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反撃の狼煙(中)

3.死神の歩む道、盤上の調律


ティールはアルベルト王子の覚悟を、その瞳でじっと見つめていた。


かつて、ティールは彼の存在を聞いても尚、この国ではアナスタシアが王となるべきだと考えた。原因不明の魔力失調症、動くことすらまともにできぬ第一皇子。そんな彼がいかに頭が切れて優秀な皇太子候補だったとはいえ、それら全ては過去の話。


愚鈍なレナードを皇太子に据えるくらいならば、国の男尊女卑の傾向や、男系の王のみが国を継ぐという法律を捻じ曲げてアナスタシアを女皇に据えたほうが、確実な繁栄の未来が迎えられると思ったからだ。


だが、彼女の『神の瞳』は、この新しい変数をはっきりと映し出す。


(……面白い。ただの病弱な置物かと思ったが、その瞳の奥にある皇族としての残り火は、決して安易に消える類のものではない)


ティールの右目が前髪の奥でわずかに輝き、彼の身体の情報を視覚化する。


アルベルトの魔力失調症という病は、発症した原因は分からずとも単に魔力回路が狂っているだけの様だった。いわゆる突然変異的な現象であり、『神の瞳』で魔力回路を調律すれば、レナードと元老院を叩き潰す程度の魔力と体力は取り戻せるだろうと判断できた。


ティールは他国での騒動は損しかないとここに来た当初は言っていたが、ここで第一皇子を治療してこちらの陣営に引き込み、ガルディニアを完全な親ジルニア派に塗り替えてしまえば、ジルニアにとっても、そして何より彼女自身の穏やかな時間にとっても、これ以上ない巨大な利益になると判断したのだ。


「……いいだろう、アルベルト王子」


ティールは目を細めると、余裕に満ちた笑みを浮かべた。カツリ、とハイヒールを鳴らし、車椅子の前に歩み寄る。


「愚者には裁きを。賢者にはあるべき場所へと戻ってもらうとしよう。レナードとその派閥のすべて、そしてこのガルディニアの元老院の利権――そのすべてを灰に変え、あなたの玉座の礎としてもらう……グレイ」


「はっ!」


グレイが胸に手を当てて軽く礼をする。彼の引き締まった口元の微笑みには、敵を殲滅するための狂気にも似た忠義が滲みでていた。


「盤面は整った。アナスタシア皇女、アルベルト皇子。これより、ジルニア王国の執行官の流儀というものを、あの傲慢な第二皇子に骨の髄まで教えてあげるとしよう」


ティールの左目が、昏く、しかし圧倒的な王者の輝きを放つ。

彼女の穏やかなお茶会を汚し、大切な身内を傷つけたドブネズミどもへの、死神の報復劇。

その幕が、ガルディニア帝国に向けて、切って落とされた。




4.呼吸の如き『調律』


病院の特等室を満たしていた緊迫感は、ティールが車椅子の前へと歩み進めるにつれて、絶対的な静寂へと塗り替えられていった。


アルベルト第一皇子は、線が細く生気の薄い顔を微かに上げ、正面に佇むジルニアの死神を見つめた。その真っ直ぐな眼差しは、死を前にしても揺らがぬ知性を宿しているものの、長年の魔力失調症によってその肉体も精神も、文字通り限界まで擦り切れているのは明白だった。


「ティール殿…その、いったい何を?」


「……アルベルト皇子。少し、耳障りな音が響くけれど、我慢しなさい」


ティールは低い、心地よい声を室内に響かせ、細く綺麗な右手で前髪をそっと耳にかけた。流れるような銀髪に隠されていた、彼女の薄いティールブルー色の右目――アッシュフォードの遺産である『神の瞳』が、静かにその奥で王家の紋章を浮かび上がらせ、宙には金色の幾何学陣が回転しはじめる。


アナスタシアが息を呑み、グレイとベッドの上のシエルが、絶対の信頼を寄せてその光景を見守った。彼女の『神の眼』をはっきりと目にするのはシエルですら初めてだった。長い間隠されてきたその神のごとき力は、あまりの神々しさに感嘆の声すら漏れるほどに美しい輝きを放つ。


しばしの沈黙の後、ティールはアルベルトの青白い額の前に、そっと細い指先を翳した。

その瞳は、帝国の医療魔導師たちが十数年かけて解き明かせなかった青年の肉体を数式やデータ、魔法陣として可視化し、その構造の欠陥を冷酷なまでに暴き出していた。


(……なるほど。やはりただの回路の突然変異的な形状変化と目詰まりか。それを余計な投薬でさらに悪化させているとはね)


ティールにとって、それは難病でも呪いでもなく、ただの粗末な施工不良に過ぎなかった。例えるならそれは、お茶の葉を詰め込みすぎて湯が通らなくなったティーポットを眺めるような、酷く冷淡な眼差しである。


そして彼が続けていたという投薬治療、その投薬ですら毒になっていたことを見抜き、呆れを通り越して深いため息を吐いた。その薬、果たして誰が裏で指示して与えたものだったのか——最早考えることすら億劫だった。


「調律《レギュレイト》」


ティールの指先から、ピーコックグリーンの微弱な光が、静かにアルベルトの額へと吸い込まれていく。

シエルの時のように、全身を圧砕するような激痛も、血を吐くような反発も一切ない。

ただ、アルベルトの体内で硬直していた魔力回路の結び目が、ティールの指先が触れた先から、滑らかに、確実に解きほぐされていく。滞っていた彼自身の本来の魔力が、数年ぶりにその四肢へと正しく、穏やかに流れ始める。


「――あ、……つ……」


アルベルトの唇から、驚きに満ちた微かな声が漏れた。

決して、回復魔法のように劇的に体力が回復したような感覚ではない。だがそれは、身体の奥底を常に覆っていた泥濘のような重さが、体内から取り除かれていくような感覚だった。


枯渇し、弱りきっていた彼の核たる部分に、じんわりとした確かな温もりが戻り始めていく。ティールは、ふっと息を吐くようにして右手を下ろし、銀髪を整えて再び右目を隠した。


「……シエルの毒を抜くよりも、余程簡単だね。あちらは生きている呪詛だったが、貴方のこれは、ただの粗悪な魔力回路の形状変化だ。……これで数日のうちに、支えさえあれば自力で立つ程度には回復するだろう。時間をかけてではあるが、魔力も体内で正常に生み出されるはずだ」


いとも簡単に、まるで冷めた紅茶を淹れ直したとでも言うかのようなトーンで、『調律』の完了を告げるティール。


「……あぁ、そんな…っ」


その光景を横で見ていたアナスタシアは、あまりの出来事に言葉を失い、美しい新緑の双眸を驚愕に見開いて打ち震えていた。

ガルディニアの国家最高位の医療魔導師たちが、帝国の全ての技術と知恵をつぎ込んでも「手の施しようがない」と匙を投げた第一皇子の難病を、このジルニアの特級執行官は、呪文一つ唱えず、ものの数十秒で治療してみせたのだ。


「信じられませんわ……兄上の魔力の波形が、これほどまでに安定するなんて……ティール様、高潔なるアッシュフォードの御力とは、本当に……!」


アナスタシアは胸元を強く押さえ、感動と畏敬のあまり、その場に崩れ落ちんばかりに涙を流した。彼女のティールへの信頼は、今や一種の信仰心に近しいものとなり、文字通り神の領域へと達しようとしていたのは言うまでもない。


車椅子の上のアルベルトもまた、自身の両手をじっと見つめ、その指先が、長年悩まされていた震えが完全に止まっていることに、深い衝撃を受けていた。


「……素晴らしいな。これが、アッシュフォードの真の調律か。私の体に流れる魔力が正しく…そして優しく脈打っているのが分かるよ……ティール殿、貴女は本当に、素晴らしい御方だ」


アルベルトの青白かった口元には、僅かな生気が徐々に蘇りつつあった。


「最大限の感謝を、ティール殿。これで、私は私の足で、あの愚弟の前に立つことができる」


「構わないさ。売られた喧嘩の対価として、まずはその体でしっかりと舞台に立ってもらわなくては困るからね」


今回の盤面は実に単純だ。

血を流す必要などない。否、流すまでもないというのが正しいだろう。


ありきたりな展開の歌劇はすぐに飽きてしまうものだ。


ならばさっさと終わらせて、全て片付けてしまえばいいだけのこと。


重要な場面は舞台上の役者に任せ、ティールは冷酷な観客としての笑みを、その気高い横顔に浮かべるのだった。


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