深翠の船出(上)
ジルニア王国を出たティールが、隣国の地で自分自身について新たな発見を得るストーリーです。
彼女の持つ力は、他国でも注目の的……暗雲が立ち込めるガルディニア帝国編です。
1.新緑の招待状
王都の騒乱が「無言」のうちに処理されてから数ヶ月。
特級執行官ティール・エルドラの名は、いまや近隣諸国において、一種の神話として語り継がれていた。
「――ティール様。隣国であるガルディニア帝国の皇帝より、正式な国賓としての招待状が届きました。先日の建国祭で、ティール様に魅せられたあちらの皇女殿下が、どうも熱病を患うほどにお逢いしたがっているとか」
初夏の爽やかな風が吹き抜ける邸宅のテラス席。
シエルが、最近またティールの手によって新調されたスカイブルーのピアスを揺らしながら、完璧な作法で目の前の白磁のカップに紅茶を注ぐ。
しかしその口調は、誇らしげでありながらどこか嫉妬の音を含んでいた。「会いたいからと言って簡単に会える相手ではないというのに、王族だからって何様ですか??」という無言の圧がその空色の瞳からひしひしと感じ取れたのは、教鞭を賜った際にすっかりシエルの感情の起伏に鋭くなったグレイだけである。
ソファーに深く腰掛けたティールはというと、目を僅かに細め、届けられた豪奢な羊皮紙の書状を一瞥した。
「……ガルディニア帝国、か。たしか魔導発展が著しい大国だったね」
かつてのアッシュフォード王国同様、ガルディニア帝国も近年魔術においてかなり発展している大国である。
だが、自然的な魔法を行使することの多かったアッシュフォードに対して、ガルディニアは機械学も交えた魔導工学に近いと言って良いだろう。
「南に位置するガルディニアの気候は乾燥している……そういえば、その気候に対応した珍しい茶葉があるとも聞いたことがあったな」
ふむ、とティールは長い足を組み替えて顎に手を寄せる。
王族の招待など至極どうでもよかったティールだが、茶葉への興味は正直惹かれるものがあった。だが、ジルニアをしばらく離れるということは、屋敷を留守にすることを意味し、そしてそれはシルヴァがひとりぼっちになってしまうという懸念があるという事だった。
(留番をさせるシルヴァが、寂しがって痩せてしまわないだろうか……世話は信頼できるものへ任せるとしても……)
口では茶葉の期待を述べているが、内心留守番中のシルヴァを心配しているティール。だが、その瞳に湛えられた静謐な光は、相変わらず周囲には「完璧な執行官」にしか見えなかった。
……全くもって脳内はそんなことはないのだが。
少しばかり視線を下ろし、足元に丸まっている白い大きな毛玉に意志を尋ねるようにそっと手を伸ばす。すると、その毛玉…否、シルヴァがのそりと顔を持ち上げ、ため息とともに「お土産をよろしく」という熱い視線を送ってきた。
「……いいだろう。シルヴァの許可も降りた。退屈な王都を少し離れるのも、新しい茶葉との出会いがあって悪くはない」
カップに注がれた紅茶を口元に運びながら、ティールは呟く。
「ティール様。ガルディニアの貴族は、未だに古い身分制度にしがみついている者が多いと聞きます。ジルニアとは違い、貴女の力もそこまでは行使できないでしょう。ですが、俺がしっかりお2人ともお守りしますので、ご安心ください」
ここ数ヶ月の出来事を経たグレイの言葉は、ただの盲信ではない。主のお茶会を、その平穏を何者にも汚させないという、真摯な覚悟がそのサファイアの如き双眸に宿っていた。
「頼りにしているよ、グレイ。お前が後ろにいてくれれば、私は安心して、現地での最初の一杯を味わうことができるだろうね」
ティールはフッと余裕に満ちた笑みを返し、膝の上で「フス……」と鼻息を漏らしながら顎を乗せて甘えてくる白銀の超大型犬シルヴァの耳の後ろを、優しい手つきで撫でた。シルヴァは、主のお茶の時間を邪魔しないよう、ただ嬉しそうに目を細めて尾を僅かに揺らしていた。
ティールたちの存在はジルニア王国内のみに留まらず、他国の勢力図を塗り替える激動の第二幕が、静かに幕を開けたのだった。
2.ちいさきもの
ガルディニア帝国へと続く、見渡す限りの緑が広がる平原。
ティール、シエル、グレイの3人を乗せた豪奢な馬車は、規則正しい振動を刻みながら進んでいた。
今回の遠征は公式な国賓としての移動であるが、ジルニア王国の騎士などは必要ないと一切同行させず、道中の警護はグレイが一手に引き受けた。しかし、馬車が小休止のために静かな林の傍らに止まろうかという時、それは起きた。
「!ティール様、少しお待ちください。前方、草むらに動体反応を確認しました」
馬の手網を引いて止めたグレイが、瞬時に鋭い眼差しで大剣の柄に手をかける。シエルもまた瞳を細めて警戒態勢に入った。
しかし、ガサリ、と揺れた草むらから馬車の前に現れたのは、刺客でも魔獣でもなかった。
それは、親とはぐれたのだろうか。まだ目を開けて間もないほどの、小さな、本当に小さな野ウサギの幼獣だった。あまりの馬車の大きさに怯えたのか、その場で耳を伏せ、ちいさな身体を震わせている。
「……野生の獣ですか。危害はないようですが、進路の邪魔ですな。追い払いましょう」
と一歩踏み出そうとした、その瞬間。
「待ちなさい、グレイ」
ティールの低い声が響いた。
いつもの冷徹な声。しかし、その場にいたシエルだけは、主の思考回路を敏感に察知していた。
ティールは前髪の隙間から、そのちいさな白い塊へ視線と向けた。
彼女の表面は、どこまでも美しくも威圧的な特級執行官のままである。だがその内面では、彼女にとって最大の弱点である儚い命への、静かなる分析が始まっていた。
(……あまりにも小さいな。怯えきった目をしている。シルヴァが子犬の時を思い出すな……私が動けば、この子は恐怖のあまり失神してしまうかもしれない)
普段、数十人の重装歩兵を前にすれば、一秒とかけずに全員の首を刈り取る最適解を導き出すティールの脳細胞。
それが、このちいさな命を前にした瞬間だけ、完全に処理速度が鈍っていた。過剰なまでの配慮。傷つけないため、壊さないための思考回路が複雑化しすぎ、彼女は直立不動のまま、次の指示を出すまでに数秒の「沈黙」を要してしまった。
(ふふ、そういえば昔、シルヴァがうちに来てすぐもあんなお顔で、すごく躊躇しながら抱っこをしていらっしゃいましたね)
シエルがふと、ティールの癖を思い出す。
本当は触れたい、その小さな命を慈しみ大切にしたいという思いがありながらも、彼女はそれを上手く表現する術を持たず、また自分が発している威圧感を理解しているが故に、過剰なまでに配慮を重ねた結果……いつものように動けなくなるのだ。
「ティール様……?」
そんないつもと違う様子を見せるティールに、グレイが不思議そうに横顔を見つめる。が、シエルはその一瞬の沈黙の真意を感じ取っていた。
「……シエル」
「はい、ティール様」
ティールは視線を動かさないまま、静かに、いつもより僅かにトーンの落ちた声で命じた。
「……お前が、あのうさぎを、草むらの奥の安全な場所へ戻してあげなさい。私では、あの脆弱な命を脅かしてしまう可能性がある」
やっとの思いで絞り出した最善策を、ティールはシエルに託した。
「まぁ。決してそんなことはございませんのに……畏まりました」
シエルはすべてを察していたが、わざとクスクスと笑って、品の良い黒のスカートを揺らしながら、優しく野ウサギを抱き上げて林の奥へと逃がしてあげた。それを見届けたティールは、ようやくいつもの余裕を纏い直し、短く息を漏らした。
「……時間を取らせたね、グレイ。行こう。皇女が待っている」
「はっ……御意に」
グレイはのちに、シエルから主のその「どこまでも真摯で、少しだけ不器用な眼差し」の理由を説明してもらう事となる。
だが、たかがうさぎ一匹のために馬車を止め、逃がしてやるという冷徹な特級執行官のイメージにそぐわない行為は、ティールの慈しみという心の表れであるのは間違いなかった。
グレイはその胸の内に深い畏敬を滲ませながら、再び信頼の微笑みを浮かべて馬車のドアを開けた。
3.皇女アナスタシア
ジルニア王国から馬車で丸5日。
ガルディニア帝国の壮麗な白亜の宮殿に3人はたどり着いた。
重厚な石垣などに覆われたティールたちの暮らすジルニア王国とは異なり、噂通りここは過剰なまでの魔導機械の光と、虚飾に満ちた金銀の装飾が壁を埋め尽くしていた。
立ち上る煙突の煙、至る所で動く魔導器具。寸分の狂いも許されないという機械ならではの圧迫感のある魔力が満ちているのを、ティールは感じ取っていた。
城門で馬車を止めると、思いのほか少ない人数の使用人たちに出迎えられて3人はガルディニアの石畳に、カツン、とその高いヒール音を響かせた。
「ようこそいらっしゃいました。ジルニア王国執行官組織所属、特級執行官ティール・エルドラ様、並びに副官シエル様、護衛騎士グレイ様でいらっしゃいますね」
燕尾服を完璧に着こなした初老の男性と、その脇に従う召使が四人。国賓を迎えるにしては異様に少ないうえ、どうも目立たないようにしているのか、小声での歓迎のあいさつを受けた。
「……出迎えご苦労。早速だが、皇帝陛下にご挨拶の謁見許可を願おうか」
「いえ、それよりも先に、お会いいただきたい方がいらっしゃるのです」
そう言うと、執事らしき男性は三人を隠す様に王城の正面ではなく脇の門からの入城を促した。このまま真っすぐ行けば王城の入り口だというのに、案内されたのは薄暗い場内の森に隠された隠し通路のような古びた門。
「ど、どういう事ですか?皇帝陛下よりも先に合うべきお方がいらっしゃるなんて…」
不安がったシエルが、執事の男性に問いかけると、その男性は口元に人差し指を押し当て「お静かに。もう少しだけ、辛抱なさってください」とシエルに眉を下げて述べた。
ティールを招いた張本人であるこの国の皇女……アナスタシア・リエル・ガルディニア皇女は、建国祭でティールの高潔な佇まいに完全に魅せられた「ティールブルー」の熱烈な信奉者の一人であったが、同時に、二十四という若き年齢でありながら一国の政治に携わる才を持つ優秀な未来の統治者でもあった。
まずは国賓として皇帝に挨拶が先かと思っていたのだが、異様な出迎えにティール達は少しだけ身構えながら、他国でいきなり騒動を起こすのも面倒だと判断しておとなしく従った。
門を抜けると、見えてきたのは中央に位置する王城とはまた別の、こじんまりとした美しい宮殿だった。調度品や、庭の作り、配色を見るに女性のための宮だと判断できた。
「突然のご無礼をお許しください。特級執行官様。こちらは我が国の皇女、アナスタシア皇女様の宮でございます。訳あってこのようなご案内になってしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます」
執事の男性が宮に入るなり、恭しく礼をして謝罪を述べる。
どうも外ではティール達の訪問を口にできないらしい。国賓として招かれたはずなのに、いったいどういう状態なのか。頭の中に疑問符が浮かんだまま渋い顔をしているシエルに、グレイが「シエル、顔が大変なことになっているぞ」と指先でつついて知らせる。
「……詳細は、皇女殿下本人から聞くとしよう」
ティールは最低限それだけ言うと、執事の立ち止まった先にある特に大きな扉の前で扉が開くのを待った。
こうして、侍従たちの案内で三人はそのまま皇女の待つ部屋へと通されたのだ。
「――お会いできて光栄ですわ、ティール・エルドラ様。我が国の無機質な魔導回路ばかりの宮廷に、あなたの纏うアッシュフォードの青緑は、あまりにも美しく映えます」
淡い金の波打つロングヘア。新緑のごとく澄んだグリーンの大きな瞳。
ガルディニア帝国第一皇女アナスタシア・リエル・ガルディニアは薄いブルーのドレスの裾を揺らし、完璧なカーテシーを見せた。




