ティールという少女(結)
6.執行官ティール・ベルレイド
季節が六度巡り、冬の終わりにまだ雪ではなく冷たい雨が降る頃、ティールは十七歳になっていた。
かつて泥にまみれ、漆黒の布を纏ってジルニアの国境に現れた十歳の少女の面影は、今や洗練された一人の執行官の姿へと完全に昇華されている。
銀糸を紡いだような美しい髪は、乱れなく肩へと切り揃えられ、感情を削ぎ落とした青緑の瞳は、まるで万物を映す凍てついた湖面のようだった。その佇まいには、ジェイドから徹底的に叩き込まれた「死神の気品」が漂っていた。
「――脆いな。その程度で反逆を為そうなど、片腹痛い」
薄暗い廃倉庫の片隅で、十七歳のティールは愛用の大鎌の柄を握ったまま、淡々とそう口にした。
彼女の視線の先には、ジルニア王国に仇なす反逆者たちの無惨な死体と、その中心で血塗られた杖を静かに収める男――ジェイドの姿があった。
「上出来だ、ティール」
パンパンと拍子打つ手のひらの音が、戦いの後の空間に木霊する。ジェイドの声は七年前と変わらず低く、落ち着いたものだったが、その目元には隠しきれない誇らしさが滲んでいる。
「魔力の流れを読み、因果の結び目を断つ。君のその『眼』は、もう私を追い抜きかけているな」
「……貴方の教えが正確だった。それだけです」
ティールは感情の起伏を取り払った声で応じ、鎌を虚空へと消し去った。
十七歳になった彼女は、すでに執行官組織において一人前の執行官として数々の任務をこなしていた。標的を冷徹に見据え、一切の迷いなく因果を断ち切るその手腕は、組織内でも一目置かれる存在だ。既に執行部門の次期上級執行官候補とも噂される程の実力を身につけた彼女の圧倒的な存在感は揺るぎないものとなっている。
さらにこの頃には『神の眼』もかなりコントロールが出来るようになり、その名をうまく伏せながら、ただの彼女固有の能力として研鑽を積んだ。
しかし、彼女は「ジェイド・ベルレイドの後継者」「次期上級執行官ティール・ベルレイド」とどれほど周囲から賞賛されようとも、決して驕ることはなく、またジェイドの側を離れようともしなかった。
任務が終われば、彼女は相変わらずジェイドの半歩後ろを歩き、彼の洗練された無駄のない身のこなし、状況判断の極意を、貪欲に、そして静かに学び続けていた。
ジェイドは彼女にとって、技の師であり、生きるための道標だったのだ。
そして、言葉にすることこそ決してないが――彼女の冷え切った世界の中で、唯一「家族」と呼べる存在だった。
厳しい訓練の後に、不器用な手つきで淹れてくれる相変わらず甘い紅茶。もはやティールの好みではなく、これはおそらくジェイドの好みだと気付いたのは比較的早い段階だったように思う。
そして任務で負傷した夜、力尽きてソファで意識を手放したときに、無言で掛けられていた、彼の体温が残る上着。
冷酷な執行官の管理する社会において、ジェイドだけは、ティールという一人の少女の「平穏」を本気で守ろうとしていた。その歪で確かな父性が、ティールの生きる拠り所となっていた。
「ティール、そろそろ想い人の一人や二人できないのか?私はそこまでの仕事人間に育てた覚えはないぞ」
「寝言は寝て言ってください。ジェイド」
この静かな師弟の日々が、いつまでも続くのだと、彼女の明晰な頭脳でさえ、どこかで根拠のない仮定を置いていたのかもしれない。
しかし、そんな因果の糸は、ある日突然……あまりにも理不尽に断ち切られる。
7.崩壊する因果
特級執行官――それは、国家の最高戦力であると同時に、最も多くの怨嗟を集める存在でもある。
ジェイドがこれまで葬ってきた歪みの数だけ、彼の命を狙う敵は、暗闇の奥で牙を研ぎ澄まし続けていた。
その日は、異様なほど静かな夜だった。
任務を終えてすぐ、急報を受けてティールが駆けつけた時、ジルニア首都の郊外にある執行官の臨時拠点である隠れ家はすでに激しい魔術戦の残響で満たされていた。
隠れ家に張ってあったはずの結界は引き裂かれ、石造りの壁は爆風で粉々に砕け散っている。
空間に充満する、焦げた硝煙の臭いと、濃厚な血の気配。
ティールの『神の眼』が、空間に残された無数の魔術の軌跡を捉えた。それは、一人の人間を確実に圧殺するために組まれた、あまりにも執拗で、容赦のない多重の殺戮陣だった。
「—―ジェイド!」
ティールの唇から、滅多に露わにすることのない焦燥が零れる。
瓦礫の山を飛び越え、崩落しかけた部屋の奥へと踏み込んだ彼女の視界に、その光景が飛び込んできた。
部屋の中心で、ジェイドは膝をついていた。
彼の身体を支えているのは、半ばから叩き折れた魔導院の杖だけだ。上質な毛皮の外套はズタズタに引き裂かれ、そこから覗く肉体には、数え切れないほどの刺し傷と、魔法を受けたことによる重度の火傷が広がっていた。
床は彼自身の身体から流れ出る赤黒い血で、池のように染まっている。
周囲には、彼が道連れにしたであろう敵の死体が転がっていたが、ジェイド自身の命の灯火が、もう風前の灯であることは誰の目にも明らかだった。
「ジェイド。動かないでください。今、治癒魔法を――」
なぜ、なぜ今日に限ってそばにいなかったのか。
ほかの任務を任されていたために仕方がなかった状況だが、頭にはそんな後悔の念が渦巻いた。
ティールは素早くジェイドの側に駆け寄り、その白い手を彼に掲げる。彼女の『神の眼』が、ジェイドの肉体を繋ぎ止めるための、最も確率の高い魔術式を瞬時に編み出そうとするが、ジェイドの血に汚れた大きな手が、ティールの手首を弱々しく、けれど拒絶するように掴んだ。
「……よせ、ティール…私は、もうここで終わりだ」
いつもの落ち着いた声音はそこには無く、か細く弱々しい声で呟いたジェイドの口から、ゴボリと赤黒い血が溢れる。彼の視線は、もうほとんど定まってはいなかった。それでも、彼は残された最後の力を振り絞るようにして、十七歳になった愛弟子であり、義娘の顔を見つめた。
「敵の……本隊は、退けた。だが、私の身体も、とうに限界を迎えている───グ、ゴホッゴホッ……っ」
「ジェイド」
ティールの声が、微かに震えていた。
その青緑の瞳には、涙こそ浮かんでいない。しかし、その瞳の奥には、十歳の夜に故郷を失って以来、一度も他者に見せたことのない動揺が明確に浮かんでいた。
彼女の『神の眼』には、ジェイドの生命力が、まるで砂時計の砂のように凄まじい速度で失われていくのが見えていた。どんなに魔術を編もうとも、どんなに因果を捻じ曲げようとも、目前に迫るこの男の死という絶対的な結末を覆す術は、世界のどこにも存在しない。
初めての…否、これは二度目となる無力感だ。
唯一の家族をまた失うという恐怖が、いつもの冷静なティールの頭脳を狂わせようとしていた。
だが、そんな彼女の僅かな動揺を、ジェイドは許さなかった。
彼は掴んでいたティールの手首を離すと、今度はその肩を右手で強く掴んだ。
「しっかりしろ、ティール!!」
血を吐きながらの、烈火のような怒号だった。その声に、ティールは息を呑み、身体を硬直させた。
「お前は…私の誇りだ。私が遺す、唯一の生きた証だ。そんな顔で、ここで立ち止まるな」
ジェイドは、霞む視界のなかそう告げると、自らの胸元から一本の古びた鍵を取り出し、ティールの手のひらに握らせた。それは、彼が執行官組織内に個人的に所有していた、世界のあらゆる禁忌の知識が眠る秘密書庫の鍵だった。普段、彼からその鍵を借り受けて閲覧していた書庫のたった一つの鍵。
それは、ジェイドとティールのみが触れることを許されたものだった。
「生きろ。ティール。……汚泥にまみれ、どんな孤独に苛まれようとも、生き延びて、お前が望む本当の平穏を掴み取れ」
ジェイドの淡い紫の瞳に、最期の時を迎えた人間のものとは思えないほど、鋭く、そして深い光が宿る。
すると彼は、ティールがずっと心の奥底に隠し、誰にも明かさず、自分自身でさえも忘れ去ろうとしていた「最大の秘密」を、その掠れた声でありありと口にした。
「────エルドラの名を…決して忘れるな」
「ッ!?」
ティールの息が、完全に止まった。
頭を激しく殴られたような衝撃が、彼女の全身を駆け巡る。
エルドラ。
それは、ジルニアの孤児院で彼女が使ったティールという名前ではない。かつて炎の中に消え去った、アッシュフォード王国の王族のみが冠することを許された、高貴なる王女の名。
十歳のあの日、生き延びるために自ら切り捨て、このジルニアの地では一言も口にしたことのない、彼女の本当の名前。
なぜ、ジェイドがその名前を知っているのか。
特級執行官としての膨大な情報網のどこかで、アッシュフォードの生き残りの特徴を掴んでいたのか。それとも、最初からすべてを知った上で、ただの「流れてきた孤児」として彼女を拾い、父親として育てていたのか。
その答えを尋ねる時間は、もう残されていなかった。
「お前は…ただの死神ではない。生きろ────ティール…我が娘よ……」
ジェイドの身体から、完全に力が抜けた。
折れた杖を握りしめたまま、彼の頭がガクリと前に倒れる。掴まれていたティールの手首から、男の体温が、急速に冷めていく。
「……」
静寂が、部屋を包み込む。
聞こえるのは、やけに響く自分の心音だけ。先ほどまで確かにそこにあった、厳しくも優しかった男の気配は、もうどこにもなかった。
十七歳のティールは、血の海の中に崩れ落ちたジェイドの遺体の前で、ただ呆然と膝を着いていた。
手のひらの中には、彼から託された冷たい鍵。
耳の奥には、彼が最期に残した、本当の名前の残響。
彼女は最後まで涙を流すことはなかった。ジェイドに「死神たるもの、常に気高くあれ」と言われて育ったのもあったが、何よりも先程の叱咤が彼女の胸に刻み込まれていたからだ。
────ここで、立ち止まるな
彼女の青緑の瞳の奥には、ジェイドが命を賭して灯した消えない執念の火が、確かに燃え移っていた。
「……あぁ」
ぽつりと、掠れた声で呟く。
ティールはゆっくりと立ち上がり、ジェイドの遺体に向かって、彼から教わった最も美しい、完璧な礼を捧げた。
彼女はもう、過去から逃げるだけの孤児ではない。
師であり養父の死を、その遺志をその身に刻み込んだ、一人の孤独な死神だ。
「生き延び、そして私の望むものを手に入れて見せよう……ティール・エルドラとして」
その夜を境に、彼女は自らを『ティール・エルドラ』と名乗るようになった。
それは、かつて滅びた故郷への未練ではない。自分を育て、最期にその名前を呼んで死んでいった、ジェイドという男に対する、彼女なりの唯一の「誓い」だった。
十七歳の少女は、雨に濡れたコートを深く纏い直すと、自分よりも随分と大きなジェイドの遺体を背負って、自分よりも一足遅くやってきた他の執行官たちの元へと静かに歩き出した。
いつか誰も自分を脅かすことのできない、本当の平穏を力ずくで手に入れるために。
それはいつの間にか雨がやみ、冷たい初雪が降る夜の出来事だった。




