穏やかな我が家(下)
3. 穏やかな朝のルーティン
ガルディニアでの劇的な嵐が嘘のように、ジルニアの館には、絵画のように穏やかな時間が流れていた。
帝国のきらびやかな社交界や、暗殺者の放つ毒刃に神経を尖らせる必要のない日々。ティールが設計したその館の朝は、いつも決まって、心地よい静寂と共にはじまる。
「――シルヴァ。あまり早くから私を急かさないでほしいね…」
まだ外には朝もやが残る時間の寝室。
薄暗いカーテンの隙間から差し込む光の中、ティールはベッドの脇で端然と座り、こちらに向けられるシルヴァの熱烈な視線を感じて目を覚ました。
白銀の巨躯に向けて、低く気怠げな声をかける。
シルヴァは決して吠えないし、ベッドに前足をかけるような無作法もしない。だが、ティールがしばらく任務などで館にいなかった時に限り、こうして「早く起きて構ってください…」とでも言いたげな、潤んだ瞳で無言の圧をかけてくるのだ。普段、礼節を弁えた素晴らしい魔獣であるのに、疲労が残る主に対して何故かこの点だけは容赦のないシルヴァ。これに関しては彼なりの精一杯の甘えなのだろうとは思う。
その愛くるしい姿に結局は絆されて、ティールは流れるような銀髪を揺らしながら、ゆっくりと上体を起こした。
ティールが寝台から降りると、シルヴァは静かに一歩下がり、主が衣服を整えるのを完璧な姿勢で待つ。
白いゆったりとしたブラウスに袖を通し、いつも履いているピッタリとしたスラックスよりもだいぶん緩いデザインのボトムスを履けば、完全にオフのティールの出来上がりである。
髪を適当にひとつにまとめて一息ついたティールが、シルヴァの大きな頭を一度だけ優しく撫でると、シルヴァは嬉しそうに鼻息を鳴らし、主の歩調に一歩の狂いもなく寄り添って部屋を出た。
リビングへ降りると、そこにはすでに香ばしい香りが漂っていた。
「あ、ティール様! おはようございます」
キッチンから顔を出したのは、すっかり健康的な血色を取り戻したシエルだ。「シルヴァ、ティール様をまた早起きさせたわね?」と小さくめっと叱る姿も大変愛らしい。
彼女はガルディニアでの一件以来、自分の体調管理と、ティールへの給仕に一層の情熱を注いでいた。もう二度と心配をかけまいという彼女なりの努力である。
「今朝は、市場で仕入れた新鮮なジャガイモのポタージュとサラダ、焼きたてのクロワッサンですよ」
「おはよう、シエル。ふむ、いい香りだね」
食堂に漂う香ばしい、パンの焼けた香り。窓の外から流れこんでくる澄んだ森の空気とともにティールの肺を満たしていく、幸福の瞬間である。
ちなみに、普通の侍従であれば主人を起こし、身支度を整え…と起きてから常にそばに付き従うものだが、この家では少し違う。
ティールは朝の身支度も自分で整えるし、入浴も何もかも自分でするのだ。シエルが一度「お背中を流しましょうか?」と提案したこともあったがキッパリと断られてしまった。
なんでも、彼女は身支度を手伝ってもらうのが昔から苦手だったのだとか。
アッシュフォードの王女時代も、常に誰かがいる環境が落ち着かなくて、よく抜け出しては中庭にある木の影に隠れて読書をするくらいだったのだ。
「そういえば…クローゼットの進捗はいかがですか?」
シエルは、ティールの前に温かいスープと完璧な焼き加減のクロワッサン、そして今朝とったばかりの野菜で出来た瑞々しいサラダを並べながら尋ねた。
「大工たちの施工は、想定通りに進んでいるよ。これで、またお前の服や装飾品を増やしても問題は無さそうだ」
そう答えながら席につくと、すぐに足元でシルヴァが丸くなる。
並べられた暖かなスープを上品にスプーンを運び、「うん」と満足げに頷けば、シエルの表情もまた満足気に和らいだ。
絶賛工事中の「シエル専用の衣裳部屋」は、まもなく最新のドレスから普段の執行官制服まで、色ごとに美しく分類されて収められることとなる。
そうなれば今どのような色の服があり、どのようなデザインがあるのかまさしく一目瞭然である。そんな中「あぁ、もっと大きな姿見も必要だな」と思いついたことは口にしなかった。
「本当に、部屋を丸ごと一つ衣装部屋にしてしまうなんて…いまだに夢のようです」
「必要な投資だ。特級執行官の副官たる者が、衣服の収納に困って眉をひめるなど、許されないからね」
その一見筋が通っていそうで通っていない理屈に、シエルは困ったように、けれど嬉しそうに微笑むのだった。
4.書類仕事と風切音
様々な魔道具が置かれた、白い屋敷の中で唯一黒と紺色で統一された執務室。本棚に囲まれた薄暗いティールの仕事部屋では、カリカリと羽根ペンを動かす音が静かに響いていた。
ガルディニア帝国での出来事の報告書を書いているのだが、その内容は文字に起こして改めて見ると実に滑稽な内容である。約二週間強あちらに滞在して、かの国の美しい面も汚れた面も知ったが、やはりどこの国にも愚かな人間は存在するのだなと、少し肩を竦めて報告書を書き終えようとしているところである。
シエルが置いていったティーカップに手を伸ばし、ダージリンの爽やかな香りを吸いこんでから口に含めば、書類仕事の終了を告げる祝福の鐘が鳴り響いたような気さえした。
今頃、シエルはシルヴァの散歩に出かけた頃だろうか。
そういえば今朝からグレイを見ていないな…と思った瞬間。
館の広い裏庭からブン……と空気を切り裂く重厚な風切り音が聞こえてきた。
本日のグレイはと言うと、日が昇るよりも早くにランニング、朝食を終えると、そのままシエルのクローゼットの工事をチェックして、一通りシエルの仕事を手伝い、剣の稽古をしていた。
ティールはシルヴァを連れて様子を見がてら、執務室から中庭へとやってきた。
暑さからか脱ぎ捨てられたラフなTシャツが几帳面に畳んで岩の上に置いてあるのを見れば、それがシエルのマナー講座による品位の現れであるとわかる。
そして、彼の均整の取れた背筋や腕には、これまでの死線を潜り抜けてきた無数の傷跡がある。
痛々しい大きなものから、よく見ないと分からない小さな傷まで。彼がどんな風に生きてきたのか、言葉など聞かずとも容易に想像できる。
しかし、それでも彼は今、青みがかった黒髪から汗をキラリと流し、そのサファイアの瞳は充足感に満ち溢れた光を放っている。
生きる意味を見つけた人間は、こんなにも眩しく映るのかと、ティールは息を殺してその様子を見守る。
「ふぅ……」
しばらくして一通りの型を終え、大剣を地面に突き立てて汗を拭うグレイの元へ、ティールがゆっくりと歩み寄った。その後ろには、影のようにシルヴァが付き従っている。
「グレイ。ガルディニアで手に入れた短剣の馴染みはどうかな?」
「ティール様!最高ですよ。何の問題もなく魔力が刃に伝達されますし、コントロールもしやすい。大剣の間合いに入り込まれた際の切り札になりそうですね」
グレイは嬉しそうに、腰に帯びた細身の短剣に触れた。
「それはなによりだ。お前の前衛としての役割は、私の戦術における絶対的な要だ。常に最高の状態を保ってもらわねば困る」
ティールはそう言うと、グレイのシャツが畳まれた大きな岩の上に腰を下ろした。それに伴い、付き従っていたシルヴァも彼女の足元にお行儀よく座ってみせる。
「…ここでこうして過ごしていると、ガルディニアの夜会での騒がしさが、まるで遠い昔のことのようですね」
そう言って、突き立てた大剣の柄に手をかけたまま、穏やかに微笑む。
爽やかな風。
森の木々が運ぶ瑞々しい香りに、その青い目を細めた。
確かに、彼の感想には同意できた。
あの騒がしい日々も、面倒な書類仕事も、全てはこの時間のためと言える。
生き残ったものが成すべき事は、復讐などではない。ただ彼らに恥じぬよう懸命に生きて見せることだ。
そのための労力は惜しまないし、平穏を乱すものは容赦しない。
特級執行官たるティール・エルドラとは、そういう人間なのだから。
「世界は常に争いに満ちている。だが、私たちがそれらを排除し続ける限り、この館の静寂が脅かされることはないよ」
ティールは青緑の瞳を細め、シルヴァの顎を擽るように撫でながら、ジルニアの穏やかな空を見上げた。
しばらくの間、この大切な「我が家」で、彼らは心ゆくまで穏やかな休息を貪るのだった。
次なる世界の歪みが、彼らを必要とするその時まで。




