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亡国のカルテ(下)


2.遠い丘の記憶


ティールはゆっくりと立ち上がり、結界の張られた窓辺へと歩み寄った。

遮音されたガラスの向こうには、ジルニアの平和な夜景が広がっている。しかし、彼女の青緑色の瞳が映し出しているのは、目の前の景色ではなかった。


「私にとって、アッシュフォードの最後の記憶は……グレイを置いて一人で歩いてきた遠い丘の上から見下ろした景色だ」


ティールはガラスにそっと指先を触れた。


「夜空を覆い尽くすほどの黒煙と、街全体を飲み込み、天を貫くようにして燃え盛る激しい炎。王宮も、民も、私が愛したものすべてが激しい業火の中に溶けて消えていった。一つの国が完全に灰に変わる瞬間を、私はただ見つめていた」


すぅ、と細められたその眼差しに、月明かりが影を落とす。彼女の横顔は恐ろしいほどに美しく、そして底知れぬ闇を湛えていた。


当時わずか十歳だった少女が、自らの国が、民が、家族が焼き尽くされる様を、どのような想いで見つめていたのか。シエルには想像すら及ばない。だが、ティールが今もなお、その圧倒的な力をもって自分自身の「今」に執着するのは、あの夜のような不条理を二度と許さないという、魂に刻まれた誓いがあるからなのだと、シエルは理解した。


彼女は決して、過去を切り捨てたと言えど、過去を忘れたわけではないのだ。


それら全てが在って、彼女の「生」に繋がっているのだと。



「……ティール様。そのアッシュフォードの地に、今になって魔力反応が観測された。これは、どういう事だと思われますか?」


グレイが、サファイアの瞳を鋭く光らせながら問いかける。

ティールはゆっくりと振り返り、再び円卓の地図へと視線を戻した。


「十七年間、結界の張られた不可侵領域であり、生命の痕跡すら許さなかった死の土地だ。そこに生じた魔力反応。低くはあるが、考えられる可能性は大きく分けて三つある」


ティールは美しい指を一本、立てた。


「第一に、あの惨劇を生き延び、十七年間潜伏し続けていた『何か』が、今になって活動を再開した可能性。……だが、これは確率としては極めて低い。あの悍ましい業火に焼かれ、焦土と化した不毛の地で生きられる生物は勿論、魔物や精霊ですらまず存在し得ないだろうね。理由としては、先ほども説明した通り、あれらが呪いの炎だったからだよ」


二本目の指が立てられる。


「第二に、他国────あるいはどこかの組織が、アッシュフォードに遺された卓越した魔導技術、あるいは遺物を掘り起こすために、禁忌の地へ足を踏み入れた可能性……これは三つの可能性としては比較的高い方だ。各国の優秀な魔導師が結託して張ったご自慢の不可侵・不可視の結界だが、完璧なものなど、この世には存在しない。実際、私の『眼』はこの世界に存在する術式の綻びを頻繁に目にする」


例えば、とティールはシエルに防御魔法を展開させてみせる。小範囲で極めて強固に貼られた菱形をとった防御魔法。広く使われている一般的な魔法であるが、そのとある一点にティールが指先を当てて少しなぞった瞬間。


バリンッ、という音を立ててシエルの防御魔法はいとも簡単に破られた。これはシエルの魔法が脆いなどという訳では全くなく、ティールからすればこの術式の構造の「欠陥」が見えるのだという。


術式の極わずかな穴に魔力を加える。

簡単にやってのけたが、それは針の穴に糸を通すような精密な技術である。


「────このように、優秀な魔導師であれば結界の隙を見つけることも出来るかもしれない。しかし、結界に何かあれば直ぐさま各国へ反応が感知されるだろうが……まぁ、いつの時代も人間の強欲さが尽きることはないから、どこかの国が私欲のために隠蔽を行っている可能性だってある。実際のところは分からないがね」


そして、ティールは三本目の指を立て、その青緑の瞳の奥を、酷く冷たく燃え上がらせた。


「そして第三の可能性は、新たな存在の誕生だ。精霊に愛された魔法大国であったアッシュフォードの地で何らかの魔力残滓、または意思が集まり魔物のような形をなす可能性もある────実際、他国で似たような大量虐殺が発生した場所に、数ヶ月が経過してから魔物が発生したという記録を目にしたことがある。だがこれもアッシュフォードにおいては確率は低い……何故なら人や精霊の思念は時間が経てば経つほどその地に染み込み、やがて大地を走る霊脈へ溶けて循環して行くからだ。前例のように、魔物が発生するのであれば、比較的早い段階で大量に発生するのが殆どだ」


「念────怨念、ですか」


シエルが息を呑む。


「ああ。万が一にもそうであれば、今回の任務は単なる調査では済まない。無念、後悔、恐怖、絶望……それらで構築された存在は等しく他を巻き込み肥大化する。そうなればその存在そのものを、完全に消去する必要がある」


ティールはそう言うと、指をパチンと鳴らした。


すると、薄暗かった部屋の明かりが幾分か明るくなる。会議の終了の合図である。


「出立は五日後とする。シエル、グレイ。明日からは、現地までのルート、チェックポイントの確認。そして潜入のための魔導具の選定と、潜入後の行動について更に話し合う必要がある。各自、最高の装備で備えなさい」


「「御意」」


二人の、短くも確固たる決意に満ちた声が、書斎の静寂に溶けていった。




3.死神の誓い


会議が終わり、書斎を出たシエルは、廊下の窓から差し込む月光を浴びながら、一人深く息を吐き出した。

全てを記録したノートを抱きしめる両腕には、未だに微かな震えが残っている。


「…怖かったか? シエル」


背後からかけられた穏やかな声に、シエルはハッとして振り返った。そこには、ネクタイを少し緩めたグレイが、いつもの温かいサファイアの瞳でこちらを見つめて立っていた。


「あ…グレイさん」


シエルは少しうつむき、正直に頷いた。


「……はい。少し、怖かったです。ほんの少しだけ、ティール様から伺ったことはあったのですが、あまり詳細にはお伺いしたことはなくて…歴史の中だと思っていたアッシュフォードの悲劇が、お二人にとっては、今も続いている地続きの現実なのだと知って、私には想像もつかないほどの暗い過去を…お二人は背負っていらっしゃるのだと」


グレイは窓の外の月を見上げ、ふっと寂しげに微笑んだ。


「そうだな。あの夜の炎の色は、今でも目を閉じると、網膜の裏側に焼き付いている。……だけど、シエル。俺は、今、自分の過去を呪っちゃいないし、悲劇の生き残りだと哀れんでほしいわけでもない」


グレイは腰の短剣――ガルディニアでティールから与えられた、あの美しい鉄の刃にそっと触れた。


「俺の命は、あの夜、ティール様────いや、エルドラ様を隠し通路から逃がし切った瞬間に、一度完結しているんだ。今の俺の身体は、ティール様の剣であり、盾だ。ティール様が世界の不協和音を調律すると言うなら、俺はそのためにこの大剣を振るう。……たとえその行く先が、かつて俺たちのすべてを焼き尽くした、あの灰の地であってもな」


その言葉は、シエルに言っているようで、どこか自分にも言い聞かせているようだと、シエルは思った。


彼が歩んできた十七年という長い復讐と放浪の生活は、間違いなく彼に根深く残っているはずだ。消し去ることなんて出来ない、あまりにも昏く深い記憶。

それらの根源である灰となった故郷へ向かうことが、どれほど恐ろしいことなのか、想像にかたくない。


しかし、彼は、それらを経て今を生きていて、これからを大切にしていきたいのだと、シエルにそう言っているのだ。


彼の瞳には今、ただ一人の女性への、絶対的な忠誠と信頼だけが揺るぎなく輝いていた。


「グレイさん……」


シエルは、胸の奥が熱くなるのを感じた。

自分は十七年前の惨劇を知らない。あの炎の熱さも、裏切りの絶望も、肌で感じることはできない。だけど────。


「私も、ティール様に命を救われた一人です」


シエルはシエルブルーの瞳を真っ直ぐにグレイへと向け、力強く言った。


「ティール様が私を救い、居場所をくださった。だから、たとえどんな過去が待っていようと、私はティール様の副官として侍従として、そして何より、今の家族として!…お二人の歩まれる道を、どこまでも支え続けます」


「はは!頼もしいな……お前がそう言ってくれると、ティール様も心強いことだろう」


グレイはシエルの亜麻色の髪を、まるでおてんばな妹をあやすように、大きな手でくしゃりと撫でた。


「さあ、もう遅い。明日からはまた、あの鬼のような会議と計算に付き合わされるんだ。早く寝て、英気を養っておかないとな」


「ちょっと、ティール様の尊い会議に付き合わされるだなんて! お言葉が過ぎるのでは!?……もうっ、おやすみなさい、グレイさん!」


シエルは少しだけ不服そうに頬をふくらませたあとに一礼すると、自らの部屋へと歩き出した。

その足取りは、書斎に入る前よりも、遥かに軽やかで、確かなものになっていた。



館の最上階。一人残ったティールの書斎では、未だに蝋燭にともされた赤い魔導の灯火が静かに揺れていた。

ティールは自らの細い指先を見つめ、静かに呟く。


「十七年ぶりのアッシュフォード……この目で直接、確かめさせてもらおう」


窓の向こう。


東、故郷のある方向の空に満月が浮かんでいる。


それはまるで、死神の帰郷を待ち望むかのように、微かに、不気味に、青白く脈動しているような月だった。



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