奈落へのチェックメイト(下)
3.死神の眼差し
その劇を、謁見の間の少し離れた柱の影から、観測者として見つめている二人がいた。
ティールは、長身の体を壁に預け、腕を組んだまま、その場を冷徹に傍観していた。
流れるような銀髪の隙間から覗く彼女の薄い青緑の瞳は、驚くほどに冷えきっていた。
そこには怒りすらもない。ただ、チェス盤の上の不要な駒が、自らの無能によって勝手に崩壊していくのを眺めているかのような、退屈と冷酷さだけが宿っていた。
ティールにとって、レナードという男は、そもそも憤る価値すら見出せない「出来損ない」に過ぎない。ただ、彼女が張った絶対的な氷の包囲網の中で、無様に足掻く姿を観察しているだけだ。
しかし、その傍らに立つグレイの様子は違っていた。
両手を固く握りしめて佇む彼のサファイアの瞳には、ドス黒いほどの怒気が、静かに、しかし激しく滾っていた。
たとえ数か月とはいえ、年の離れた妹のように見守ってきたシエルを、低俗な権力闘争の道具として利用し、その命を危険に晒した目の前の男。グレイの目の奥で燃える凄絶な殺気は、周囲の近衛兵たちをそれだけで戦慄させ、近づくことすら許さない見えない壁を作りだしていた。
(……あの男の首を、今すぐここで刎ね落とせないことだけが、今回の作戦の唯一の不満点だな)
グレイは心の中でそう吐き捨て、サファイアの瞳をさらに鋭く細めた。主であるティールの政治的な解決という方針がなければ、レナードは最初の数秒で肉塊に変わっていただろう。
「グレイ。あまり殺気を撒き散らすのは感心しないな。せっかくの白大理石が、夜会の時のように君の圧迫感でまたひび割れてしまいそうだ」
ティールが、感情の起伏が一切ない、どこまでも平坦な声で囁いた。
「……失礼いたしました、ティール様。ですが、あの男の醜態を見ていると、我が大剣の錆にするのも躊躇われるほどに不愉快でして」
「構わないさ。間もなく最後の役者が揃う。そうすれば、あの男の安っぽい歌劇も完全に終幕だ」
ティールはそう言うと、組んでいた腕をゆっくりと解き、スラックスのポケットに片手を収めた。その視線の先、謁見の間の重厚な扉が、再び静かに開かれる。
4.終幕
「――そこまでです、レナード殿下」
凛とした、どこまでも真っ直ぐで力強い声が、謁見の間に響き渡った。
廷臣たちが一斉に振り返る。謁見の間の重たい扉が開かれ、そこに颯爽と現れたのは、ガルディニアの毒刃によって瀕死の重傷を負っていたはずの少女――シエルであった。
彼女は、彼女のために仕立てられたワンピースタイプの濃紺の執行官制服を完璧に着こなし、足取りもしっかりと、一歩一歩確実に赤絨毯を踏み締めて歩んでいた。ティールによる完璧な『調律』と、彼女自身の驚異的な回復力によって、その肉体は万全の状態へと復帰していた。
澄み渡るシエルブルーの瞳はただ真っ直ぐに、壇上のレナードを見据えている。
「あの女の侍従か……!? なぜお前が生きている……! あの毒は、確実に――」
レナードは、幽霊でも見たかのように目を見開き、数歩後ずさった。自らの口から「あの毒」という彼にとって致命的な言葉が出たことすら、今の彼には気づく余裕がない。
シエルはレナードの前まで進むと、背筋を伸ばし、王族に対する最低限の礼を執った。そして、胸元からひとつの結晶石を取り出し、それを目の前へと差し出した。
「ジルニア王国特級執行官随員、副官のシエルです。これはティール様が襲撃された際、アナスタシア皇女の見習い侍従であるフィンが使用された洗脳術、およびその際に出現した術式の残滓を記録・保存したものです。フィンに残っていた術式の魔力波形、そして……あなた方が雇ったという呪術師の書類のサインに施された魔力波形は完全に一致します」
アナスタシアの見習い侍従であるフィン。病室で目覚め、様子を見ていた彼の許可を得て、その体にわずかに残っていた魔力の痕跡を、ティールはその『神の眼』で読み取り記録をしていた。はじめは操られていたとはいえ、自分が刃を向けた相手に対しかなり緊張した面持ちで、ティールの姿を見るなりおびえた様子だったが、しばらく会話を続けて彼の緊張を解きほぐし協力を得られたのだ。
「貴方のためなら」と微笑んだ顔は、初めて会った時のあどけなさの残る幼い笑みだった。
壁際で静かに傍聴していたティールが間もなく訪れる終幕にほくそ笑む。
「そしてそれは、レナード殿下。貴方が偽造だと仰る書類のサインにも、同様に魔力波形が残っているという事です。それでも違うと仰るのであれば、今この場で、そのサインの魔力波形と貴方の魔力波形を見比べてみれば良いでしょう」
シエルの毅然とした証言が、謁見の間にとどめの一撃として突き刺さる。
「ティール様の命を狙ったのは、間違いなく貴方の意志だという証拠です。レナード殿下。貴方がどれほど他の貴族たちに罪を擦り付けようとも、貴方の魔力の『指紋』は、嘘を吐きません——魔法大国の王子でありながら、そのような事にも気付かぬとは……ご自分の考えの甘さと軽薄さ、そして無知を自覚するべきですね」
「あ、……あ、ああ……!」
レナードの唇が、歯が、がちがちと震え始めた。
完全なる証拠。被害者の証言。そして、自らの言い訳をすべて無に帰す、魔力的な証明。
アルベルトの冷静な包囲、アナスタシアの激しい糾弾、そしてシエルがもたらした決定的な証言によって、レナードの退路は完全に断たれた。
「――勝負あり、だね」
アルベルト第一皇子の深い緑の瞳が、哀れな弟を完全に見限るように細められた。
「陛下。レナードを国家反逆罪、および同盟国へのテロ行為の首謀者として、直ちに拘束します……よろしいですね」
謁見の間の頂上、終始静かにその場を正視していた皇帝が、静かに頷く。
「……連れて行きなさい」
皇帝フリードリヒの冷徹な命令とともに、近衛兵たちが一斉に動き、レナードの両腕を掴んだ。
「放せ! 私は第二皇子だぞ! 私は!父上!!父上ぇぇぇぇぇッ!!」
狂ったように叫び、床に汗を撒き散らしながら引きずられていくレナード。
その濃い金髪は乱れきり、もはや輝きを失っていた。
その様子を、アナスタシアは新緑の瞳に勝利と安堵を浮かべて見つめ、シエルは静かに一礼して一歩退いた。
そして柱の影から、ティールは一度だけ、宙でチェスの駒を弄ぶように指先を動かす。
彼女の冷えきった薄い青緑の瞳には、最初から最後まで、何の感慨も浮かんでいなかった。ただ、ノイズが消え去ったチェス盤の美しさを、静かに楽しむかのように、銀髪を翻して背を預けていた壁から一歩前へ。
この場に集まる者たちの視界に入る位置へと歩み出た。




