深翠の船出(下)
4.燻る炎
ティールは、彼女の口からアッシュフォードという国名が迷いなく出てきたことに、少々驚いた。
ジルニア王国では現状上位貴族しか知りえないティールの出自。しかし、この皇女は彼女がアッシュフォード王国の最後の末裔であることをすでに知っている様子だ。
当然の如く国内での口止めは済んでいるはずだが、どこぞの上位貴族がうっかり情報を漏らした可能性も十分ある。だとすればすぐさまその情報源を調べ上げて制裁を加えなければならないな、と脳内で考えてはみたものの、やはりティールの統べる執行官組織の情報部門の情報網をもってしても、まだ他国にまでその情報が漏れたという話は聞き及んでいなかった。
そこで、ティールは、この皇女が自らその情報を入手した可能性を考えた。だとすれば相当なやり手であるが、この穏やかで明るい雰囲気の皇女の裏の顔を知らぬティールはそれ以上の詮索をやめた。
知っているのであれば、直接聞けばよい話であるからだ。
そうしてすぐに平常心を取り戻したティールは、アナスタシアに視線を向けなおした。
「ご招待に感謝を申し上げます……が、失礼ながらアナスタシア皇女。一つ確認させていただきたい。我が国の情報機関により、私の情報は完全に秘匿されていたはず。執行官組織の眼を盗んで誰かが情報を漏洩する可能性など皆無に等しい。なぜ貴女がそれを知っているのでしょう?」
ティールの静かでありながら圧のある声色に、アナスタシアは美しい双眸を細め、ティールから目をそらすことなくストレートな言葉を述べてきた。
「人間の口は塞げても、『魔道の痕跡』までは隠せませんわ、ティール様。我がガルディニア帝国の元老院の一部の者は。不躾にも先のジルニアでの建国祭にて貴女様が放つ僅かな魔力波形を、この国の最新の魔道測定器で記録・解析をいたしましたの。それが……かつて灰燼に帰したアッシュフォード王国の記録にある王族特有の魔力波形と一致したとの知らせが王城へ届いたのですわ」
アナスタシアの言葉は少々信じがたいものであった。より詳細に言えば、魔眼と恐れられるほどの力を持つ『神の瞳』をもち、あらゆる因果を見通すティールですら気づかないほどの魔道具で、ガルディニアの国賓として招かれていた元老院の者があの夜、ティール自身の情報を盗んでいったというのだ。
驚くべき事実に、シエルの掌がぎち、と音を立てるほどに強く握られる。冷静で上品な侍従兼副官の表情は消え失せ、怒りをあらわにしたシエルが思わず声を上げた。
「恐れながら申し上げます、皇女殿下!他国の国家的な夜会に無断で解析魔道具を持ち込み、賓客の情報を盗み見るなんて……ジルニア王国と我が主に対する重大な不敬と侵略行為とみなされてもおかしくはないのではないですか?……それに何より、この国の王であらせられる皇帝陛下はその蛮行を容認されていらっしゃるのですか!?」
シエルの追及は尤もだった。同じように疑問に思ったグレイも、警戒心を強めて皇女の言葉を待つ。だが、アナスタシアはそれでも怯むことはなく、ただ悲しげに首を横に振るだけだった。
「いいえ…父は…皇帝陛下は一切ご存じありませんでした。もともと慎重で温和な性格の陛下は、報告を受けてすぐに厳しく叱責しましたが……あまり効果はありませんでしたわ」
自分たちの主である王の言葉を聞かないとなれば、それは国としてかなり危険な状態であると言える。この言葉に、ティールはわずかに顔をしかめた。
彼女の言葉がどこまで本当で、どこまでが嘘なのか。出会ったばかりの関係では見通すことはできない。だが、ティールの直感が告げていた。
この話は事実であると。
「これら一連の行動は全て元老院の保守派の者が独断で行った暴挙です……ですが、当時のアッシュフォード同様、魔道を発展の要とするこの国にとって、アッシュフォードの王女である貴女様がもつとされるその『神の瞳』やアッシュフォード特有の精霊術……それらはあの者たちにとって、喉から手が出るほどに欲しい至宝なのですわ」
沈黙。
ガルディニアに入って早々に、まさかこんな話をされるとは思っていなかったティールはしばし情報を頭の中で整理する。
(つまり……皇帝の目の届かぬところで、臣下が自国のためという大義名分を掲げて、他国へ害をなしているというわけか。この国の皇帝の威光は随分と弱っているらしい。どうりで、皇女であるこのアナスタシアがここまでの行動を起こすわけだ)
腕を組み、口元に手を寄せたまま、ティールは「なるほどね」と小さく呟いた。
「ところで、なぜそこまで皇帝陛下の威光が落ちているのか伺っても?外交で知る限りの情報にはなるが、まだ年齢も若く、そのように臣下から軽んじられるほどのお方とは思えないが」
純粋な疑問として、ティールはそう投げかける。そもそも、主である皇帝がそこまで失墜する要因は何なのか。元を正さねばすべての事態が解消されることは無いだろう。
だが、アナスタシアが見せたのは窓の外へ視線を移し、今にも涙すら零しそうな悲しげな瞳だった。
「そうですわね……それについては、五年ほど前に皇妃フェリシア、つまり私共の母が亡くなったのはすでに聞き及んでいらっしゃいますよね」
「あぁ……我が国からも数名が葬儀に参列しました」
「あの日から少しずつ……父の生気が衰えていくのを感じているのです。最愛の妻を亡くし、心を病んでいらっしゃるのです。それに加えて実子である私たち三人がこのように争い、情勢が不安定であれば——ああなってしまうのも否めません」
『愛する者の死』。ガルディニア皇帝を襲ったその鋭い刃は深く、深く、彼の胸を抉り刺さったまま抜けぬナイフのように在り続けているらしい。
原因不明の病を患った若い皇妃は、当時十九歳の皇女と二人の皇子を残してこの世を去った。
「本来、国を率いる者としてそのように堕落していくことはあってはならないこと……ですが!陛下は……父は……心の底から母を愛していたのです。その痛みは、たとえ皇帝であろうと、民であろうと、みな同じ痛みであるはずです。それに耐えろと言うのは……娘として出来かねました」
彼女の、父と母を愛するが故の強い言葉。
ティールにとってそれは、最も理解できない感情であった。
失ったもの。
すでに去っていったもの。
それらを追って何になる?
それらを想ったとして、果たして何が得られるというのか?
失ったものは、時間は——二度と戻らないのだ。
「……」
ティールは沈黙した。
彼女の持つ強さは、切り捨てる力だった。それはまさしくアッシュフォードの件を例に挙げればわかるだろう。失った国、時間、人、それら全てを引きずり得られるものなど何もない。今を生きるので精一杯で、過去に囚われることに意味を見出すことなど出来なかった彼女にとって、彼らの心の痛みは理解しようにも出来ぬ難題そのものだった。
しかし、そんな沈黙を破ったのは意外にもグレイだった。
「皇女殿下、ここにいる誰も貴女様や父君を責めはいたしませんよ」
ふ、とどこか哀愁の漂う笑みを浮かべたグレイのサファイアの瞳が静かに細められ、やがてアナスタシアと同じように窓の外へと視線が移された。
「貴女は娘として、当然のごとく父を案じているだけ。そして、父君は少しばかり長く立ち止まり、休んでいるだけにすぎません……人とは、思うよりもずっと脆い生き物なのですから」
彼の言葉には、柔らかな、どこか静謐な泉のような包容力さえ感じられた。
それは、彼の実体験がその言葉に深みと意味をもたらしているからなのだろう。十七年間の放浪と生き残りとしての日々。そして仕えるべきティールを探し求めた焦燥と、過去への後悔。長く、同じように大切なものを失ったことに心を痛めてきた彼が使う言葉は、アナスタシアに十分すぎるほどに響いたのだった。
「ありがとう、ございます……グレイ殿」
ついに、彼女の新緑を思わせるグリーンの瞳に涙があふれたが、ティールはただ黙ってその様子を見つめることしか出来なかった。
5.新たな風
アナスタシアはハンカチで涙をぬぐうと何度か深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。切り替えられた空気に、ティールも足を組みなおして聞く体勢を整える。
「失礼いたしました……つまり、保守派の貴族たちは、ジルニア王国と我が帝国のパワーバランスを崩すためなら、どのような手段も選びません。ティール様、手紙では元老院の手先に止められる可能性があると思い、国賓として招いたのは元老院の手が伸びるよりも早く、貴女様にこの事を知らせるためでしたの」
大国の皇女としての、容赦のない、しかし誠実な警告。
普通であれば、他国の内情や政治的陰謀を突きつけられれば、不快感を露わにするか、警戒を強める場面である。
だが、ティールは完璧なポーカーフェイスを崩さなかった。銀髪に隠された右目は動かず、その左目だけで、アナスタシアの真っ直ぐな視線を受け止めていた。
(……面白い皇女殿下だ。自分の国の身内の恥部を、これほど率直に、かつ品格を保ったまま述べる人間はジルニアの社交界にもなかなかいない)
普通はもっと濁した言葉を使うものだが、このストレートなあり方は新鮮だった。
ティールは目の前で白い湯気をたち登らせるカップを手に取り、深く息を吐く。
カップに注がれたお茶の色は濃い琥珀色。香りは、ジルニアではあまり嗅いだことのない芳醇なベリーのような甘いフレーバーティーの香り。まるでこの皇女の姿をそのまま紅茶に移したような華やかな茶葉だった。
「貴重な直言に感謝します、アナスタシア皇女。ですが、心配には及びません。彼らがどれだけ言葉を尽くし、陰謀を巡らせようとも、私の歩む道が乱れることはない……私はただ、今回は国賓としての穏やかな滞在と、貴女との有意義なお茶会の時間を望んでいるのですから」
その一切の動揺を感じさせない、あまりにも堂々とした完璧な返答に、アナスタシアは一瞬だけ呆気に取られ、それから頬を薔薇色に染めて深く吐息を漏らした。
「……あぁ、やはり、あなたは素晴らしいお方ですわ。その美しい青緑の瞳に見つめられるだけで、私の浅はかな懸念など、すべて見透かされてしまう。わかりました。このアナスタシア、我が国の愚か者たちがあなたの穏やかな時を汚さぬよう、最善を尽くしますわ!」
「感謝します……それと、この茶葉はまるで貴女のように華やかなフレーバーで実に美味しい。もし良ければ、一缶分けていただいても?」
「まぁ!噂に聞くそのお上手なお言葉、まさか私にも言っていただけるなんて思いもしませんでしたわ。勿論、すぐに用意させますので、滞在先のホテルに届けさせますわね」
入室早々に始まった国のトップからの警告から一変し、突如始まった女性同士の微笑ましいお茶会へと変貌した空間に、後ろに控えるグレイは内心で圧倒されながらも、ぐっと表情が変わらないように堪えていた。
そして隣に立つシエルはというと、内心穏やかではなかったが主が許したのならとこの場での給仕に努めた。
他国での騒動は、そもそも損しかないのだ。
自分たちはあくまでも、静かに、優雅に、この異国の空気を楽しむために来たのだから。
6.憔悴
アナスタシアの皇女宮での会話を終えた後、ティール達は宮を出て、もう一度正面から入城を果たして改めて謁見の間へと向かった。
ティールたちが先に皇女宮へ行っていたことを知るものはいないようで、どうやら最初に馬車を止めた門番の兵士たちも皇女の息がかかった者たちだったらしい。時間、人員——徹底した準備に「ほう」と思わず感嘆の声を漏らし、改めて出迎えを受けると、先ほどの三倍は居そうな使用人たちが列を成して彼女たちを迎えた。
「「ようこそいらっしゃいました、ティール・エルドラ様」」
ぴたりと合った歓迎の言葉にも、ティールは視線のみで答えて、皇帝の執事らしき男性に声をかけた。
「歓迎に感謝する。まずは、皇帝陛下への謁見を許可していただこうか」
まるで、先ほど来たばかりだとでも言わんばかりの態度で、謁見の間に鎮座するガルディニア帝国皇帝フリードリヒ・オルト・ガルディニアへと挨拶をする事となった一行は重厚な魔導彫刻が施された大扉の前で立ち止まる。と、ほどなくして扉が開かれ謁見の間へと踏み込んだ。
静寂が支配する広大な大理石の空間。その最奥、高く聳える玉座に一人の男が鎮座していた。
アナスタシアと同じ、光を透かせる薄い金髪。
仕立ての良い帝国の正装に身を包んだその姿には、一国を統べる者としての圧倒的な威厳が確かに漂っていた……だが。
(……なるほど。これが『皇帝』か)
ティールは前髪の隙間から、静かにその表情を観察する。
鋭い眼光の奥に潜む、消し去ることのできない深い哀愁と疲弊。
アナスタシアから聞くところによると、妻である皇妃を亡くしてからの五年という歳月が、この男の覇気をじわじわと削ぎ落としてきたのだという。そしてティールはその姿を直接見て納得した。
皇帝は静かに立ち上がり、威厳ある、しかしどこか掠れた声を響かせる。
「よくぞ参られた、ジルニア王国の特級執行官、ティール・エルドラ殿。我がガルディニア帝国への遠路はるばるの訪問、心より歓迎しよう」
「――温かいお出迎え、恐悦至極に存じます。ガルディニア帝国皇帝陛下」
ティールは優雅に、だが一般的に女性が行う礼ではなく、胸に片手を当てて男性が行うような寸分の狂いもない見事な礼を捧げた。
その佇まいの美しさと圧倒的な存在感に、玉座の周囲に並ぶ元老院の貴族たちが思わず息を呑む。
「国賓としてお招きいただきましたこと、深く感謝申し上げます。両国の絆が、この交流を境により強固なものとなりますよう」
ティールの声は低く、どこまでも澄んでいた。
先ほどアナスタシアから聞かされた「元老院の暴走」や「不敬な魔導解析」のことなど、おくびにも出さない完璧な外交姿勢にグレイは自慢げに笑みを浮かべた。
「フン……裏で我が主の身分を盗み見た泥棒どもが、平然と顔を並べているようですね」
一方、ティールの後ろで深々と頭を下げているシエルは、ボソッとかなり小声で冷ややかな毒を吐いていたが、完璧な淑女の笑みを貼り付けたまま微動だにしない。やれやれと苦笑しながら、グレイが明後日の方向へ視線を反らした。
皇帝フリードリヒは、ティールの美しくも凛とした姿を静かに見つめ、ふっと寂しげな笑みを漏らした。
「……素晴らしい佇まいだ。君のような気高き傑物を迎えることができ、我が国にとっても誉れ高い」
皇帝が遠回しに使う言葉は、決して特級執行官としての彼女の立場を語るものではなかった。
_ティールを亡国アッシュフォードの元王女として見る彼の少しくすんだグリーンの瞳が、僅かに細められた。皇帝自身もまた、この国が抱える病魔の存在と、目の前の客人が背負うものの重さを理解しながら、それを押さえ込めない己の無力さを噛み締めているようだった。
「どうか長旅の疲れを癒やしてほしい。このガルディニアが、君にとって穏やかな滞在となることを願っているよ」
「……お心遣い、感謝いたします、陛下」
静かに頭を下げながら、ティールは胸中で深く息を吐いた。
(……威厳はある。だが、心はとうに折れかけているな。……確かに、愛する者を失った男の顔だ。これでは、下の愚かな猛獣どもを抑え込めるはずもない)
帝国の頂点に立つ男の哀しき陰りと、その足元で渦巻く醜い野心。ティールは自らが足を踏み入れた場所が、想像以上に深く歪んだ「政治の戦場」であることを悟るのだった。




