死神の氷の包囲網(上)
1.影の役割、光の行軍
アルベルト第一皇子の劇的な回路調律から数日。
ガルディニア帝国の水面下では、かつてない規模の粛清の準備が、音もなく進行していた。
アナスタシアは、まずその情報網と人脈をもって、彼らがフィンに洗脳魔法をかけた痕跡と、術者の特定を始めた。だがその術者が見つかったとして黒幕について話すとは思えなかったが、いったいどんな手を使ったのか、すぐさま吐いたというのだからアナスタシアの手腕がうかがえる。
思えば、彼女はあらゆる情報網と特殊な魔導具の鳥を持つ有能な皇女であるのだから、その術者の弱みを握ることなど造作もない事だったのだろう。
アルベルトの方も状況は順調に進んでいるようで、身体を回復させながら部下に指示を出し、他の元老院の汚職やレナードの傍若無人な行動の数々を証言者と共にまとめ上げていった。
そして、ティールはというと。
「シエル。お前は今日、一日ベッドから出ることを禁止する。このガルディニアで調達した茶葉の最適なブレンド比率を、そのノートに全て書き写しておきなさい。それが今日の仕事だ」
ホテルの最上階、厳重な結界が施されたスイートルームで、ティールは淡々と命じた。
「で、ですが、ティール様!私の体はもう、あの毒の残滓すら――」
ベッドの上で、澄んだシエルブルーの瞳を少しだけ不満げに揺らしながらシエルが抗議しようとする。
「口答えを許した覚えはないよ」
厳しい言葉遣いに聞こえるが、ティールはスラックスのポケットから細い右手を抜くと、シエルの小さな頭にそっと手を置いた。ポンポン、と、不器用極まりない手つきで二度だけ叩く。
「今お前を無理に動かして、もし我が家のお茶会のクオリティが1%でも下がれば、それは私にとってその方が甚大な損失だからね……大人しくしていなさい」
「……うぅ、承知いたしました……」
シエルは一瞬で顔を赤くし、大人しくベッドのシーツを握りしめた。主のその言葉の裏にある、狂おしいほどの思いやりを誰よりも理解しているからこそ、彼女はそれ以上我が儘を言うのをやめた。
ティールは満足げに頷くと、扉の前に佇む騎士へと視線を巡らせる。
「グレイ。行くよ……アナスタシア皇女とアルベルト王子から、ネズミたちの巣穴の地図は届いている」
「御意に、ティール様。……この街のドブネズミどもに、ジルニアの執行官を敵に回した意味を、その骨の髄まで刻み込んでやりましょう」
グレイは静かな、しかし確固たる忠義の微笑みを浮かべ、胸元に手を当てて深く一礼した。主の背中を守る盾として、そして大切な妹分を傷つけた連中を一人残らず駆逐する矛として、彼の覚悟は夜よりも深く、鋭く研ぎ澄まされていた。
シエルを安全な部屋へと残し、死神の主従は、ガルディニアの歪んだ社交界へとその一歩を踏み出した。
2.アッシュフォードの権威、執行官の足音
ガルディニア帝国の保守派貴族たちが集う、格式高い高級会員制サロン。
第二皇子レナードの派閥に属する元老院の有力者たちは、今夜もジルニアの小娘が今頃息絶えているだろうと、下俗な笑みを浮かべてワイングラスを傾けていた。
だが、その狂った夜宴は、サロンの重厚なオーク材の扉が物理的に粉砕され、爆音とともに吹き飛んだ瞬間に幕を閉じた。
「な、何事だ――っ!?」
貴族たちが悲鳴を上げ、警護の魔導兵たちが一斉に武器を構える。
────カツン、カツン
立ち込める硝煙の向こうから、ハイヒールの高らかな靴音とともにゆっくりと歩みを進めてきたのは、完璧に仕立てられた漆黒のタキシードジャケットを纏った銀髪の麗人——ティール・エルドラであった。そのすぐ後ろには、大剣の柄に手をかけたグレイが、一歩でも近づけばその首を刎ねるという、覇気を放ちながら従っている。
「邪魔させてもらうよ」
ティールの冷徹な、しかし心地よい声が、静まり返ったサロンに響き渡る。
「て、ティール・エルドラ! なぜお前がここに……! 警備兵、何をしている、その招かれざる客を叩き出せ!」
元老院の一人が、顔を青ざめさせながら怒号を浴びせる。
だが、警備の魔導兵たちは、一歩も動くことができなかった。
「騒がしいな。その口を閉じろ」
ティールが流れるような銀髪を右手でゆっくりと掻き上げた瞬間、その奥から、深淵の如きティールブルーの虹彩と金色の幾何学陣が幾重にも重なり合う『神の瞳』が、妖しく世界へと曝け出されたからだ。
「――っ、ひ、……あ……!」
右目に光が宿った瞬間に生じた、凄まじい魔力のプレッシャー。
皮膚に突き刺さるほどの殺気と、重圧に膝から力が抜けていくような感覚に襲われる。
それは訓練されている魔導兵の数人が、恐怖のあまりその場にへたり込み、武器を取り落とすほどのものだった。
ガルディニアではジルニアとは違いアッシュフォードについて書かれた書物が一般的に出回っていると、あの書庫で聞いた時点でティールは自分の持つ力を、既に己の正体を知るこの貴族たちには最大限に利用することを決めていた。
万物の魔力の流れと術式を完全に可視化し、書き換え、制御する力をもつという、アッシュフォードの滅亡の遺産。
その瞳に見つめられただけで、自分たちの体内の魔力回路が、いつでも内側から破裂させられるという絶対的な『死』の予感が、彼らの本能を極限まで恐怖させた。
「私の名前を安易に呼ぶのは感心しないな……ジルニアの特級執行官である私を害しようとした背信の証拠は、間もなくアナスタシア皇女と、目覚めたアルベルト第一皇子の手によって、すべて皇帝陛下のもとへと届けられることとなるだろう」
ティールは淡々と告げ、ジャケットの内側から数枚の紙切れを無造作に放り投げた。大理石の床に散らばったのは、レナード派が毒刃の調達や暗殺者の洗脳に関わったことを示す、決定的な裏取引の記録の写しのほんの一部だった。
「な、アルベルト皇子だと……!? あの死に損ないの木偶が、なぜ――」
「随分と無礼な物言いだ。すぐさま撤回した方が身のためだと思うが……それと、木偶はあなたたちのレナードの方ではないかな?」
ティールは薄い唇の端をわずかに釣り上げて、くすりと小さく笑った。その冷酷な微笑みは、目の前の貴族たちにとって、どんな死神の鎌よりも鮮明に死の刃として映った。
「グレイ」
「はっ」
グレイが一歩前へ出る。主同様揺らぐことのないその眼差しが多くの貴族たちをその視界にとらえ、宣告を紡ぐ。
「元老院の諸君。ジルニアの特級執行官の名において命じる。すぐさま己の不義を認め、ひとつ残らず罪を告発せよ。抵抗すれば、この場で我が主が、諸君の魔力回線を全て文字通り『焼き切る』ことになるだろう……選択は、一秒で済ませていただきたい」
アッシュフォードの絶対的な力と、ジルニア王国執行官という国家の権威。その二つの刃を惜しみなく突きつけられた貴族たちは、もはや声を上げることもできず、ただガタガタと歯の根を鳴らして、自らの終わりの始まりを悟るしかなかった。
彼らの刃は、確実に、そして最も残酷な形で研ぎ澄まされ、第二皇子レナードの喉元へと迫っていくのだった。




