神の眼(下)
4.綴られた歴史
翌日。
ガルディニア帝国の王宮の奥深くにある『大魔導書庫』に3人は向かっていた。というのも、ここの管理者はアナスタシアが特に信頼する魔導研究員であり、どうしてもティールに会いたいと皇女に懇願したのだとか。
王宮の門の前までたどり着けば、そこにはアナスタシアが遣わした女性の召使いと、まだ10歳そこそこに見える小さな少年が恭しく礼をして王宮の入口で出迎えてくれた。
「こんにちは、ティール・エルドラ様。シエル様、グレイ様。本日の案内を担当いたします、ルカと申します。そしてこちらは見習い侍従のフィンです。まだまだ至らない点も多くございますが、よろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いいたします!」
初々しい挨拶に、思わずティールの表情が少しばかりこわばった。
このようにまだ幼い年齢でありながら侍従として貴族の家に働きに出るものはまだまだ多いのが現実だ。どこの国でも、平民の暮らしに関しては貧富の差や保証の問題、治安維持など様々な障害が存在する。
本来であれば学校に通い、勉学に励むであろう年齢で、生活のために金を稼がねばならない子供たちがいる事を、ティールは心苦しく思っていた。
「あぁ、こちらこそよろしく頼むよ」
そう優しく言えば、フィンは緊張しながらもひだまりのような笑みを零した。
薄い紫の瞳が真剣にティール達を見つめているのを見ると、彼の気合は十分といった様子だった。ルカの後ろについて必死に目を凝らして学ぶ様は勤勉な性格の表れであり、彼の責任感を感じさせた。
そんな二人に案内され、ティール達三人は重厚な扉の前までたどり着く。
「こちらが、皇室管理の大魔導書庫でございます。室内は研究員が仕事をしていますが、どうぞお気になさらずごゆっくり見て回ってください」
ルカの案内で中に通されると、そこはジルニア王国の古い石造りの書庫とは異なり、壁一面に埋め込まれた魔導回路の青い光が輝き、無数の羊皮紙や魔導書を管理する魔力で満たされた空間だった。
薄暗いが広々とした室内に響く魔道具たちの駆動音が、ティールの耳に届く。ここもまた、ガルディニア帝国ならではの管理環境だな、と視線を移す。分厚い絨毯に靴音は飲みこまれ、淡い光だけがゆらゆらと照らす静かな空間は実に心地よい。確かにルカの言う通り数人の研究員たちが作業をしているらしく、ティールを見つけると深々と頭を下げてまた仕事に戻っていった。
「エルドラ様、あちらがアナスタシア皇女様がご紹介されたいと仰っていたオズワルド様です」
ふと、少年らしい高い声でフィンが告げる。振り返って見れば、この書庫の最奥に位置する古びた部屋の扉を開けて出てきた男性が、ゆっくりとした足取りでこちらに近づいてくるのが見えた。
「——お初にお目にかかります、ティール・エルドラ様。私は当宮廷の魔導研究総監を務める、オズワルド・ミラーと申します」
ティールの前に現れたのは、豪奢な魔導衣を纏った初老の魔道士だった。彼は他の貴族たちのような強欲な値踏みの視線ではなく、まるで歴史上の生きた奇跡を目の当たりにしたかのように、深い敬意を込めて一礼した。
「ジルニア王国では、あなた様の故郷アッシュフォードの名も、その血脈が宿す『神の瞳』の力も、禁忌の情報として扱われていると聞き及びます。……ですが、我がガルディニアの魔法学において、アッシュフォードは畏敬すべき先駆者。その末裔たるあなた様に、我が国が保管してきた歴史の真実をお伝えすることは、研究者としての誉れでございます」
そう言ってオズワルドが恭しく差し出したのは、魔導の刻印が施された一冊の重厚な古文書だった。かなりの年月を感じさせる表紙ではあったが、それでもここで丁寧に管理されていたのか、多少の痛みや黄ばみはあれどそのページの文字などは全く擦れることなく綺麗なままだ。
彼もまた、この国では数少ないティールの身分を知る人物のようで、深々と頭を下げたまま差し出された手元は敬意か、畏怖からかわずかに震えていた。
「…これは」
ティールはその古文書を見つめる。
彼女の銀髪の奥、深く隠された右目が、その本の放つ微かな魔力の残響に、ほんの僅かに反応して熱を持ったような気がした。
アッシュフォードの記録。
十歳で国を去ったあの地獄の夜から、彼女のこの右目について詳細を知る者はおらず、勿論まともな言葉で教えてくれる者など誰もいなかった。
国を去ってから彼女が本気でこの力を使おうとしたことは殆ど無い。というのも、本気を出せば瞳にアッシュフォードの紋章が浮かび上がったりと、あまりにも特徴的な力でありすぎるためだ。
かつての身分を捨て、過去の自分を殺した彼女にとって、それは決してばれてはならない力。出力を抑えたとしても十分すぎるほどに魔術構造を見通すこの瞳を、ジルニアの元老院は『魔眼』と呼び、裏社会の人間は『死神の眼』と呼んだ。
だが、この国に残された記録はずいぶんと異なる言葉で綴られているらしい。
ティールは細く綺麗な指先で、そっと古文書の表紙に触れた。
——記されていた名は『神の調律の眼』
そのすぐ後ろでは、シエルがスカイブルーの瞳にいつもの警戒を僅かに滲ませながらも、主の心の揺らぎを察して静かに寄り添い、グレイもまた、主の孤独な過去に思いを馳せるように静かに目を閉じた。
「ティール様、アッシュフォードの『神の瞳』とは、決して人を殺めるためだけの魔眼ではございません」
オズワルドが静かにページをめくる。そこに描かれていたのは、かつてアッシュフォードの王族たちが、その瞳を用いて大地に眠る霊脈を視て、調律をし、不毛の地に豊かな実りをもたらしていたという夢のような平和な魔法技術の記録だった。
「それは、世界の理を視覚として捉え、正すための『調律の眼』。霊脈——つまり世界に流れる血も同然の魔力の奔流を狂いなく見極め、その因果を見通す力です。しかし結果として戦闘においては、魔力の流れを先読みすることは相手の次の一手を見通せるも同然。その力は、他を塵に変える圧倒的な武力となってしまう」
めくられた次のページに描かれた絵には、アッシュフォードの王族らしき人物が人の屍の上に君臨する姿が書かれていた。しかしその表情は明るいものではなく、けれども威厳に満ちた表情でもない。牙を向ける者に制裁を加えるのは王としての役目だが、皮肉なことにその力はあまりにも強大すぎて別の敵をまた多く作る要因にもなったのだ。
「アッシュフォードはもとより精霊に愛された国、多くの血を流す戦争を嫌い、避けてきた国です。その戦争の記録ですらもう二百年は前のものですね」
歴史書に書かれた内容を思い返しながらグレイが言う。彼の認識している限り、確かにアッシュフォードの戦争の記録はそう多くない。それでも植え付けられた恐怖は拡大し、根深く蔓延り、やがて人を狂わせる。
全貌の見えないものこそ、恐ろしくなるのが人というものだ。
「ええ。そうしてアッシュフォードの地はその未知性ゆえに攻撃の対象となり、危険視された結果、滅ぼされました—―ですが、その『神の眼』の本質は、万物を正しく視るための慈愛の瞳なのです。ただ、その強大すぎる力が、周囲の恐怖と破滅を呼んでしまったにすぎない」
オズワルドの言葉は、ティールの脳内で、驚くほど美しく噛み合っていった。
「……慈愛の眼、だと?私はこの瞳を使って、障害を最も効率よく処分する事ばかりを計算してきた。だがアッシュフォードの先祖たちは、この力で世界の因果すら視認し正していたというのか」
だが、彼女に世界の因果までもを見通す力はなかった。
あくまでも自分の『神の眼』の視界に移るのは、魔術の式、構造が限界だ。いわゆる霊脈から予知に近い先を見る能力など、行使したことも、する術も知らなかった。
何か理由があるのだろうか?そう思ったが、それを教えてくれる母や父はもはやおらず、そこまでの詳細な情報はこの書物には残っていないようだった。
「確かに……当時の国王陛下は、定期的に城の最奥の神殿で儀式をしておられるという話は聞いたことがあります。内容が秘匿された行事だったため、一般人はもちろん、上位貴族ですら限られた人数のみが知る儀式だったはずです……もしや、それが霊脈を読み因果を見通す調律の儀式だったのでしょうか」
顎に手を当てたグレイが、思い出したように述べる。思い返せば唯一の後継者であったティールでさえ、十二歳になったら参加の許可が下りると言われていた儀式があったことを思い出す。グレイの言う通り、今思えばそれが『調律』を施すアッシュフォードの大切な儀式であったのかもしれない。
「だが、私のこの瞳にはそれほどの力はない……これに関しては何も情報はないか?」
「申し訳ございません、貴女様の瞳が何故全ての力を有していないのかは、私にもわかりかねます……ですが、やはり精霊の国とも称されたアッシュフォード。なにか通常の魔術とは異なる制約が存在するのかもしれませんな」
オズワルドのいう事も一理あった。
精霊との契約で成り立ったアッシュフォードの国には数多くの精霊が存在し、国を象徴とする精霊王と呼ばれる偉大な精霊も存在した。だが、あの襲撃以降それらの姿を見たことも、感知したこともない。あの業火もろとも国ごと消え去ったのは火を見るよりも明らかだった。
燃え盛る国をこの目で見届けた以上、ティールには確信もある。
そんな国を支えていた精霊たちが死に絶えた以上、アッシュフォード王家の『神の眼』の力が弱まるのも当然と言えた。
「そうか……オズワルド。まずは我が故郷の遺産を、これほど深く、正しく遺してくれていたことに感謝する」
ティールはどこか懐かしむような声で静かに告げ、古文書を閉じた。
その目には、一つの真実を知れたことへの静かな安堵の色が浮かんでいた。
この目は、邪悪な殺戮の眼などではなかったのだ。
それが分かっただけでも、彼女の中に僅かでも変化があったことは事実だった。
「ティール様……」
シエルがそっと彼女の後ろから気遣うように呼びかける。ティールはフッと微笑み、その亜麻色の小さな頭を優しく撫でた。
「さあ、戻ろう、シエル、グレイ。ガルディニアの知識は十分に得た。この目に慈愛などという力があるというなら、しっかりと検証せねばならないね」
「きっと、大丈夫ですよ。ティール様。貴女のその力は…傷つけるためだけの力では無いはずです」
グレイがその口元に、心からの温かい微笑みを浮かべて応える。
あまりにも穏やかなその笑みに、ティールは少しだけ驚いたように長いまつ毛を瞬かせた。
なんの保証も、確証もない、あまりに曖昧な言葉。
先日、アナスタシアに向かって放った「父上は少し長く休まれているだけであり、人はみな等しく脆い」という言葉もそうだったが、彼はあまりにも甘く優しすぎる。
それは彼の弱点であり────しかし失ってはならない人間性であった。
「不用意に、そのような事を言うのはやめた方がいい」と、あの時、ティールはその甘い皇女とグレイに警告することもできただろう。普段の彼女であったならば、迷いなくそう告げていたはずだ。
だがそれは出来なかった。
今思えば、その理由も何となく理解できる。
彼の中に、慈愛に満ちた笑みにかつての国の民たちや……両親を思い出してしまうのだ。
——エルドラ……私の愛しいティール。いつかお前の治めるこの国が、いつまでも精霊を愛し、愛され、永遠の輝きを放つよう……私たちは祈っているよ。
かつての父の言葉が空耳のように木霊したような気がした。だがあまりにもはっきりと聞こえた声に、ティールは思わず目を伏せて薄い唇をわずかに引き結ぶ。
王族のみが引き継ぐこの力は、本来、王から次の王への教育の一環として直接施されるはずだった。なぜなら能力を持つ者以外の誰も、その本質も、使い方さえも分からないからだ。
結果として、まだ基本的な制御程度しか学んでいなかった彼女が逃走時にあの大鎌を『神の眼』の魔力をもって作り上げたのは、最早本能的なものだったのだろう。
あの優しかった父が、母が、全ての愛すべき場所と時間が、その小さく柔らかい手から零れ落ちていった瞬間を、今でも鮮明に覚えている。
——彼から教えてほしいことは、まだ沢山あったのだ。
「……散々破壊のために行使してきた力だ。今更、うまく使えるとも限らないがね」
少しの後、ティールは踵を返してハイヒールを鳴らしながらそう言った。
少しばかり蘇った過去の幻影を振り払い、「今」という大切な日常を守るために自分はこの力を利用し続けるのだと、ティールは静かに胸の中で誓ったのだった。




