反撃の狼煙(上)
1.激昂の皇女と、病床の影
シエルが奇跡的な目覚めを果たした翌朝、街の大病院の特等室には、ガルディニア帝国第一皇女、アナスタシアの姿があった。
いつもは完璧な大国の品格を崩さない彼女が、この日は城下に降りるため身分を隠したシンプルなドレスの裾を激しく波立たせ、その美しい新緑色の双眸に隠しきれない激しい怒りと恥辱を燃え上がらせていた。
「――何たる醜態。何たる不祥事でしょう……!」
アナスタシアはシエルの横たわるベッドの傍らに立つティールと、その後ろに控えるグレイを見つめ、深く頭を垂れた。
「当然、私達皇族はその責を負うべきですわ! ジルニア王国の大切な国賓である貴方様を愚かにも殺めようとするとは!!」
アナスタシアの言葉は、国を預かる皇女としての底知れない危機感と激怒だった。子供を洗脳し、毒刃を握らせて特級執行官を暗殺しようなど、ジルニア王国との全面戦争に発展するのはもちろん、国民からの反乱がおきてもおかしくはない大罪である。
「……頭を上げなさい、アナスタシア皇女」
ティールは表情を変えることなく静かに告げた。
調律によって乱れていた銀髪は再び美しく整えられ、右目は完全に隠されている。そしてその左目は、どこまでも冷静に、この大国の混乱を分析していた。
あの聡明な皇女がこれほど動揺し、怒りに声を荒げるのも無理はないだろう。
あの日、父である皇帝に呼ばれたと言って出ていった皇女は、向かった先でそれが嘘だったことがわかったという。側仕えの者が聞いた話自体が嘘であり、アナスタシアは愚かな首謀者たちによって尊い「皇帝」の名を使い騙されたのだ。
そして急いで戻ってきて見れば、既にそこにティール達はおらずただ刺客が始末された後だったという。
「お守りすると豪語しておきながら……まさか私の侍従見習いを利用するだなんて思いもしませんでしたわ。ですが、何を言おうと後の祭りですね…不甲斐ないにもほどがあります。申し訳ございません」
再び深々と首を垂れるアナスタシアの表情は暗く、血色も悪い。
幸い、利用されていた彼女の侍従見習いフィンも隣の病室で無事に目を覚ましたらしいが、今は混乱しているので目付け役をつけて様子を見ている状態らしい。
スコーンを取りに厨房へ向かうタイミングで敵の術者に洗脳魔法をかけられた彼は、操られていた間の意識があったらしく、その罪悪感と不安、恐怖に駆られるのは当然の事だった。
(皇女すら騙した愚か者……だが、我々も売られた喧嘩をそのままにして帰るほど、温厚ではない)
ティールは一連の事件を頭の中で整理しながら、考えを巡らせる。
「アナスタシア皇女」
ふと、ティールの背後から、一歩前へ出たのはグレイだった。その鋭い瞳には、敵をいつでも両断できる静かな怒りと固い意志が湛えられている。
「シエルの毒は、ティール様の御力によって完全に剥離されました。ですが、我が主の慈愛に付け込み、無辜の子供を利用した愚者を、俺たちは決して赦しません」
ティールの思考を代弁するようなグレイの発言に、アナスタシアは顔を上げ、ぐっと力を込めた眼差しでグレイの視線を受け止めた。
まさか自分よりも先に彼が意見を述べるとは思っていなかったティールは、彼が、自分が思っているよりも怒りの感情を胸に押し込んでいるのだと察した。彼にとって王女であり守るべき対象であるティールだけではなく、シエルという存在も、自分が守らねばならない1人の少女として認識されている。
彼が、すっかりあの邸宅の家族の一員となっていたことを感じた瞬間でもあった。
「ええ、当然ですわ、グレイ殿。首謀者はすでにお分かりでしょうが、私の愚弟――第二皇子レナードと彼を担ぎ上げる保守派の元老院たちです。歓迎パーティーでの恥を掻かされた私怨と、自分たちの魔導技術を見下すティール様の存在が気に食わないという……あまりにもお粗末で、下俗な理由で動いたようですわ。……あの男に、これ以上この国で胡座をかかせるわけにはまいりません」
そういうとアナスタシアは、病室の外にいる騎士に声をかけた。
すると、扉の向こうから魔導機構で動く車椅子に座った一人の男が現れる。
酷く顔色の白い、線の細い青年。
だがその薄い金髪と、濃い緑の瞳には見覚えがあった。
彼こそが、これまでガルディニア帝国の表舞台に一度も姿を現さなかった第一皇子、アルベルト・ロー・ガルディニアであった。
2.第一皇子の選択
第一皇子アルベルトは、数年前から原因不明の魔力失調症を患い、皇位継承権を持ちながらも、宮廷からは病弱な穀潰しとして存在感を消されていたと聞き及んでいた。
将来有望であったアルベルトだが、その謎の病に罹ってからというものの、徐々に通常の生活すら困難になり果てていたという。そして次期皇帝の座は、誰もが第二皇子レナードで確定だと信じて疑わなかったのだ。
現に、レナードとその派閥がこれほど傲慢に振る舞えたのも、第一皇子の無力さゆえでもあった。
「アルベルト兄上」
アナスタシアが、車椅子の兄の前に跪き、その細い手を強く握りしめた。
「お聞きになりましたね。レナードの仕掛けた愚行は、我が国の破滅を招く一歩手前でした。あのような、嫉妬ゆえに他国の執行官を害する男が皇帝の座に就けば、我がガルディニアは遠からず、ジルニア王国のみならず他国の軍勢によって地図から消し去られるでしょう。……兄上、私たちが動かずして誰がこの国を救えるというのです!?」
アナスタシアの悲痛な、しかし烈火の如き糾弾が、アルベルトの静かな双眸を揺らした。
アルベルトは、ゆっくりと視線を動かした。
その瞳が捉えたのは、圧倒的な覇気を放ちながら、ただ静かに佇んでいるティール・エルドラの姿だった。銀髪の奥に隠された『神の瞳』。アルベルトは自身が魔力失調症だからこそ、ティールの内面で脈打つ、世界を揺るがすほどに圧倒的な魔力の奔流を、誰よりも正確に感じ取っていた。
(……この方が、ジルニアの死神。いや……万物を正しく調律する、アッシュフォードの真の末裔か)
アルベルトは、自身の弱々しい呼吸を整えながら、ティールを見つめた。
「……ティール、殿。我が弟の愚行を、同じ皇族として深くお詫びする……」
彼の声は細く、掠れていた。しかし、その瞳の奥には、長年の病床で磨り潰されながらも決して消えなかった、皇族ゆえの正義感と使命感という名の光が灯っていた。
「レナードは……自分が貴女を屈服させる、もしくは殺めることで…『神の瞳』という絶対的な力を屠り、貴族たちを完全に掌握するための道具として、貴女の存在を利用しようとした。だが、彼は致命的に愚かだった…貴女が守ろうとしている【時間】の重さを、あの男は理解していなかったのだから……」
アルベルトは、震える手で車椅子の手すりを強く握りしめた。
「レナードの背後には、帝国の軍権の多くを握る元老院がついている……病に侵され、派閥も持たない私では、真っ向から立ち向かえば…一瞬で圧し潰されるだろう……だが、アナスタシア、そしてティール殿—―」
アルベルトの青白い唇に、初めて、死線を潜り抜けてきた皇族としての、冷徹な微笑みが浮かんだ。
「私は死に損ないの第一皇子として、レナードのすべての野心を奈落へと送ろう。ガルディニアの未来のためなら…私のこの残された命など、いくらでも燃やし尽くして見せる」
存在感のなかった皇子の、静かなる覚醒。
その瞬間、病室の空気は、単なる暗殺事件の事後処理から、ガルディニア帝国を二分する「政変」へと、完全にその色を変えた。




