児たちを惹きつけるティールのカリスマ性だった。
「行こう、シエル」
「はい、ティール様」
シエルが果物を邸宅へ送ってもらう手配を終えた頃、ティールは再び歩き始めた。その背中は、十歳で国を失い、一人で血と汗を流し、耐え、無敵の地位まで上り詰めた者ならではの孤高の美しさに満ちていた。
「ティール様は、本当に……お優しいですね」
隣に並んだシエルが、嬉しそうにスカイブルーの瞳を細める。
「優しい? 勘違いをするな、シエル。私はただ、自分の食べるものに無駄な妥協をしたくないだけだよ。それに……」
ティールはふと足を止め、窓ガラスに映る自分の姿――銀髪と、片目を隠した前髪を見つめた。
「あのように泥にまみれながらも、自分の生を諦めない瞳は……見ていて、そう悪いものではない」
かつて、灰になったアッシュフォード王国。すべてを失った十歳のティール。そして、同じように泥の中に落ちていた少女、シエル。
彼女たちにとっても、過去は価値のない幻だが、今を必死に生きようとする命の輝きだけは、特級執行官として権力者となった今でも、特等席から見守るに値するものだった。
6.お茶会の女王と、届かぬ亡霊の影
午後。
市場での賑やかさを後にし、二人は再び、静寂が支配する美しい庭園へと戻っていた。
白のレースのテーブルクロスの上には、先ほど市場で買い取った新鮮な苺を贅沢に使った、シエル特製のフルーツタルトが並んでいる。
「ティール様、いかがでしょうか……?」
シエルが、期待と不安の入り混じった表情でティールを見つめる。
ティールは細いフォークを使い、タルトを小さく切り分けて口に運んだ。
ティールは決してお菓子をたくさん食べるほうではないが、ただその上品な甘みと、シエルが淹れたスモーキーな紅茶の香りの調和を、贅沢に時間をかけて楽しんでいく。
「……美味いな。お前の腕は、やはり私の期待を軽々と超えていく」
「ふふ……! ありがとうございます!」
シエルは頬を薔薇色に染め、胸の前で手を組んで大喜びした。何度同じように褒めても、こうしてまるで新しい言葉を貰ったように喜ぶ彼女に、ティールはその健気な様子を大人の余裕に満ちた穏やかな微笑みで見守っている。
ティールにとってのお茶会は、単なる食事の時間ではない。長い時間をかけて勝ち取った「平穏」という名の、何よりも尊い人生の瞬間だった。
「お茶の香りは、やはり戦場の血の匂いよりも、ずっと心地よいですね、ティール様」
かつて、その言葉は自分がシエルにそう言ったことがあった。
それを覚えていたのだろう。少し自慢げに微笑んだシエルに、ティールは静かにもう一口カップに口をつけて見せることで返した。
(ああ、その通りだ。私は、この静寂を、何者にも邪魔させない)
しかし、その穏やかな空気の裏側、王都のさらに深い闇の中――
ボロボロの青緑色のケープを、古びたコートの内に隠し、鋭い陰影を帯びた瞳をしたとある男が、満身創痍の体を休めることなく、ある情報を追っていた。
「……間違いない。あの『黒い牙』を一瞬で壊滅させた執行官の噂……姫殿下だ。エルドラ姫殿下は、生きている……!」
男—―かつて見習い騎士であったグレイ・ライノルドは、ティールから17年前に譲り受けた金のブローチを握りしめ、文字通り血を吐くような執念を燃やしていた。
彼は、この十七年でまず「ライノルド」という名を捨てた。国が滅びた以上、当時男爵家ではあったものの、アッシュフォードの貴族の名を冠して歩くのは危険であると判断したのだ。だが、それと同時に、彼にはもう、騎士としての剣術も何も残ってはいなかったという理由もあった。王家に仕える立派な騎士になるために入った騎士学校すら、満足に学べないまま終わってしまった。十七年の放浪生活を経て、最早自分はアッシュフォードの騎士と呼ぶには荒み切っていたからだ。
だがそれでも彼にとっては、裏切り者の手によって滅んだ美しきアッシュフォードの復讐と再興こそが人生のすべてであった。主が裏社会の王者として君臨しているなら、今すぐその元へ駆けつけ、どんなに血なまぐさくあっても、再び彼女の剣として膝を折る。その狂執だけが、今や三十三歳になった彼の体を突き動かしていた。
「待っていてください、エルドラ姫殿下…… 俺が、アッシュフォードの無念を晴らすための貴女の剣となります……!」
過去の亡霊たるグレイの足音が、一歩ずつ、ティールとシエルの平穏な日常へと近づいていた。
それが、現状の生活を愛するティールと、彼女を盲信するシエルの世界をどのように揺るがすのか。
二人が相まみえるその瞬間は、もう、そう遠くはない。




