ティールという少女(起)
1.境界の孤児
アッシュフォードとの国境を越えた、隣国ジルニア王国の寂れた辺境の村。
冷たい雨が降る夕暮れ時、泥まみれの漆黒の布を纏った、一人の小さな少女がふらりと現れた。
銀色の髪は泥と煤で汚れ、衣服はあちこちが破れて痛々しい。しかし、村の衛兵たちが彼女を発見した時に最も驚いたのは、その少女が自分たち兵士に対し「全く怯えていなかった」ことだった。
「おい、お前。どこから来た? 名前は?」
衛兵の問いかけに、十歳のティール・エルドラ・フォン・アッシュフォードは、感情を排した青緑の瞳を静かに向けた。
「……ティール」
その声は、飢えと疲労で掠れていながらも、奇妙なほどに落ち着いていた。普通の子供であれば、泣き叫び取り乱すはずの状況だ。だが、彼女はただ静かに、自分が置かれた現状――「母国であるアッシュフォードは滅び、自分は隣国へ逃れてきた」という事実だけを受け入れ、生き延びるための最適な手段を模索していた。
「……可哀想に、ショックで頭が狂っちまったのか」
衛兵たちは彼女を「親を失い、精神を病んだ哀れな孤児」として保護した。
国境沿いの冷たい教会の一室。与えられた硬いパンと薄いスープを、ティールは急ぐこともなく、ただ淡々と口へと運ぶ。美味しいとも、不味いとも思わない。ただ、体を維持するために必要な栄養素を取り込むというだけの作業だった。
薄い雲に覆われた窓の外を眺めながら、ティールは思う。
(私は生き延びた。なら、これからどうひとりで生きていけばいいだろう…)
アッシュフォードの王宮での、あの穏やかで、静かで、ただ本を読んで過ごしていた平和な日々はもう二度と戻らない。それを理解した上で、彼女は自らの心に分厚い氷の壁を築き上げていた。
過去を思い、嘆くような脆い感情は、生き延びるための不要な雑音でしかない。ただ静かに、平穏に過ごせる場所を見つけるために、今はこのジルニアの地で息を潜めて知識を得る。それが、十歳の彼女が導き出した、唯一の方法だった。
2.白い箱の生活
ジルニア王国の国境沿いにあるマリア孤児院は、ティールにとって「ただ雨風をしのぐだけの場所」だった。
十歳という幼さで母国と全てを失った彼女は、その異質なまでの物静かさと、感情の起伏のなさゆえに、施設の中で完全に浮いていた。どこにでもいる孤児を装うことは簡単だったが、彼女のその歳不相応な様子はどうしても異質に映る。
「ねえ、ティールちゃんも一緒に遊ぼうよ。裏庭でね、綺麗なお花を見つけたの」
同年代の少女が声をかけてきても、ティールは手元にある古びた歴史書の写本から目を離そうともしない。
「……遠慮する」
ただ一言、感情の乗らない低い声でそれだけを告げる。
「え…? あ、えっと…ご、ごめんね」
少女は不気味なものを見るような目で身を引いて、それからだんだんと近づいてこなくなった。
他の子供たちにとっても、ティールは「何を考えているか分からない子」だった。泣きもせず、笑いもせず、ただ部屋の片隅で静かに本を読み耽っている姿は、周囲の無邪気な子供たちとは明らかに異質だった。
だが、ティールには友達を作る気など最初からなかったのだから当然の結果とも言える。この孤児院での他者との情緒的な繋がりは、かつて故郷が一瞬にして灰となったあの夜を知る彼女にとって、最も不確実で、無意味な壊れやすいものでしかなかったからだ。
────生き延びなければならない
幼かった彼女の行動原理は、ただそれだけだった。
ティールは生きるために、自分がこの施設で果たすべき役割を淡々とこなした。子供らしい愛嬌を振りまく代わりに、労働力としてシスターたちの役に立つ道を選んだのだ。
夜明け前に誰よりも早く起き、魔力で強化した身体で井戸から重たいバケツを引いて水を汲み上げる。施設の帳簿に目を通せば、修道女たちが頭を抱える計算を、僅か数秒見返すだけで修正点を見つけ出し、無言でペンで修正してみせた。
「ティール、あなた本当に十歳なの…? まるで、学者の魂か何かが宿っているみたいね」
シスターが感嘆を隠せずに呟いても、ティールは表情を変えない。
「…終わりました。地下の書庫の鍵を借りても?」
「え、ええ。構わないわよ。どうせ誰も読まない、古い本ばかりだからね」
シスターから地下室の鍵を受け取ると、ティールは小さく頭を下げて、すぐにその場を去った。
これこそが、ティールの本当の目的だった。
彼女は施設での義務を果たしたあとの時間を、すべて「学び」に費やした。
孤児院のほかの子供がいる場所では落ち着いて読書もできない。それで、数日前に知ったこの地下の薄暗い書庫で、読書をすることにした。
王族として幼い頃から受けていた高度な教育が、彼女の理解を助けてくれていたように思う。文字を追い、歴史を紐解き、そして何より、この世界を構成する「魔術の理論」をその頭に叩き込んでいく。
彼女の持つ『神の眼』は、魔導書に使えば、書かれた複雑な魔術式が空間の中でどう結びつき、どう機能しているのかを、まるで目に見える実体のように捉えることができた。宙に浮かぶ青白い魔法式と魔法陣。それらを見つめながら、構造を理解するのは案外簡単だった。
「ここまでか…この続きは、もうこの本棚にはないみたい」
ポツリ、と誰に言うでもないが一人呟かれた声は湿っぽい書庫に吸い込まれた。
所詮、孤児院の地下にある粗末な書庫だ。
積もった埃を退けて同じタイトルの本を探すが、綺麗に陳列もされていない古びた本棚には、きちんと揃わないバラバラのタイトルが並んでいるだけで、これ以上このタイトルの本の知識を得ることはできそうになかった。
読んでいた本を棚に背伸びをして押しこんでから、ティールはふぅと一息吐いた。
(いつ、ここから出よう)
限りある知識。しかし今、この身一つでここを出て生きていくには、あまりにも俗世を知らなすぎる。
ただ屠る力はあっても、経済力や生活力、一人で生きていくには別の問題があった。
そして、この目の存在を他人に知られてはならないことに、聡明すぎる彼女は気づいている。だれも近づかないこの地下書庫でのみ、『神の眼』を使って魔導書を読んでいるのもシスター達にバレないためだ。
『神の眼』が存在したアッシュフォードという国は今や世界にとって禁忌となった。
外で聞く噂は、アッシュフォードは禁忌に触れて燃えたのだ、とか、扱いきれなかった魔力が暴走した、だのという全くもって根拠のないうわさ話ばかりだ。だがそのような噂話が真実になるであろうことは予測できた。
臣下の裏切りから生まれた炎が白日の下にさらされることなど、まずないだろう。そのためにやつらは徹底的に隠蔽し、民を皆殺しにまでしたのだから。
誰とも馴染まず、誰の慰めも受け入れず、ただ一頭の幼い狼のように、生きるための知識を貪る日々。
ティールが求めていたのは、かつて失った誰にも邪魔されない「静かで穏やかな時間」そのものだった。
それを取り戻す力を蓄えるために、十歳の少女は、ただ孤独な暗闇の中で静かに刃を研ぎ澄まし続けていた。
その異常なまでの早熟さと、魔術の本質を見透かす青緑の瞳が、やがてジルニア王国の暗部である執行官機関に発見されるのは、それから間もない、ある冬の日のことだった。




