灰燼の記憶(下)
3.死神の眼差し
「アッシュ、フォード……」
シエルの小さな呟きが、薄暗い執務室の壁に虚しく反響した。
彼女の知るアッシュフォード王国とは、精霊術という固有魔法を操り、魔法大国の名を冠していた誇り高き王国ながら、原因不明の大規模な魔力暴走…後に『終末の業火』と呼ばれる大火によって、一夜にして国民もろとも焼き尽くされたとされる、呪われた亡国────である。
その炎は単なる炎ではなく、『魔素反転』というあまりに非人道的な特性を持っていた。本来、万物に正しく循環する魔素を、文字通り反転させるという魔術師たちや精霊にとっては致命的なまでの死の炎だった。
精霊は力を失い、魔術師たちはその精霊との契約で得た精霊術は当然扱えず、通常の魔法ですら魔素が反転して逆に己を蝕んだ。
「魔力暴走というのは嘘で、かの国は禁忌を犯し、神罰がくだされたのだ」との噂が一部で信じられているのも、この『魔素反転』という禁忌の魔法が国を焼いたことが証拠だ、という話も聞いたことがある。
また、魔法大国であるが故に、何らかの技術や価値のある魔道具が残っているのではないか…とやって来かねない遺跡ハンターなどの手から守るためにも、後に隣接する各国の協力のもと不可侵と不可視の結界が貼られた、いかなる生物の侵入も許さない『世界の墓標』と呼ばれる場所だ。
そこに今、新たな魔力反応がある。
それが意味することの異常性は、当時まだ生を受けておらず、アッシュフォードの惨劇を聞いた話でしか知らないシエルでも、肌が粟立つほどの恐怖として理解できた。
しかし、その言葉を聞いたティールの表情が、驚きに染まることはなかった。
ただ、その淡い青緑の瞳の奥底に、地の底よりも深い、昏い冷徹な光が静かに灯る。
「……十七年、ですか。過去の遺物がその棺桶を破って這い出てくるには、少々長すぎる時間ですね」
ティールの声は驚くほど冷えていた。先程までカフェ、フルル・キャスケードで見せていた、あの温かさは完全に消え去り、今ここにいるのは、裁きを下す冷酷で無慈悲なジルニアの死神そのものであった。
「そうだ」と国王は厳かに頷く。
「あの土地は現在も我が国、および近隣諸国との協定により、結界が貼られ完全な立ち入り禁止区域となっている。だが、もしもあの場に何かが「在る」のだとすれば、それはジルニアだけでなく、大陸全土に再び混乱をもたらす引き金になりかねん……」
ぐ、と手を固く握りしめた国王ギルベールは、険しい表情のままもう1枚の羊皮紙を引き出しから取り出した。
「ティール・エルドラ。不可侵結界を張った各国の代表と協議をした結果、我が国の最高戦力であり、かの地とも縁あるそなたに現地への潜入、および原因の調査を命ずるのが最適であると判断された」
その手には、国王のサインが入った命令書があった。
各国の協議…おそらくその場でティールがアッシュフォードの人間であることを知るのは、このジルニア国王ギルベールだけであるはずなのだが、各国の代表に彼女をいったいどう紹介したのか。
純粋な戦闘力や調査力であれば他国の軍の一つや二つ動かせば済む話だろうに、ほぼ単独で『世界の墓標』とも呼ばれる危地へ赴かせるとは、実に面白い判断である。
────あるいは、そんな他国ですら、ティール・エルドラという特級執行官の実力を畏怖しているとも捉えられるが。
「断る理由はありませんね」
ティールは漆黒のジャケットの袖口のフリルを整えながら、冷酷な笑みをその薄く紅の引かれた唇に浮かべた。
「かつて世界を揺るがした残滓が、十七年の時を経て再び不快な音を奏で始めたというのなら……それらを排除するのが、私の存在理由ですから」
「頼む。その『瞳』でなければ、あの土地の真実を見極めることは難しいだろう……道中、くれぐれも気をつけてな」
国王の命令を受け、ティールは優雅に一礼を捧げた。
その背後。グレイは奥歯を噛み締め、僅かに拳を震わせながら恐怖心を感じていた。
アッシュフォード王国。
焦土と化した愛する祖国。
果たしてその姿を、目にする勇気が自分にあるのだろうか?
その答えが返ってくることはなかった。
4.帰還、そして決意の夜
王宮を後にし、夕闇が迫る中を館へと帰還した一行。
玄関の扉を開けると、そこには昼間と変わらぬ佇まいで、端然と座って主を待つシルヴァの姿があった。白銀の巨躯は、主たちの纏う空気が、カフェに出かけた時のそれとは完全に一変していることを、その聡明な瞳ですぐさま察知したようだった。
シルヴァは静かに立ち上がると、ゆっくりとティールの元へ歩み寄り、その細い手にそっと自身の鼻先を押し付けた。まるで「大丈夫ですか」とでも告げるかのように。
「……心配いらないよ、シルヴァ」
ティールはシルヴァの豊かな毛並みに指を沈め、静かにその頭を撫でた。
「お前には、再びこの館の留守番を頼むことになる。……次の仕事は、少しばかり根が深そうだ」
「クゥン……」
シルヴァは寂しそうに、しかし主の決定を全面的に受け入れるように、深く首を垂れた。
リビングの暖炉に火が灯される。
しかし、今夜の館に流れる空気は、これまでの穏やかな休日とは明らかに異なっていた。テーブルの上に広げられたのは、王宮から持ち帰ったアッシュフォード王国の古い地図だ。
「ティール様…アッシュフォード王国には、本当にまだ何かが残っているのでしょうか……?」
シエルが、不安を押し殺した声で問いかける。勿忘草色のドレスは、今や緊迫した空気の中で、どこか悲劇的な美しさを帯びていた。
「残っているかどうかは問題ではないさ、シエル」
ティールは地図の、かつて王都があったとされる中心部を、長い指先でトントンと叩いた。
「問題なのは、十七年間眠っていたあの場所で、なぜ今になって何かが動きだしたのかだ。突如呼吸を始めたような魔力反応だと陛下は仰っていたが、誰かが意図して不可侵領域に侵入して起こした事なのか、あるいは……」
ティールは言葉を切り、窓の外に広がる、月明かりに照らされた深い森へと視線を向けた。
「……本当に十七年間、消えていなかった何らかの存在が、目を覚ましたのかだね」
「────もしそれが、我々の脅威であるならば、俺の大剣と、ティール様からいただいたこの短剣で、すべてを切り伏せるまでです」
グレイが、腰の短剣の柄を握りしめ、サファイアの瞳に痛烈なまでの闘志を宿して言い切る。
「そうだね、グレイ。お前のその覚悟は、次の任務でも大きな役割を果たすことになるだろう」
ティールはふっと、冷酷なチェスの打ち手のような、妖しくも美しい微笑みを浮かべた。
「さあ、シエル。明日からは再び、あの堅苦しい制服に戻ってもらうよ」
「はい…! どこへでも、お供いたします、ティール様!」
シエルは力強く頷き、シエルブルーの瞳に確固たる決意の光を宿した。
世界の墓標、アッシュフォード王国。
十七年の時を経て目覚めようとする、かつての終末の記憶。
死神の一行は、穏やかな休日を終え、再び世界を調律するための、最も過酷なチェス盤へとその一歩を踏み出そうとしていた。
灰燼の底で待つものが、救済か、あるいはさらなる絶望かを知るために────




