神の眼(中)
3.吟味
ブティックを出た三人は、相変わらず見上げるほど高い建造物を横目に街を歩いていく。
街の壁面には、無数の細い魔導回路が脈のように走り、青白い淡光を周期的に明滅させている。
通りに面した商店のウィンドウには、自動で動く精巧な魔導人形や、光の屈折を変えて自ら模様を変える織物が誇らしげに飾られていた。
「それにしても相変わらずまぶしい街ですね~」
今日の買い物のために纏った品の良い黒のドレスの裾をかすかに持ち上げながら、シエルが周囲に冷ややかな、けれどどこか物珍しそうな視線を巡らせる。その隣を歩くグレイは、背負った大剣が街行く人々に当たらないよう配慮しながら、器用に人波を避けていた。
「確かに、魔法工学が発展している大国なだけはある……ティール様、あまり人込みは歩かないでしょう。ご気分が悪くなったりはなさっていませんか?」
グレイが問いかけると、先頭を歩くティールは、カツ、カツと洗練されたハイヒールの音を一定の音で響かせながら、前髪の隙間から街並みを静かに見つめていた。
「いや、問題ないよ……魔力の巡りがすべて機械化され、目に見える形で可視化されている。効率を追求した結果だろうが……少しばかり、風情というものを置き去りにしているようにも思えるが」
低く、どこまでも澄んだアルト。
流れるような美しい銀髪が、魔導灯の青白い光を反射して怪しいほどの輝きを放つ。すれ違う帝国の市民や旅行者たちが、性別を問わず思わず立ち止まり、その圧倒的な存在感と美貌に息を呑んで振り返るが、当の本人は一切気にした様子もないのだから通常運転であるといえよう。
「さて、またティール様の浪費が発生してしまいましたが……グレイさんへのプレゼント選びも無事に終わりましたし、そろそろ本日の真の目的を果たしに向かいましょうか」
シエルのシエルブルーの青い瞳が、すっと怪しい熱を帯びた。
ティール・エルドラという存在を形作る要素は数あれど、彼女の『平穏』を維持するために絶対に欠かせない嗜好品——それは言わずもがな、紅茶である。
「アナスタシア皇女殿下から事前に聞き及んでおります。この先の大通りを一本折れた区画に、帝国中から極上の茶葉が集まるという老舗の専門店があると」
「期待できそうだね」
ティールの唇が、フッと楽しげに緩む。無類の紅茶好きである彼女にとって、異国の地で未だ見ぬ極上の茶葉に出会うことは、どんな高価な宝石を手に入れるよりも価値のあることだった。
大通りの喧騒を離れ、静かな裏路地へと足を踏み入れると、金属音や魔導回路の駆動音が一気に遠のいた。
レンガ造りの佇まいを見せるその店の看板には、古風な文字で『黒猫と茶葉』と刻まれている。重厚な木製のドアを開けると、カランと澄んだベルの音が響き、それと同時に——目には見えない濃厚な香りの奔流が、三人を出迎えた。
店内は、壁一面の木製棚にびっしりと並べられた数千ものキャニスターで埋め尽くされている。コーディネーターがブレンドした創作茶から、他国の標高の高い山脈でしか採れない幻の希少葉まで、ありとあらゆるお茶の香りが部屋に満ちていた。
入店のベルの音を聞きつけたのか、カウンター奥から、白髪を綺麗に整えた小柄な老人が眼鏡の奥の目を細めて顔を出す。
「いらっしゃいませ。……ほう、これはまた、随分と気品のあるお客様だ」
老店主は長年の経験から、一目で眼前に立つ客が只者ではないことを見抜いた。特に、中央に立つ銀髪の人物——ティールから漂う、浮世離れした美しさと圧倒的な品格に、思わず背筋を伸ばす。
「ようこそ『黒猫と茶葉』へ。当方、ガルディニア一の品揃えを誇っておりますぞ。本日はどのようなお茶をお探しで?」
「……あぁ。この国独特の魔導温室で育てられた茶葉や、地方からの輸入葉など、珍しいものをいくつか見せてほしい」
ティールがそう告げると、老店主は嬉しそうに頷き、棚から手際よくいくつかのキャニスターを取り出し、カウンターへと並べた。
「ではまずこちら。帝国の北部、魔導炉の熱を利用した特殊な温室で収穫された『銀月香』にございます。若葉のみを手摘みし、柑橘系の香木とともに熟成させた逸品で……」
店主が蓋を開けた瞬間だった。
「……ふむ」
ティールが優雅な動作で一歩前へ出ると、細く長い指先でそっとキャニスターを持ち上げた。
前髪の隙間から覗く左目が、静かに器の中の茶葉の乾燥具合、色の均一さ、芽の形を見極める。そして、器の口を自身の鼻腔から数センチ離した位置で止めて、手首を繊細に振って空気を引き寄せた。
すぅ……
静かに息を吸い込むティール。その横顔は、仕事で重大な決断を下す特級執行官そのものの厳かさであった。いや、下手をすればそれ以上の恐ろしいまでの集中力が、その浮世離れした美貌に宿っている。
(……一見して上質。葉の揃いも悪くない。だが…乾燥の工程か、炉の油の臭いがわずかに葉の奥に残っているな。淹れた瞬間の第一香は華やかだろうが、二煎目以降に雑味が残るだろう)
一瞬でそこまで見抜いたティールは、表情一つ変えずに無言でキャニスターを戻すと、隣の別の容器へと手を伸ばした。
そして——ティールの斜め後ろに位置していたシエルの動きは、もはや恐怖の域に達していた。
「……失礼」
シエルはすっと身を乗り出すと、ティールがチェックを終えた器の蓋の裏、さらには空調の風上から漂ってくる香りと、風下にある場合の香りの微細な変化をチェックし始めた。
くん、くん……。
上品な仕草でありながら、その鼻腔の動きと瞳の鋭さは、もはや「宮廷の特殊捜査犬」あるいは「高度に訓練された麻薬捜査官」のそれである。
しかし、そのままいくつかの茶葉をチェックし終えたシエルの表情は渋く、今だ彼女の合格点が出る紅茶は現れないようだった。
(……うぐッ。この茶葉、魔導キャニスターに保管される前の段階で、すでに違う臭いが付いてますね……それに、こちらの発酵茶は、茶葉の摘み取り時期が私が算出した適期より五日も早い。これでは渋みが先走ってしまうでしょうに……!)
シエルの青い瞳が、冷徹な査定の光を放つ。彼女にとってティールに最高のお茶を提供することは、自身の尊厳にも関わる重要任務なのだ。完璧な侍従としての誇りが、妥協を一切許さない。
キャニスターを片手に、静寂の中で凄まじい美しさを放ちながら次々と茶葉を吟味していくティール。 その後ろで、同じく凄まじい眼光と嗅覚で店内の茶葉すべてを品定めし、無言で不合格のラベルを脳内で貼り続けていくシエル。
二人が醸し出す「紅茶の審査」という名の圧力に、カウンターの奥の老店主は、額にじっとりと冷や汗をかき始めていた。
(な、なんだこの人は……!? この辺のどの貴族や王室の御用達商人よりも、お茶に対する目利きと鼻が恐ろしすぎる。と言うよりも、わしは今、一体なんの審査を受けているんだ……? )
静まり返る店内。カツン、とティールが瓶を置く繊細な音と、シエルの微かな呼吸音だけが響く空間。
そのあまりにも高すぎる緊張感と、店主の哀れなほどの怯えようを見かねた人物が、一人いた。
「あぁ……えっと、すまないな」
すすす……と、気配を殺すように横へ滑り出たのは、大柄な男――グレイだった。
彼は二人から発せられる謎の「紅茶絶対領域」からそっと離れ、絶望的な顔で冷や汗を流している老店主の目の前まで歩み寄ると、ティールたちに背を向けて、身をかがめながら低く囁いた。
「驚かせてしまって申し訳ない、店主殿。……うちの主と侍従は、その……紅茶のことになると、少々『本気』になりすぎるタチでね」
「 い、いえ! 素晴らしい審美眼をお持ちのお客様ですな! ですが……あの、あちらの若いお嬢さんは、当店の看板商品である『竜の髭茶』すら、匂いをひと嗅ぎしただけで渋い顔をなさっておるのですが……」
店主が声を震わせながら、助けを求めるようにグレイの服の袖を掴む。
グレイは苦笑いを浮かべながら、ぽんぽんと優しく店主の肩を叩いた。
「まあ、諦めてくれ。あの二人の前で生半可な品を出せば、即座に看破される。……だが、安心するといい。本当に良い品であれば、主は惜しみない称讃と、相応の対価を支払うお方だ」
「は、はあ……しかし、これほどまでに茶に厳しいお方にお出しできる品など、もう店奥の『保管庫』にあるあれくらいしか——」
「……ほう? 『保管庫』があるのか?」
不意に、地獄の底から響くような——いや、極上の蜜のように甘く濃密な声が、グレイと店主の死角から降ってきた。
「!」
店主がビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、いつの間にかカウンターのすぐ目の前に、ティールが立っていた。前髪の隙間から覗く瞳が、興味深そうに細められている。
「店主。その『保管庫の品』とやらを、私にも見せてはくれないか?」
どこか不敵な笑みを浮かべたティールの心の中は、その実興味津々であった。シエルもまた、音もなくティールの背後に滑り込み、「私にも見せなさい」と期待と品定めの入り混じった熱い視線を店主へと注ぐ。
店主はゴクリと唾を飲み込むと、覚悟を決めたように深く頷いた。
「……分かりました。ここまでの『本物』に巡り合えたのは、商人としても一生に一度あるかどうか。……少々お待ちください」
奥の部屋へと消えた店主が、数分後、重厚な黒壇の箱を両手で恭しく抱えて戻ってきた。鍵を開け、ベルベットの布をめくると、そこには深みのある黄金色の輝きを放つ、美しい茶葉が収められていた。
「これこそ……海を挟んだ東方の幻の茶樹から、その木が滅ぶ最後の年、つまり三十年前に収穫された『金竜の涙』にございます。我が店の宝として、一切の光と湿気を遮断した特殊な魔導保管庫で保管しておりました」
蓋が開けられた瞬間。
先ほどまでの茶葉とは明らかに異なる、優雅で、それでいて凛とした深みのある香りが、部屋の空気を一変させた。甘い果実のようでありながら、どこか遠い山々の澄んだ風を感じさせる、奇跡のような芳香。
ティールはそっと目を閉じ、その香りを胸いっぱいに受け止めた。
「……ふ」
そして、ゆっくりと目を開けると、蕩けるような、息を呑むほど美しい笑みを浮かべた。
「……素晴らしいな。乾燥の度合い、熟成の深み、そして何より……一切の余計な雑味が混ざっていない。まさに『完成された』香りがする」
「これは……っ」
シエルもまた、満足げな笑みを浮かべて頷いた。
「保存状態も完璧です。保管箱に使われている黒壇の油分すら茶葉に触れさせないよう、極薄の魔法障壁で密閉されているのですね!他のキャニスターとは比べ物にならない保管性能、その保管庫は素晴らしい技術をお持ちのようです」
「お、お褒めに預かり恐悦至極……!」
店主は胸を撫で下ろし、緊張から開放された安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。
「店主、この『金竜の涙』をすべて買い取らせていただこう。金貨での支払いで構わないかい?」
「す、すべてですか!? い、いえ、勿論でございます! ありがとうございます、お客様……!」
ティールが太っ腹に金貨の袋をカウンターへ置くと、店主は涙目になりながら手早く、そして丁寧極まりない手つきで茶葉を包み始めた。
買い物を終え、店を出た時には、街の魔導灯がぽつぽつと灯り始め、夕暮れ時の美しい茜色と青白さが混ざり合う幻想的な景色が広がっていた。
グレイの手には、丁寧に包まれた『金竜の涙』が大切に抱えられている。
「やれやれ……一時はどうなることかと思いましたが、満足のいく買い物ができたようで何よりです、ティール様」
グレイがホッと息を吐きながら言うと、ティールは機嫌良さそうにハイヒールの音を鳴らしながら歩を進めた。
「ああ、素晴らしい収穫だったよ。ガルディニアの魔導技術も、捨てたものではないね……あの完璧な保存技術には感心させられた。ぜひあの保管庫の技術は周知させて欲しいものだね」
「本当に!全てのキャニスターがあの技術を取り入れたらとんでもない価格にはなりそうですが、美味しい紅茶が保てますね。早速ホテルに戻りましたら、私が一杯お淹れしますね、ティール様。……あ、それと、グレイさん」
シエルが不意に振り返り、グレイを見上げた。
「先ほど、店主と裏でコソコソと何を話していたのですか? 私たちの審美眼を『犬』とでも言いたげな顔をしておりましたが……気のせいですかね?」
「っ!? い、いや、そんなことは言っていないぞ! ただ、店主殿が固まっていたから、少しフォローをしただけで……」
あからさまに動揺して目を泳がせるグレイの姿に、ティールはフッと低く楽しそうに笑った。
「くす……良いではないか、シエル。グレイのあの気遣いのおかげで、店主も腹をくくって隠し財産を出してくれたのだからね。……持つべきものは、気の回る優秀な仲間たちだ」
「ティール様がそう仰るのでしたら……今回は不問にして差し上げます」
くすくすと笑い合う三人。
夕闇が深まる帝国の街並みに、三人の影が長く伸びていた。




