微震(上)
1.絡みつく視線と、噂
その日の晩、王城ではジルニア王国特級執行官の歓迎パーティが開かれた。
「――ジルニア王国特級執行官、ティール・エルドラ様、ご入場でございます」
大広間の重厚な扉が開かれ、ティールが静かに歩を進める。流れる銀糸の長い髪。仕立ての良い漆黒のタキシードジャケットに、流麗な黒のスラックス。歩みを重ねるたびに翻る外套の裏地から、アッシュフォードの深いティールブルーが気高く揺らめいた。
ーーーーカツ、カツ、カツ……
その洗練されたハイヒールの音が響いた瞬間、列席していた帝国の貴族たちの間に、ジルニアの王都のような恐怖の静寂ではなく、粘りつくような好奇と品定めの囁き声が広がった。
「彼女があの特級執行官か。随分と若いな」
「ティールブルーの噂は本当ですわね。なんて美しい方なのかしら」
会場の大半を占める貴族たちが浮かべているのは、若き天才であり時代の寵児に対する純粋な歓心と好奇だ。
しかし、その華やかな歓声の裏に混じり、保守派の重臣たちの周囲からごく僅かな、歪んだ囁きがティールの耳に届く。
「……例の件は本当なのか?」
「元老院の閣下が直々に追っておられる「アッシュフォードの遺留物」……まさか、あの娘が……」
「まことなら、かつて世界を震撼させた「神の瞳」が、あの者の瞳に……?」
保守派の貴族全員が確信を得ているわけではない。元老院の内部から意図的にリークされた不確かな情報――「ティール・エルドラとアッシュフォードの関わり」という眉唾物の噂に尾ひれがつき、一部の過激派や目ざとい貴族たちの間で半信半疑のまま一人歩きしているのだ。
彼らの不躾な視線は、ティールが普段見せている左目ではなく、流れるような美しい銀髪の奥に深く、静かに隠された右目へと集中していた。彼らにとってその不確かな噂は、自らの権力を飛躍させる大いなる遺産への欲望を掻き立てるに十分だった。
ティールは完璧なポーカーフェイスのまま、正面の玉座に座る皇帝へと足を進めた。
皇帝と軽く挨拶を交わし、優雅に向き直って周囲へ一瞬だけ冷ややかな視線を向けると、先程まで不躾な視線を送っていた保守派の貴族たちは、まるで蜘蛛の子を散らすようにサッと視線を逸らす。
(……なるほどね。元老院の幹部どもが確証を得て、下の駒には『噂』だけを撒いて煽っているわけか。全員に知れ渡っているわけではないが……実に悪趣味な品定めだ)
自分の価値を「人間」ではなく「都合の良い魔法兵器の遺産」として探ろうとする底浅い視線。
ティールはその不快な視線を冷ややかに受け止めながら、フッと嘲笑うかのように口元を緩めたのだった。
その左側に控えるシエルは、スカイブルーの瞳の奥に冷酷な光を灯していた。帝国の政治を腐蝕させるネズミたちが、主の隠された右目を、まるで品定めでもするかのように下劣な視線を送ってくるのが我慢ならなかったのだ。
そして、右一歩後ろに控えるグレイもまた、警戒心を緩めることなく周囲へ視線を送っていたが、少し離れた場所にあのアナスタシア皇女を見つけると、ほんの少しだけ安堵した。
2.通じぬ『無言』、牙を剥く大国
皇帝からの歓迎の言葉を貰い、本格的に始まったパーティは予想以上に騒がしいものとなった。ティールと話す機会ができたかと思えば、すぐさま寄ってたかるハエのごとくあらゆる人物が接触を試みてきたのだ。
いくらティールの存在が有名であるからとはいえ、この反応は予想以上だった三人は少しばかり圧倒されていた。
そんな中、一人の老貴族───ガルディニア帝国の上位貴族であるバーンズ伯爵がシワの刻まれた穏やかな笑みを浮かべ、芳醇な香りの漂うワイングラスを片手に話しかけてきた。
一件すると優しそうな面立ちだが、その瞳には、老練な政治家気取りの意地の悪い光が宿っている。
「お初にお目にかかります。ティール・エルドラ殿。いや、アッシュフォードのエルドラ姫とお呼びした方がよろしかったかな?」
あまりにもストレートな老貴族の言葉に、グレイの眉間に深く皺が寄り、思わず剣の柄に手が伸びかけたのを、穏やかな笑みを浮かべたままのシエルが静かに制する。
沈黙が約束されたジルニアではまず有り得ない言葉だ。
だが、ジルニア王国程にティールの力が及ばないこの地では、余計な刺激はされてもしない方が良いということは勿論わかっていた。
そこに関しては護衛騎士や副官としての立場を弁えているつもりであるし、実際ティールはと言うと思ったより穏やかに言葉を返していた。
「何をおっしゃる。アッシュフォードなど、とうに滅びて灰となった過去の幻にすぎないでしょう。私はただの、ジルニア王国の一執行官です」
「ほほ……これはつれない。ですがね、我がガルディニアの歴史書にも記されておりますよ。かつて世界を震撼させたアッシュフォードの遺産……そして、その血を引く者に宿る特別な『力』について」
バーンズ伯爵は声をひそめ、探るようにティールの右目へ視線を向けた。
自分だけが「裏の重大な秘密」を知っているという優越感が、そのセリフから透けて見えている。
「もしや、そのお美しい前髪の奥に眠るものについて、少しばかりお聞かせ願えないかと期待したのですがね?」
(……やれやれ。元老院の撒いた餌に食いついた、哀れな老いぼれか)
ティールは呆れを通り越して、心の中で小さく溜息をついた。視線を逸らさずに僅かに首を斜め下に傾ければサラリと長い銀糸が肩から流れ落ちる。
この老人は確証を持っていない。ただ「もし本当なら自分も甘い汁を吸いたい」という浅しい野心で話しかけてきているだけだ。
「申し訳ありませんが、バーンズ伯爵。私はあいにく、数多の物語をお聞きになったであろう貴方の老いた耳を満足させられるようなお伽話は持ち合わせていないのです」
「な……っ老いた耳とは……!」
「おや、失言でしたか? 滅びた国の御伽話に花を咲かせるより、今宵の美しい音楽を楽しんだ方が、貴方の人生のためにも有益かと思ったのですが」
優雅で、低いアルトが鼓膜を震わせる。
一見すると老貴族の体を気遣う「完璧な社交辞令」の形をとりながら、その実、相手を「お伽話に踊らされるボケ老人」扱いして完璧に一蹴して見せたのだ。
バーンズ伯爵が顔を赤くして言葉を詰まらせていると、周囲で様子を見ていた一般貴族たちから「くすくす」と小さな忍び笑いが漏れ聞こえる。
「……ふん、他国の青二才が、生意気な……!」
捨て台詞を残して老貴族が逃げるように去っていくのを見送り、ティールは肩の力を抜いた。
「やれやれ、退屈な社交辞令は骨が折れるね」
「……お見事な受け流しでした、ティール様……次はあの老いぼれの喉元を掻き切る許可をいただけますと助かります」
後半のグレイのドスの効いた声を、ティールは普段であれば窘めるところだが、今回は大目に見て聞かなかったことにした。




