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亡国のカルテ(上)

1.閉ざされた書斎の静寂


王宮からの帰還から、丸一日がたったある夜。


ティールの館の最上階。

普段はティールが複雑な魔術式の計算や、雑務をこなすための書斎は、今夜、かつてないほどの張り詰めた空気に満たされていた。


窓の外では、ジルニアの穏やかな夜風が木々を揺らしている。しかし、厚い遮音結界が張られた室内には、その自然の音すら一切届かない。

部屋の中央に置かれた黒檀の円卓。その上には、王宮から持ち帰った魔導羊皮紙と、数冊の古びた記録書が広げられていた。


パチ、と暖炉の薪が爆ぜる。その微かな音にすら、シエルは肩を小さく震わせた。

彼女が身に纏っているのは、数日前のあの華やかな勿忘草色のドレスではない。いつもの、深い黒を基調としたワンピースタイプの機能的な制服だ。背筋をピンと伸ばし、高級な魔素材でできた記録用ノートを前に椅子に座る彼女のシエルブルーの瞳には、緊張と、そしてどこか言い知れぬ畏怖の色が浮かんでいた。


それもそのはずだった。今夜、この場所で行われるのは、単なる任務の事前会議ではない。


それは、世界から消滅したはずの禁忌────そして、彼女が心から崇拝し、付き従っている主の「根源」に触れる行為に他ならなかったからだ。


「……シエル。ペンが止まっているよ。誤った情報は思考の澱みを生む。私の言葉を過不足なく文字に起こしなさい」


円卓の奥。ティールが革張りの椅子の背にもたれかかると、長い銀髪がサラリと肩から流れ落ちる。その青緑の双眸を卓上の地図へと静かに向けながら、彼女は落ち着いた声音で言った。


「は、はい……っ! 申し訳ありません、ティール様」


シエルは慌てて羽ペンを握り直し、白紙のページに向き直った。


シエルにとって、アッシュフォードという国は、あまりにも遠い存在だった。


十七年前の悲劇。当時、シエルはまだこの世に生を受けてすらいない。彼女がその名を知っているのは、執行官本部に保管されている歴史書や、国家間の障壁展開について記した公的な記録のわずか数行の記述のみ。


それらは実に平坦で、冷酷な文字の羅列に過ぎない。しかし、今まさに自分の目の前にいる二人────ティールとグレイにとって、その羅列の裏側には、血と、炎と、絶望が染み付いた現実が存在しているのだ。


己の過去の多くを語ってこなかったティールは、やむを得まいとして、シエルに詳細に過去のことについて話す必要があると判断したのだった。



「まずは、現状ほとんどの人々が知る『歴史』を修正することから始めよう」


ティールは長い指先で、卓上の古びた地図の拠点をトントンと叩いた。


「このジルニアだけに留まらず、多くの国の歴史書にはアッシュフォード王国は『魔力暴走』や『神の怒りに触れて燃えた』などと書かれているが、そんなものは勝者が都合よく書き換えた偽りに過ぎない。十七年前、あの国で起きたことの本質は、人間の『未知に対する恐怖』が引き起こした裏切りだ」


ティールの言葉は、自らの故郷を語るものとは思えないほど、冷徹に透き通っていた。


「アッシュフォードは強大すぎた。精霊との高い親和性を誇り、操る精霊術…そして特に、我が王家に代々受け継がれるこの『神の眼』の力……それは、他を制す力となり、時に万物の魔術式を解体し、そして世界の魔力の流れを正しく調律する絶対的な力だ。だが、人間の身に余るほどの力を間近で見続けた凡愚どもは、敬意ではなく、それらに底知れぬ恐怖を抱いた」


ティールの青緑の瞳が、凍りつくような冷笑を浮かべる。


「最初に歪めたのは、内部の臣下ども────あぁ、以前粛清したあのオルセン元公爵が筆頭だね。私たち王家の力を恐れ、己の地位や保身に走ったアッシュフォードの臣下どもが、まず王家を裏切った。そして、我が国の精霊術を大陸の脅威とみなしていた他国へ、情報を流し、引き入れたのだよ……つまりあれは、内通による裏切りと、他国による大規模な武力行使が重なった、ただの虐殺だ」


「虐殺……」


シエルの喉が、恐怖で引き攣った。ペンを握る指先が、微かに震える。


「そうだ。王都に放たれた炎は精霊を焼き、人を焼き、その血液とも呼べる魔素すら反転させ、まず力を奪った。突如奪われた魔力に、精霊や民は為す術などなかった。そして、結果として残ったのは…」


ティールはそこで一度言葉を切り、自身の胸元に手を当てた。


「王都にいた国民は皆殺し。遺体の見つからなかったティール・エルドラ・フォン・アッシュフォードという、王女は当然死んだものとして、国自体を禁忌の存在として仕立て上げる…という地獄のような歴史だ」


ティール・エルドラ・フォン・アッシュフォード。


その真の名が、夜の書斎に重々しく響き渡る。

現在、ジルニア王国の特級執行官「ティール・エルドラ」として、ジルニア王国を脅かす事象を排除し、処理する彼女の本当の名前と立場。十七年前にすべてを失い、死んだことにされた悲劇の王女その人。


改めて本人の口から語られる十七年前の惨劇に、シエルはそれらを文字に起こしながらぐっと眉間に皺を寄せた。


「……あの夜、王宮は完全に包囲されていた」


それまで沈黙を守っていたグレイが、低く、地を這うような声で呟いた。

円卓の脇に立ち、腕を組んでいた彼のサファイアの瞳は、普段の穏やかさを完全に失い、獣のような鋭さを孕んでいる。


「他国の魔導兵団と、裏切った臣下の軍の一部が、王族の血を根絶やしにし、その力を奪わんと踏み込んできた…俺は当時、王女の近衛見習いに過ぎなかったが、目の前で近衛の先輩たちが次々と倒れ、城が火の海に包まれる中、俺ができたのは……ティール様の手を引き、煙の立ち込める隠し通路へ飛び込むことだけだった」


グレイの大きな手が、無意識のうちに己の腕を強く握りしめる。衣服の袖に隠されたその皮膚には、今もあの夜から無数に刻まれた、火傷や刃の傷跡が残っている。


「…満身創痍だった。背後からは追手が迫り、視界は赤く染まり、『魔素反転《マナ・リバース》』の影響か呼吸をするたびに肺が焼けるようだった。あの熱さは忘れることができない」


周囲に倒れる兵士、民間人、精霊たち。

焼けこげた匂いや、熱風は今でも鮮明に思い出せる。


「それでも、この御方だけは死なせてはならないと…それだけが、俺の身体を動かす唯一の使命だった」


そして追っ手を、そのまだ制御しきれないはずの『神の眼』の力で生み出した大鎌で屠ってみせた十歳のティール。当時の彼女の頭にはただ「生き延びねばならない」という文字だけが反響していた。


その瞬間、自分でも不思議なくらいにずっと冷静だったティールの脳内で生まれた「生きることへの執念」は、『神の眼』の力を発現させ、大鎌という形をとったのだ。


「ティール様が初めてあの大鎌を形成させた瞬間は、近くにいた俺でさえ、心臓が凍りついたかのような殺意を感じた」


そして一人で歩いていってしまった彼女を見たのを最後に、グレイは限界だった意識を飛ばし、次に地下通路で起きた時にはもはや周囲は静寂に包まれていたのだ。


「────そうして俺たちは、文字通り血の海を泳ぎ、生きて逃げ切った最後の国民となったんだ」


グレイの言葉には、長い年月が経った今でも癒えることのない、生々しい痛みが宿っていた。


シエルは紙に綴られた本当の歴史を前に、胸が締め付けられるような思いで二人の横顔を見つめるしかなかった。





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