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王者の日常と、死神の爪痕(上)

1.漆黒と青緑の執務室


朝の光が、重厚なステンドグラスを透過して、大理石の床に歪んだ極彩色を落としている。


ティール・エルドラ。彼女がかつて焼失したアッシュフォード王家の生き残りであることを知る者は、ジルニアの国王とシエルを除いて最早存在しない。現在の彼女は、この街の治安と流通の裏側を実質的に統治する、誰もが恐れ敬う最高権力者。執行官組織《ノクターン》の特級執行官という地位を自らの才覚と圧倒的な武力で勝ち取っていた。


カツ、カツ、と静かな、しかし凛とした硬質な音が、広大な執務室の静寂を破る。


ティール・エルドラは、常に背筋の伸びた美しい姿勢を維持したまま、室内に配された黒革のソファーへと腰掛けた。

仕立ての良い上着は、男性的な直線と、彼女自身の持つ女性らしい流麗な曲線が奇跡的なバランスで融合した、彼女のみが着こなすことのできる特注のデザインである。

黒を基調とし、随所に細やかな金の刺繍が奔るその衣服は、彼女が歩くたびにコートの裾が翻り、その内側に隠された鮮烈な青緑――ティールブルーを覗かせる。それは、彼女が自分の故郷の象徴でありその名に冠する色を、捨てるでもなく、さりとて固執するでもなく、ただ「そこにあるもの」として纏っている証拠でもあった。


「ティール様、朝の分の報告書でございます。それと、こちらが本日のお紅茶です」


先日と異なり、亜麻色の髪を空色のリボンハーフアップにまとめたシエルが、音もなく彼女の傍らに寄り添った。

その手には、美しいシルバーのトレイと、湯気を立てる磁器のカップが載っている。

シエルの衣服の裾には、密かに彼女の名前の由来となった空色の刺繍が施されており、ティールの黒と青緑を引き立てるように、清潔な白のフリルがよく映えていた。


「そこに置いておきなさい。……シエル、今日の茶はいつもより少し香りが良いな」


ティールは低く、女性にしては落ち着いたトープのような声を響かせた。


「はいっ! 本日はダージリンのファーストフラッシュ、その中でも特に若葉の香りが強いものを選定いたしました。ティール様が午前中の執務を少しでも心地よく進められるようにと」


シエルは雨上がりの青空のように澄み切ったシエルブルーの瞳を輝かせ、胸の前で小さな拳を握りしめる。


「そうか。お前が淹れる茶は、いつも私を裏切らない」


ティールは細く、白磁のように綺麗な指先でカップを持ち上げ、ゆっくりと口に運ぶ。

ただ、お茶の香りと、シエルが作り出すこの平穏な空気そのものを慈しむように、静かに喉を潤していくのがティールは好きだった。


「……さて。今日の『羽虫』どもの動向は?」


カップをソーサーに戻すかすかな音と同時に、ティールの目が、冷徹な執行官のそれへと切り替わった。


「はい。ノクターン所属の情報部門『アイリス』より、報告を申し上げます」


シエルは一瞬で表情を引き締め、手元の書類を開いた。日常の健気な少女から、ティールの補佐官として動く冷酷な専属お世話係への変貌は、ティール自身の「静と動」のギャップにどこか似ていた。


「王都の南区を縄張りとする密輸ギルド『黒い牙』が、ティール様の管轄である中央流通路の通行権を奪わんと、裏で傭兵を集めている模様です。すでに何人かの商人たちが脅迫を受けており、今夜にも、中央倉庫群へ実力行使に出るという情報が入っております」


「『黒い牙』……。確か、前回の警告を「ただの女のハッタリだ」と笑い飛ばした愚か者たちの集まりだったな」


ティールはフリルの袖口を軽く整えながら、ふっと小さく、憐れむように微笑んだ。

ならず者たちがよく使う「揺さぶり」や「暴力による威圧」は、このティール・エルドラという存在の前では、何の意味もなさない。彼女にとっては、どれだけ武装した屈強な男たちの集団であっても、道端の石ころ、あるいは羽虫と同義であった。


「相手は総勢五十名。元正規軍の崩れや、重装歩兵も雇い入れているようです。ティール様、此度は私が事前にその首領を含め、数人を闇に葬っておきましょうか? ティール様のお手を煩わせるまでもありません」


シエルが衣服の袖口に隠した暗器各種に触れながら、冷たい視線で進言する。シエルにとって、ティールの衣装を汚す価値もない羽虫どもを排除することは、至上の喜びであり、義務であった。


「いや、構わない。近頃は少し、体が訛っている……それに、新調したこの靴の馴染み具合を、確かめておきたくてね」


まるで、ただ散歩に向かうかのような軽い言いぶりでティールはソファーから静かに立ち上がる。

しかしその瞬間、室内の空気が一変した。圧倒的な強者の風格。そこにいるだけで周囲の空間を支配し、跪かせるようなカリスマ性が、彼女の身から放たれていた。

余談だが、彼女が身に付けるヒールは、女性の靴としてもかなり高めの鋭いハイヒールである。しかし、立ち上がった彼女は絨毯の上を滑るように歩き窓の縁へと手をかけた。


白い指が、すぅ、と窓ガラスを撫でる。

窓ガラス越しに見えるその場所は、まさしく王都の南区。『黒い牙』の潜伏場所であった。




2.王都の影、蠢く羽虫


夜の王都は、昼の華やかさとはうってかわり、深い闇と硝煙の匂いに包まれていた。


中央倉庫群の裏路地。冷たい雨が降り始める中、重い鉄の鎧を纏った男たちや、血の匂いを放つ傭兵たちが、息を潜めて集結していた。


「おい、本当にやるのか? 相手はあの《ノクターン》の特級執行官だぞ……」


若い傭兵の一人が、恐怖を押し殺すように、隣の重装歩兵の袖を引いた。彼の本能は、これから犯そうとしている罪の重さと、その先に待つ圧倒的な捕食者の存在に、警鐘を鳴らし続けていた。

執行官組織《ノクターン》と言えば、簡単に且つ柔らかく言えば国でも有名なエリートたちの集まりだ。だが、その中は四つの組織にさらに分かれている。

情報部門《アイリス》、教育部門《ドミナス》、執行部門《エクスキューション》、財政部門《ファルジオン》である。

裏で流通や情報を統括、操作し、汚職を排除する様は国の頭脳であり掃除屋も同然。ジルニアの騎士団が表の力だとするなら、《ノクターン》の内部に所属する執行部門《エクスキューション》は裏の力である。

ティールはそれらすべてを統括する最高権力者、特級執行官であるわけで、彼らが恐れをなすのも仕方のない事と言える。


「フン、怯えるな。いくら無敵と噂される執行官だろうと、所詮は女一人。こちとら五十人の歴戦の猛者が揃っているんだ。重装甲で囲んで一斉に叩けば、あの無駄に高いヒールごと叩き折ってやれるさ」


そんな不安や畏怖など抱くことのない様子の首領格の巨漢の男が、下品な笑みを浮かべながら、手にする大斧を地面に突き立てた。

男たちは、自分たちの力と握った武器の冷たさを信じ切っていた。彼らにとって、戦いとは力と数の勝負であり、彼女の纏う美しさや気品など、戦場においては何の役にも立たないゴミだと考えていたのだ。

だが、その傲慢な確信は、静かに、しかし絶対的な断絶を伴って破られることになる。


ーーーーカツ、カツ……


濡れた石畳に、およそ戦場には似つかわしくない、美しく洗練された足音が響いた。

男たちの視線が一斉に、路地の奥へと向く。


暗闇から現れたのは、銀髪の麗人だった。

雨が降っているというのに、彼女の衣服は一滴の雫すら弾いているかのように美しいままだった。ジャケットの黒、刺繍の金、そして動くたびに夜の闇に映える青緑の裏地。彼女は右手で、巨大な大鎌をまるで一本の指揮棒であるかのように軽々と携え、低い、落ち着いた声で男たちを見据えた。


「耳障りな羽音が聞こえると思えば。夜のお茶会にしては、ずいぶんと無骨な客が集まったものだな」


ティールの前髪の隙間から、冷たい瞳が男たちを一瞥する。その瞬間、首領の巨漢は、自分の背筋に冷や汗が奔るのを自覚した。

言葉が出ない。威圧しているわけでも、声を荒らげているわけでもない。ただそこに佇んでいるだけで、自分たちが「生物としての格」で完全に負けていることを、本能が理解させようとしていた。


「チッ、戯言を……! 野郎ども!!さっさと殺せ! あの女の首を獲った者に、報酬を三倍出す!」


首領の怒号を合図に、前衛の重装歩兵たちが地響きを立てて突撃した。

数人の男たちが、鉄の盾を構え、ティールの退路を断つように一斉に武器を振り下ろす。

逃げ場のない狭い路地。

誰もが、彼女が肉塊に変わる瞬間を予想した。

しかし。


「――愚かですね」


ティールの背後の闇から、影が飛び出した。亜麻色の髪をなびかせた少女、シエルである。

シエルは突撃してきた男の一人の懐に潜り込むと、袖口から滑り出させた投擲ナイフを、男の鎧の隙間――喉元へと正確に突き刺した。愛用の青い焼き入れが施された刃が、夜の闇に鋭い閃光を描く。


「が、はっ……!?」


「ティール様の歩まれる道に、立ち塞がるな!」


シエルは冷酷な狂犬と化し、もう一人の男の目を細剣で貫き、戦場を攪乱する。彼女の戦い方は泥臭く、しかし徹底して合理的だった。敵の意識を自分に向けさせ、主のための完璧な舞台を整える。


「よくやった、シエル。下がりなさい」


頭上から降ってきたティールの低い声に、シエルはハッと息を呑み、即座にその場の地面を蹴り、跳躍してティールの後ろへと着地した。


シエルが身を引いたコンマ数秒の間。


男たちは、ティール・エルドラが「動いた」気配を、誰一人として知覚できなかった。

走る予備動作も、あの大鎌を振りかぶるタメもない。

ただ、高いハイヒールが石畳を踏みしめた一音を刻み、黒いジャケットの袖口から溢れるフリルが、優雅に夜風に翻った。


男たちの視界から、一瞬にして彼女の姿がかき消える。


「な……どこに――」


首領の男が周囲を見回そうとしたときには、すべてが終わっていた。

カツ、と、ティールのハイヒールが、男たちの「背後」で静かに着地する。

彼女は、最初からそこにいたかのように、大鎌を静かに収め、フリルの袖についた一滴の塵を、面倒そうに、しかし優雅に払い落とした。


「目で追おうとするから見失うのだ、愚か者」


ガチャガチャッ、と、鉄の鎧が崩れ落ちる重い音が、路地に連鎖した。


突撃した重装歩兵、そして後方にいた傭兵たちも含め、十数人の男たちが、自分が斬られたことすら理解できないまま、一瞬にして絶命していた。それはまさに、無駄を削ぎ落とした芸術的な一閃。


「あ……あ、ああ……」


生き残った首領の男は、大斧を握る手をガタガタと震わせ、腰を抜かしたように後ずさりした。

目の前にいるのは、決してジルニアという国に飼い慣らされた執行官の女などではない。支配者であり、捕食者であり、抗うことの許されない「死神」そのものだった。男たちの野望は、彼女の圧倒的な格上感の前に、粉々に砕け散っていた。


「命が惜しければ、その武器を捨てて地に伏せろ」


ティールは振り返ることもせず、低い声でそれだけを告げた。

首領の男は、「ひぃぃぃ!!」というなんとも無様な悲鳴を上げながら武器を放り出し、泥にまみれながら血溜まりと化した路地裏の地面に額を擦り付けた。


「お見事です、ティール様……!」


シエルが目を輝かせ、うっとりとした表情でティールの元へと駆け寄る。戦場であることを完全に忘れ、その圧倒的な美しさに魂を奪われている少女の姿が、そこにはあった。


「さて。後処理は間もなく着くであろう執行部門《エクスキューション》に任せるとして。帰ろう、シエル。少し冷えてきた……暖かい紅茶が恋しいな」


「ふふ、すぐにご用意いたしますね」


ティールはフリルの袖を揺らしながら、再び足音を消して、静かに歩き始めた。


3.お茶会の静寂


戦いの夜が明け、翌日の午後。


《ノクターン》本部で特級執行官としての難解な仕事を終えたティールは、再びお気に入りの庭園のソファーへと戻っていた。

昨夜の血の臭いなど微塵も感じさせない、心地よい花の香りが周囲を満たしている。

テーブルの上には、シエルが細心の注意を払って用意した、アッシュフォード産の茶葉に最も近いとされる高級茶葉の紅茶が、ゆらゆらと湯気を立てていた。


「ティール様、お茶の温度はいかがでしょうか?」


シエルが、心配そうに、しかし健気にティールの顔色を覗き込む。


「完璧だよ、シエル。……やはり、お前の淹れる茶は、戦場のどのような勝利よりも、私に価値をもたらしてくれる」


ティールは前髪の隙間から、穏やかな微笑みをシエルに向けた。その大人の余裕に満ちた包容力こそが、シエルの世界のすべてだった。


「くぅ……!!ティール様! 私は、私は一生、あなた様のお側でお茶を淹れ続けます……!」


シエルが感動に瞳を潤ませ、胸の前で手を合わせる。何度も見た光景ではあるが、ティールはその姿を年の離れた愛おしい妹を見守るかのように、静かに眺めていた。


だが、その平穏な静寂を破るように、執務室の連絡鳥が、一通の手紙を運んできた。黒い鳥が、その身体と同じく黒い封書を加えてシエルの元で羽を休める。


シエルが怪訝な顔でその手紙を受け取り、封を開き、内容に目を落とした瞬間、少女の澄んだシエルブルーの瞳が、怒りと不快感で鋭く細められた。


「……ティール様、不愉快な報告がございます」


「どうした、シエル」


「何やら、ここ数ヶ月、王都の裏社会のさらに奥底で、かつて滅びた『アッシュフォード王国』の生き残りを名乗り、各地で無謀な復讐劇を繰り返している狂戦士がいるとの噂です。その男、名を『灰の亡霊』と名乗っているらしく……」


「……灰」


その名前を聞いた瞬間、ティールが紅茶を口に運ぶ手が、ほんの一瞬だけ、止まった。


前髪に隠された右目――かつて滅びた王家の血脈の証である『神の瞳』が宿る場所が、かすかに疼いたような気がした。


十七年前、泥まみれになりながら自分を守ろうとしていた、当時十六歳の近衛騎士の見習い。もし……彼があれから無事に生きているのだとしたら、今や三十三歳。それからの人生のすべてを、終わった過去の復讐に捧げていることとなる。


「ティール様? いかがなさいましたか?」


シエルが心配そうに声をかける。ティールは静かにカップをソーサーへと戻し、フリルの袖口を軽く整えながら、再び低い、落ち着いた声で微笑んだ。


「いや、何でもない。……ただの、過去の亡霊の話だな」


彼女にとっては、あの国はとうに灰になった幻だ。再興にも、復讐にも、何の興味もない。しかし、その亡霊が自分の愛するこの「平穏なお茶会」を脅かそうとするならば。


「もしその亡霊が、私の平穏の邪魔をするようであれば。……その時は、私が直々に、その歩みを止めるまでだ」


ティールは特等席のソファーから、窓の外の広大な青空を見上げた。

雨上がりのように澄んだその空は、隣に立つシエルの瞳のようでもあり、そして、十七年前、灰の地から命からがら逃げ出したあの国の澄んだ空のようでもあった。


ジルニア王国最強の特級執行官、ティール・エルドラ。


彼女の預かり知らぬところで、過去と現在、そして未来を巻き込む、新たな激動の第一幕が、静かに落とされたのだった。


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