ティールという少女(承)
3.冬の訪問者
孤児院にその男が現れたのは、雪が激しく降り積もる、冷え込んだ日の夕暮れ時だった。
上質な毛皮の外套に身を包んだ中年の男は、ジルニア王国の執行官組織の紋章が刻まれた杖を手に、シスターたちの案内で地下の書庫へと足を踏み入れた。
白髪混じりの少し長い暗い色の髪。薄い紫色の目。どこか威圧的ながらも上品な雰囲気をまとうその男の名は、ジェイド・ベルレイド。
ジルニア王国の表から裏までを統括する執行官機関の最高責任者、特級執行官だった。
ギィィ、と古い木製の扉が押し開かれる。その薄暗い書庫の片隅、ティールは凍えるような寒さの中でも指先一つ震わせず、分厚い魔術構築の本を静かにめくっていた。
腰まで伸びた長い銀髪に淡い青緑の鋭い眼差し。孤児院の質素なワンピースをまとった少女は、ジェイドの存在に気付いているかいないのか、視線を向けようとはしない。
「……君が、国境を越えて流れてきたという孤児だね」
ジェイドの低い声が響く。だが、ティールは視線を書物から外さない。ページをめくるカサリ、という微かな音だけが返答だった。
「ほう、初対面の大人の問いかけを無視するとは、随分と不作法な女の子だ……それとも、失った故郷と共に言葉もなくしたか?」
その言葉に、ティールは初めて手を止めた。
ゆっくりと顔を上げ、仮面のような無表情のまま、ジェイドの姿を青緑の瞳でじっと見つめる。
「……誰だか知らないけど、邪魔しないで」
ぽつりと言葉を返す。その声には過去を懐かしむような情も、故郷を奪った者への憎悪も、欠片ほども含まれていなかった。ただ思ったことを告げるだけの、酷く平坦な響き。
「なぜそんな古い本を貪り読んでいる? 生きるために物乞いをする術でも学んでいるのか?」
「……身を守るため」
ティールは本を閉じ、静かに立ち上がった。十歳の小さな体躯。けれど、彼女から放たれる気配は、およそ子供のそれではない。読んでいる書物も、到底この年齢の子供に理解できるような代物ではなかった。
そして、この地下室に入る手前、扉の向こうから僅かに感じた魔力反応はこの少女の物だろう。
階段を下りてくるジェイドの存在に気づき、とっさに何らかの力を隠したことには彼にかかれば容易に気づけた。焦りからか、彼女の右目がわずかに淡く発光している点から見ると、まだまだ魔力の制御が未熟なのだなとジェイドは考える。
だが、それ以上に彼女は噂通りの優秀な子供のようだった。
「……私は、静かに過ごしたいだけ」
「静寂、か」
ジェイドは小さく笑った。
「なら、ここを出よう。私のもとへ来れば、誰にも邪魔されない、君が望むだけの静かな部屋と、世界のあらゆる知識を詰め込んだ書庫を与えてあげられる」
ジェイドが告げたのはティールにとって実に魅力的な提案だ。ここ数日間ずっと悩んでいた知識の限界という問題を、この男はすぐにでも解決してみせると言ってのけたのだ。確かに、遥かに己のためになるだろう。
だが、ティールは騙されなかった。彼女のわずかに光った『神の眼』は、男の背後に渦巻く、どす黒い魔力の残滓と、血の臭いを見逃さなかった。この男の手をとれば、自分が血生臭い社会の道具にされるであろうことは明白だった。
「……代償は」
短い問いかけ。子供らしい純真さを一切捨て去ったその一言に、ジェイドの目が鋭く細められた。
「賢い子だ。代償は、その『眼』と『頭脳』だ。我が国に仇なす歪みを、君のその冷徹さで排除してもらう。……つまり、君にはジルニアの死神になってもらうということさ」
沈黙が書庫を支配する。
死神。それは、彼女の望む平和とは真逆にある、血と硝煙の世界。
しかし彼女にはそのような物騒な名前よりも遥かに引っかかる言葉があった。
(今、『眼』と言った…?)
ティールは自分の能力のことについて徹底的に隠してきたはずだった。
魔導書はここでしか読んでいないし、外で試すにも人のいない場所を選んでひそかに能力を使った。
だがまぁ、この特級執行官の情報網と手にかかれば、そのような特殊な子供がいることなど、どうとでも聞きつけられるのだが、そんなことを当時のティールが知る由もない。
(…この人、いったいどれだけの力を持っているのだろう)
底の知れない目の前の存在。そして、ついにティールは拒絶しなかった。
ここでただの哀れな孤児として、いつ終わるとも知れない貧しい生活に身を窶すか。それとも、彼の下でこれ以上の知識と戦う力を得て、誰も自分を脅かすことのできない「本当の平穏」を力ずくで手に入れるのか。
答えは、最初から決まっていた。
「……分かった」
ティールは古びた本を机に置き、ジェイドの側へと歩み寄った。その足取りには、一切の迷いも、恐怖もなかった。
これが、後にジルニアの特級執行官ティール・エルドラの、すべての始まりの夜だった。
十歳の少女は、自ら望む「平穏」のために、冷たい死神のコートを纏う道を選んだのだ。
4.死神の揺り籠
ジルニア王国王都、その王城の近くにそびえる黒い塔が執行官組織の本部である。
その中にジェイドがティールに用意した「静かな部屋」と「膨大な書庫」は本物だったが、そこは同時に、冷徹な執行者を仕立て上げるための、血と汗にまみれた訓練場でもあった。
彼に養女として引き取られて数日、身なりを整えたティールは仕立ての良い衣服を身にまとい、一躍執行官組織の有名人となった。
特級執行官が連れ帰ってきた少女ともなればごく当たり前のことであったが、勿論ただそれだけの理由などではない。
養女として引き取られたはずの十歳のティールに与えられたのは、愛娘に与えられるような少女らしい玩具ではなく、冷たい鋼の剣と、世界を理解し、他者を屈服させるための数多の魔術書だった。
「立ちなさい、ティール。死神は決して地に這い蹲るような真似はしない」
ジェイドの冷徹な声が、凍てつく訓練場に響く。
まだ成長途中の小さな身体に、容赦のない風魔法の衝撃が叩き込まれた。ジェイドの杖の一振りが、ティールの細い身体を容赦なく弾き飛ばし、彼女は冷たい石床を何度も転がった。
「……っ」
口の中に広がった鉄の味を、ティールは無言で飲み下す。泣き言は言わない。ただ青緑の瞳に宿る、この世の全てを観察するような静けさだけは、どれほど打ち据えられても決して曇らなかった。
ジェイドという男は、徹底していた。
暗殺の技術、気配の断絶、標的に疑念を抱かせないための気品ある立ち居振る舞い、そして、どれほど凄惨な現場にあっても心を平穏に保つための自己コントロール。ティールが「ただ静かに生きたい」と望むなら、それを脅かす全てを排除できるだけの最強の牙を、彼は植え付けようとしていた。
そしてその指導は、弱冠十歳の少女に向けられるものなどではなく、他者が戦慄するほどに苛烈だった。
だが、同時に、この男は——妙な男だった。
「……今日はここまでだ」
訓練が終わる合図と共に、ジェイドは冷酷な教官の仮面を外す。彼は床に倒れ込んだままのティールに歩み寄り、大きな手で、彼女の銀髪に付いた泥を不器用にはたき落とした。
「ジェイド…っ、私はまだ」
「焦るな、小さな死神。肉体の回復が追いつかなければ、脳の演算も鈍る」
ジェイドの手のひらは、かつて数多の命を奪ってきたであろう無骨なものだった。けれど、ティールの頭を撫でるその動きだけは、割れ物を扱うかのように酷く優しいのだ。
厳しく、容赦なく、けれど決してティールを使い捨ての道具としては扱わない。
食事の席では、ただ淡々とスプーンを動かすティールの前に、常に栄養のあるものを黙って取り分けた。ティールが熱を出して倒れた夜は、徹夜で彼女の枕元に寄り添い、濡れタオルの温度を何度も氷魔法で調整しては、清らかな空気を送り続けた。
「……なぜ、そこまでするの」
意識が朦朧とする中で尋ねた十歳のティールに、ジェイドは自嘲気味に微笑んだ。
「この世界は、君のような子供には優しくない。私はただ、君がいつか本当の平穏を見つけた時、そこへ辿り着き、守るための『術』を教えてやっているだけさ」
その眼差しには、冷徹な組織の長としての色ではなく、もっと泥臭く、不器用な情愛が滲んでいたように思う。
そう、まるで——
(……まるで、父親のような)
ふと脳裏によぎった父の姿に、軽くかぶりを振って俯く。ティールはその言葉を口にすることはなかった。かつて失った本当の家族の記憶は、心の奥底に沈めてある。しかし、ジェイドが注ぐ歪で、それでいて確かな温もりは、感情の希薄な彼女の心に、小さな、けれど消えない足跡を残していった。
ジェイドに徹底的に仕込まれた、洗練された死神としての立ち居振る舞い。
それは、後にティールが成長し、完璧な特級執行官として君臨するための、揺るぎない骨組みとなっていった。
彼女の冷徹な仮面の裏には、この「厳しくも優しい男」から受け継いだ、生き抜くための冷たさと、微かな人間の温もりが、確かに息づいていたのだ。




