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儚き刃と、死神のゆらぎ(下)

3.吹き抜ける風


「止まれ!!」


「ジルニアの犬が!!逃がさないぞ!」


離宮を囲っていた伏兵たちを叩き伏せて、本宮へと繋がる渡り廊下を駆け抜ける一陣の風。


「死にたくなければ退け!」


グレイの威嚇の声が響き渡るが、その大剣は容赦なく道を塞ぐ者へと振るわれた。


離宮を抜ければ空気は打って変わって、何も知らない様子のガルディニア本宮の近衛兵たちが何事かと騒然とする。そんな中、ティールは血に染まったシエルをその両腕に抱きかかえ、一切の迷いなく白亜の宮殿の回廊を蹴った。

硬い音を響かせるハイヒールの音は、激しい焦燥を刻みながら大理石を叩いている。


「ティール様! 王宮の魔術救護室はおそらく危険です!外へ出ましょう!!」


背後からフィンを抱えたまま大剣を血に染めたグレイが叫ぶが、ティールは振り返りもしなかった。長い銀髪を靡かせ、その瞳に冷気を宿したまま、低い声を鋭く響かせる。


「ひとまず街の病院へ向かう。誰の仕業かなど、検討はついている」


子供を洗脳して刺客に仕立て上げるような連中がいる王宮だ。救護室の医療魔導師たちが、どこの派閥に属し、どんな細工を施すか分かったものではない。ティールにとって、今のガルディニア王宮は一木一草にいたるまで敵でしかなかった。


「――っ、御意に!」


グレイは主の冷徹極まる、しかし最も正しい判断にすべてを委ね、先行して宮廷の重厚な門を叩き割るようにして押し開き、道を切り開いた。


ジルニア王国の特級執行官が、傷ついた少年少女を抱えて猛然と夜の街を駆け抜けていく。その尋常ならざる気迫に、街を行き交う魔導車や歩行者たちは悲鳴を上げて道を譲った。


やがて二人が辿り着いたのは、最先端の魔導医療設備を備えた、王宮の管轄外である街の中央大病院だった。



4.白き部屋の「無言」


それから、どれほどの時間が流れただろうか。

隔離された集中治療室の中は、ただただ静まり返っていた。


静寂—―ジルニア王国の我が家であれば、カモミールの香りとシルヴァの穏やかな寝息が満ちている好ましい時間。だが、この部屋にあるのは、シエルの胸元に取り付けられた魔導式の心拍計が、無機質に刻むピ、ピ、という一定の電子音だけだった。


「……」


ティールはソファーに深く腰掛けたまま、ピクリとも動かなかった。

完璧に仕立てられていたはずの漆黒のジャケットと白いブラウスには、シエルの流した鮮血が黒い染みとなって大きく広がっている。


彼女は銀髪の隙間から除く薄い青緑の瞳で、ベッドに横たわるシエルの青白い顔をじっと見つめていた。その細く綺麗な指先は、シエルの小さな、そして今はひどく冷たくなってしまった手を、壊れ物を扱うかのように優しく、静かに握りしめている。


一言も発しない。ただ浅く繰り返される呼吸と、流れる冷たい汗。

いつもなら、誰よりも早く先を見通し、行動に移すあの少女が、死の淵を彷徨っている。


万物を最適化し、すべての因果を読み解くはずの『神の瞳』。


(もし、自分がこの力を全て受け継いでいたなら、あの出来事すら予測できたのだろうか)


この地の霊脈から周囲の魔力の流れを可視化し、読み取り、何より早く判断を下せていたのではないだろうか。そのような「もしも」に思考を巡らせることすら、今までのティールとしてはあり得ない行為ではあったが、今回ばかりはこの力を悔やみ、特級執行官としてあるまじき「躊躇」という愚行に憤っていた。


あのフィンの呪詛を視た瞬間に生じた、コンマ数秒の戸惑い。それが、シエルの小さな身体を硝子のように砕く結果を招いたのだから。


だがどれほど脳内で冷徹に因果を逆算し、己の失策をなじり倒そうと、目の前の現実は微塵も動かない。


(……防げたはずの結果だ。罪悪感を感じたところで、結果は変わらないが)


だが、その凄絶な内情に反して、ティールの横顔は誰の接近も許さないほどに冷酷だった。完璧にコントロールされた「死神」のポーカーフェイスは、ただ静かに、昏い光を宿してシエルを見つめ続けている。


すると、病室の重い扉が静かに開き、グレイが足音を殺して入ってきた。

彼の衣服もまた激しい戦闘の跡で汚れていたが、その落ち着いたサファイア色の眼差しは、主の静寂を乱さないよう細心の注意を払っていた。

グレイはティールの背後にそっと近づき、声を極限まで潜めて、先ほど医師たちから受けた説明を報告した。


「—―ティール様。フィンは隣の部屋で解呪を受けて休ませました。命に別状はないとのことです。それと…当院の最高階位の医療魔導師より、状況の報告を受けました。シエルの傷口自体は、すぐに術式で塞がったのですが……」


グレイは口元を険しく引き締め、悔しさに声を微かに震わせる。


「フィンが放った刃には、ガルディニアの旧式魔導兵器に用いられる、極めて強力な【遅効性の呪術】が塗布されていたようです。過去に使用者にも害を成すとされて、既に使用が禁止された危険な魔法のようですが、病院の解呪と回復魔法を最大出力でかけ続け、今すぐ死に至るような事態は免れました……ですが想定より毒の根が深く、魔力回路の奥にこびりついて抜け切っていません。それが原因で、昏睡状態から抜け出せず完全な解呪には至っていないとのことです……」


遅効性の強力な呪術。魔法王国ならではの、生体を内側から蝕む不浄な力だ。

グレイの報告を聞いても、ティールはシエルの手を握ったまま、視線一つ動かさなかった。


「……そうか」


ただ、その青緑色の淡い双眸の奥が、ふと、底なしの深淵のように昏くなった気がした。



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