帝国の黎明(上)
1.皇帝の天秤
第二皇子レナードが、みっともない悲鳴を上げながら白大理石の床を引きずられていった後。大謁見の間を支配したのは、あまりにも重苦しい静寂であった。
廷臣たちは息を呑み、元老院の保守派の面々は己の保身のために床に額を擦り付けたまま動けない。
その静寂の頂点、幾重もの階段を上った先にある黄金の玉座から、ゆっくりと一人の男が立ち上がった。
ガルディニア帝国――皇帝フリードリヒ。
先ほどまで罪人を照らしていた天井からの朝日。それが今は、子供たちと同じく薄い金髪を整えた彼を照らした。何かをこらえるような、一瞬だけ苦しそうな表情をみせた皇帝だったが、一呼吸おいてから皇帝たる堂々とした佇まいで王座から立ち上がった。
しわの寄せられた眉間、臣下を睨みつけるその眼差しは、初めてティールが謁見した時にみせた、覇気のない男の姿を完全に失っていた。
皇帝はゆっくりと階段を降り、罪状の書類の山を、そして自らの足で毅然と立つ第一皇子アルベルトの姿を静かに見つめた。
「……最早、これ以上の言葉は必要ないな」
静かな、しかしこの場にいる者全員に圧力をかけるような皇帝の声が、大謁見の間に響き渡る。
その一言で、レナードの、そして元老院保守派の「完全な破滅」が公式に決定した。皇帝という存在は、身内であろうとも一切の裏切りを赦さないもの。彼にとってレナードと延臣の暴挙は、帝国の国益を損なう有害な存在へと決定づけられたのだ。
皇帝は、謁見の間の端で静かに控えていたティールへと、その威厳ある視線を向けた。
「ティール殿。アルベルトの身体のこと、感謝申し上げる」
ガルディニア帝国の絶対強者である皇帝が、他国の執行官に対して明確な「感謝」を口にした。その事実だけで、廷臣たちの間に激震が走る。
気弱で、魂の抜けたようだった皇帝を、この一件は一変させた。
アナスタシアが、アルベルトを連れて数々の証拠を手に執務室へと押し入ってきた時から、皇帝は理解していた。ティールがアルベルトを『調律』してみせたことが、単なる一皇子の治療に留まらず、腐りかけていた帝国の権力構造を根こそぎ正常化させるための、最大の一手になるということを。
あとは自分の決心だけで、この国が変わることのできる、一歩手前まで来たのだということを。
ティールはハイヒールの音を響かせて皇帝の前まで歩み出でると、穏やかな表情を崩さぬまま、胸に手を当てて優雅な礼を見せた。
「過分なお言葉です、皇帝陛下。私はただ、我が家のお茶の時間を乱した異分子を、片付けただけに過ぎません」
どこまでも淡々と、国家の危機すら「お茶の間の雑事」と言い切るティール。その底知れぬ余裕と圧倒的な格の違いに、皇帝フリードリヒはフッと口元を僅かに緩め、満足げに頷くのだった。
2.新星の輝き、皇太子の誕生
それから一週間後。
帝都は、これまでの重苦しい空気を一変させるような、歓喜の渦に包まれていた。
大聖堂の鐘が鳴り響く中、アルベルト第一皇子が正式に『皇太子』として立太子されることが、全土に向けて宣誓されたのである。
レナード派の貴族たちは一網打尽にされ、元老院は大幅に刷新された。
新しく生まれ変わる帝国の象徴として、アルベルトは連日のように激務に追われていた。長年の魔力失調から回復しつつあるとはいえ、その肉体は未だ完全な万全には遠い。
「兄上、あまり根を詰めすぎては、ティール様に「自分の限界を知らずに無茶をするのは愚か者のする事だ」と呆れられてしまいますわよ?」
「その言葉……まさか例のティールブルーのメンバーの書籍から抜粋したのかい…?」
皇太子宮の執務室。
山積みにされた書類の前に座るアルベルトに、呆れたような、しかし嬉しさを隠しきれない声で話しかけたのは、アナスタシア皇女だった。
彼女はその新緑の瞳を生き生きと輝かせ、兄の代わりにいくつかの決済書を手際よく仕分けていく。
既に先日、ティールの『調律』によって魔力回路が正しく滞りなく巡り初めたとは言え、衰弱しきっていた身体に鞭をうった結果、高熱で倒れていた際に、アナスタシアから滾々と説教を食らった上に、とある書物を読み聞かされた事は記憶に新しい。
「ティールブルーメンバー監修の、ティール様の名言集ですわ!まさかお忘れになったわけではないでしょうね」
アルベルトは、手元で万年筆を動かす指先を止め、薄い金髪を軽く揺らしながら、深い緑色の瞳を妹へと向けた。
「ま、まさか——それに、お前が手伝ってくれなければ、初日で倒れていたかもしれない。私の体は、ティール殿のおかげで劇的に良くなっているが……この国に溜まった『膿』の量は、私の病よりも遥かに複雑だった」
アルベルトの口元には、かつての病床にはなかった、統治者としての穏やかな微笑みが浮かんでいた。体内で滑らかに循環する魔力は、彼の思考をどこまでも明晰に保っている。
「ですが、これでようやくガルディニアは正しい道を歩めますわ。……すべては、あの御方がこの国に光をもたらしてくださったおかげ」
アナスタシアは、胸元に手を当ててうっとりとした表情を浮かべた。彼女の脳内では、すでにティール・エルドラという存在が、救国の英雄を通り越して神話の領域へと昇華しているようだった。
「ああ、その通りだ。……さて、私たちの命の恩人たちが、間もなく本国へ帰還される。皇太子として、そして一人の人間として、最後に見送りの挨拶をしなければな」




