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調律の眼、命の剥離(下)

3.ガラスの夜明け


体感として、あれから約十分ほどの時間が過ぎただろうか。


病室の空間を激しく震わせていたピーコックグリーンの光の奔流が、暫くしてガラスが砕け散るような音を立てて収束した。


室内に満ちていた、神経を圧迫するような高周波の魔力残響が、急速に凪いでいく。

扉の外で一歩も動かずに全神経を尖らせていたグレイが、その気配の変転を逃すはずはなかった。主の魔力の波形が、呪詛の消滅とともに急激に減衰したことを察知した瞬間、彼は大剣を背へと戻し、躊躇なく扉を押し開けて室内へと駆け戻った。


「ティール様――っ!」


グレイの視界に飛び込んできたのは、シエルの眠るベッドの傍らで、糸が切れたように膝から崩れ落ちかけようとしているティールの姿だった。


処理を行った右腕は、自身の膨大な魔力の放出と呪術の反発による衝撃で衣服は破れ、手のひらには裂けたような傷とともに血が滴っている。また、普段美しく整えられている流れるような銀髪も冷や汗と魔力の風により乱れ、完璧に維持されているはずの鉄のポーカーフェイスが、今この瞬間だけは、限界を超えた疲弊によって青白く強張っていた。


「はぁ……ッ」


「ティール様!ご無事ですか!?」


グレイは床に倒れ込む寸前だったティールの華奢な肩を、その逞しい両腕で確実に、しかし壊れ物を扱うかのように細心の注意を払って受け止め、その身体をしっかりと支えた。


その時、グレイのサファイアの瞳が、ティールの顔を間近で捉え、彼は更に絶句した。


前髪の隙間から覗く、『神の眼』を宿すティールの右瞳。今は輝きを失い閉じられているその目元から、一筋の、あまりにも鮮烈な赤い血が、白い頬を伝って顎へと流れ落ちていたのだ。ガルディニアの呪詛がもたらした強烈な拒絶反応を、すべて彼女自身の肉体と精神の制御だけでねじ伏せた、その凄絶な代償。


「ティール様、お怪我が……っ! すぐにここの医療魔道士を呼びます、貴女様までこのような――」


グレイはかつてない焦燥と痛ましさに激しく震える。主を二度と傷つけまいと誓った騎士にとって、その流血は身を刻まれるよりも耐え難い光景だった。

しかし、ティールはグレイの腕に体重を預けたまま、小さく首を横に振った。

彼女は自身の目元を伝う血の熱さや、手のひらを割く傷など、まるで最初から存在しないかのように、冷徹な声のトーンを崩さないまま、静かに、しかし断固とした拒絶の意を持って告げた。


「……いい、構うな、グレイ。この程度、自分で治せる」


「ですが……!」


「構うなと言っている……それよりも、見なさい」


ティールは溢れようとする血を細い指先で無造作に拭い、その鋭い目の焦点を、ただ一箇所――ベッドの上で横たわるシエルの顔へと向けた。


自身の痛みや限界を分析することなど、今の彼女にとっては二の次でしかなかった。シエルの呼吸の深さ、心拍、魔力の滞留が完全に正常値に戻ったかどうか、それを確かめることだけが、今のティールのすべてだった。


グレイは主のそのあまりにも深く、そして不器用な慈愛の眼差しに圧倒され、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。ただ、その口元をさらに固く結び、己の無力さを噛み締めながらも、ティールの身体への負担を軽くするために、その背を支え続けた。


病室には、先ほどまでの死闘が嘘のように、静謐な、しかしどこか温かいジルニアの夜のような静寂が戻りつつあった。




4.スカイブルーの目覚め


ピ、ピ、ピ……と、規則正しい音を刻み続ける魔導式の心拍計。

その無機質な音の合間に、小さく、しかし確かな、衣服の擦れる音が混ざった。

ベッドの上で、シエルの長い睫毛が微かに震える。


彼女の小さな唇から、苦痛によるものではない、深く長い呼気が零れ落ちた。魔力回路の奥深くにまとわりついていた、あのガルディニアの黒い呪詛は、ティールの『神の瞳』によって細胞の一片にいたるまで綺麗に剥ぎ取られ、完全に消滅していた。


「……う、……ん……」


小さな声。

シエルは重い瞼を、まるで深い水底から這い上がるようにして、ゆっくりと押し上げた。

まだ焦点の定まらない、朧気な意識の世界。


視界を占める白亜の天井の白さが、徐々に輪郭を結んでいく。胸元を襲っていたあの焼き付くような激痛は消え去り、代わりに感じたのは、自分の右手を優しく、包み込むようにして握ってくれている、細くて綺麗な指の温もりだった。


「……ティール、様……?」


シエルは自身の、まだ乾いた声を震わせながら、ゆっくりと首を横へと巡らせた。

彼女の、世界で一番美しいスカイブルーの瞳が、ようやく光を捉える。

そこに映ったのは、いつものように冷徹で無表情な、自分をじっと見つめている主、ティール・エルドラの姿だった。


だが、彼女の普段通りの表情とは異なり、乱れた銀髪の奥、その目の端に拭いきれなかった微かな赤が滲んでいる。衣服には自分の流したものかティールのものなのか判断がつかなかったが、血が黒く残り固まっていた。さらには握っているティールの右手にはグレイが施した最低限の応急処置として包帯が巻かれていたが、それすら出血量を抑えられず赤くにじんでいる。


それら全てが、この主がどれほど無茶をしたのかを、朧気な意識の中でも雄弁に伝えていた。


「あぁ……目覚めたね、シエル」


「お、お怪我を、なさったのですか…っ?」


ティールはシエルの心配を他所に静かに微笑みかけた。シエルの手を握る力を、ほんの僅かだけ、確かめるように強める。


「…お前がいつまでも眠っているから、少し害虫を処分していただけさ……それよりも、身体に異常はないか?完全に呪詛は取り払ったが」


「わ、私は……不思議なくらい身体が軽くなってびっくりしているくらいですが…」


彼女自身の口から、異常がない事を告げられて初めて、ティールは安堵できた。その目に映るシエルの状態が平常時にかなりかなり近づいたのは確認済みだが、やはり本人の口から様子を聞かなければ安心など出来なかったのだ。


「そうか、ならいい。だが、今後私をかばってあのように身を盾にするような事はやめなさい。その様なこと、私は必要としていないからね」


「も、申し訳ございません……」


あの時の判断が最善ではなかったことは自分でも十分理解していた。きっともうコンマ数秒遅れていたところで、ティールならば別の対処方法を考え出して何とか出来てしまっていただろう。だが、それよりも身体が本能的に彼女を守るために動いてしまったのは、彼女の高い忠誠心ゆえのものだった。

苦言は覚悟していたが、いざ、こうして言葉にされるとどうしても涙があふれそうになる。情けないことだが、自分にとって全てであると言って過言ではないティールに必要とされなくなることだけは避けたかった。彼女がこのように身を盾にするような行為を好ましく思わないことも理解していたはずなのにと、シエルは頭の中でぐるぐると後悔の念に駆られた。


あぁ、もうダメかも。とシエルブルーの瞳にじんわりと涙の膜が浮かんだ瞬間、ティールの低いアルトの声が言葉を紡いだ。


「——あぁ、それと……身体が治ったら、また私にお茶を淹れてくれ。シエル。少なくとも日に一杯はお前の紅茶を飲まなければ、私の日常が乱れてしまう」


どこまでも冷静に、優しくいつも通りの日常の言葉を紡ぐティール。だが、その声の響きには、シエルの命を繋ぎ止められたことへの、隠しきれない深い安堵が滲んでいた。

シエルに、それがわからないはずがない。


「……はい、……はい、ティール様」


シエルのスカイブルーの瞳から、先ほどとは異なる理由で一筋の涙が溢れ、枕を濡らした。


主のその不器用な言葉の裏にある、狂おしいほどの慈愛を誰よりも理解しているからこそ、彼女は一刻も早く回復し、いつもの自分に戻ることを決意した。


そして、そのティールのすぐ後ろで、主の身体を軽く支えながら、紺に近い黒髪の隙間からサファイア色の眼差しで自分を見つめているグレイの姿も、シエルの瞳に映り込んだ。グレイの口元には、いつもの生真面目さを完全に削ぎ落とした、心からの温かい、そして安堵に満ちた微笑みが湛えられていた。


「シエル。……お前がいなければ、ティール様の日々は守られないんだ。どうかもう、無茶はしてくれるな」


グレイの静かな言葉に、シエルは涙を浮かべたまま、小さく、誇らしげに笑ってみせた。

ガルディニア帝国の仕掛けた卑劣な呪詛は、ジルニアの死神たちの絆を切り裂くことはできなかった。


むしろ、この過酷な夜を経て、三人の「絆」は、より一層、何者にも侵されぬ強固なものへと確立されたのだった。


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