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儚き刃と、死神のゆらぎ(上)

1.ちいさな話し相手


ガルディニア帝国での滞在が始まって一週間が経過していた。

平穏な時間が過ぎゆく日々のなかで、ティールはすっかりアナスタシアとのお茶会を楽しむようになっていた。


その日の午後、皇女に招かれてティール達は離宮のテラス席にいた。


ティールはシエルが淹れた紅茶を楽しみ、背後にはグレイがその光景を見守っている。


「もう間もなくティール様の滞在期間も終わりに近づいてまいりましたわね……私、寂しすぎて死にそうです。この一週間なんて本当にあっという間でしたわ!」


アナスタシアの薄い金髪が、彼女が皇女らしくもなく机に顔を乗せたことで地面に着く。まるで子供のように残念がる姿に、ティールは思わずフッと口角を上げてその様を面白がった。出会った当初の深刻な雰囲気と、どこか緊張感のある表情からは考えられないほど豊かな彼女の明るさに、この帝国の民の多くが救われているだろう。

まだまだ問題は山積みのガルディニア帝国だが、これ以上ティール達にできることは無い上、そもそも他国の問題に干渉しすぎるのは立場上危険な行為だった。


「……ですがジルニア王国のお嬢様方に、これ以上貴女様をこの国に引き留めては呪われそうですものね…なんだか寒気がしてきましたわ」


机に突っ伏していた身体を持ち上げ、腕をさすりながら言えば、後ろで控えていたシエルとグレイが「それは確かにそうかもしれない」と心の中で呟きながら静かに頷いた。


「大げさな皇女様だ。手紙を書くと良い。可能な限り返事を書くと約束しよう」


「まぁ!ティール様と文通ですか!?そんな、遠距離恋愛みたいな素敵な関係になれるだなんて私…私、感無量ですッ!!」


これまでのシリアスさで忘れてしまいそうだったが、彼女は立派なティールを崇拝する会『ティールブルー』の一員である。


「帝国の皇女が熱病を患うほど会いたがっている」という当初の報告にあった言葉は大げさでもなんでもなく、事実であるのだから面白い。それを利用して彼女にガルディニアの保守派の人間の危険性について知らせたわけだが、それもここ数日は静かなもので、貴族たちからの警戒心むき出しの視線はもちろん感じていたが、あの夜会以降、直接的な干渉は全くなかった。


ティール流に言えば、所詮、群れなければ牙をむくことすらできない、有象無象に過ぎなかった訳である。


そんな風に、穏やかなティータイムを楽しんでいると、扉がノックされる音が響きアナスタシアの侍従であるルカが外へ出ていった。

暫くして戻ってくると、アナスタシアに向かってルカが連絡を伝える。


「失礼いたします。アナスタシア様、急遽、陛下がお呼びとのことです」


「あら、お父様が?ティール様、少し失礼いたします。父が呼んでいるそうなので急いで行ってまいりますわ。フィンにこの場を任せますので、少しだけお待ちいただけるかしら?」


「あぁ、構わないよ。行ってくるといい」


皇女アナスタシアは宮からの使いに呼ばれ、少し席をあけると言って出ていった。その場にティール達3人と、見習い侍従の少年フィンのみが残され、静かな時間が流れる。

出会った当初は少し緊張気味だったフィンも、だいぶん慣れてきたのか、今では穏やかな笑みを浮かべて綺麗な姿勢を保ったままティールに話しかけられるようにまでなった。


「ティール様、スコーンのおかわりはいかがですか?実は僕、スコーンづくりに最近凝っていまして…その、もしよろしければ、お味見をしていただけると嬉しいのですが」


少しだけ照れくさそうに声をかけたフィンの、薄いシルバーの髪がさらりと揺れる。


「ほう?それは興味深いね。ぜひお願いしようか」


「ありがとうございます!すぐ持ってまいりますね!」


ぱっと表情を明るくさせたフィンが少しだけ早足で、しかし節度を保ったまま部屋を出ていく。一連の流れをティールの後ろで見ていたシエルが「あの侍従…ティール様相手にスコーンを用意しようとは…なかなか肝の座ったガキ——んんっ少年ですね…」と敵対視するものだから、グレイがまたも苦笑する。

彼女のティールに対する敬愛は本物だが、時折行き過ぎるのが玉に瑕である。


暫くして部屋の扉をノックする音が響き、グレイが扉を開けてやると、フィンがシルバーのトレイにクロテットクリーム、ラズベリーのジャムの添えられた香ばしいスコーンを手に戻ってきた。


焼きたてのスコーンの甘く香ばしい香りが部屋に満ち、思わずシエルも感嘆の声を漏らす。


「……お待たせいたしました」


ふと、彼の声が震えていることに気づく。見れば、声だけではなかった。足も、手も、僅かに震えているようでシルバーの食器がカタカタと音を立てているではないか。


緊張しているのだろうか?だが無理もない、とティールは静かに考える。他国の賓客に弱冠十歳ほどの見習い侍従が自ら作ったお菓子を食べてもらう機会などまずありえないのだから。


「急がなくてもいい、ゆっくりで構わないから――」


彼の緊張を和らげるためにティールがそう言葉を言い切るよりも早く、空気が一瞬にして冷え切り、背には悪寒が走った。


フィンのあの綺麗な淡い紫の瞳の奥に、突如として歪んだ殺意が燃えがったのだ。


「……待て、お前——」


グレイの声がフィンに静止を訴えたのもつかの間。フィンが持っていた銀のトレイの裏側から、魔導の技術によって極限まで薄く仕立て上げられた鋭利な刃が飛び出した。

禍々しい黒い魔力を纏った短剣がフィンの手に握られ、シルバーのトレイがスコーンもろとも大きな音を立てて床へと放り出される。


「ああぁぁぁ!!」


まるで獰猛な獣のような咆哮と素早い動き。


フィンはティールの僅かな油断を突くようにして、その刃を一気にティールの胸元へと突き出した。




2.スカイブルー


フィンの突き出した刃は、ティールの衣服の胸元へと迫る。


そのコンマ数秒の瞬間、僅かに見開いたティールの前髪に隠れた右目がフィンの目を再び捉えた。確かに殺意はあれどもどこかおかしい。


彼の双眸は、恐怖や憎悪で燃えているのではない。ただ、底の知れない深淵のように濁った殺意の色をしていた。

そして、その濁りの奥底に、わずかだが確かに感じる魔法の気配。


「ッ!」


ティールの前髪に隠された右目が青緑色の魔力光を放ち、瞳には薄らと紋章が浮かぶ。

アッシュフォードの『神の瞳』の力。それを咄嗟に使わなければ、それこそ感じ取ることすら不可能であっただろう極めて精緻で、極めて悪質な、精神汚染の痕跡が彼の体にまとわりついていたのだ。


(洗脳魔法…!フィンは呪詛によって操られているのか!)


『神の瞳』がもたらした、残酷なまでの真実の開示。


もしこれが、自分の意思で刃を向けてきた暗殺者であれば、ティールはその命を排除することに何の躊躇もなかっただろう。だが、相手はただ利用されているだけの、幼い子供なのだ。


柔らかなシルバーの髪、穏やかな愛らしい薄紫の瞳と、あの笑顔。


傷つけてはならない。殺してはならない。この呪詛の糸だけを、どうやって切り離せばこの命を救えるか。


ティールの脳内で、本来守るべき無垢な子供に対する想いがさらに複雑に狂い、彼女の身体はそのわずかな一瞬とはいえ、完全に凍りついたように静止してしまった。


(私が手を下せば、この命は二度と戻らない)


その静かなる動揺が、特級執行官たる彼女の次の挙動を鈍らせてしまっていた。

普段ではありえないあまりにも近い攻撃の間合いに、ティールにはフィンの動きを止めるなり、武器を叩き落とすなり無力化するための時間すらもう残されてはいなかった。


しかし、そのティールの僅かな遅れを誰よりも理解し、誰よりも予測していた少女がいた。


「ティール様ッ!!」


鋭い悲鳴のような声とともに、ティールの視界を、亜麻色の髪と鮮やかなスカイブルーのリボンが遮った。


——シエルだった。


シエルは自らが身をもって経験していた主の「子供への優しさ」を骨の髄まで知っていたからこそ、ティールの判断が鈍ることを察知した。

自分の袖口の暗器を抜くことすら投げ打って、ティールの身体を渾身の力で押しのけると、その華奢な肉体を文字通り「盾」としてティールの前へと投げ出したのだ。


ズブ、という不快な肉声が響く。


フィンの突き出した刃は、ティールの胸元ではなく、彼女を完璧に庇ったシエルの、細い肩口へと深く突き刺さった。


「――っ、ぐ、うぅ……っ!?」


シエルの肩から、鮮血が溢れ出る。


彼女の胸元を飾っていた白いブラウスのリボンが、一瞬にして赤黒い血によって汚され、染まっていく。


「シエル!?」


背後で、グレイがその顔を驚愕に歪め、声を張り上げた。

洗脳され、刃を持っていたフィンは、シエルの肩口からそのまま刃を抜くと、目標であるティールを睨み付けた。


「フーッ、フーッ……っ、うわぁああ!!」


荒い呼吸のまま、赤く染まった刃を振り上げる。が、それは即座にグレイによって落とされ、流れるような動きで首裏への意識を刈り取る手刀を受けると、フィンはグレイの腕の中へと倒れこんだ。


そして、ティールの目の前でいつも完璧に美味しい紅茶を淹れてくれていた、ちいさくて愛おしいシエルの身体が、糸の切れた人形のようにドサリとティールの腕の中に崩れ落ちてくる。


彼女の肩を伝って床に広がる、鮮やかな赤。

ティールにとって最も大切な今という時間、その自分の世界を構成する要であるシエルの命が、目の前で零れ落ちようとしている。


急所ではない。だが出血量が多く、尚且つあの刃は普通のものではなかった。

彼女の『神の眼』がその刃に宿った黒い魔力を見れば、それらがシエルの肩口からじわじわと侵食していくように中に染み込んでいく様が見て取れた。


声を殺して痛みに顔を歪めるシエルの歯が、ギチと音を鳴らすほどに噛み締められている。



その瞬間ティールの中で、完璧に維持されてきたポーカーフェイスが音を立てて完全に崩壊した。


しかし彼女は怒りから叫ぶことも、他に対する言葉も、一切発しなかった。



——ただ、その瞬間、世界から完全に「音」が消え去った。



「……」


立ち上がったティールの全身から、周囲の空間を何十倍もの重さに変えるような、凄まじい怒気と重圧が噴き出す。前髪に隠された『神の瞳』からは、この世のすべての生物を塵に変える、使い慣れた破壊のための冷徹な光が溢れ出していた。


シエルの細い身体を抱いて、ティールは一歩、前へ踏み出す。


カツリ、と響いたハイヒールの音。


「チッ、役に立たないガキだ!!だが一人はやったぞ!」


その時、部屋の外から聞き覚えのない男の張り上げた声が響いた。


「――グレイ」


地鳴りのように低く、刃のように鋭い声。

その言葉の響きと殺気だけで、この離宮一室の窓ガラスが一斉にピキピキと音を立ててひび割れるほどの魔力の圧に、グレイすらわずかにたじろいだ。初めて見る、彼女の静かなる怒り。皮膚に突き刺さるほどのティールの明確な殺意を浴びたのは、これが初めてだった。


しかし、この場で彼女を支えられるのは自分だけであるという現実が、彼に強い意志と覚悟を与えた。


「……はっ!」


グレイは大剣を抜き放ち、片手で意識を失ったままのフィンを肩に担ぎ上げると、おそらく計画が失敗した時のための要因であろう離宮を取り囲んでいた潜伏中の残党どもを迎え撃つべく前に出た。


その背中は、主の静かなる逆鱗を誰よりも理解している騎士の姿だった。


「シエル……」


ティールは初めて前髪を乱れさせ、腕の中のシエルを強く強く抱え直した。


自分の僅かな油断、見知ったフィンだったからこそ生まれた隙が招いた、最悪の悲劇。

ティールは扉を思い切り蹴破ると、外にいた残党を、両手がふさがっていることで大鎌が震えないため、魔力で作った刃で喉笛を切り裂いた。

鉄がぶつかり合うような兵士の足音と、何も知らぬ召使たちの悲鳴が離宮内に響き渡る。


それらに一切の関心を寄せることなく、腕の中の命を救うため、2人は赤く染まった宮殿を全速力で駆け抜けた。




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