調律の眼、命の剥離(上)
1.禁忌の解放
「……グレイ。扉の前に立ち、誰も中へ入れるな」
短い、低く冷徹な声が白い病室に響いた。
「ティール様……?」
その真っ直ぐな眼差しが捉えた主の横顔には、これまで無表情の裏に隠されていた、どこか狂気的な気配を纏った決意の眼差しがあった。
「私がシエルの毒をすべて除去する……この国の医療魔導など、最初からあてにはしていない」
「っ……!」
グレイは主がどのような手段を取るのか、そのすべてを察した。
アッシュフォードの遺産。
ジルニア王国では『禁忌』とされ、ティール自身もただ人を効率よく塵に変えるためにしか使ってこなかった、あの瞳の力。先日宮廷の研究員オズワルドに会った際に、その瞳の本当の使い方を耳にしたのは記憶に新しい。
グレイは口元を険しく引き締め、一礼すると同時に扉の外へと立ち塞がった。大剣を抱え、主の行動を邪魔する者が万に一つでも現れれば、この場で全員の首を刎ねるという覚悟を纏って、彼は静かに扉を閉める。
静寂が、再び部屋を満たした。
ティールはソファーから立ち上がり、シエルの横たわるベッドの傍らへとゆっくり歩み寄った。スラックスのポケットから細く綺麗な手を抜き、シエルの小さな胸元へと翳す。
「……アッシュフォードの『神の眼』が、本当に『調律』の力を持つならば恐らく……」
ティールは静かに呟き、そして、十数年間決して他人の前で見せることのなかった右目にかかる銀髪を、流れるような動作で右手でゆっくりと掻き上げた。
闇に隠されていた彼女の右目が、世界へと曝け出される。
その瞬間、病室の全空間が、キィィィン……という耳鳴りのような高周波の魔力に支配された。ふわりとティールの身体から溢れ出した魔力が、彼女のジャケットの長い裾やフリル、髪を揺らし始める。
露わになった右目は、深淵の如きティールブルーの虹彩の中に、黄金のアッシュフォードの紋章。そして金色の魔導幾何学陣が幾重にも重なり合い、万物の魔力の流れを完全に可視化する『神の瞳』そのものだった。
霊脈から未来を見通すほどの力は無くとも、本来の能力である『調律』の力はある程度存在するはずだ。魔術構造を可視化できるのであれば、調律の力をもってそれを書き換えることも可能だという仮説にすぎなかったが、今は悩むより試すべきであると判断したのだ。
すぅ、と細められた右目に映るのは横たわるシエルと、その体を構築する魔力回路の細い線。美しい純白の魔力線が足先から頭のてっぺんに至るまで蔓延っているのが確認できた。
そしてその一部。肩から心臓部にかけて、魔力回路の奥深くに、まるで黒いタールのようにドロドロとこびりついているガルディニアの陰湿な猛毒の呪詛を完全に捉えた。
ここまではこれまでの『神の眼』の運用と何も変わらない。ただ、力を開放していることにより、より鮮明にそれらの構造が目に映るだけだ。
「魔力回路への侵食……それもかなり深刻だ。普通の治癒魔法では取り除けないのも頷ける」
淡い光の線に見える魔力回路を犯す黒い汚泥のような靄。
この毒を分解する術式を編み出すには、通常であればガルディニアの旧式呪詛魔法の全術式を解き明かすような作業が必要になるだろう。だが、そんな退屈な計算に付き合っている時間も余裕もない。
(ならば、最適解は一つだ。この『調律の眼』の出力をもって、シエルの魔力回路から、毒の粒子だけを剥離すれば良いだけのこと)
それは、治癒や解呪魔法の概念を根底から覆す、あまりにも野蛮で、あまりにも強引な、ティール・エルドラならではの人間離れした発想だった。
2.反動
「……調律」
深く深く、一度深呼吸をしたのち、そう発したティールの両手からピーコックグリーンの光が放たれ、シエルの身体を包み込んだ。空間に響いた調律の言葉が残響を残して部屋へと染み込んでいく。
ティールの『神の瞳』が、シエルの体内にある毒の「核」を掴み、それを外側へと無理やり引き剥がしにかかった。
肩を起点にこびりついた黒い呪詛の核が、彼女の淡いピーコックグリーンの光に捉えられてかなりの抵抗を受けながらも少しずつだが剝がれていく様子が見て取れた。
『調律』の出だしは上々。
彼女の理論や方法が、ひとまず間違っていなかったことが分かっただけ、成功と言えた。
だが次の瞬間、凄まじい拒絶反応がティールを襲った。
「――ぐ、っ……!」
ガルディニアの旧式魔導兵器の術式は、侵入した生体を破壊し尽くすまで消えない呪いの性質を持っている。それを外部から力技で引き抜こうとすれば、呪いそのものが凄まじい牙を剥き、解呪の術者であるティールへと逆流して襲いかかってくるのだ。
ティールの喉から、押し殺した短い呻きが漏れた。
黒々とした泥のような毒素が、シエルの魔力回路から引きはがされるのと同時に、かざした手が痛みに震える。皮膚の下で、彼女自身の魔力回路が毒の強烈な反発を受けてギリギリと音を立てて軋みをあげていくのが分かった。
全身の毛細血管が千切れるかのような、想像を絶する激痛。
ついにはあまりの負荷に、その『神の眼』を宿す右目の端から、つぅ、と一本の鮮血が静かに流れ落ちた。
叫び声をあげて、術を中断すれば楽になれる。
だが、ティールは僅かに眉を顰めただけで、その姿勢を崩すことはなかった。
(……この程度の痛みが、私を止める理由にはならない。全身を焼かれるような負荷だが、私の魔力許容量の限界値にはまだ遠い…ッ)
あの滅亡の夜、すべてを失ったティールが生き延びたあの夜や、それからの数年に比べれば、この激痛など些細なものに過ぎなかった。
「ふ……っ……く——」
そしてさらに出力を上昇させる。
シエルの細胞一つすら傷つけることは許されない緻密な『調律の眼』の制御。
誰に教わった訳でもない。
ただ、今この瞬間。この身に流れる血そのものが、ティールにどうすればいいかを不思議と教えてくれているような感覚だった。
襲いかかる激痛を冷静に客観視し、精神の均衡を保ち続けるティール。
シエルの内側にこびりつく不浄な呪詛だけを、慎重に、一枚ずつ剥がしていく。激しい光の奔流の中、黒い煤のような不浄な霧が空気中で音を立てて蒸発していった。
毒が剥がれるたびに、シエルも苦痛に顔を歪めるが、ティールはその『神の瞳』で彼女のバイタルを見極め、痛みが最小限に収まるよう自らの肉体を犠牲にして、剥離の反動をすべて自分が身代わりとなって引き受けていた。
「あと、少しだ、シエル……っ」
瞳から、腕から、滴る血が床を叩く。
人を殺すためにしか使えないと周囲から恐れられていたその瞳が、たった一人の少女の命を救うための、優しく、壮絶な慈愛の力を体現した瞬間だった。




