ティールという少女(転)
5.愛しさとは
黒で統一された特級執行官の執務室。
部屋の明かりは机の上のランプと、壁際に灯された僅かな蝋燭のみ。豪奢な毛皮の外套を椅子にかけ、仕立ての良い黒の衣服に身を包んだジェイドは、集められた数々の報告書に目を通していた。
「――以上が、今期、財政部門の査察で摘発した、一部貴族による横領の証拠です」
影から現れた執行官が、冷ややかに報告する。ジェイドは薄紫色の瞳を僅かに細め、ジルニア王国の紋章が刻まれた杖にそっと手を置いた。その佇まいは、上品で穏やかでありながらも、触れれば魂ごと圧殺されそうな威厳に満ちている。
「光が強くなれば、影も自ずと増殖する……抹消処分を。彼らの因果には、ここで終わりを与えよう。我ら執行官とは、ただ命を奪う者ではない。未来を繋ぐために、必要な終わりを与える者だからね」
「御意」
短い、容赦のない命令。目的のためなら手段を選ばず、歴史の裏側で国の均衡を保ち続ける。これこそが、歴代特級執行官の中でも特出して優秀な「真実」と「禁忌」に精通した男、別名『黒の宰相』と呼ばれるジェイド・ベルレイドの本質だった。
彼の執務室に並ぶ魔導書はどれも特殊なもので、そもそも一般人が触れてはいけないような危険な本も置いてある。ただ、ジェイド以外にそれらに触れることを許された唯一の人物が存在する。
ジェイドが事務処理を終え、指示を受けた執行官が書類を手に部屋を出ていこうとした、その時だった。
極めて小さいノックの音とともに、執務室の重厚な扉が静かに開く。
そこに入ってきたのは、まだ執行官組織にやってきて丸一年が経過した、十一歳のティールだった。
「おや、ベルレイド嬢、ごきげんよう」
執行官の男が、ティールに恭しく礼をする。
この頃のティールは、ティール・ベルレイドと名乗っていた。ジェイドの養女になったのだから姓を与えられるのは当然であり、何より特級執行官の娘であれば丁重に対応せねば首が飛ぶ貴人である。
が、その名はまだ彼女に定着していない。名を呼ばれるたびに、どこか他人事のように聞き流してしまう時があり、ハッとする事がしばしばあったのを、彼女は今でも思い出せる。
「…ごきげんよう」
銀糸の髪を小さく揺らし、相変わらずの仮面のような無表情のまま小さくお辞儀をして見せると、ティールはそのままジェイドの机の前へと歩み寄った。彼女の手には、ジェイドが与えた禁書の一つ、古代魔術の記された分厚い書物がしっかりと握られている。
「……ジェイド。ここ、わからない」
ティールは本の特定のページを指差し、ぽつりと言葉を零した。
十一歳の子供にしては端的な、短く、飾らない物言い。けれどその青緑の瞳だけは、大人さえ気圧されるほど静かに澄んでいる。
彼女のことを何も知らない人物がこの場にいれば、ノックはしたものの返事を待つことなく執務室へ入り、総責任者にそんな口調で話しかける少女の不作法さに、恐怖で息を呑んだだろう。だが全てを知る先ほどの執行官は生暖かい眼差しを向けてから、そっと部屋を出ていったのだった。
何よりの証拠に、ジェイドの薄紫色の瞳から先ほどまで張り付いていた『黒の宰相』の冷徹な光が、ふっと消える。
「おや、どうしたのかな?うちの可愛いお姫様は」
ニコ、と陽だまりさえ思わせる穏やかな笑みを浮かべたジェイドが、指を組んで机に肘をつくと、そこに顎を乗せてみせた。
「その呼び方はやめてと言ったはず……」
実に不服そうな眼差しを向けたティールから、嫌悪というなの感情が溢れるが、ジェイドは全く気にする様子はない。それどころか若干嬉しそうですらあるのだから、ティールはこの男の扱い方に困惑していた。
「まぁまぁ、そう焦るな、ティール。君の『頭脳』は確かに優秀すぎるほど優秀だが、肉体の成長が追いつかぬうちに無理をすれば、脳が焼き切れてしまうぞ」
何度か同じようなフレーズの言葉を聞かされたな…と、ティールはやや諦めた面持ちでジェイドを見上げた。こうなれば彼がこれ以上自分に教鞭をとってくれることはないのだと、この一年で学んでいたからだ。
そんなジェイドはというと椅子から立ち上がり、すらりと高い身体を十一歳の少女の目線に合わせるようにして、静かに片膝をついた。
まるで本当の娘に接している父親のような柔らかな雰囲気が、かつての父を思わせて、相変わらずティールは少し苦手だった。
「逸る気持ち、焦りの感情は時に判断を狂わせる。かつて私は君にそう教えたな。だが……」
ジェイドは、いつも嵌めている黒い革手袋を、自らの手からゆっくりと外した。
現れたのは、数々の戦場と暗闘をくぐり抜けてきた、傷跡だらけの手のひら。彼はその大きな手で、ティールの小さな頭を、まるで世界で最も壊れやすい宝物に触れるかのように、酷く優しく撫でた。
「君のことになると、私はどうにも例外のようだ。少なくとも私の目が黒いうちは、君の未来は私が保証する。だから安心してゆっくり成長しなさい」
「……その割には訓練は厳しいけど」
「ハハ!君の潜在能力を知っているからね、だけど無理をさせたことは無いだろう?」
(それはそうだけど、実際厳しいのか、優しいのか…よくわからなくなる)
ティールは頭に乗せられたジェイドの手のひらの感触を、じっと大人しく受け入れていた。
国を滅ぼされ、全てを失ったばかりの彼女にとって、この冷徹な男は世界で唯一彼女の価値を見いだし、そして彼女が信頼を置く大人である。
現在のティールが扱うような『神の眼』程の能力を持たない当時の彼女は、精々術式や構造が見える程度、そしてあの大鎌を出現させるしか『神の眼』の力を持たない。
だがジェイドは、その「冷徹な黒の宰相」のイメージが揺らぐほどには、ティールを実の娘のようにゆっくりと穏やかに、しかし確実に死神として独立することができるよう成長させていくことを決めていた。
「今日はもう、本を閉じなさい……そうだ、がんばったご褒美に、紅茶を淹れてやろう」
そう言うジェイドは立ち上がり、執務室の隅にある茶器のセットへと向かった。
手慣れた動作で西方の高級な茶葉をお湯に躍らせ、二つのカップに琥珀色の液体を注ぐ。
そして裏社会の誰もが恐れる冷酷な男であるはずの彼は、真剣な顔でシュガーポットを開けると、その琥珀色の綺麗な紅茶が注がれた2つのカップへ砂糖を山盛りに三杯、四杯と投入し始めた。
そう、なんの躊躇もせずに。
「ふふ、子供は、甘いものが好きだろう?」
それは、ジェイドなりの不器用な養父としての配慮である——と同時に、単に彼の好みであると知るのはもう少し先の話である。どこの誰が、こんな渋い上品なおじ様が激甘紅茶を喜んで飲むタイプだと判断できるだろうか。
彼は自分のカップとティールのカップに蜂蜜色になるまで砂糖が溶けた激甘の紅茶をスプーンでかき混ぜてから、目の前に置いた。
「さあ、お飲み。たくさん頭を使ったからな、甘いものが体に染み渡るぞ」
「…………」
沈黙が察する通り、ティールは無糖の紅茶のほうが好きだった。
アッシュフォードにいた頃から、彼女は渋みのあるストレートティーを好んでいた。だが目の前に置かれたカップからは、鼻が曲がりそうなほど甘ったるい匂いが漂っている。
砂糖が溶けている様子が視認できるほどの、液体の歪みが見えるのには鳥肌が立った。
今まで通りの彼女なら「いらない」と拒絶するか、明らさまに嫌な顔をするところだ。
しかし、ティールは、ジェイドの薄紫色の瞳の奥にある「自分を気遣う不器用な温もり」を、ちゃんと理解していた。
(ジェイドが、私の、ために、淹れてくれた)
だからティールは、表情筋を殺した。
暗示をかけるように脳内でそう唱えてから小さな両手でカップを持ち上げると、おちょぼ口で、その吐き気がするほど甘い紅茶を静かに、こくり、と飲み下した。
「……どうだ?」
ジェイドが、どこか期待するような声で尋ねる。
ティールはカップをそっと置き、口元の甘さを押し流すように一度視線を落とすと、いつもの淡々とした声で、静かに言った。
「……おいしぃ」
語尾がしぼんでいたのはバレていないだろうか。
「そうか。なら良かった」
ジェイドの口元に、部下たちには決して見せることのない、満足げな微笑みが浮かぶ。
「明日もまた淹れてやろうな」という彼の言葉に、ティールは小さく「…うん」とだけ頷いた。
本当はストレートが好きな少女と、子供は甘い方が喜ぶと大真面目に勘違いしている大の甘党の男。
ティールがジェイドの優しさを受け入れ、一切文句を言わずに飲み干してしまうせいで、この愛おしい勘違いは、決して修正されることはなかった。
カチャ、と僅かな音を立て、ティールはティーカップをソーサーに戻した。
「どうかな、これで少しは私の養父のことがわかっただろう」
「少ししかお聞きしたことはありませんでしたが…まさかそんなにお茶目な方だったとは。とても素敵です」
少し惚けた表情で言ったシエルに対して、グレイはどこか落ち着かない様子で視線をチラリとユーリス、リアーネへと向ける。
「あの夜、国を去ったあとに、そのようなことがあったのですね…というより、平然と話しておられますが、ティール様のことは、その…お二人はご存知で?」
心配していたのは、ティールの身分の話のようだ。普通に喋っているところを見るに、おそらくこの二人はティールの本来の身分を知っているであろうことは予測できたが、それでも警戒してしまうのはもはや癖である。
「ん?あー安心しな。俺とリアーネ、それからテリオンだけが知っている。まぁ、知ったのは10年くらい前になるか?他に言いふらしたこともねえし、バレるようなことはまず無い。その点は、しっかり執行官やってるからなぁ」
「ですねぇ〜」
不敵な笑みを浮かべた二人に、グレイはほっと胸を撫で下ろした。
「そういえば、リアーネ様たちとはいつ頃出会ったのですか?」
ふと、シエルがそんな質問を投げかける。
「まともに出会ったのは、私が十五のときだったか───「ああーっと!その話はややこしくなるから、また今度な!」
が、その回答は苦笑いを浮かべたユーリスの大きな声と手で遮られた。目前に遮るように投げ出された腕を、少し不服そうなティールの眼差しが睨みつける。とユーリスがさらに視線を向けて首を横に振った。
「うふふ、今度ゆっくり話してあげますねぇシエルちゃん。何せ曲者揃いだったので、話すと長ーくなっちゃいますからぁ」
残念がるシエルの肩に手を乗せ、顔を近づけたリアーネの淡いピンクの髪がシエルの頬をくすぐると「わ、わかりました…」と諦めた様子で笑って見せた。
「さて、話も終盤だな。もうクライマックスだぞ、よく聞きなさい」
「どこまで話すんだよお前、てかよくそこまで細かく覚えてんな…」
「中途半端で終わっては、彼に失礼だろう」
そう言うティールはもう一口紅茶を含むと、続きを話しはじめるのだった。




